第19話

文字数 9,974文字

 社殿の裏に隠れた小夜子が十分ほど経って、また同じ場所から現れた。
「どこまで行っていたんですか。トイレだったらあそこのコンビニで借りればいいんですよ」芳斗がぼやいた。しびれをきらし刑事と探し回っていたのだ。
「ごめんね、帰りの時間がちょっとずれちゃったみたい。これでも巧くいったほうなんだけどな」
 芳斗には小夜子がかなり疲れているように映った。顔色もよくなかった。
「さてと、いよいよ一日前にタイムリープ、といきたいところだけど、困ったことがひとつ出てきたのね。今、電話したら兄がどうも来られないようなの」
 全くだらしないんだから、という小夜子のひとりごとが聞きとれた。
「ぼくたちだけじゃ不安ですか」
「そうじゃない、一八日にタイムリープしたあなたたちをまた一九日に戻してくれる人がいて欲しいのよ。もしわたしに不都合が生じて帰還のリープができなかった場合、残されたあなたたちはたった一日とはいえ自宅には帰れないでしょう。一八日の自分が存在するわけだし」
「不都合って、小夜子さんの身に何かあるとでもいうんですか」 
 小夜子はぽつりと言った。「ええ、この体はもうぎりぎりだと思うの。手遅れになる前に、わたしも未来に還りたいのよ」
 未来に還るというのはショックだったが、彼女の切実な心境は理解してやらねばならない。
「心配いりませんよ、小さな子供じゃあるまいし。泊まるところならすぐに見つけられますよ、ねえ刑事さん」
 完全な事情の把握にまで至ってなかった森谷刑事は同意を求められてうろたえた。
「もちろんもちろん、ホテルでもモーテルでも宿賃ぐらいわたしに任せときなさい。で、それはいいんだが」刑事は気がかりごとがあるらしく口ごもった。
「どうもわたしには『一八日に戻る』って今いち呑みこめんのだが、そんなことして体を壊すってことはないのかね、なんせ齢だし」
 小夜子はこれを遠回しな拒否の申し出と受け取った。
「すみません、承諾もなしに決めつけちゃって。たぶん年齢に関係なく心配ないと思いますが、気がすすまないのでしたら辞退なさってもかまいませんよ」
「いやいやそれなら安心した。わたしだって時間を飛び越えるなんて本当だとすれば滅多にできるものじゃないしわくわくしているんだよ、実のところ」
「刑事さん、若干疑っているようだけど本当にできるんだよ。ぼくなんか未来へ行ってまた戻ってきた『往復』の経験者だからね。ま、ぼくたちにまかせなよ。心配いらないから」
 小夜子はタイムリープする場所を外部からも見えにくい神社の裏に決めた。やがてコファーの収まったアルミのような材質のポーチをとりだした。彼女の説明では、この材質はコファーの影響を外部に漏らすのをかなり防ぐ役目をしているのだそうだ。
 小夜子の指示で芳斗と森谷は触れ合わんばかりの近さで彼女の両わきに立った。
「手を握って」両側の二人はぎょっとして小夜子を挟んで互いの顔を見合わせた。まるっきり知らない人ならばむしろ事務的にすんなりできただろうが、今はもうある程度親密な間柄だけに気恥ずかしさが先にきてしまうのだった。
「握ったほうが確実なの。それから目を閉じて霧の中にいる白い景色を思い浮かべて。閉じないとおかしなものが見えたりしてリープに影響するから」
 もどかしげに促され、おずおずと彼らは手を握った。おかしなものとは自分の場合色んなパターンの〈星〉だったわけか、と芳斗は深く納得した。
「じゃ、きわどく事件発生の三十分ぐらい前を狙ってやってみるね」
 二人の緊張を解きほぐすつもりもあったのだろう、ゲーム感覚の気楽さで言った。
 小夜子の手はほっそりして、雪女というのもおかしくないほどひんやりしていた。最初こそ気恥ずかしさを意識したものの、やがてその冷たさが心地よく感じられた。いつのまにか彼女に思慕の情を抱いていたことに自分でも驚いた。
 ほどなく身体がふわりと浮き上がるような感覚が起き、全身に一瞬のしびれが走って我に返った。 
 芳斗がデパートで『往復』のタイムリープしたときはどちらも激痛でスイッチ入ったので、こんな感覚が走ることに気づかなかったのだろう。すぐに小夜子のOKがでて目を開けた。格別、体調が悪くなった感じはないようで、森谷は目をぱちぱちさせている。あっけなさに拍子抜けの様子だった。芳斗は自慢気に言った。
「ね、どうってことなかったでしょ」
「うん、そりゃいいんだが、ほんとに『昨日』にきたのかな。なんも変わりないようだけどな」
 たしかに代わり映えしないあたりの景色や空模様では識別できない。自動車が消失したことだけが時間移動を証明していたが、森谷はまだ気づいていないのだった。ケータイで日付と時間を確認した小夜子に、芳斗は小声でささやいた。「上手くいったようですね」
「うん、二時四五分。すぐクルマを拾わないと」
 事故が起こる四十分以上前であり、タイムリープは狙いどおりに成功したわけである。
道路へ出ていこうとする小夜子を追いながら、芳斗は刑事の反応を楽しむようにわざと真顔で忠告した。「刑事さんのクルマ、なくなったのはタイムリープが成功した証拠だからね。決して盗まれたなどと騒がないでくださいよ」
 そのひとことで当のオーナーも初めて事実に気づいてぎょっと顔を引きつらせたが、そこは老成された刑事。「そりゃそうだよな。昨日にきたんなら、ないのは当たり前だよな」余裕の表情でからからと笑った。だが、少し不満らしく芳斗にたずねた。
「どうせならクルマごとタイムリープできなかったのかね」
 その疑問については小夜子から事前に説明を受けていた。結論を言うと小型バイクまでが可、クルマまるごと一台のリープは軽自動車でも不可。万一できても、廃車になる覚悟が必要という話だった。
 小夜子は車道の前で立ち止まった。交通量の少ない道路だけに空車のタクシーはなかなか通りかからなかった。通行人も全く見あたらない。小夜子のあせりに気づいて森谷がケータイとり出した。
「え~と、この辺りで一番近いタクシー会社は」
芳斗が冗談混じりの提案をした。「それより一般車両を停めて無理やりヒッチハイクしましょう。刑事さんが手帳を見せりゃどこへでも走ってくれますよ」
 二人の申し出に小夜子はかすかな笑みでしかこたえられなかった。
「わたし、少し具合が悪い」腹のあたりを押さえている。腰を下ろして休みたいらしく境内に戻り始めた。放ってはおけず芳斗たちも後をついていった。
 石畳の途中でよろめいた彼女は勢いで数歩走り、左側の狛犬にもたれかかってどうにか倒れずにすんだ。
「大丈夫ですか」
 思わず駆けよった芳斗のことばが聞こえないかのように黙りこくって、苦しげに一点を見つめ続けた。まもなく震え声でつぶやいた。「これ持ってて」ミニバッグを差し出した。「えっ? でも」訳がわからず受け取りをためらう芳斗に強く言った。「いいから預かって。もう、限界なの」
 急に手で口を押さえた。ごほっとせき込むと、指のすきまから血があふれ地面を赤黒く染めた。
「ど、どうしたの!」信じられない光景に芳斗は二の句が告げず、ただおろおろするばかりだった。吐血はそれだけだったが、苦痛の声を洩らしてしゃがみ込んだ。
「医者に連絡しよう」森谷刑事のことばを聞き、小夜子はかぶりを振って拒絶した。
「しかしこのままでは」
 彼女は刑事のコートの裾を引っぱって反対した。
「わかった、だがとりあえず安静にしないと」森谷が先に立ち芳斗と二人がかりで抱きかかえようとすると、ここでも彼女は拒否を示して手を払いのけた。道路に向かってよろよろと歩きだした。
「どこへ行く気ですか、動いちゃいけませんよ」小夜子の意図が解らぬ芳斗はとっさに止めにはいったが、またも手を払われた。顔をゆがめ、はあはあと荒い息をしながらとぎれとぎれにつぶやいた。「行かないと……行かないと」
 うわごとみたいにその文句を繰り返し、気力で歩を進める小夜子。鬼気迫るような雰囲気に芳斗と刑事は声もかけられず、彼女が倒れないように両脇について歩くしかないのだった。
 鳥居をくぐり抜け事故現場となる制限速度の数字を目前にした路肩まできて、力が尽きたように片ひざをついた。思わず手を貸そうとする森谷に小夜子がかすれた声をだす。「触っちゃ……だめ」
 両ひざを地に落として、辛そうな息づかいで小夜子は目を閉じ、「ごめんなさい」と弱々しくつぶやいた。閉じたまぶたにはうっすらと涙がにじんでいる。
 芳斗には小夜子の謝罪と涙の意味が解らなかった。自らの手で阻止できないとはいえ、事故の責任は彼女には一切ないはずだ。
 突然、小夜子が短い呻きをあげ路面にひれ伏すように倒れた。すばやく抱き起こした芳斗の顔を見て驚きの表情を浮かべ何か言おうとしたが、身をよじって苦しみだした。手に持っていた発振機が路面に落ち、点灯していたインジケーターランプの光がちょうどスイッチが当たったらしく消えていた。服の内に戻してやろうにも激しくもがくためにままならず、とりあえず自分のポケットにしまいこんだ。
「とにかく、どこかに横にして安静にしてやらないと」
 森谷が先に立ち、芳斗と二人で肩を抱きかかえ神社にひき返した。通行人の姿がなく、クルマの流れも途絶えていたのは幸いだった。社殿まで向かう途中、小夜子は激しく咳きこみながらまた吐血し、おびただしい量の血液が地面を汚した。目を背けたくなるような凄惨さだった。歩くこともできなくなり、二人にひきずられるような格好で社殿の階段を上り回縁に横たえられた。
 苦悶の表情でしきりに低いうめき声を発している彼女のそばにいると、芳斗は胸が締めつけられるようで黙っていられなくなった。目と鼻の先には『昨日の芳斗』が入院中の病院があるのだ。救急車よりもそちらのほうが早い。森谷からケータイを借り、診察券に記された番号を打ち込んだ。
 応対にでた女性は一息に話す彼にたじろいだものの、過去に同じような例があったらしく「いたずらはやめてください」と言って切ってしまった。むかっとしながらもかけ直し、相手がでるや「いたずらではない、うそだと思うならきて確かめろ!」怒鳴って返事を聞かずに電話を切った。必ずやってくるはずだった。昨日、病院に搬送され亡くなったのは小夜子なのだから。
 そうしている間に容体が変わり、小夜子は昏睡状態に陥っていた。今はせわしげな息遣いだけが病魔の存在を教えていた。われしらず彼女の手を握りしめた。自分の生命エネルギーを注いで少しでも回復させたい。祈るような気持ちで哀れな重病人を見守った。
 いきなり芳斗は立ち上がった。やっとある事実に気づいたのだ。
「ぼくたちは病院の人に見られちゃいけないんだ。早く立ち退かなきゃ」
「この子をほっとくのか」
「じき医者がやってきます。彼らに任せればいい。だから早く」刑事の腕をひっぱって催促した。病院からきたと思われるクルマの気配がしたのである。すぐさま回廊をとび降り社殿の裏に隠れた。数歩遅れて刑事も続いた。
 バタンバタンとドアの閉まる音がして、何人かの話し声が聞こえた。まもなく小夜子の体をクルマに乗せようとしている緊迫感が伝わったかと思うと、エンジンをうならせて走り去った。
「行っちゃった」ぼんやり見送りながら芳斗はつぶやいた。もう小夜子とは会うことはない。現場検証後、病院で若手刑事が森谷刑事に伝えた内容からすると、あと一時間ほどで息をひきとるはずだった。
 こうなることを彼女だって覚悟していただろう。なんとか倒れる前に人格交換して未来へ、という願いはついに叶わなかったのである。芳斗は小夜子が、いや彼女の肉体を借りている沖野若奈が哀れでならなかった。彼の知らぬ小夜子の人格は十年後に存在する若奈の肉体で生きていけるが、当の若奈はまるで身代わりになって死ぬようなものである。
 沖野若奈を救いたい、十年後に帰還させなければ、との思いが胸の奥から湧き上がる。幸い彼女はコファーを持っている。人格交換の地点に連れていけば、可能性はある。兄の田村なら場所を知っているはずだ。連絡し協力してもらおう……
 だが、それは不可能だった。今は昨日の火曜日である。芳斗と出会う前の田村には事情が理解できないし、第一『芳斗が田村に連絡を入れる』などという現象は発生しない。
「それじゃ、準備しようか」依然ぼんやりしている芳斗を森谷が促した。
「何をですか?」
「ひき逃げの被害者だよ、たすけるんだろうが」
「ああそうですね。でも、正直どうしたらいいかわからないんです」
「何も悩むこともないだろうが」
森谷は理解できぬという顔。「被害者がひかれる直前に、道路へとびだせばいいじゃないか。いや、そんな無茶しなくても学校に行ってその子を保護すればすむことじゃないか」これしきのこともわからんのかと言わんばかりに笑った。しかし、芳斗は落ち着いて反論した。
「それはできないんです。今日ぼくと彼女は、病室以外では全く会わないはずなんです。これが刑事さんになりますと、一度も会わないはずです。なのにぼくらがのこのこ出向いて、彼女の護衛を努めたらどうなります。因果律に狂いが生じますよ。またたしかにひき逃げは起きないでしょうが、そうなるとぼくと刑事さんが知り合う機会もなくなります。道路にとびだすのも同じです。つまり、ぼくたちの未来は、いやその他事件にタッチした人々の未来は複雑に変化してしまうのです」
「そんなこと気にしていたら、何もできんじゃないか。そもそも昨日に戻った意味がない」
 芳斗もその点は同感だったが、代志乃の指摘通り時間の流れを変えることが逆に悪い結果を生むように思えると同時に、元来どう頑張っても流れは変えられないという一種矛盾した考えも抱いていたのである。「そこを上手くやるんですよ。事件には目撃者がひとりいます。他でもない今、病院にいる過去のぼくです。このぼくの目撃者によって事件が始まったわけですから、その目撃を変えることなく被害者を救出すればいいのです」
「すればいいって、できるのかいそんなことが」
「だから考えているんですよ、それを」
 森谷は首を横にガクッと傾けて落胆した。欧米人のように感情表現が大げさな人である。もし小夜子がいたら、彼女だったらどんな方法を用いるだろうか。刑事みたいに道路にとびこめとか学校で保護しろとかの安直な提案をだすだろうか。彼らの納得するような手段を計画していたはずだ。
 ふと芳斗は彼女に渡しそびれた発振機を思いだした。もしや小夜子は、これを使えと言うつもりであのとき取りだしたのではないか。
 発振機をよく見る。ボタンひとつしかついてないからオンオフは押す毎に切り替わるようだが、いつ、どこで、どんなときに使用すればいいのか皆目見当がつかない。こればかりは試しにいじるのは危険で、本人がいないことには動かしようがなかった。
 芳斗は改めて事故現場となる鳥居前の道路を眺めた。もう一度事故の光景をよく思い返した。真っ先に浮かぶのは、妙な二人組のひとりがロープを持って樫の木に登ったことだ。今もって意味不明な行為だが、ある仮定を考えてみた。路上に現れた代志乃の体を宙づりにして、クルマにひかれるのを防ごうとしたのではないか。無茶なアイディアあるものの、上手くロープが体を捕らえれば決して不可能ではない。
 そうだとすると二人組は代志乃がひき逃げされるのを前以て知っていたわけであり、そういう人物は二人しか考えられない。他でもない自分らである。つまり、あれは自分たちがこれから開始する救助活動ということになる。
 たしかに二人組のひとりは年配者で体型、服装から森谷刑事に似ていた。初対面で見覚えがあったのは、そのせいだったのだろう。雨合羽を被っていたもうひとりは、なんでそんな格好していたのか見当つかないが、体格からするに芳斗自身とみて間違いなかった。
 芳斗は胸を掻きむしりたい衝動にかられた。警察は事件後、二人をひき逃げの共犯として捜査するのだ。愚かにも彼は現場検証のときに、自らの首を絞める証言を発していたのである。のみならず、連れ去った犯人たちを人間のやることじゃないと激しく憤ったのだ。それが自分たちだったとは、掻きむしるだけじゃ足りず絶叫したい気分だった。  
 人命救助が悪事を働くようで急にやる気が失せていった。第一、ロープで宙づりなんて理屈の上では可能でも、肝心の代志乃が現れる正確な位置がつかめなければ成功の確率は低いだろう。
 いや、出現する場所ははっきりしていた。路面にペイントされた制限速度の数字の、4の縦横の棒がクロスする地点だ。その真後には電柱があり、雨合羽姿の彼が足場ボルトにロープを引っかけた。あの場所にロープの輪を置いて森谷刑事と一緒に樫の木からとび降りれば、足場ボルトが滑車になり代志乃は宙に舞い上がる。加害車両は高さのないスポーツカーだ。一・五メートルも宙に浮かせれば、かすりもしない。
 ふと代志乃がはねられて空を舞った場面を思い起こした。舞い上がって落下するまでが物理的に不自然だったのは、気のせいなんかじゃなかった。理科の教師の説明を急に思いだした。ゴルフボールが高く飛び上がるのは衝撃で一旦へこみ、それが戻る反発力のせいで、人間の体はクルマにはねられても衝撃で潰れ、舞い上がることはない。車両の遺留品ひとつ残ってないのがその証拠であろう。
 吊り上げたときのロープが見えなかったのも、実際は眼にしていたのに、そんなことあるはずないと脳が決め込んでしまったからだ。
 彼はもうひとりの目撃者である児童の証言にも留意した。あの子ははねとばされた直後の代志乃が平気で歩いたと言った。血痕は小夜子の吐血跡で無関係だ。つまり、ロープ宙づり計画に於いて無事代志乃は救出されるのである。だったら迷うことはない。「ロープを買いに行きましょう」
「そんなもの、何に使うんだ」
 さっそく質問を浴びせる森谷に、とにかく長いロープが必要なんですとだけ説明して商店のありそうな方向へ歩きだした。刑事も二人の不審者がロープで何かをしようとたくらんでいた事実は知っている。まさかそれが自分たちであると判ったら、まず協力してくれないだろう。いずれ気づくかもしれないが、ぎりぎりまで伏せておいたほうが賢明だった。
「ときにきみ」言いにくそうに森谷はたずねた。
「きみ、ロープ買うって、お金はあるんだろうね」
 聞き捨てならぬ一言に芳斗はぴたりと足を止めた。心配気に訊く。「刑事さん、持ってないんですか」
「あるにはあるんだが、今夜の宿代で精一杯だな。なんせ安月給だからわびしいんだよ小遣いも」
「そ、そんなぼくだって小銭しか持っていませんよ。わびしい中学生なんですから」
「じゃ二人の合計で買えるものしか買えんな」
「そうなりますね。あ、そのために小夜子さん財布預けたのかも」
 ここから最も近いホームセンターは三キロ以上距離があり、足で往復するには時間が足りない。となると商店を捜すしかないのだが、事件発生が三時半頃なのにすでに三時をまわっている。二人はあせり、いつしか駆け足になった。
 やがて大きな倉庫が自宅に隣接している、桃農家らしい家を見かけた。芳斗が提案する。「刑事さん、あの倉庫の中にはロープぐらいあるはずです。借りてきましょう」
「しかし、見ず知らずの者に貸してくれるかな」
「そんなこと心配している場合じゃないでしょう。当たって砕けろですよ」
 さっそく玄関の呼び鈴をならした。応答はない。二、三度呼びかけたが同じだった。
「こりゃ留守だな」森谷があきらめようといいたげに手を振った。
「でもちょっと、倉庫の中に入ってみましょう」
 芳斗はこそ泥みたいに背を丸めて倉庫に忍び寄っていった。気が進まぬ様子で刑事もあとに続く。鍵のかかってない重い鉄製の戸を開けるとノコギリやクワやスコップなどといった道具から、噴霧器、刈払い機などの農機までが雑然としまわれてあった。太さ一センチほどのロープも幾重にも巻かれて壁にかけられていた。
「あった」芳斗が駆け寄ろうとしたとき、表で人の気配がした。
「誰かくるぞ」森谷がいち早く察知して注意した。二人は壁にぴたっと身をはりつけた。戸が開いていたものだから、不審に思ってやってきたらしい。
「これじゃ空き巣だ。刑事が窃盗の容疑をかけられたら首がとぶぞ」
 とんでもないことになったと顔を引きつらせた。とはいえ全身を隠すほどの物もない。壁に身を寄せているだけではすぐに発見されてしまう。刑事はあちこちに目を走らせると、かけてあった黒い雨合羽を芳斗に渡してフードを被って着るように指示した。さらに防塵マスクとアミゴーグルをとって顔に装着させた。
 一見、草刈もしくは農薬散布の作業員だが、少し変わったコスチュームの窃盗犯にもとれる。「よし、これでいこう。きみは言うとおりに動いてくれ」
 なにがなんだかわからぬままに芳斗は了解した。そのとき農家の主らしき男性が顔をだした。八十代ほどの善良の見本みたいな老人が驚きで固まった。
 森谷刑事は落ち着き払って頭をかきながらにこやかにこたえる。
「いやぁいやぁ、失敬失敬、驚かせて申し訳ない。わたし、こういう者……」
 警察手帳をピラと見せつけ、「ですが、実は今しがた、近くの空き地でこの逃走中の強盗犯をラッキーにも発見し、急ぎ取り押さえたのですが、その際ちょいとした乱闘になり、手錠を運悪く川底へ落としてしまったのです。そこで代用品にはなはだ古典的と申しましょうか、元祖的と申しましょうか捕縄(ほじょう)を使おうと思い立ちお宅へ伺ったのですが、お留守だったようでしたので勝手とは思いましたが、こちらに入りましてロープをお借りしようかな、と考えていたところなんです」
 一応のあいさつと用件を述べ終わるなり、がらりと語調を変え芳斗に怒鳴った。
「おい、きさまぁ、なめんじゃねえぞ」
 刑事の右手が手加減を感じさせぬ勢いで脳天に振りおろされた。
 盗っ人のふりをしているだけの芳斗にとってこれは大きな迷惑だった。
「こらえてくれ、これも効果のうちなんだ」内緒話をするように声をひそめ、なにげない素振りで芳斗の耳元にささやいた。なるほど彼の手管には感心した。だが、あれだけでは効果も手薄である。そこでふてぶてしげに身をくねらせ、いかにもおれは強盗だぜ、という態度を見せつけると、いきなり刑事の向こうずねをけとばした。
「ィテーッ!」 心に大きなスキができていたため、刑事は腹の底から絶叫してしまった。老人は思ってもみなかった人の悲鳴を聞き、とびあがって驚いた。しかけた芳斗でさえこれほど大人気なく叫ぶとは予想してなかったので、彼もまた後方へ一歩とびのいた。「いや、失敬失敬。わたしとしたことが……」
 またまた頭をかいて照れ笑いし、それから急に人が変わったように憎悪むきだしの面持ちで芳斗を睨みすえた。「きさま、こんど馬鹿な真似したら、ブチ殺すぞ」
 震え上がるほどすごみのある声には、演技よりも本音が多分に感じられた。それでも足りないらしく体を芳斗にくっつけ、耳元に腹いせの文句を浴びせた。
「この裏切り者!」
 せっかくの配慮を誤解されてはかなわない。芳斗も小声で早口に弁解した。
「これも効果をあげるためです。あなたに協力したんですよ」
 裏のやりとりがわからぬ老人は、刑事と強盗犯の険悪な睨み合いと判断したらしい。
「ロ、ロープですね、これでよかったら」
 壁から外して渡そうとし、「あ、これじゃ長すぎて使えませんね、今切りますので」
 鋼鉄の板も楽々切れそうな万能ハサミをとりだしたのである。全く予想外という風に森谷と芳斗は顔を見合わせた。彼らは現物のまま欲しいのだ。
「どうぞそのままで結構です。長いほうがいいんです」森谷があわてて止める。
「でもこれ二十メートル以上あるんですよ。どうしたって長すぎますよ」
 まことにごもっとも。しかし、刑事も即座に切り返す。
「いやね、ご主人、この男は強盗、傷害、婦女暴行、詐欺、恐喝という前科五犯の大悪党で、しかもマジシャン顔負けの縄脱け名人なんです。全身ぐるぐる巻きに縛って、芋虫みたいにしておかないと逃げられてしまうんです。二十メートルのロープでちょうどいいんですよ」前科五犯の縄脱け名人と聞いて老人の口が驚きで半開きになった。ことばがないらしく、こまかく二、三度うなずいた。
「では遠慮なくお借りします。署に連行し次第すぐにお返しにあがりますので」
 口が開いたままの老人からロープを受けとると、芳斗の手を乱暴に引っぱって逃げるように外へとびだした。 
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