随想 『父と暮せば』について

文字数 2,043文字

 被爆国である日本には、原爆文学とよばれる文学が存在する。原子爆弾の投下から生じた出来事を扱う文学であり、井伏鱒二の『黒い雨』などが広く知られる。被爆者の手記を読み続けてきた井上ひさしにも『父と暮せば』という原爆文学の作品があり、この戯曲には被爆者の記憶や心理の一部が反映されている。
 喜劇的要素が含まれる『父と暮せば』は、美津江と竹造が登場する劇だが、竹造は美津江が木下に恋愛感情を抱いたときに復活した霊的存在であり、美津江の恋愛がこの戯曲を貫くテーマと思われる。被爆体験などが原因で恋愛を禁じておきながら、木下に恋心を抱く美津江の葛藤を、「恋の応援団長」としてでてきた竹造が受け止め、木下の求愛を受け入れさせる物語というのがひとつの解釈だろう。以下、これを前提とし、美津江の葛藤、竹造の応援、物語に欠けている描写について、『父と暮せば』を読み解いていきたい。
 美津江の葛藤はいろいろ示されているけれども、木下との結婚の観点から説明できるものだと思われる。美津江は木下の求愛を受け入れることをためらう理由として、自分に原爆症が出るかもしれない、生れてくる子供にも原爆症が出るかもしれないという心配がある。しかし、木下はそうしたことが起こっても受け入れる、美津江を命がけで看病し、天命だと思って子どもを育てるとまでいっている。美津江はこれほどの男性に出会うという幸運にめぐまれているのである。
 そうであれば、さっさと木下の求婚を受け入れて幸せにくらせばいいではないか、ということなのだが、美津江はそれを決断できず、なかなか受け入れようとはしない。それはなぜか。生き残った自分はしあわせになってはいけない理由があると考えているからである。美津江は、亡くなった昭子の母親から、「なひてあんたが生きとるん」と言われたことがあり、家の下で動けなくなった竹造を助け出すことができず、父親の必死の願いで置き去りにした経験があり、生きているのが申し訳ないとまで思っている。そんな自分を受け入れて木下と結婚してしあわせになる資格はないと考えているのである。
 美津江のときめきから生れてきた、恋の応援団長である竹造は、そんな美津江と木下の恋を成就させる働きをする存在として描かれている。昭子の母親の発言は気が迷ってしまったときのものであると言い、美津江が竹造を見捨てたと捉えているのに対して、助けを呼んでも来てくれる人は誰もなく、美津江ひとりではどうしても助け出せず、このままではふたりとも焼け死んでしまうという状況にまでなったとき、美津江は親孝行のために逃がされたと説明し、美津江の心の負担を軽くしようと試みる。最後には、美津江が竹造によって生かされていること、「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと」を伝えるのは図書館員である美津江の仕事であることをわからないのであれば、孫、ひ孫にそれを任せたいといって、木下との結婚を前向きにさせることに成功するのである。
 最後に、この物語に欠けている描写について指摘したい。それは美津江の戦時中の思想、あるいは自身が経験した戦争に対する史観である。県の視学官から 戦争の訳に立たない昔話の研究をするぐらいなら、工場で働くようにいわれたこと、占領軍の監視があり、公表が禁止されている原爆資料を木下から預かることを承諾したことはわかる。このことから、必ずしも積極的に体制の指導者に従う人ではないということが示唆されているばかりである。
 学徒勤労動員によって工場ではたらいて国のために尽くしたのであれば、それだけ大東亜戦争に従事したことになるが、これに関する美津江の悔恨(かいこん)の情は示されていない。美津江が天皇を崇拝する軍国少女であったかどうかもわからず、戦争指導者に対する明確な批判もないことから、反戦の活動家になったかどうかもよくわからないのである。
 美津江の昔話研究会は「前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える」ことが活動の方針であり、美津江は竹造から「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもらうために生かされとるんじゃ」と言われ、「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝える」ことが美津江が生かされた理由だと語られる。
 被爆者の記録から生まれたこの戯曲は、彼らの立場にたって被爆の悲惨を訴える被爆文学であり、こうした記憶を継承することは大事なことである。しかし、広島の被爆者が、戦争指導者に対して、軍事行動に対して、戦時にどのようであったのかに目を向け、悲惨を訴えるのに不都合な事実が見つかれば、それに対して目を閉じるというのでは、人間の真実を伝えることにはならないと思う。
 ドイツの大統領ヴァイツゼッカーは、演説で「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。」と述べたことがあるが、現在において盲目とならないためには、ありのままの人間、ありのままの過去に目を開くことも必要だろう。
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