第23話 孤独のわけ
文字数 1,619文字
ゲームをリセットした。
今度は〈壁抜け〉をした。コントローラ―を固定して、コーヒーで一息つく。ノノハラさんは棚から本を取り出してきて、ぱらぱらとめくりだした。
ぼくの憧れの人がそこにいる。難しい内容が書いてあるであろう英語の専門書を、澄んだ瞳で見つめる才女。何度見ても美しいのに、いまのぼくの頭の中にあるのは、幼いアイザワ君の悲しげな表情だった。
虐待? いや、わからない。あれぐらいのことは、よくあるようにも思える。ぼくにもあった。お母さんの機嫌が急に悪くなるときぐらい、よくあるのだ。でも……。
「同情はしないことね」
とノノハラさんが言った。
「たとえどんな遠因が働いていようとも、彼のやったことには責任があるんだから」
「お母さんの教育のことですか。それがサクラさんが飛び降りた理由に関係するのですか」
「教育とは、気を遣った言い回しね——それにしても」
とノノハラさんが場の空気を区切る。
「山まで四時間もかかるようでは駄目ね。新しい移動手段を考えなければ」
「なにか、アイディアはありますか?」
「ない。見当もつかない。なんとかしたいね。あと、とにかく景観がひどくて見ていられない。この川はこんなにゴミだらけだったかな――おっと」
なにかの拍子に机が揺れて、進行方向がそれてしまった。ノノハラさんはすぐにコントローラ―で方向を微調整する。
ふいに、画面に黒い影が映りこんだ、ような気がした。なんだろうと確認するが、なにもない。ぼくはすぐにその影のことを忘れた。
後ろから来たバスがぶおんと大きな音をたてて、愚直に歩き続けるぼくらを追い抜かしていく。
やがて研究室の壁時計が日付をまたいだ。
ぼくたちは四時間かけて、キャンプ場にたどりついた。ノノハラさんはゴーグルをはめて、きょろきょろと周りを見る。
あのおじさんがいたキャンプ場の平地にはもう誰もいない。ぼくらはその地面の下を進む。「草むらの向こうに坂道があるんです」と説明する。ノノハラさんは「ふむ」と応じた。
「それにしても、よく小学生があんな広場を知っていましたよね」とぼく。
「あら、ここらへんは探索したんでしょ? なら向こうのほうにログハウスがあるのを見たはず」
「その先は壁があって進めませんでした」
「梯子があるの。まあ、なんにせよこのゲーム内では立ち入れない場所だね。そっちこそ、草むらの向こうに道があるだなんてよく気づいたね」
「ここに、おじさんがいたんです」
「ああ、撃ち殺されたオッサンね」
ノノハラさんの返答は淡白である。なにしろ、今の彼女の記憶にはそんな人物はいないのだから当然だ。「知り合いだったのかな」「どうでしょう」「どこかのアホのせいで、今更手掛かりがないしね」「小学一年生がいたから心配してくださったのかもしれません」「そうかもね」すべて憶測にすぎないが。
ぼくたちは坂道をのぼっていく。
ぼくにはまだ、サクラさんが飛び降りた理由がわからなかった。ノノハラさんが案内してくれたのは、サクラさんとの馴れ初めと、アイザワ君のお母さんのことだけだ。
「なぜそれが、飛び降りに繋がるのですか」
「君はアイザワとはどう知り合ったの?」
ノノハラさんはだしぬけにそう訊いた。
「教室です。ぼくが話しかけました」
「一人でぽつんと座っていた?」
「はい」
「アイザワはなぜ一人なのだと思う?」
ぼくには質問の意味がわからなかった。ノノハラさんはすぐに続ける。
「サクラさんに友達ができるのが、アイザワは許せなかったの」
「反対する意味がわかりません」
「さっき言った通り、彼は人間関係を不安定なものとして見ている。だから、相手が急に離れていかないという保証を求めている。その相手として最もふさわしいのが、つまり、一人者なんだ。自分以外に交友関係がない者でないと、安心ができないんだよ」
だから、とノノハラさんは言う。
「あの星のペンダントを身に着けているサクラさんを見て、彼はどう受け止めただろう?」
今度は〈壁抜け〉をした。コントローラ―を固定して、コーヒーで一息つく。ノノハラさんは棚から本を取り出してきて、ぱらぱらとめくりだした。
ぼくの憧れの人がそこにいる。難しい内容が書いてあるであろう英語の専門書を、澄んだ瞳で見つめる才女。何度見ても美しいのに、いまのぼくの頭の中にあるのは、幼いアイザワ君の悲しげな表情だった。
虐待? いや、わからない。あれぐらいのことは、よくあるようにも思える。ぼくにもあった。お母さんの機嫌が急に悪くなるときぐらい、よくあるのだ。でも……。
「同情はしないことね」
とノノハラさんが言った。
「たとえどんな遠因が働いていようとも、彼のやったことには責任があるんだから」
「お母さんの教育のことですか。それがサクラさんが飛び降りた理由に関係するのですか」
「教育とは、気を遣った言い回しね——それにしても」
とノノハラさんが場の空気を区切る。
「山まで四時間もかかるようでは駄目ね。新しい移動手段を考えなければ」
「なにか、アイディアはありますか?」
「ない。見当もつかない。なんとかしたいね。あと、とにかく景観がひどくて見ていられない。この川はこんなにゴミだらけだったかな――おっと」
なにかの拍子に机が揺れて、進行方向がそれてしまった。ノノハラさんはすぐにコントローラ―で方向を微調整する。
ふいに、画面に黒い影が映りこんだ、ような気がした。なんだろうと確認するが、なにもない。ぼくはすぐにその影のことを忘れた。
後ろから来たバスがぶおんと大きな音をたてて、愚直に歩き続けるぼくらを追い抜かしていく。
やがて研究室の壁時計が日付をまたいだ。
ぼくたちは四時間かけて、キャンプ場にたどりついた。ノノハラさんはゴーグルをはめて、きょろきょろと周りを見る。
あのおじさんがいたキャンプ場の平地にはもう誰もいない。ぼくらはその地面の下を進む。「草むらの向こうに坂道があるんです」と説明する。ノノハラさんは「ふむ」と応じた。
「それにしても、よく小学生があんな広場を知っていましたよね」とぼく。
「あら、ここらへんは探索したんでしょ? なら向こうのほうにログハウスがあるのを見たはず」
「その先は壁があって進めませんでした」
「梯子があるの。まあ、なんにせよこのゲーム内では立ち入れない場所だね。そっちこそ、草むらの向こうに道があるだなんてよく気づいたね」
「ここに、おじさんがいたんです」
「ああ、撃ち殺されたオッサンね」
ノノハラさんの返答は淡白である。なにしろ、今の彼女の記憶にはそんな人物はいないのだから当然だ。「知り合いだったのかな」「どうでしょう」「どこかのアホのせいで、今更手掛かりがないしね」「小学一年生がいたから心配してくださったのかもしれません」「そうかもね」すべて憶測にすぎないが。
ぼくたちは坂道をのぼっていく。
ぼくにはまだ、サクラさんが飛び降りた理由がわからなかった。ノノハラさんが案内してくれたのは、サクラさんとの馴れ初めと、アイザワ君のお母さんのことだけだ。
「なぜそれが、飛び降りに繋がるのですか」
「君はアイザワとはどう知り合ったの?」
ノノハラさんはだしぬけにそう訊いた。
「教室です。ぼくが話しかけました」
「一人でぽつんと座っていた?」
「はい」
「アイザワはなぜ一人なのだと思う?」
ぼくには質問の意味がわからなかった。ノノハラさんはすぐに続ける。
「サクラさんに友達ができるのが、アイザワは許せなかったの」
「反対する意味がわかりません」
「さっき言った通り、彼は人間関係を不安定なものとして見ている。だから、相手が急に離れていかないという保証を求めている。その相手として最もふさわしいのが、つまり、一人者なんだ。自分以外に交友関係がない者でないと、安心ができないんだよ」
だから、とノノハラさんは言う。
「あの星のペンダントを身に着けているサクラさんを見て、彼はどう受け止めただろう?」