第22話 いくらお勉強ができてもだめ
文字数 1,492文字
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ぼくはアイザワ君の家にいた。〈かくれ〉慣れたリビングの食卓の下だ。お母さんは既に怒り終えて、今は外で洗濯物を干している。
ここで待機し始めて何分になるだろう?
ぼくは何もせずにここで待っていた。ノノハラさんの指示である。ぼくはなんだかじれったくて、ちょっと注意をした。
「キャンプ場まで四時間かかります。あまりじっとしていると、日付が変わるどころか日がのぼってしまいますよ」
「どうせ夜は明かすつもりだよ。そのためのカフェインだ」
カツカツとマグカップを指で叩く音が聞こえる。ぼくがゴーグルを外してちらりと見ると、彼女は子供みたいにニマッと笑っていた。なんてきれいな人だろう、と思った。
「君はここから、どうなるか知らないのだろ」
お母さんに襲われたあと、幼いアイザワ君が勉強しているのは知っている。それだけだ。いつも逃げてしまうか、〈壁抜け〉をしてしまうからだ。アイザワ君が、自分自身のそばにいるのを嫌がるというのもある。
話しているうち、お母さんが戻ってきた。まだテーブルの下だから、様子はわからない。
「あらぁ」という声。「お勉強してるの?」と続く。どうやら幼いアイザワ君と話しているらしい。
「もう分数の計算もできるよ」
「すごい。ほんとうに賢いのね」
「しくみさえわかれば、簡単だよ」
誇らしげな声。
ぼくはテーブルから出て、ちょっと覗いてみた。幼いアイザワ君が、お母さんに抱き着いている。お母さんは息子の頭を撫でて「お昼ご飯は何がいい?」と訊いた。息子は「お昼じゃなくて、おやつ好きなもの頼んでもいい?」と甘える。
ぼくらはしばらく二人のやり取りを見ていた。ぼくとしては、お母さんのやさしい姿が見られて嬉しい。「まだ続けるよ」だがノノハラさんは満足していない。
すると突然、家ががたがたと震え始めた。
なにが起きたかと思った。家が揺れている。それから窓の向こうに見える木々が揺れている。それでわかった。これは風だ。強く風が吹いているのだ。
がしゃん、となにかが倒れた。
「うそ!」
お母さんがヒステリックに高い声で叫んだ。
ぼくは洗面所の窓から、玄関先を覗く。物干し台が横倒しになり、洗濯物がすべて地面に落ちていた。白い布地に茶色い土がきたならしくへばりついている。
「なんなのよもう!」
お母さんが鬱陶しそうに怒鳴った。見たことのある、怖い顔。幼いアイザワ君が不安そうに外へ出て来た。玄関口にある柱を頼るように手を添えて、汚れた洗濯物を集める母親の姿を見つめている。
ただ風が吹いただけだったのに。
「どうして手伝わないの?」
彼のお母さんは低い声で言った。その声の、怖いことといったら。柱にかけていた手が離れる。アイザワ君は、荒波に飛び込むような、必死な表情をしている。ただ見ているだけのぼくまで、苦しくなってきた。
「彼は」とノノハラさんが言った。「人間関係をとても不安定なものとして見ている」水の中みたいに、声がぼんやりと聞こえてくる。「崖のように、切り立っているのよ」
飛び込んだ先には、混乱が待っていた。
お母さんはひどくアイザワ君を責めた。見ているだけでなぜ何もしないの。洗濯物を集めることがどんなに大変なことか、どうしてわからないの? いくらお勉強ができたって、駄目なのよ。いくらお勉強ができたって、ね。わからない? まったく、もう。今日はもうおやつは無しよ……。
慌てて洗濯物を拾い集めていた幼いアイザワ君の腕が、お母さんにぶつかる。お母さんがあきれ顔でため息をついた。
「本当に、鈍くさいのね」
アイザワ君が家を飛び出したのは、そのすぐあとのことである。
ぼくはアイザワ君の家にいた。〈かくれ〉慣れたリビングの食卓の下だ。お母さんは既に怒り終えて、今は外で洗濯物を干している。
ここで待機し始めて何分になるだろう?
ぼくは何もせずにここで待っていた。ノノハラさんの指示である。ぼくはなんだかじれったくて、ちょっと注意をした。
「キャンプ場まで四時間かかります。あまりじっとしていると、日付が変わるどころか日がのぼってしまいますよ」
「どうせ夜は明かすつもりだよ。そのためのカフェインだ」
カツカツとマグカップを指で叩く音が聞こえる。ぼくがゴーグルを外してちらりと見ると、彼女は子供みたいにニマッと笑っていた。なんてきれいな人だろう、と思った。
「君はここから、どうなるか知らないのだろ」
お母さんに襲われたあと、幼いアイザワ君が勉強しているのは知っている。それだけだ。いつも逃げてしまうか、〈壁抜け〉をしてしまうからだ。アイザワ君が、自分自身のそばにいるのを嫌がるというのもある。
話しているうち、お母さんが戻ってきた。まだテーブルの下だから、様子はわからない。
「あらぁ」という声。「お勉強してるの?」と続く。どうやら幼いアイザワ君と話しているらしい。
「もう分数の計算もできるよ」
「すごい。ほんとうに賢いのね」
「しくみさえわかれば、簡単だよ」
誇らしげな声。
ぼくはテーブルから出て、ちょっと覗いてみた。幼いアイザワ君が、お母さんに抱き着いている。お母さんは息子の頭を撫でて「お昼ご飯は何がいい?」と訊いた。息子は「お昼じゃなくて、おやつ好きなもの頼んでもいい?」と甘える。
ぼくらはしばらく二人のやり取りを見ていた。ぼくとしては、お母さんのやさしい姿が見られて嬉しい。「まだ続けるよ」だがノノハラさんは満足していない。
すると突然、家ががたがたと震え始めた。
なにが起きたかと思った。家が揺れている。それから窓の向こうに見える木々が揺れている。それでわかった。これは風だ。強く風が吹いているのだ。
がしゃん、となにかが倒れた。
「うそ!」
お母さんがヒステリックに高い声で叫んだ。
ぼくは洗面所の窓から、玄関先を覗く。物干し台が横倒しになり、洗濯物がすべて地面に落ちていた。白い布地に茶色い土がきたならしくへばりついている。
「なんなのよもう!」
お母さんが鬱陶しそうに怒鳴った。見たことのある、怖い顔。幼いアイザワ君が不安そうに外へ出て来た。玄関口にある柱を頼るように手を添えて、汚れた洗濯物を集める母親の姿を見つめている。
ただ風が吹いただけだったのに。
「どうして手伝わないの?」
彼のお母さんは低い声で言った。その声の、怖いことといったら。柱にかけていた手が離れる。アイザワ君は、荒波に飛び込むような、必死な表情をしている。ただ見ているだけのぼくまで、苦しくなってきた。
「彼は」とノノハラさんが言った。「人間関係をとても不安定なものとして見ている」水の中みたいに、声がぼんやりと聞こえてくる。「崖のように、切り立っているのよ」
飛び込んだ先には、混乱が待っていた。
お母さんはひどくアイザワ君を責めた。見ているだけでなぜ何もしないの。洗濯物を集めることがどんなに大変なことか、どうしてわからないの? いくらお勉強ができたって、駄目なのよ。いくらお勉強ができたって、ね。わからない? まったく、もう。今日はもうおやつは無しよ……。
慌てて洗濯物を拾い集めていた幼いアイザワ君の腕が、お母さんにぶつかる。お母さんがあきれ顔でため息をついた。
「本当に、鈍くさいのね」
アイザワ君が家を飛び出したのは、そのすぐあとのことである。