小説 受難に対するMの反応

文字数 7,466文字

1 誕生から牧歌的時代
2 イタリア旅行
3 革命と失明
4 王政復古と叙事詩

 あなたは知っていますか。事実としてくり返し転生(てんしょう)する生命があることを。そうです。このような生命は、死んだ命は物質へ、宇宙へと(かえ)り、宇宙に()けますが、ふたたび命ある物質になるのです。
 前世の記憶を継承しながら生きているような生命はそう多くありません。あなたのまわりに、私のような人間がいたことはなかったかもしれません。まあ、あなたが気づかなかっただけかもしれませんが。しかし、記憶と経験を受け継ぎながら、生きては死に、死んでは生きることをくり返す生命がいることは事実なのです。そうですね、明治の文豪に飼われた猫もそうでした。
 どうしてこんなことを明かす気になったのかといえば、それはまあ、気まぐれでもありますが、ひとつには、あなたには不良の素質が認められたからです。いえ、別に私はあなたが自堕落(じだらく)で、頽廃(たいはい)(てき)な生活を生きる人だと言っているのではありません。あなたはむしろその反対の人生を生きているといってもいいくらいです。いや、自由を望むひとといってもいいかもしれません。あなたは、侵攻を試みる軍への兵役を拒否する人でありえるし、共産主義政権下で民主主義を主張する人でありえるし、尊王思想が大勢を占めるなかで、共和主義を主張する人でありえる。
 そのような不良の素質を、反抗の素質をあなたに認めた時から、私の思い出を聞いてもらいたいと思うようになったのです。

I will not cease from Mental Fight,
Nor shall my Sword sleep in my hand,

 手に握られた剣が眠ることはなく、精神の闘争を続けたひとでした。そうジョン・ミルトンは。
 しかし、私があの人の従者としての生を終えてから、少しばかり時間がたちました。私が見たと思ったもの、私が認めたと思ったものは、幻視、幻覚となってしまったものもあるかもしれません。私がこれから語る思い出は、如是(にょぜ)我聞(がもん)ではじまるお経のようなものと思ってください。

1 誕生から牧歌的時代

 Mは文学や音楽を愛する公証人を父として、ロンドンに生まれました。父親は長老派のプロテスタントで、自宅近くには教会があり、Mはプロテスタントの空気を吸いながら育ちました。そうですね、とくに、トマス・ヤングの影響が大きかったようです。学識と信仰心を認められていた彼は、数年間でしたが、Mの家庭教師となり、幼少期の人格形成に少なからぬ役割を果たしたのです。
 やがてMは大学、そして大学院を修了するのですが、六年ほど田園生活を送りました。この期間、Mは読書し、思索し、田園詩を作ったりして気ままに勉強して過ごしたのです。後の政治活動や文学活動の準備期間ではありましたが、思えば、Mにとってこの時期がもっとも幸せだったかもしれません。逸脱した行動をとっても寛容に対応してもらえる時期、その後の甘い追憶は人生を支える貴重な体験です。
 そうはいっても、人の人生ですから、いろいろと悲しいことは不意に訪れます。Mにはダブリン出身の優秀な後輩、エドワード・キングがいたのですが、帰郷のために乗った船が沈没してしまい、若くしてこの世を去ることになったのです。25歳の若さでした。
 Mは、聖職者になるはずだった彼の命をもてあそんだ残酷な水について詩を作りましたが、沈思黙考の詩もつくりました。これは肉体からの霊魂の脱出、そして神との合一への願望を述べるものですが、だいたい次のようなものでした。

孤高の塔の中
闇の中を
ともしびを持ち
聖域を求めて上へと登る

灯の明かりがステンドグラスを照らし
耳にはオルガンの音響が鳴り響く

真理を求める私は
丸屋根を越えた天上を想い
魂はエクスタシスの境地にとける

 中世やルネサンス期には、感覚、理性、信仰の三段階が神へと至る段階として考えられていたと思いますが、この詩にもそのような考えが反映したところがあるかもしれません。もっとも、内容は新プラトン主義的な詩想ではありますが。

2 イタリア旅行

 Mは学業の仕上げとしてイタリアへ赴きました。名所旧跡を訪ね、書籍を購入し、古典的教養を習得するジェントルマン教育の仕上げ、いわゆるグランドツアーと呼ばれるものです。三島由紀夫という文士もGHQが日本を占領する時期、朝日の特別通信員としてギリシャなど世界を旅し、旅行記を書きましたが、作家の転換点となったとされるこの体験もグランドツアーのようなものでしょう。
 Mは大学の学寮長の推薦で学識経験者との交流が可能となりました。イタリアでは国際法の父として知られるグロティウスや、真理のための犠牲者となったガリレオなどとも交流し、文芸サロンで評価されたことは、Mの自信を深める経験となりました。
 ただ、人生いいことばかりではありません。旅行中のMの耳に、チャールズ一世が国教会の祈祷書と儀式をスコットランドまでおしつけようとして軍備を整えたという不穏な知らせが入ります。そのため、すぐに帰国するようなことにはなりませんでしたが、ギリシャにわたる計画はなくなり、予定よりは早く帰国することになりました。

3 革命と失明

 グランドツアーから戻ったMは、ロンドンで私塾を開いて生計を立てました。この翌年のことです。チャールズ一世が、長老派主導の議会の了承を得ることなく出兵し失敗したのは。
 絶対主義である王党派は、軍隊統率権と教会統治権を手放したくないものですから、議会と王党派は激しく対立しました。Mも『イングランド宗教改革論』を書き、議会派に加わります。
 しかし、その後、Mを長老派から乖離(かいり)させるような出来事が起こります。Mが離婚論を発表したとき、長老派からそれに対する激しい反発が起こりました。離婚も再婚も認められないと反駁(はんばく)され、長老派の有力者であるハーバート・パーマーにいたっては、異端と分派を企む者が書いた書物として焚書を要求しました。Mは長老派の立場で論じたようですが、このような激しい反発を受け、結婚の問題に選択権が個人に与えられない長老派の教会統治は、国教会の主教制度と変わらないのでは、という疑問を抱くようになりました。Mは人間の自律的選択を尊重するという考えでしたから、長老派から離れていくことは自然な流れでした。
 ただ、合理的な頭を働かせるだけでは納得することが難しい出来事が起きます。Mは、王党派だったポウエル家のメアリと結婚したのです。これは一体どういうことでしょうか。人間の恋心というものは理性を鈍らせる魔力でもあるのでしょうか。理性を信じたMが恋情によって理性の目を曇らせるというのは、ロマン主義に生きる一面があったということかもしれません。

 クロムウェル軍が、マーストン・ムーアの戦いで議会軍の勝利に貢献したころ、議会内における独立派はいきおいを増すばかりで、やがては長老派を議会から追い出すまでになりました。その後のことです。国王チャールズ一世が処刑されるという事件が起こったのは。
 彼の死に同情する者は多くいましたが、フェアファックスもその一人だったのでしょうか、わかりませんが、彼は議会軍最高指揮官を辞することになり、クロムウェルがその座に就くことに なりました。
 革命のなかで行われた裁判、そして国王殺しは、ヨーロッパの王たちに衝撃を与え、世論を二つに割りましたが、国王を殉教者と称える雰囲気もある中、独立派の立場をとるようになったMは、国王処刑を擁護するようになっていました。自然権をもつ国民は、公共の福祉の観点でなく、王党派の観点からしかものごとを見ない暴君を、自然法に照らして糾弾できる。Mはそう主張し、共和政府に外国語担当秘書官として迎えられることになりました。
 国王の処刑からクロムウェルの支配に至るピューリタン革命は、王政復古の理論的根拠になる書物を書かせる刺激をホッブズに与えましたが、理性に基づき、あらゆる時代を通じて普遍的に守られるべき法、自然法を解釈するとき、国王がそれに反しているのであれば、彼を処刑できるというのがMの考えだったのです。

 王党派の支配体制の外側で反抗していたMが、長老派を離れ、独立派に近づき、やがて共和制が実現するのですから、このころのMは順境にあったといえるかもしれません。しかし、こうした時期に、肉体的苦難、精神的な苦痛が彼を襲いました。失明を神による審判の結果の天罰と考えるものがいた時代に、Mの両目は閉じられ、彼は闇の世界を歩くものとなりました。Mはこの時期の思いを詩の形式で表現することがありました。

生涯の道を歩む途上
二つの目は閉ざされ
果てしなく暗い世界に閉じられた

タレントを預かりながら
それを働かせないのは死を意味する
つくりぬしに(まみ)えるときの
その叱責にあわぬよう努めたい
けれども、タレントは私の内に無益に宿るまま

失意のうちに私は尋ねる
「闇の中を歩む者もお使いになりますか
御意思に(あずか)る者として」
やがて、心の耳に声が届く
「わたしのくびきは負いやすく
わたしの荷は軽い」

くびきを負い
ただ耐えてその時が訪れるのを待つ
それも仕えること

 苦難のときは、耐えがたい思いがふつふつとわいてくるもの。まことに制御しにくいものです。ただじっと耐えるのもなかなかできることではありません。

4 王政復古と叙事詩 

 平家物語の冒頭には、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」という文句があります。独裁とも評されるクロムウェル政権の横暴による反動だったのでしょうか、亡命していたチャールズ二世はロンドンに入ると、熱狂的に迎えられ、追放された長老派と王党派の勢いも増し、やがて王政復古の世となりました。
 まだ生存している、国王殺しの直接の責任者が追及され、逮捕されていきました。亡命する人たちもいましたが、トマス・ハリソンなどは公開処刑されました。処刑時の彼の顔が忘れられません。極限状況に置かれた人間というものがどういう行動をとり得るのか詳しく知りませんが、彼は笑っていました。そして、彼の処刑が完了したとき、彼を囲む民衆は歓呼の声を上げたのです。

 Mは時勢が反転しても、信条を変えることはなく、王政復古の前に『自由共和論』を世に出し、箴言に描かれたアリに共和制社会を(おも)いました。

怠け者よ、蟻のところに行って見よ。
その道を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが
夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。

自制ある民主制、あるいは共和制の範例、「一人の専制君主による一支配体制よりも、多くの勤勉にして平等なる人びとが未来をのぞみ、協議しあいつつ、安全に繁栄してゆく型」をここに見ることができると記したのです。
 このような考えが時勢にあわないのは明らかで、Mの本は『偶像破壊者』など二書が発禁となり、焚書されました。一時は監禁され、身の危険を感じることもありました。しかし、手にもつ剣を眠らせることなく、精神的闘争をつづけたMは、痛風の発作が起こり、三番目の妻エリザベスに看取られて昇天するまで、古典となる叙事詩『楽園の喪失』を完成させるなど、政府の職を辞してからもMは与えられたタレントを活用し続けました。

 Mには愛国心があり、当初は民族を代表するアーサー王を叙事詩の主人公にしようと考えたこともありましたが、これは叶いませんでした。スチュアート王家が、自分たちはアーサー王の末裔(まつえい)だと主張したからです。王政復古の世になったとはいえ、その体制を受け入れることを拒んだMでしたから、アーサー王の叙事詩をつくることで王家を称えるようなことは避けたかったのです。
 両目を失ったこと、長男を喪ったこと、共和制の喪失の苦難は耐えがたいものでした。しかし、Mは逆境にあって、神の摂理を信じ、これによって忍耐の力を強めました。いや、『楽園の喪失』の内容を知ればわかるように、これらはMに叙事詩を書かしめる原動力となったのかもしれません。
 晩年のMは聖書主義者であり、神の啓示を理性の光で読み解くのは人の義務と考えていたようで、叙事詩には、こうした考えが反映された英雄が選ばれました。善を知る契機として、禁じられた実を食べ悪に堕ち、苦難を通して知恵、そして摂理を知り、(ひろ)い心を抱きながら、自律的に生きる英雄が。
 さらに、Mは専制に対する批判や共和国の憧れも叙事詩に記しましたので、『楽園の喪失』というのは、まだ見ぬ自由共和国の幻視を描くようなところがあるのかもしれません。

大いなる野心が彼をとらえ
兄弟を等しく結ぶ絆から
姉妹を等しく結ぶ絆から
束縛と見える絆から
解き放たれることを夢見る

大いなる野望が彼をとらえ
兄弟の上に立ち
姉妹の上に立ち
専制の束縛を張り巡らし
屈従させることを夢見る

野心が 野望が 彼をとらえ
罠が仕かけられる
専制の網から逃れたものを
獲物を捕らえようとして
そして、人間が狩られる

 これは、ニムロドについての詩ですが、M はニムロドを神に反抗する専制独裁を強いる狩人ととらえており、それが反映されています。さらに、この野心家はチャールズ二世として解釈できるように詠まれました。
 あなたはこれをどう思うでしょうか。ここにペンで戦うキリスト教徒の姿を見出すでしょうか。しかし、私はここに矛盾を見出します。
 たしかに、Mは専制を嫌いました。国王の処刑を擁護しました。それほど君主制を否定し、共和制を志向する思いは強かったのでしょう。『楽園の喪失』という叙事詩を公にしたのも、ひとつには、それを再び実現させることを期してのことでしょう。しかし、そうであるならば、クロムウェルの独裁についても批判しなければならなかった。
 クロムウェルは、軍区に軍政長官をおき、彼らに軍事と行政の権限を与えることで軍事独裁制を敷きました。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽が禁止さました。政敵をバルバドス島におくったり、捕虜にしたスコットランド人を英領プランテーションに売ることもしました。
 事実上の国王となった、このクロムウェルを、ここに描かれた狩人として解釈することは十分可能でしょう。そうである以上、信条に忠実であるならば、彼の遺体が切断され、ロンドンで首がさらされるという、おぞましい出来事がおこったとき、Mはこれを擁護しなければならなかった。国王殺しのときのように。

 さて、あなたにもその素質が認められますが、いつの時代も世の中にはノンコンフォーミストがいるものです。エラスムス、ガリレオ、ミルトンのような人たちが。
 いや、名の知れた人たちばかりではありません。光あるところに影があるように、正統思想が支配するところ、異端思想があります。あなたの生きる時代、あなたの国にもあります。

 世界的に有名なある作家と心理学者が「反抗しようにも反抗すべきものが残っていない」とか、「体制が、反体制がすぐに見つけられるようには存在していない」といっているのを何かの本で読んだことがあります。しかし、果たして本当にそんなことがあるのでしょうか。反体制が存在しない体制というものが。彼らがいかに偉い人間であり、私がいかに彼らと反対の立場にいるとしても、私にはそうは思われません。
 たとえばカトリック進歩派はローマ教皇庁が公式に出した見解に真っ向から反対しています。彼らの聖書に記された、同性愛の否定に基づき、同性婚を祝福しないとする保守的な体制と、性的マイノリティの権利を擁護しようとする反体制派が存在していることは、誰の目にも明らかでしょう。
 文学や哲学の世界でも事情は同じです。何のいたずらか、時に遇わず、お隠れになる方が遺した文学作品や思想が、影響力を増していき、まれに激震を社会にもたらすことがあります。大衆の世俗主義と戦って心身を滅ぼしたキルケゴール、世界中の文学者に影響を与える作品をものす力をもちながら、作家として生きられなかったカフカ。カフカが反抗的人間ではなかった、時代に抗わなかった、そう考える人もいるかもしれません。結構なことです。そういう見方もあるでしょう。しかし、彼はこのような手記を遺しています。

ぼくは人生に必要なものを何ひとつ携えてこなかった。あるのはただ、一般的な人間的弱さだけ。弱さ—それは見方によっては巨大な力なのだが、弱さに関してだけは、ぼくはぼくの時代のネガティブな側面をたっぷり受け継いだのだ。ぼくの時代は、ぼくに非常に近い。ぼくには時代に闘いを挑む権利はなく、ある程度は時代を代表する権利がある。

ふいに襲われる不条理な出来事から、排除の力によってつぶされる弱い人間。また、それに対するわたしたちの不安。そうした人間の声を発することが彼にはできました。この声は、はじめは小さいものでしたが、やがて世界中でこだまが起こっていきました。これは弱さによる、それを抑圧し、圧迫し、排除しようとする同時代に存する精神への反抗が、あるいは人間が本来的にもつ弱さからくる不安が、共感を呼んだということでしょう。

 Mの生涯を知ったあなたがどう生きるか、それは私にはわかりません。なるほど、体制を支える支配的価値観、不特定多数と同じ価値観で生きることは安心かもしれない。そこからはずれることは不安なものです。孤独を感じます。
 しかし、あなたが最大多数派でいることからくるその安心感というのが本当の気持ちでないなら、真の平安を得ることはないでしょう。
 もちろん、最大多数派から抜け出すことは、彼らに認められなくなることを意味し、彼らの無理解にあうかもしれません。キルケゴールのように。辛いことです。悲しいことです。本当の自己を求め、真の平安を求めたからといって得られるとはかぎらないというのも事実です。あるいは、あなたは、状況が、自分の気持ちをいつわって生きることを強いるのを、諦念の思いで受け入れているのかもしれません。しかし、Mならきっとこういうでしょう。

Do not cease from Mental Fight,
Nor shall your Sword sleep in your hand.

 では、私はこれで失礼します。Mの生涯がどのぐらい参考になるかわかりませんが、不良の素質があるあなたには、何か感じるところがあったのではないでしょうか。



資料
新井明. 1997. ミルトン . 清水書院
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