第19話 ノノハラさんとの出会い

文字数 1,618文字

 翌日、アイザワ君は大学に現れなかった。
 ぼくは彼に連絡をしようとして、できないままに、遂には向こうから連絡がないものかと、スマホばかり見つめて過ごした。
 でもおかしい。ぼくはそうやって彼と話したがる一方、どうしても話したくないような、矛盾した気持ちでいた。サクラさんの死に顔とアイザワ君の動揺、そして撃たれてしまったおじさんのことが頭にちらつくたびに、その思いが強くなる。
 はっきりしていることがある。
 この事件に、犯人は存在しない。サクラさんはたしかに自分で飛び降りたのである。ただ、理由ははっきりしない。
 ぼくは自分がどう行動すべきであるか、とても悩んだ。それで決行するかはともかく、準備だけはすることにした。ぼくは大胆にも、物理学科の才女・ノノハラさんに面談を申し込もうと考えた。
 まず物理学科のウェブサイトへ。教授の個人ページからゼミの予定を確認する。それから一度家に帰って、支度をした。もちろん身だしなみも整えた。
鏡のなかのぼくの手が、ぶるぶると震えている。これが現実のぼく。新入生ゼミへ出かけたあの日も、ちょうどこんな風だった。知らない人がたくさんいた。顔は真っ青、頭は真っ白。眉根が寄って、今にも泣きだしそう。面と向かって、気持ち悪いと言われたこともある。友達になりたいだけだ。誰もそれをわかってくれない。ぼくを理解してくれない。
 家を出た。研究棟へ向かう。
 入口の案内表示板の前で、固まった。どの部屋にノノハラさんがいるかは知っている。しかしカツカツと足音が聞こえるたびにぼくは逃げ出した。もう時間がない。ゼミはじきに終わる。部屋から出て来たところで捕まえなければ……。
 ともかく部屋の前まで行こう。そう決めた。
 ドアには、彼女の在室を示すマグネットが置かれている。土星の形をしていた。中から時折笑い声がする。一度も聞いたことがないのに、ぼくはノノハラさんの声を探した。
「あ?」すると突然、ドアが開いた。まったく知らない女性だ。その人はぼくをじっと見たあと、部屋の中に声をかけた。「ねえ、ほら、またファンの子が来てるよ」
 ぼくはぶるぶると頭を振る。いや、ファンには違いないのだが、違う。どう対処していいかわからない。部屋から何人かが顔を出してきて、たくさんの目でぼくを見つめる。
 その中に、ノノハラさんがいた。
 なんてきれいな人だと思った。学内で掲示されているポスターとは、全然違う。知性が詰め込まれた瞳、淑やかな黒髪、色気のある泣きほくろ。彼女を観察するほどに言うべきことが増えて行く。きりがない。
「この子、すごい荷物だよ。取材?」
 ぼくははっとした。ノノハラさんの眉が、不愉快そうに尖る。それから心底うっとうしそうに、はっきり聞こえるぐらい、チッと舌打ちをされた。そして一言。「うざ……」
「あの、ぼくはその」
 言葉がちっとも出てこない。ヒとかアとかエトとかウとか、鳴き声にもならないカタカナが顔の下部にある穴からぴゅいぴゅいと漏れるばかりだ。
「取材はもうこりごり。他をあたって」
 ゼミは終わっていたらしい。扉から次々に人が出て行く。ノノハラさんは逆に研究室に引っ込んだ。「また挑戦してね」とだれかが笑って、帰っていく。ばたんとドアが閉まった。しんとする。誰もいない廊下に、一人取り残される。
 ぼくはそこでずっと立っていた。どうしていいかわからなかった。取材だと誤解されたのが気にかかった。それならファンのほうが適切だと思った。「違うんです……」誰にも伝わらないのに、そう呟く。
「あのさあ……」
 ドアが開いた。ぼくはびくっと震える。
「そこでヒンヒン泣かないで。外へ行け」
 ぼくは泣いていた。ぜんぜん気づかなかった。「ごめんなさい」と謝罪する。
「情けないのね」
 ノノハラさんは辛らつだった。だがぼくはたしかに情けない。ノノハラさんがため息をつく。ぼくは情けない。
「で、なにが違うの?」
 ノノハラさんはじっとぼくを見た。
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