第21話

文字数 11,729文字

 週が明けた月曜日。下校後、若奈は槙田代志乃の自室でひとりぼんやりしていた。過去に経験済みとはいえやはり中学生活には違和感がつきまとい、それは精神的な疲労となって現れた。最初の頃は代志乃への後ろめたさで呼吸する空気が重かったものの、日毎に落ち着いてきた。代志乃から沖野若奈に戻れる自室での時間が、彼女にとって気の休まるひとときだった。
 早いものであれから五日を数えた。この五日間はそれこそ緊張のとける暇がなかった。第一の難関は事件への対処である。苦労をかけた森谷刑事をこれ以上欺くわけにはいかず、正面切って真実を打ち明けた。
 先ず驚いた事実は、森谷が若奈の催眠にかかっていなかったことだった。正確にはあと一歩のところで覚めてしまい、素振りだけして死亡したはずの小夜子の正体や行動を探っていたのである。これには若奈も脱帽するしかなく、刑事という職業の奥深さを思い知らされた。そして、催眠効果が万人に通用するわけではなく、自身にも技術の未熟さがあったことを反省した。
 さすがの森谷も人格の入れ替わりを認めるには時間がかかったようだが、それゆえ若奈の罪については立証がほぼ不可能で、お咎めなしとの結論に至った。となると話が早いわけで、ついでにもう一肌脱いでもらうことを快く承知してくれた。
 行き着いたのが記憶喪失症を装うことだった。二人組についても一夜をどう明かしたのかも一切覚えがないで通したのである。
 案の定、これは最良策だった。身体検査でいやな思いはしたものの、外傷が全く見つからないところ記憶喪失は心因性によるものと診断され、治療は精神科医の手にゆだねられた。もちろんここでも彼女は医師が早くサジを投げるよう何も思い出せないという態度ばかり続けた。
 若奈にとって最も辛かったのは、保護された彼女を見るなり代志乃の両親がとびつくように抱きしめ、うれし涙にくれて喜びを表したことだった。父親でさえ人目を(はばか)らず滂沱(ぼうだ)の涙を流した。彼らの最愛の娘、『代志乃』を自分は追い出し死に至らしめたのだ。改めて犯した罪の深さに気づき、どっと泣き崩れ声にならない声で「ごめんなさい」と謝り続けることしかできなかった。事情を知らぬ母親のやさしく肩を叩いてなだめてくれた手に、彼女はとてつもない重みを感じたのであった。
 あの日にタイムリープし、代志乃を病身から救い出すことは真っ先に考えた。意識障害では驚きや恐怖は発生せず人格交換できない状況を承知で、意識がなくても肉体的苦痛にコファーが反応するかもしれない微かな賭けに、神社でタイムリープを試みたのだ。だが、着いたのは代志乃が亡くなった後で、それ以降は何度試してもリープ自体不可能になっていた。電磁波の途切れではなく心理的なものが邪魔しているようで、リープに絶対の自信を持っていた若奈は、元々望み稀薄な案件だけにこれで完全に諦めてしまったのだった。
 らちのあくはずのない記憶回復の療養を断り、もう授業には差し支えないからと周囲の反対を押しきって、保護された二日後の金曜日に登校にふみきった。家庭内におけるとまどいの連続で気疲れしていたことに加え、期末試験も近く校内生活に慣れる必要があったからである。
 元々クラス内で人気のあった代志乃だけに、記憶が多少あいまいということに対して生徒たちは心から同情しいろいろ気を配ってくれた。特に親友の遠藤日登美なんかは「あんなことまで覚えてないの!」と休憩時間毎に記憶の呼び水になりそうな話題を提供し、頼みもしないのに放課後、家に押しかけてきて雑談したり勉強の面倒みたりと、その世話好きにはありがたい反面、閉口したほどだった。
 捜査のほうは加害車両や二人組の足取りもつかめず、まるきり進展がない状況だった。一部のマスコミは相変わらずさまざまな憶測をとばしていたが捜査は難航、被害者代志乃からも何の情報も得られないでは早々に手をひくものと予想された。
 玄関の呼び鈴が気になって自室から廊下に出たとき、応対した母親の「あら、お父さん」と言う声が聞こえた。お父さん、ということは蓮沼俊蔵、つまり垂水である。代志乃に移入して以来垂水とは何度か家族と一緒のときに顔を合わせていたが、彼女が若奈であることは翔一郎から聞いて知っていた。その垂水が訪ねてきた。
「代志乃、おじいさんよ」母が叫んでいる。若奈は返事して階段を降りていった。
「やあ、どうだ、元気になったか」
 すっかり祖父を気どった優しい口調で垂水が切り出した。若奈も孫娘を十分に演じて明るく笑った。「もう百二十パーセント元気になりました」
「ひきこもりがちょっと気になるけどね」
 母親が苦笑した。二人並ぶと親子より一回り離れた姉妹の印象が強い。それほど代志乃の母は年齢より若く見え、そのまま譲ったように面差しも似ている。どんなときでも物腰柔らかなこの女性に、不良がかっていた時期があったとはとても信じられない。その時期だけ他人と人格交換していたのでは、と疑ってしまうほどだった。
「今日は、代志乃と話がしたくてきたんだよ」垂水が穏やかに言った。
「じゃ、部屋にあがってよ。わたしもたまにはおじいさんとゆっくり話してみたかったんだ」
「そうさせてもらうか……。あ、何もかまわんでいいからな」
 若奈は自室に案内するといったん階下に降り、かまわないでくれと言ってもどうせ母親がお茶を運んでくるだろうから先にお茶とお菓子、たいてい冷蔵庫に入っている代志乃の大好物のモンブランを母は勧めたが、手軽に摘める別の菓子をもらってきた。
 垂水は豪勢な部屋のなかを感心したように眺めていたが、ガラステーブルを挟んで目の前に彼女が坐ると祖父、孫の関係から元に戻った。
「妙な巡り合わせだな。きみとぼくが今度は身内になるなんて」
「わたしも、不思議でならない」
 若奈が代志乃として二人っきりになるのは、これが初めてだった。いつも代志乃の家族と一緒だったので、二人だけの立ち入った話はせずにいた。もちろん、曾根殺害には触れるはずもない。
「こんなことになるなら、人格交換なんてしなきゃよかった。わたし、代志乃さんに申し訳なくて」
「自分を責めちゃいかん」
 垂水が目を伏せた。「苦しいのはきみひとりじゃない」
 十年以上、いや垂水にすれば二十年も罪を胸に秘め続けていることに限界を感じているのだった。告白して少しでも楽になりたい。その誘い水を求めている。
「わたし、どうしても真相が知りたくて、事件当夜にタイムリープしたんです」
 垂水は顔を上げずに言った。「見たんだね」
「はい」
「驚いただろう」
「わたしには解らない。なぜ冤罪晴らしを計画して、過去に戻ったのか」
 しばらく垂水は沈黙し、重い空気が漂った。ここに翔一郎がいてくれたらと思ったが、田村輝彦の仕事関係上四日前に帰還の人格交換を済ませていた。
「そうだろうな。わざわざ自分の首を絞めるようなものだから。本当の目的は冤罪晴らしじゃない。過去の自分に殺人を犯させまいとしたのさ。過去を変えようとしたんだ。結局できないことがわかったけど」
 どこか秘密めいて暗い表情をみせることの多い垂水の印象が脳裏をよぎった。
「杉伊さんとぼくの親父は古くからの友人で家族的なつきあいがあり、家も近かったし小さい頃からぼくは小夜子さんを知っていたんだ。
 とりわけ杉伊さんの姉さんがぼくに好感を持っていたらしくて、「小夜子は変な男に騙されそうだから、あなたみたいな真面目な人が似合っているかもね」などと冗談をとばすこともあった。そう言われるとぼくのほうも彼女を意識しだし、いつしか想いを寄せるようになっていた。一、二度食事程度のデートはしたんだよ。それとなく打ち明けて、彼女のほうにもいくらか気があると感じた。
 ところがある日偶然、目撃した。彼女が男の車に乗り込むところを。尾行して、二人が普通の関係でないことも男の所在もつきとめた。曾根だ。曾根が独り身だったら仕方ないものとあきらめもついたが、妻帯者だった。不倫じゃないか。
 ぼくが洩らしたわけじゃないが、やがて二人の仲は周囲に知られ、それによって杉伊さんと小夜子さんの間に一悶着あった。世間体を気にした杉伊さんはひそかに曾根と接触し別れてくれるよう求めたらしく、元々遊びのつもりだった曾根も承知した。じゃあ、ぼくとの仲はどうなったかというと、こちらも途切れたままさ。彼女はぼくのことを本気で好きだったわけじゃないんだ。
 勤めを辞めた小夜子さんは体調がすぐれず自宅で療養していたが、友人が他県にいい医者を知っていて、検査で何泊かするという話で急に家を空けた。これは後に未来からきたぼくが人格交換のために連れ出した口実なんだが。杉伊さんはそれを不審に思い、彼女の友人たちに訊いて廻ったところ嘘だと判った。
 一方、蓮沼さんと人格交換したぼくは、そのときまだ過去の自分の過ちは回避できると信じていたんだ。研究会に入ったのもそのためだから。それで、昔の自分へメッセージを送りつけることにした。直接会うことや電話、メールも考えたが、やはり手紙が一番残りやすい。さんざん文面を練ったあげく、事件当日とその前後数日は外出を控えろという内容と、信用させるために自分の性格や趣向、それまで自分の身に起きた事柄など細かく書き連ねて、これだったら信じてくれると確信した。
 だが、はたと思い出したんだ。二十代の頃そんな手紙をもらっていたことを。自分の性格や過去を的確に当てられて、詐欺の一種だと破り捨てていたんだよ。
 これはつまり、過去は変えられないということじゃないのか。そこで直接会って忠告することを試みたが、もちろん叶わなかった。当時そんな電話をすぐに断った記憶もある。愕然とした。これではきみたちが来たら真相を知られてしまう。ただ小夜子さんだけは死なせたくなかった。
 といってきみだけ人格交換させたら、いつまでたっても未来に還らないことを不審に思われる。隠蔽工作を考え二人とも呼ぶことにした。
 ここからは二十代のぼくの話だ。事件前日あたりにぼくは父親から、小夜子さんのお父さんが小夜子さんと連絡がつかず心配しているという噂を耳に入れていたと思う。親友である杉伊さんが父親には洩らしていたわけさ。事件当夜ぼくに小夜子さんのケータイから電話があり、しかし、相手は男ですぐに切ってしまった。こちらから電話すると、今度は小夜子さんが出たものの様子がおかしかったように憶えている」
 若奈はあっと小さく叫んだ。放り込まれた穴から脱出して農道を歩いていたときのことだ。
「あのとき電話したのは兄なんです。次に出たわたしも巧く応えられなくて、しどろもどろでした」
 垂水も驚きの顔になった。「そういうことだったのか。ぼくはとりあえず杉伊さんに連絡して、小夜子さんと電話が繋がった旨を伝えたと記憶している」
「ええ、杉伊さんの自宅からもかかってきました。じき着きますと言って話を聞かず切ってしまいましたけど」
「あのあと、忠告通り外出しなければいいものを、小夜子さんが帰宅したか確かめるつもりで杉伊宅へ行ってみた。杉伊家に着くと、飲酒した後だったのか杉伊さんはタクシーで出かけるところで、行き先は考えるまでもない。曾根の家だ。
 ぼくはどうしようか迷った。他人が介入することじゃないもんな。でも黙っていられなくなり、自宅に引き返し車で曾根の家に向かった。曾根の家に入るのは、さすがに気が引けた。勝手口で小夜子さんのものらしい靴を見つけなければ、そのまま帰ったかもしれない。
 何か叫び声がして部屋に入ると、曾根が杉伊さんに馬乗りになって首を絞めていた。とっさに止めさせようとしたが、逆上した曾根の手は離れない。杉伊さんは気を失いかけていた。ぼくが思い切り蹴りつけると、曾根は吹っ飛び床に頭を打ちつけ呻いたきり動かなくなった。盆の窪のあたりに薄気味悪い人形の槍が刺さっていたんだ。杉伊さんは倒れたままだった。ぼくは怖くなりその場から立ち去った。
 次の日、ニュースで曾根の死が報じられ途方に暮れた。出頭することは真っ先に思いついた。殺意はなかったのだから致死罪になるだろう。だけど同時に、容疑が他の者に向けられる可能性も考えた。恐ろしいことにぼくは、杉伊さんに容疑のかかることを望んだんだ。曾根と殺害当夜に被害者と争っていて、凶器の人形にも指紋が残っていた杉伊さんに、やはり容疑が固まった。
 無実の罪を着せてしまった苦しみに何度、真犯人を名乗り出ようと思ったか知れない。しかしそんな勇気はない。それに、暴力をふるったのは杉伊さんだって同じだ。杉伊さんが曾根を死なせていたかもしれない。などと自分勝手な理屈をつけて、罪の意識から逃れようとした。いつ自分の元に警察の手が延びるかと生きた心地のない日々を送った。もし、あの日あの時に戻って、過ちを回避できたらどんなにいいだろう。そんなことを考えているうちにふと思い出したんだ。中学生のときのあの体験を。そのチャンスは必ずやってくる。
 そして『研究会』と出会った。蓮沼俊蔵さんとの、時を隔てた人格交換に成功して、始めた事業が軌道に乗り、借金返済も順調だった。ここでまた元の蓮沼さんと入れ替わるのもどうかと思い、事件が起きる十年後まで蓮沼俊蔵として暮らしてきた。本音言えば、垂水睦則に戻るのが怖かった」
 垂水は一息つくように話を止めた。
「わたしが悪いんです」若奈は口を切った。
「真犯人をつきとめようとタイムリープして、曾根の自宅に行ったからこんなことになったのです。垂水さんの責任ではありません」
 垂水は寂しそうな眼で首を振った。「きみもぼくも悪い結果を期待して行動したわけではない。なしたことが裏目に出てしまっただけだ。だけど、このあとは違う。さっき言ったように、小夜子さんを生かすためにきみと人格交換させたんだ。
 もう察しはついているだろう。市ノ瀬に情報を洩らし、きみたちを捕らえるよう手引きしたのはぼくなんだ。カメラのスイッチを切っておいたのもぼくだ。殺人現場の隣にある神社にわざわざ発振機を設置したのだって、不審に思われないためだ。
 事件の真相を誰にも知られるわけにはいかない。当夜きみたちを現場から遠ざけておくことが、最初の懸案だった。そこで曾根に近づいた。探偵まで使って浮かんだのが市ノ瀬たちだ。あの二人がきみたちを拉致すれば、真犯人の疑いも向けられる。
 借金に喘いでいた彼らは指示通りに動き、きみたちを穴に放り込んだ。コファーの取引交渉には、どうせ本物かどうか判るはずないから偽物を用意しておいた。
ところが、市ノ瀬はひと目で見抜いた。彼は、コファーを見たことがあったんだ。本物を渡すしかなく、用心深い彼らはぼくまで拉致するという計算外の行動にでた。畠に着くと、幸いきみたちは逃げ出したあとだった。彼らが驚いているすきをついてぼくも闇夜に紛れ込んだ…… 
 一時(いっとき)とはいえ、取引に応じず放っておこうかと本気で考えた。一度、汚れれば汚れること慣れてしまう。十年も会っていないと顔も思い出せない他人だ。彼らがきみたちを生き埋めにすることを望んだんだ。きみには心から申し訳なくて桧原さんを捜しまくった。でもどうしても見つからなかった。
 帰ってきて入院中の深沢を訪ねたのは、確認にいっただけだ。訊く必要なかった。市ノ瀬の住所も彼の妻が曾根と関係を持っていたこともとっくに知っていたんだ。どうしようもない悪党さ、ぼくは。憎むだけ憎んでくれ」
垂水は顔を伏せたまま沈黙した。かけることばの見つからない若奈も眼を向けられずにいた。彼の計略にまんまとはめられて、怒りがないわけがない。しかし、
「そんなこと言わないでください」若奈は叫んだ。小夜子が意識不明になったのは、胃潰瘍による消化管からの大量出血による出血性ショックによるものだった。元々心臓も丈夫ではなく不整脈を併発して心肺停止に陥り、一度は蘇生したもののまもなく力尽きたということだった。幾つかの病気を抱えていたとはいえ死に至るものではなく、やはり薬の副作用と若奈の無理な行動、短時間に何回も繰り返したタイムリープが相当の負担になったのだ。考え方によっては、二人の命を奪ったともとれる自分がどうして垂水を責められよう。
「これはどうしようもないことなんです。垂水さんだって苦しんで、十分悔いたではありませんか」
 垂水は顔を上げなかった。彼がなさなければならないのは、未来に還って真犯人を名乗り出ることだ。
「もうこれ以上逃げないでください。杉伊さんのためにもご自分のためにも。わたしが垂水さんの努力で生き延びたのも事実なんです。恨んでなんかいません。今までわたしは犯罪者を憎み、さげずんできました。自分が過ちや罪を犯すわけがない。わたしだけは加害者にも被害者にもならない。
 でもそれは、エゴですよね。自分は特別な人間、そして(けが)れることが嫌いという。悪があるから善があるんです。悪を体験してこそ、本当の善というものの尊さ大切さが理解できるのではないですか。わたしたちにできることは精一杯罪を償うことです。それで誰も許してくれなくても、自分だけは自分の弱さと醜さを受け入れ、(ゆる)してあげましょうよ」
 垂水が感心したようにつぶやいた。
「きみはぼくなんかよりずっと大人だな。だが、ぼくは殺人者になりたくなくて、蓮沼と人格交換し十年待ったんだ。変えられない過去なら戻らなきゃよかったんだ」
 語気の荒さが若奈の心に刺さった。
「わたしはこう思います。人間は罪を背負って生まれてくる。いえ、罪を持っているから人間に生まれる。罪というより業でしょうか。それが人の運命を形成している。そして運命はある程度は変えられるけど、大筋は変えられない。わたしたちはタイムリープという大きな幸運を得ました。でも、過去に戻って変えられないこともありました。そもそも過去に戻ること自体、運命の一部といえるわけですが。
 じゃ、なぜ変えられないのかというと、人の努力では埋められないほど業には深さがあるのだと思います。たぶん、何度過去にタイムリープしても結果は同じです。
 誰だって苦しみは体験したくありません。それがいいに決まっているけど、時間の流れが人間の行動で好き勝手に変えられるほど脆弱(ぜいじゃく)なものなのでしょうか。絶対的な法則が存在し、向き合わなければならない重要な問題があったから修正できなかった。そう考えてもいいんじゃないですか」
 理不尽だという口ぶりで垂水が返した。
「ひどい点数の試験を過去に戻って書き直すのは確かに悪いことだが、ぼくの場合人を殺める行為を阻止しようとしただけじゃないか」
「垂水さんは執着しているんです。間違いを犯した、悪事を働いた自分はいやだ。我が身に執着しているからです。だから苦しい。それを完全に絶ち切るなんてできません。認めて受け入れるしかないんです」偉そうに語っているが、自分は誰かから聞いた話を今している。その誰かが思い出せない。
 垂水は顔を伏せていた。老人の沈んだ表情は、ひどく憐れに映った。
「そもそも、垂水さんは運が悪かっただけなんです。曾根を死に追いやったのは、彼の妻の憎しみです」
 警察も凶器となった人形の槍には不審を抱いたらしく妻から事情を訊いていた。彼女の言い分は、人形を購入したのは自分だが金属の槍は後で曾根が装着した、曾根の自業自得だといわんばかりのものだった。真偽はどうあれ、彼女の呪いに垂水は利用されたのだ。裁かれるべきは曾根の妻、と若奈は胸の内で叫んだ。
 沈黙の数秒が二人の間を流れた。
 心の叫びが聞こえたように垂水が語り出した。 
「ぼくにも曾根への憎しみがなかったわけじゃない。あのとき、こいつが死んでくれたらと、どこかで思っていた。杉伊さんを助けるよりも曾根への怒りで顔面を蹴り上げたんだ。凶器が刺さらなくても死んでいたくらい蹴っていた」
 垂水の頬に自嘲の笑いが浮かんだ。「きみの言う通り、己の弱さを認め運命も受け入れなければならないな。この蓮沼俊蔵と最初に入れ替わってからは、借金苦をたっぷり味わった。友人の保証人で借金を被った苦しみをぼくが背負ってしまったなんて、悪いことは終わらないものさ。
 過去に遡り株やギャンブルで金を得られたのは、最初だけだった。その後は巧くいかなかった。人によって形は違うようだがタイムリープで金儲けすると起きる現象らしい。お金を得るということは対価があって成立し、その法則を無視したのだから、大金を借り入れてすぐに返済しなければならなくなったと同じ理論なのだろう。ぼくも金策の苦しさで、つい手を出してしまったわけだ。
 ただ世の中がどう変化するかは覚えていたから、それに沿った仕事をしてどうにか借金にはカタをつけることができた。そうじゃなきゃ、ぼくだって何度か自殺を考えた。だから同じ境遇の市ノ瀬にどこか共感し、きみたちには嫉妬したんだ。ま、こんなぼくでもひとつだけ手柄をたてた。自殺寸前の蓮沼さんを救ったんだから」
 余計なことかも、と思いながら若奈は口に出した。
「二人分の苦悩を経験されたんですね」
 寂しげに笑って、垂水は首を下に振った。「ああ、たしかに二人分だな」
 野鳥の鳴き声が聞こえてきた。今まで鳴いていたのに気づかなかったのだろう。まるでこの話題はおやめなさいな、と諭しているような雀たちの軽やかなさえずりだった。若奈が切り出した。
「昨日、小夜子さんの墓参りをしました。妙な気持ちでした。亡くなったのは代志乃さんなのに、お墓は小夜子さんのもの。まるで小夜子さんまで亡くなったような」
「ひとりは心が残り、ひとりは肉体が残った。きみが感じたように、ふたりとも死んでしまったようなものだ」
 垂水が呻くように言った。「きみは自分の躰に還ったほうがいい。杉伊小夜子に槙田代志乃の人生を送ってもらうんだ。十年後に還ったらそうしてくれるように彼女を説得するつもりだ。じゃないと申し訳ない」
「わたしは、還らなくてもかまいません。中学生から始めるのも悪くないですから。ただ、その考えがずっと続くかどうかもわかりません」
 若奈は曖昧な返答をした。やはり元の生活と決別するのは難しい。当初の決意が揺らいでいるのも事実だった。
「そうか、無理せず決めればいい」
 話題を変えるにはちょうどいいと思い、若奈は前から抱いていた疑問を口にした。
「人間の心って、果たして脳細胞の作り出す電気信号でしかないのでしょうか。そうだとしたら、人格交換は脳細胞が入れ替わらなければ起きない現象ですよね。でも、コファー単体での物質の時間移動は不可能です。心は脳とは別のところにあるような気がするんです」
「言いたいことはわかる。ぼくも脳と心は別個なものだと思う。脳の働きが心を作っているのではなく、心が発した電波を脳が受信して動いている。脳は受像器なのかもしれない」
「小夜子さんの記憶が流れてきたのはどういうことでしょうか」
「それなんだが、ぼくが考えるに人格交換というのは心のすべてではなく一部だけが入れ替わっているんじゃないかな。こういうふうに例えてみよう。AとBの船があるとする。双方の船長同士が入れ替わったのが人格交換なのさ。船には多くの船員がいる。突然入れ替わった船長でも船長だから命令は聞く。だけどその船長と相性がよくない船員だったらあまり会話はないだろうし、逆に気が合う船員からは船の色々な情報が聞けるだろう。
 ぼくも蓮沼俊蔵として長く生きたからわかる。十年のうちにぼくの人格も向こうに受け入れられたんだろう。蓮沼の記憶のかなりの部分が思い出せるんだ」
 あれは記憶ではなくて、小夜子の人格の一部ということなのか。言われてみると納得できる面もある。曾根の最期を見た若奈の胸に虚脱感が襲ってきたのは、小夜子の感情としか考えられなかったからだ。
「きみもやってみたらいい。心を落ち着けて果てしなく長い階段を下りるイメージするんだ。根気よく繰り返しているうちに、どこかの段階で複数の意識が現れる。それが船員たちだ。こちらから友好的姿勢を示せば、コンタクトは巧くいくと思う。
人間の『心』にはまだまだ未知なる部分があり、コファーの機能はそこを利用して人格交換を成立させているのかもしれない」
 垂水は言うべきか躊躇したのち続けた。
「蓮沼は本当に死ぬつもりで高架橋の歩道から線路に飛び込もうとした。それを通行人が阻止できたのは、当時のぼくも絡んでいる。宵の口で歩道の人影が途絶え、下から列車の走ってくる音がした。橋の真ん中の欄干に手をかけて立っていた蓮沼を通り越し、少しして何か気になって振り返ると蓮沼は欄干に足をかけていた。距離からしてぼくには止めようがなかった。そのとき、ぼくの後を歩いていた数人の男性たちが蓮沼を追い抜いたばかりで、ぼくの叫びで振り返ったひとりが飛びつくように駆け寄って手をつかんだ。蓮沼の体は欄干の外に出ていて、間一髪だった。あのときぼくが叫ばなければ、蓮沼の命は消えていた。縁が深かったんだ。ぼくと蓮沼は」
 それを聞き、若奈はデパートの屋上から落とされそうになった我が身を重ねずにはいられなかった。自分も深沢に救われた。しかし催眠効果のせいじゃないと今では思っている。コファーの使い方を訊かなきゃならない、というもっともな理由の他に、殺すのは惜しい女だとの欲が働いたのである。市ノ瀬の挑発で乱闘になったのも、屋上から転落するのが市ノ瀬と教えたからだ。
 逆に市ノ瀬が落下していたら深沢は若奈にどんな行動をとっただろうか。連れて逃げてくれても、その後はいい想像ができない。それでも、深沢には感謝の気持ちは失せていない。どんな様子か病室をそっと覗いてこようかとさえ思っていた。
「こちらの暮らしが長くなり、小夜子のことも忘れかけていた。だけど彼女の姿を一目見たとたん情けない話、未練が燃え上がった」
「わたしは、不法侵入や警官への暴行、脱走という幾つもの罪を小夜子さんになすり付けてしまいました。垂水さんも若い時分に存じていたはずです。それでも小夜子さんへの想いは変わらなかったのでしょうか」
「嫌いになるはずがないさ。ぼくのやったことに比べたら取るに足らないことじゃないか。杉伊小夜子という女は見た目通りの人柄だった。人に逆らえず、人を疑うことに罪悪感をいだいてしまう。優しすぎるというのか、気弱というのか。あの大きな瞳は相手を強く見ることができず、いつも伏し目がちで、そこが魅力だった。
 思う人には思われずということさ。ぼくとの交際は、彼女の伯母さんの計らいがあったからだ。断れずに受けただけで、彼女にしてみれば本気になれる男じゃなかった」
 垂水睦則。侍みたいな名前で美男子といえぬ風采だ。背丈は小夜子と同じで痩せ型だし、陰気とまではいかないが明るさに欠け無口な方である。真面目、理知的で博識、相手のことを本当に気遣う優しさ等の長所があっても、女性をリードする積極さに欠け小夜子には物足りなかったのだろう。
 人は外見より中身といっても、先ず見るのは外見である。見た目に優れ性質も悪くなければそちらになびいてしまう。西岡、曾根に小夜子が惹かれたのは仕方ないことだ。西岡のことは、本心から好きで未練も残していたと思う。では曾根はといえば、離れる決心をしたのに忘れることができない男だったのだ。
 移り気や多情とはどこか違う性格。未練を引きずり断ち切れない、というより好きになった相手を嫌いになれず、心底愛してくれる相手を求めていた。それが若奈の感じた杉伊小夜子であった。
垂水が唇に少し笑いを浮かべて言った。
「未来に還ってするのは、きみの躰に入っている小夜子に謝ることからだな」
 そう、小夜子は故人となったわけではない。未来の若奈の躰で生きているという事実が若奈を複雑な心境にさせた。
「謝るのはわたしのほうが沢山あります」病死の主因が彼女にあったなんて謝罪で済むことではないが、気持ちは伝えなければならない。
「手紙を書いて保管して置きます。小夜子さんに渡してください」
「ああ、そうだな」
 謝って済むことでないのは垂水だって同じだ。杉伊を無実の罪に陥れた真犯人が自分だと告げる辛さは、想像してあまりある。
 垂水は何か考えているような眼をしてから若奈に視線を向けた。言うべきかしばらく躊躇して声を出した。「十年なんてあっという間だった。代志乃が保育園児の頃、ぼくは蓮沼に移入したんだ。変なもので子供、ましてや孫など持ったことのないぼくが、年を経るにつれ実の孫娘に思うようになった。今、きみを見ていて区別がつかなくなった」語尾が震えていた。代志乃への哀別を初めて表したのだ。
「ぼくが未来に還ったら、きみのおじいさんにぼくの話をしてくれ」
 若奈は唇をかんで、深くうなずいた。
「はい、おじいさんの命の恩人だと、くどいほど話して聞かせます」
 笑った蓮沼俊蔵の顔が一回り若返って見えた。
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