第 5話

文字数 5,460文字

 極めて珍しくも午前の授業は全部、まだ期末試験には十日以上もあるのに、まるで各先生方が申し合わせたように自習になった。大事な三学年の二学期でもあるし、今日は試験範囲の復習にあてろ、という緒先生の一致した親心なのだろう。
 代志乃は二時限目からもずっと、ほぼ強制的に教科書を貸してくれた。ばかりか芳斗の叔父が洋菓子店に勤務していることをぺろっと口にして以来、スイーツを食べる作るが大好きの彼女から休憩時間に、どうしたら安く買えるのだとか、やっぱりチョコレートはベルギー製よね、等々、プロっぽいことまで訊かれ適当に答えているうちに遠藤日登美も参入してきて盛り上がった。
 自習となれば咎められない程度に好き勝手ができる。最近勉強にすぐ飽きがくると洩らす日登美に、それは体調不良が原因だから自律神経を整えるべきと、雑誌で読んだというリラックス法を披露した。深く息を吸いながらゆっくり両手を上下させる姿に見入ってしまい、芳斗もつい真似していた。頭がすっきりしたのは気のせいだろうか。
 昼休みになった。現在この中学校は給食制度を停止中である。一週間前給食による食中毒と食品アレルギー問題がたて続けに発生。入院患者が出る事態に至り、PTAからの猛烈な抗議を受け当分の期間停止することになったのである。
 各自弁当を開き始めたのを横目に、芳斗はひとり教室を出た。さすがに弁当だけは借りるわけにはいかない。購買部でパンを買ってもいいのだが、午後の体育で行うサッカーを考慮すれば腹持ちのいい食事、といってコンビニは遠いので、学校のすぐ近くにある『来々(らいらい)(けん)』という全国に五万とありそうな名の中華食堂に決めていた。ここのラーメンが滅法(めっぽう)美味(うま)く、放課後なんかは部活帰りの連中で繁盛していたのである。
 生徒玄関を抜け、何げなくズボンの尻ポケットに手をやった彼は、急に立ち止まった。財布がないのである。他のどのポケットにも入っていない。しかもネコババした五百円までなくなっている。
 落としたのか、それとも盗まれたのか。小銭の多い財布だから音でわかるはずだし、盗まれたとすればスラれたのかもしれない。スリに間違えられスリに遭うなんて笑い話だが、どちらにしても思い当たるふしはない。ともあれ金は借りればすむことで、外食をあきらめるつもりはなかった。クラスメートらが食事中では借りにくいので、体育館で時間をつぶすことにした。
 かれこれ十分以上経ち、クラスの体育会系男子たちがバスケットボール、女子は輪になってバレーボールを始めたところで戻った。教室内に残っている半数以上の生徒らは雑談や居眠り、漫画本を読むなど様々だった。
 芳斗は中央の席で教科書に目を落としている下平(しもだいら)(ゆう)(せい)の姿を認めると、そちらに歩み寄った。この下平こそ、怠惰傾向にあるクラス内において希にみる勉強家だった。常にトップクラスの成績を保っているだけでなく、スポーツ万能、ギターも巧いとくる。イケメンぶりも互角なので、西崎瑠蘭が勝手にライバル視している生徒だ。
「雄星、ちょっといいか」
 邪魔にならぬようそっと呼びかけた。容姿成績平々凡々、何をやってもフツーの結果しか得られぬ芳斗とは性格や学力に大きな違いがあるにもかかわらず、この下平とは入学以来クラスが一緒、趣味、好きな芸能人一緒という共通点もあって、いつしか友情のきずなで結ばれた間柄なのである。最近、何となく芳斗を避けているようなふしがあるのだが、金策となれば彼が一番の頼りだ。
「ん、なんだ芳斗か」ちらと顔をあげ、気のなさそうに言う下平。おしゃれな彼は、いつものようにコロンの淡い芳香を漂わせている。よく見ると教科書ではなく、ギターの雑誌を読んでいたのだった。勉強家にも息抜きが必要なのだろう。
「実は、お金貸してほしいんだよ」
 雑誌に目を落としたまま下平は訊いた。「いくら」
「千円」
「無理」
「じゃ五百円」
「でも無理」
「どうして」
「ぼくも使う用があるんだ」
 芳斗はあっさり引きさがった。なにしろ気心の知れた仲。うそではないし、うそだとしたら貸す気はないのである。
 さてどうしようかと思っていると、自席で教科書を読んでいた槙田代志乃が「秋山君」と呼びかけた。
 芳斗は笑顔で歩み寄った。午前中世話になったので、自然に愛想がよくなってしまう。
「お金、必要なんでしょ」
「えっ、そりゃまぁ」彼はびっくりした。たいした地獄耳である。
「わたしが貸してあげようか」
「でも悪いよそれじゃ」
「千円ぐらい平気」
 芳斗は二の句が告げなかった。本当に今日の代志乃はどうしたというのか。ここまで親切を押しつけられると薄気味悪くなり、素直に受ける気になれなかった。
「ねぇどうしたの。いやなの」彼女は笑って言った。少々きついことばだが、芳斗の沈黙に気を悪くした様子はない。
「お昼まだなんでしょう。早くしないと、休み時間終わっちゃうよ」
 芳斗は彼女が本心から、自分のこと心配してくれていると思った。彼に気があるとは未だに考えられなかったが口ぶりには世話を焼くのを楽しんでいる感があった。とにかく打算や思惑あっての行為でないことは確信できた。
「ほんとにいいのかい。それじゃそうさせてもらおうかな」もともと願ってもない申し出だし、これ以上つっぱねるのはかえって失礼だった。財布をとりだした代志乃が困ったような声をあげた。
「あら、ごめん。小銭を持ち合わせてなかった。一万円札ならあるけどかまわない?」
 彼女の家庭はちょいとしたブルジョワなので、おこづかいも半端な額じゃないらしい。
「きみが迷惑じゃないのなら、ぼくはいいけど」受けとり礼を言い、今日中に返すことをしっかり約束した。教室を出ようとしたとき、代志乃の思いもよらぬことばを聞いた。「なんだったらそれ、ずうっと返さなくてもいいのよ」
 そんなに気を遣わないでと言いたげに、彼女はにっこり笑っていた。
 昼食時の割に『来々軒』の客は少なかった。初老の夫婦二人で切り盛りしている店だからさほど広くはない。
 七人ほど腰かけられるL字型のカウンターの端には、体重百キロはあろうかという労務者風の客が一人。二つあるテーブルの一つには二人。それも同じ北中の下級生とおぼしき、なんと男女だ。けらけら笑って雑談しながらラーメンをずるずるすすっている図は、弁当を持ってこなくて食べにきたというよりデートを楽しんでいる光景だった。同校生徒の先客ありで気が楽になった。ラーメンとチャーハンのセットを注文し、労務者と二つ置いた中ほどのスツールに座った。   カップルにはやはり背を向けたくなる。やがてできあがり、黙々と食べ始めた。
「お客さん、こないだの昼にもみえたけど、今日もまたお弁当忘れたんですか」
カウンターに囲まれた調理場から奥さんの声がした。それが自分に向けられたとわかり、芳斗はあやうくむせそうになった。
「いや、そうじゃないんだけど」この前もきたって、昼間は今回初めてだ。どうやらまた人違いされているらしい。
「ま、校則なんか気にしないで毎日でもいらっしゃい。うちはあなたたちでもっているようなものだから」奥さんは愉快そうに笑った。ご主人が気難しそうな代わり、奥さんがとても気さくで人なつこいのである。こんなお世辞を後ろの下級生男女にも言ったのかな、と思っていると男子生徒のほうが勘定をすませ、二人肩をぴたりと寄せ合って出ていった。
 同級ならともかく、下級生カップルの親密シーンを目にしたあとは不愉快だし、食事も味気ない。早く店を出ようと食べ終るなり、スツールをすばやく降りた。とたん急で避けきれなかったらしく、通りかかった労務者が背中にどんとぶつかった。労務者にすれば軽い接触だったのだろうが、何せヘビー級。
「わ、ひ……」芳斗は勢いで隣のスツールの脚につまずき、前のめりになってカウンターのふちに額をがーんと打ちつけた。あまりの痛さに瞬間、真っ暗なった目の前で星が本当に輝いた。
「びっくりしたでしょう」奥さんの声ではっと気がついた。
「あれえ?」たまげたことにきちんとスツールに座っている。頭も全然痛くない。さらに労務者の姿もなかった。「これはどうしたことだ」
 せわしげに見まわし首をかしげる彼に、奥さんは苦笑しながら言った。
「しゃっくり治ったみたいね…… はい、ラーメンとチャーハンお待ちどうさま」
 ふと見れば、目の前にラーメンとチャーハンの盛られた食器が置いてある。それにしゃっくりが治ったとはどういうことか。
「何ですかこれは?」
「何ですかって、ご注文の品ですよ。これが焼きそばとピラフに見える?」
 驚きを通りこし、彼女はうろたえていた。
「あの、ぼく二つも注文してないんだけど、何かの間違いじゃないですか」
「あたしだってまだこれしか出していないんだけどねえ」困ったように奥さんは首をかしげた。「そんな、ぼくはたった今、食べ終わったところで」
 対角線上のカウンター席にいた客が食事の手を止め、このやりとりに注目していた。入ってきた覚えのないサラリーマン風の客だった。
「でもへんだなあ、こんなにお腹いっぱいなのに」納得しかねるように腹をさすり、はっと手を止めた。空腹なのである。まるきり食事前の状態なのだ。
「こんなことって……」
 ありえないはずだが、事実を認めぬわけにはいかない。どうやら奥さんの言い分が正解であり、この二品は早々に食する必要があった。
「すみませんぼくの勘違いでした。これ、いただきます」
 やにわにかきこみだした芳斗を、彼女はあっけにとられたように見入った。
「たまにぼく、認知症みたいなことなるんですよ。まだ中学生なのに」
 こういう場合は苦笑いするしかない。
「あ、そうなの」面白い子だと思ったようで奥さんも笑い返した。しかし、以後どこか変な目つきで、時折盗み見るようになった。
 二杯目は今の事態を考えながら口に運んだので、さっぱり味がわからなかった。結局、どういうことだったのだろう。夢や幻覚でないことは断言できる。となると、まるで時間を逆行したような現象だ。しかしそうだとしたら、入れ替わった客たちをどう解釈する。
 いつのまにか食べ終わっていた。これ以上考えても仕方ないので、勘定をすませようとポケットに手をつっこんだ。そして、またも驚くべき現象にぶつかった。財布が出てきたのだ。中は小銭だらけで、代志乃に借りた一万円は服のどこを探しても現れなかった。
 ポケットからは、昨日フリーマーケットで買った中古ゲームソフトのおまけにもらった、風変わりなデザインの、裏にピンはついていないがブローチらしきものも見つかった。もらったとき入れてそのまま忘れていたのである。
「どうして財布が」腕時計をのぞくと、昼休みになってまだ二十分も経っていない。度重なる驚きに、頭の中が空っぽになった気がした。やがて奥さんの警戒心を秘めた目線にぶつかり、あわてて支払って外へ出た。少々矛盾点は存在するもののこれらの物的証拠が出現したとなると、やはり時間がどうかなったとしか考えようがない。
 財布が戻ったのはうれしいが、消えた一万円を思うと喜んでもいられなかった。もしこのまま紛失したままだったら、えらい出費である。
 市の大富豪主催の隔月清掃会には芳斗も小学生の頃から滅多に休むことなく参加してきたが、次は気合いを入れて臨む必要があった。
 参加するといってもこの清掃会、誰でもできるわけではなく人員枠がある。過去の実績が優先され、不足の場合はくじ引きになる。たいてい優先者で埋まってしまうので、新規参入にはクジ運が必要になってくる。清掃時間と範囲に制限はないが、優良者の認定を受けた者以外の報酬は一律の金額と決まっている。そうしないとゴミを故意に投棄する輩が出てくるからだ。(もちろん、いないわけではない)優良者になると清掃範囲に応じて金額が変動するが、上限がある。清掃はグループ単位で行い、監視員がいて不正行為者は一定期間参加資格停止となる。
 そういう不届き者は滅多にいないし、金欲しさといっても小遣い程度の金額である。次第に町の美化の大切さに目覚め、やりたくて参加を続ける人のほうが多かった。美化意識が高じ電柱の落書きまで消して歩く者もいる。
 ポイ捨ての定番ともいえる空き缶やたばこの吸い殻は、常に相当量集まる。『町がきれいになれば人の心もきれいになる。イタチごっこであっても怒りを向けず、そういう人たちが減ることを願いながら清掃に取り組んでほしい』主催者側から毎度その訓示を聞かされると、自分たちがゴミを拾うことでポイ捨てする人の心も変わると思えてくるから不思議である。芳斗が生まれる何十年も前より行われてきた清掃会であり、主催者にとっては損失しかないはずなのに継続できる経済力を誰もが、どんだけ金持ちなのかと、これまた不思議に思っていた。高齢の社長はとうの昔に娘婿に経営を譲り、どこか離れた場所で悠々自適の生活を送っている噂だった。
 参加資格は小学生以上となり、小中、高校生たちには小遣い稼ぎの場となる。当然児童生徒らの人員枠があり、多くの少年少女たちもくじ引きという無情な手法で選ばれることになる。優良者なのでくじ引きパスの芳斗は、一万円の数分の一の金額とはいえ上限まで頑張るつもりだった。
 ずっと返さなくてもいいという代志乃のことばが、むろん冗談とわかっていても、いくらかの気休めである。
 店に入る前は雲っていた空も晴れわたり、陽気が暖かかった。

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