随想 『サド侯爵夫人』のルネについて

文字数 874文字

 貞淑な夫人を(よそお)うサド侯爵夫人であるルネが、第二幕の終わりに、数年前のクリスマスの夜、サドと淫蕩(いんとう)な一夜を過ごしたことを暴露され、それを事実だと告白する場面がある。母であるモントルイユ夫人が密偵をおくり、その密偵がルネたちの乱行を目撃したというのは、三島の虚構らしいのだが¹、これを契機とする道徳論争のなかで語られるルネのセリフが興味深い。
 とくに「世界の外れに、何があるか見ようと」しない道徳家を糾弾する次のセリフの中に、ひとつの真理のようなものが、或いは道徳家を自負する人の心に突き刺さるものがあるように思われる。

「あなたの胸もお腹も腿も、蛸のやうにこの世のしきたりにぴつたり貼りついておいでになつた。あなた方は、何のことはない、しきたりや道徳や正常さと一緒に寐て、喜びの呻きを立てていらした。それこそは怪物の生活ですわ。そして一寸でも(のり)に外れたものへの憎しみや蔑みを、三度三度の滋養のいい食事のやうに、お腹一杯に召し上つて生きていらした。」

 ルネは、このセリフの前に、一夜の経験から「貞淑の(くびき)」から(まぬか)れ、「貞淑につきものの傲り高ぶり」が吹き払われたと語るのだが、道徳の(くびき)を負い、(おご)り高ぶるのは、何もモントルイユ夫人に限られないだろう。モントルイユ夫人が世の道徳を守って過ごす世人の象徴であるならば、清廉潔白の仮面をかけて生きるリアルな道徳家にも、このような心の働きが観察されるにちがいない。
 たとえば不祥事のニュースに義憤(ぎふん)を覚え、高い道徳的見地からものをいい、自らの過去の誤りには目を(つむ)り、彼らに比して自分たちの体面が保たれていることに優越感を感じている世人が存在するならば、その人の心に傲りを見てとることができるだろう。それは私であり、あなたでありうる。



₁ 澁澤は序文で、乱行や、ルネが「マゾヒスティック想像力によって性の歓びを理解する習慣をもつようになっていたこと」は事実であろうと述べている。しかし、事実であろうというのは彼の推測なのだから、これだけでは事実なのかどうか私にはわからない。(『サド侯爵夫人』. 新潮社. pp.11-12)
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