第21話 おともだち用紙

文字数 1,544文字

 ノノハラさんは、ぼくを小学校に案内した。
 施錠された正門を避けて、裏手にまわる。配膳室に通じるトラック搬入門と、昇降口に通じる門が空いている。グラウンドを見ると、フットボールチームが練習をしていた。ノノハラさんは校庭をぐるりとまわり、迂回しながら駐車場に侵入し、中庭に達した。数ある段差をものともしない。
 まんなかには十字の池があって、めだかが泳いでいるのが小さく見えた。その周りには、池を四角く区切る花壇。それを守るように生える木々、ニワトリ小屋に、小さな畑。感じることはできないけれど、やわらかに耕されているのがわかる。
 彼女はまっすぐに中庭を横断していく。昇降口のちょうど反対側にある扉が、ぼくらを招待するように開いていた。
「中から水を引くためにね、夕方の或る時間になると用務員が扉を開けるのよ」
「魔法のようです」ぼくは深く感心していた。
 一年一組。校舎一階、配膳室の前。扉はもちろん閉まっている。だが透けたガラス戸の向こうに、彼女の目的とするものはあった。
 ノノハラさんの視線は、教室後方に張り出された『おともだち』という紙に向けられている。
それは担任の先生が、新一年生たちに配ったものだ。自分がどんな人なのか友達に紹介してもらうという、その先生が毎年やっている自慢のイベントのひとつらしい。新入生はほとんど全員が付近の幼稚園、保育園から来ている。だからほとんどの『おともだち』用紙は寄せ書きみたいにたくさんの文字で埋まっていた。
 でもそのうち三枚はほかとは違っている。
 アイザワ君には、サクラさんの紹介だけ。
 サクラさんには、アイザワ君の紹介だけ。ぶっきらぼうに「星が好きなやつ」と書いてある。ノノハラさんはその紹介について、その通りだと認めた。「将来は宇宙飛行士になると言っていたよ。上ばかり見ていた」
「ぼくも宇宙へ行きたいです」
「私は天文学者でいいよ」
 ノノハラさんの口角が、可愛らしく上がる。
「彼女が星を触りたいというからね、星型のペンダントを作ってやったことがある。粘土製の見るに堪えないものだが喜んでくれたよ。いっしょに火葬されて、いまは空の上だ」
 最後の一枚は、ノノハラさんの『おともだち』用紙だ。彼女の紙には何も書かれていない。誰も彼女のことを紹介していない。
 用紙の空白を埋めるのは、担任の先生の赤ペンだけだ。『ともだちがたくさんできるといいですね』とある。その横にはニッコリと笑う顔文字が添えられていた。
「サクラさんはあの哀れな紙きれを見て、私に声をかけてくれたんだ」
「友達になりたかったんですね」
「善意だけとはいえないがね。孤立している人のほうが都合がよかったのも、きっとあるだろう」
 ノノハラさんは立ち上がり、研究室の隅にある台所でコーヒーを入れてくれた。持った時に手が熱くないように紙コップが二つ重ねられていた。
「来客用のマグカップは用意していないから、それで我慢して」と彼女は言った。
 ぼくの対面で、物理学科一番の才女がカップに口をつけている。温度を気にするように、わずかに震える唇にぼくは見惚れてしまった。
 ノノハラさんはその視線にすぐに気が付いて、「気持ちの悪い奴だな」とぼくを罵倒する。防犯スプレーが今、遠くで転がっているのが嬉しい。
「ノノハラさんはきっと、サクラさんのために宇宙物理学を専攻なさったんですね」
「さあ、そうかもね」
「宇宙物理学でなければ、何をされていたと思いますか。どんなことがやりたいですか」
「まともに働けないだろうし、ま、小説でも書きましょうか」
「ノノハラさんなら、成功されると思います」
「それはどうも」
 ぼくはノノハラさんにお世辞を言わない。いつだって本気だ。彼女もそれをわかっているからか、ちょっと照れた風にほほえんだ。
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