第 6話

文字数 9,592文字

 長かりし本日の学校生活に終りを告げるチャイムが響き渡った。終わったら即刻下校するのが芳斗の信条である。特に今日は叔父に電話を入れなくてはならないので、チャイムが鳴るが早いか教室をとびだした。
 『来々軒』の前を通ったところで、背後で彼を呼ぶ声に気づいた。ふり向くと槙田代志乃が足早に近づいてきた。
「秋山君、何か忘れていない?」代志乃のアーモンド形した眼は不機嫌を示して、ややつり上がっていた。一万円の催促と思い芳斗は手を合わせた。「あれね。もう少し待ってもらえない」
 今日中に返すと約束したことをしんから後悔した。やはり甘い言葉を信用してはいけないのだ。
「言い出したのは秋山君のほうだよ。じゃあ、だめになったってわけ?」
「だめじゃないけど、全額は無理だよ」
 代志乃は目を丸くした。「全額ってなんのこと?」
「一万円だろ」
「一万円?」
「そう……違うの?」
 彼女はしばし沈黙した。「ほんとに忘れちゃったの?」
「だから何を?」
 そのとたん学校内にいた頃からは想像できぬほど、代志乃の機嫌は悪化した。
「しらばくれないでよ。ケーキの試食してほしいから、ぼくの家まできてほしいってあなた四時間目に言ったじゃない」
 芳斗はひどく驚いた。確かに休憩時間、製菓会社勤務の叔父から聞いた話を元に雑談したがケーキ試食の約束まではしていない。「ぼくにはそんなこと言った覚えはないよ。たぶんきみは誰か違う人の約束と混同してんじゃないの」
「いいえ、そんなはずはありません。あたしはあなたの口から出たことばを、はっきりこの耳で聞いているんですっ」
 わざわざ自分の耳たぶを引っぱってまくしたてた。そこへ思わぬ邪魔が現れた。頭髪をそれぞれ青黄赤と染めた、三人で信号機みたいなチンピラ風の二十歳前後の若者たちが近づいてきたのだ。どでかい金色の龍が背に踊るスカジャンの赤髪。〈南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)〉の文字があちこちにプリントされた、どこで買ったの? と訊きたくなる紫のジャケットは黄髪。豹柄パンツに迷彩柄パーカーという大阪のおばちゃん風が青髪。服装がみな一癖二癖あり、どいつも見るからに頭が悪そうな顔である。
「よう、おふたりさん。天下の往来で口論とは威勢がいい。けどあんまり仲のいいところを見せつけるのは不謹慎だよ」三人はさも面白そうにしまりなく笑った。
「行こう」
代志乃はさっと彼の手をとり急ぎ足で離れた。
「あれっ、もうおしまい、おれたちに遠慮しなくてもいいだけどなあ」
 背後からねちねちと冷やかしたが、後をつけてくるようなまねはしなかった。三人の姿が見えず声も届かぬ安全圏までくると、代志乃は手を放し議論の続きを始めた。
「あなたがつまらない意地張るから、柄の悪い人たちが寄ってくるんだよ」
 極度に緊張の色の濃いのもわかるが、芳斗としてはあっさり自分の手を握ったことが衝撃だった。去年秋のフォークダンス以来で、やはり少しひんやりしていた。
「もうやめよう。頭からかちあっているんだもの、いつまでたっても決着はつかないよ」
 代志乃は睨むようなまなざしを数秒向けると、「そうね。でもはっきり結論を出すべきよ。場所を移してみてはどうかな」
「そんなつまらないことどうでもいいじゃない」
「あなたの言い方がなんかひっかかってるんだ。だから、あたしの家まできてもらえない」
「えーっ、きみんちへ行くの! なんでぼくが」
 授業中ひとかたならぬ世話になりはしたが、女の子の部屋で二人っきりで過ごすほどの間柄に達したとは思えないし、西崎にも恨まれたくない。「あたしの部屋が不満なら秋山君の家にしようよ。もともとそれがあなたのご希望だからね」
「あっ、ぼくの家は、困るんだよな。部屋ん中散らかしっぱなしだしさ」
「じゃ、あたしんちに決まりだね」
「いや、それもねえ」
 渋る芳斗に業をにやし代志乃は叱る口調になった。
「はっきりしなさい。男でしょ、くるのこないの。くるんでしょ」
 何か思いついたらしく、にやりとした。「ははあ、もしやあたしに童貞(どうてい)奪われること心配してんの」
「えぇっ!」
 中三女子らしからぬ大胆発言に芳斗は息を呑んだ。代志乃がくくっと笑う。
「なにその過剰な動揺っぷり。冗談に決まってるじゃん。年相応に純情なんだ。かわいい」
 男子にとって〈純情〉加えて〈かわいい〉は自尊心を傷つけ逆上を呼ぶ二大単語である。「逆だろそれは。普通男子のほうが」
 人差し指を目の前で立てて振り、代志乃はすまし顔で遮った。
「そうなったら迷わず110番します。きみはパトカーに乗せられ警察へ直行。哀れ少年鑑別所入りとなります」
 〈あなた〉という呼び方は、誰にでもしているようなので気にならないが、〈きみ〉と言われると、思いきり上から目線に感じられますます頭に血が昇った。
「自分勝手な理屈だな。奪うとか言ってたくせに」
「そのときはそちらが110番しましょう。たぶん信じてくれないと思うけどなあ。さあさあ、こんなナマ(ぐさ)い妄想してるとまた邪魔が入るよ。早くうちへ行こ」
 そっちが始めたんじゃないかと思いつつも口には出さなかった。彼女の家に行くのことに喜びはありながらも心配の方が大きい。といって拒否するのも悪い気がした。 
「わかりました。行きますよ」
 小ぢんまりした中古住宅に住む芳斗から見ると、彼女の自宅は少なく見積もっても三倍の値打ちがあるように思えた。ただ馬鹿でかいわけではない(しょう)(しゃ)でモダンな家構えと、池や植込みや花壇のある広い庭は、槙田家の財力を十分示すものだった。ひょっとして代志乃は家自慢がしたくて自分を引っぱってきたのではないかと疑ったくらいだった。
 緊張しつつ玄関に入ると年の離れた姉といっていいくらい若く、目鼻立ちがそっくりな長身の母親に出迎えられ、芳斗はうわずった声でなんとか一言「お邪魔します」と挨拶した。
 代志乃の自室もまた素晴らしかった。明るい八畳ほどの洋間に大型テレビ、ガラステーブル。枕元に各種キャラクターのぬいぐるみが並ぶロフトベッド。その下には学習机が配置され、ルームエアコンや小型冷蔵庫までそろっているという、いわゆるお嬢様仕様のお部屋だった。
 ガラステーブルの前の大きな丸型クッションに座らされて、ぼうっと見とれているところへ母親が高級そうな洋菓子、高さ十センチ以上ありそうな正にモンブラン級のモンブランと紅茶を二人分盆にのせて現れ、テーブルの上に置いた。またも芳斗は声をうわずらせ「どうかお構いなく」と恐縮した。「ごゆっくりね」にこやかな顔で母親が退室した後、そんな彼をこっけいそうに笑いながらテーブルをはさんで座り代志乃が勧めた。「遠慮しないで召し上がりください」
 と言われても、遠慮せず口にできる気分ではなかった。学校内では何から何までお世話のなりっぱなしで、放課後は邸宅に招かれて洋菓子を召し上がれである。これはもう彼を陥れるための、陰謀のような気さえしてくるのだった。
「食べないと、あたしがもらうよ。奪うの得意なんだ」
 奪うという言葉に一瞬ぴくっとした。
「紅茶も冷めちゃうし。じゃあ、さ、モンブラン一個の早食い競争しようよ」
「は! なんでまたいきなり?」
「いいじゃん。勝ったら賞品出すよ。でもあたしに勝てるかな」
 彼女のスイーツ好きは半端じゃない。何せ直径十センチほどのデコレーションケーキを二十分以内にぺろりと平らげ、特殊体質なのか胸焼けひとつしないという。ケーキバイキングでは料金の三倍分以上食べ尽くし、主催者側から要注意人物のリストに加えられた実績の持主である。強敵であることは間違いない。
「準備はいい」代志乃はモンブランの小皿とフォークを持ち、眼をきらきらさせて臨戦態勢に入っている。勝てるかな、の挑発に芳斗も競争心が燃え上がった。なんであれ女子に負けるのはプライドが許さない。
「ようい、どん」
 彼女の号令と共に芳斗は、三日間空腹のハイエナが死肉にありついた勢いで手づかみのモンブランに食らいついた。最初の一口で半分を口内に入れ、数度の咀嚼(そしゃく)(えん)()した。良質のマロンクリームや生クリームなど味わう暇なく残り半分を口に押し込み、ガツガツ噛み砕き勝利を確信しつつ代志乃を見ると、彼女は皿とフォークを手にしたまま口をぽかんと開け眺めていた。一瞬咀嚼を止め無理に飲み込んでから紅茶を一口すすり、喋られる状態にしておずおずと訊いた。
「競争、じゃなかったの?」
 まだ呆然とした表情で代志乃がつぶやいた。「本気にするとは思わなかったから」
「本気って、じゃ、またかついだのかよ」
 そりゃないだろという芳斗の強い口調に、彼女はあわてて言い直した。
「そうじゃなくて。本当はあなたが遠慮して食べないと思ったから、競争を持ちかけたの。でもまさかフォーク使わないで、あんなワイルドな食べ方するなんて、びっくりしちゃった」
「男子はワイルドで丁度いいんだよ。文字通りきみに一杯食わされたわけだな」
 芳斗が皮肉を言うと彼女はフフッと思い出し笑いした。
「十秒切ってたかも、速過ぎ。あたし驚きのあまり見入っちゃってた」
「大食いだったら勝てなかったな。あ、言い忘れていた、ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ほんとは味わう余裕なかったんじゃない、よかったらこれもどう。お約束の賞品だよ」
 さすがにそれは辞退した。
 ノックの後ドアが開き母親が「おしぼり忘れていた」と言って代志乃に手渡した。芳斗のほうを見てまた上品な笑顔で頭を下げた。芳斗も反射的にお辞儀を返したが、顔を合わせる毎に落ち着いた美貌、二十代後半にしか見えない若さを実感した。その優美な面差しを十五歳に戻したのが代志乃であり、遺伝子は完璧に受け継がれたのである。栗色のロングヘアと桜色のワンピース、白いカーディガンという着こなしがファッション雑誌のモデルみたいに似合っていて、ミスコンならぬミセスコンだったら上位入賞は堅いだろう。
「若いでしょ」芳斗の心を見透かしたように代志乃が低い声で言った。
「よく姉妹ですかって間違えられるし、家で仕事してお客さんがよくくるから、普段着にも気を遣っているんだ」
 差し出されたおしぼりで口のまわりを拭きながら芳斗は言った。
「ぼくも最初お姉さんかと思った」
「十八しか離れてないんだもん。あれで前科持ちの元ヤンキーだからね。コンビニの駐車場にしゃがんでタバコふかし、何か言われたら、「るっせーな」なんて怒鳴り散らしていたんだろうから、変われば変わるものよ。タバコだけはやめられず、今も隠れて吸ってるけどね」
「全然そんな雰囲気ないし、上流育ちにしか見えない」そう言われると、ちょっとだけ目付きのきつさが残っているように思えた。「ママがそうならパパも元ヤンキー。ヤンキー同士がくっついてあたしが産まれたわけ。よくあるできちゃった婚よ」
 突然うらぶれ口調で身の上話を始めた代志乃の心の闇を感じつつ、とりあえず相づち打ちながら聞くことにした。
「だから、あたしもその血を引いてるから、ここできみに」そこで言葉を切った。彼女が〈きみ〉というときはイヤな予感がする。
「きみに襲いかかって、ヤンママの年少記録更新!」
 えっと叫びかけたのをかみ殺し、芳斗は無意識に身をひいた。
「なあんて、親の二の舞演じたくないよね」
「またきっつい冗談を」
 芳斗は呆れたように苦笑した。「だったら言わなくてよろしい」
「もう少し詳しく話すとね。ママはいいとこのお嬢さんで、高二のとき文化祭のミスコンに出場したんだけど、自分より格下の上級生に優勝さらわれて、それでヤケ起こしてヤンキーに走ったみたい。そんなんでヤンキーなるなんておかしくない?」
「まあ、それはきっかけで、前から色々あったんだろうね」
 同意するわけにもいかず当たり障りない返答した。代志乃が少し首を捻ってから続ける。「ママは末っ子だし、ママのパパ、おじいさんが四十近くで産まれた娘なんで甘やかされたのよ。十七で妊娠、中退、警察沙汰まで起こしてその度に親はカンカンだったって。()ろさなかったのだけが救い。してたらあたしここにいないもんね。
 そのおじいさんも人が良すぎて保証人になって借金背負い、自殺しかけたんだ。末娘がまともになったら借金だよ、それも他人の。あたしが五歳の頃でぼんやり覚えているけど、鉄道自殺をすんでのところで救われたと聞いてる。それから人が変わったように働いたみたい。ともかくめっちゃ波乱の多い家系だよね」
 これまた同意せず小さく相づち打つにとどめた。
「パパだって資産家のおぼっちゃまで、なんかのきっかけでグレてママと知り合ったわけ。だから変わったというより元に戻ったのが本当かな。ヤンキーのままだったらこれだけの家持てるわけないじゃん」
 だんだん酔っぱらいの愚痴聞かされているような様相になってきた。
「きみも家族には数々ご不満あるでしょうが、そろそろ本題に入ろうよ」
 ケーキ試食の件である
「あっ、そうだ。すっかり忘れてた。ええとなんの話だったっけ」
「スイーツ試食するとかしないとかの話だろ。くどいけどぼくは絶対ウソはついていないよ。神にも誓っていい」彼自身忘れかけていたのだ。
「ああ、そうそう、それよね」雰囲気ががらりと明るくなった。代志乃には気分の差し替え自在の特技がある。女優には本当に向いているかもしれない。
「あたしも同感です」食べ忘れていたモンブランをフォークで崩しながら代志乃が首を縦にふる。開き直ったような態度は意外だった。
「するときみも、記憶違いを認めるわけだな」
「そうは言ってないよ」
「どういうこと?」
 一気に三分の二ほど食べてから、どこか恐縮げにことばを続けた。
「これはあたし自身でさえ信じ難いし、また信じたくないことなんだけど、あなたは何らかのショックによってあのことの記憶を失くしちゃったのじゃない。つまり記憶喪失症」
 芳斗は目をむいた。「記憶喪失って、『ここはどこ? わたしは誰?』なんてつぶやくやつだろう」
 フォークの刃を前方につきだし代志乃がうなずく。
「ずばり、それです」
「きみは想像力を乱用してんじゃないの。誇大妄想もいいところだよ」
「絶対ない、とは言い切れないじゃん。可能性を見いだせる限り仮定は許されるんだよ。ところで今日の昼以後、頭に強い衝撃を受けた覚えはなかった?」
「さあね、なかったけど」ないどころかぴったりのが一件、即座に浮かんだ。しかしあれで記憶が失せるなどとはどうしても考えられない。
「仮にあったとしても記憶喪失の起きる確率なんて、宝くじの一等当選並みだろう」
「あ、そう言うところをみると、本当はあったんだ」
 完食しフォークを皿にカチンと置いて、代志乃が意地悪そうにふふふと笑った。
「いや、あくまでも仮にだよ」
「うそ言っちゃって、ほっぺたがぴくぴくしてる」
 自分では気づかなかったが、彼は心の動揺がけっこう面にでる質らしい。
「ばれちゃしょうがない。そうです、あったんです。昼休み『来々軒』でつまずいて頭打ったんだ」だからどうしたそれだけのことだろ、との頑固な姿勢を示す芳斗に彼女は真顔で忠告した。
「それって医者に診てもらったほうがいいよ。頭の打撲って軽くみると、後でとんでもない症状を引き起こすこともあるそうだよ」
「そうかな」だんだん芳斗も不安になってきた。瞬間的とはいえ気を失いかけたわけだし、直後の不可思議な事態だってショックで記憶が変な具合になったためかもしれない。
「じゃあさ、ひとつひとつ記憶の確認してみようよ」
「どうぞ」
「秋山君の叔父さんは洋菓子店『そねっと』の店長だよね」
「たしかに。補足すれば社員からの評判はあまりよくない」
「その叔父さんがあなたの家に試作品のケーキを持ってくることはあるの?」
「ないよ、売れ残りだってごくたまにしかない」
「だけどあなたが言うには、試作品をたくさん持ってくるから、それ全部試食して、批評してほしいって」
「ありえないね。企業が中学生女子に商品の評価を頼むわけない」
「だけどそう言ったの」
「つまり、お菓子を腹一杯食べさせるという、あまーいことばにひっかかったわけか」
「やっぱりからかったんだ」
「そうじゃない、と思うよ」芳斗はさきほどの代志乃の言動を思い出した。
「ところできみは、ぼくにお金貸したこと覚えてなかったよね」
 代志乃の顔が驚きで一変した。
「あたしがいつ、あなたにお金貸したの」
 それにはこたえず彼は次の質問をした。
「それじゃ数学の時間、方程式の解き方を教えてくれたことは」
「えっ、そんなことしてない」
「午前の授業はみんな自習になったんだけど、それもまさか」
 左右に大きくかぶりを振り、一層の驚き顔で彼女は断言した。「自習になったのは理科の最後のほうだけ、あとは全部ちゃんと授業したじゃない。どうしたのいったい?」
 やはりそうだった。同じ時間での二人の経験が異なっているのだ。そこで芳斗は午前中彼女から教科書の恩恵を受けたこと。一万円をあっさり貸してくれたことなど説明した。これらすべてについて記憶がなかったとみえ代志乃は目と口を大きく開き、「ウッソー、信じられない!」と予想どおりの反応を示した。
「そう、信じ難いけどこう考えるのが妥当だと思う。今日の午前中教室にいたのは未来のぼくであって、逆に今日のぼくがその未来に行っていた。もしくは、日付が今日だったから並行世界かもしれない。どちらにしろ行ってまた戻ってきた」
 幾つかの疑問は残るものの、来々軒での奇現象もそれで説明がつく。
「そんな、三流SFじゃあるまいし」代志乃は冷ややかに笑い、スクールバッグからノートを抜きだしてパラパラめくった。
「ここ今日習った理科だけど、あなたやっぱり知らないわけね」
 念を押すようにノートを差しだした。見る必要なかったが手にとってなにげなくめくっていると、一枚の紙片がはらりと落ちた。代志乃が拾いあげた。ノートの紙を半分にやぶいたものである。見るなり彼女は眉根を寄せた。
「これなに。あなたが書いたんじゃないの?」
 渡されて目をとおした彼もことばに詰まった。たしかにそれは彼の筆跡で、こう走り書きされていた。『八幡宮に』
「そうだろうね。ただ『幡』、なんて難しい漢字ぼくは知らないよ」
 覚えのない彼としてはそう答えるしかない。
「ずいぶん急いでいたみたい、これだけなんて。八幡宮に、行きなさい、ということなのかな、それとも近寄るな、なのか」
どっちなの? と問うように芳斗を見つめた。
「さあ、どっちかなあ……」とにかく書いてないのだから困る。
「これがあなたからのメッセージとすれば、神社であたしの身に何か起きるのかな」
「願掛けして金運がよくなるかもしれないしね。心配だったら、近寄らなきゃいいじゃない。触らぬ神に祟りなし、とも言うから」
「うーん。ま、そう考えるのが安全だよね」
 芳斗は腕時計に目をやった。「さて、結論も出たしそろそろぼくは帰ろうかな」
「もう少しいてよ。これから大事な話があるんだから」
  崩していた膝を正座に戻したので、芳斗も座り直した。何となくお堅い雰囲気になってきた。
 数秒の沈黙があって代志乃が半分残っていた紅茶をぐいと飲み干した。「うわ、冷めちゃってる」当然のことをつぶやき、正面を向いてうつむきがちに話し始めた。
「さっき、あたしの家族のこと長々聞かされて、迷惑だったと思う。あたし、ヤンキー二人から産まれた自分に引け目を持ってたし、自分もそうなるようでイヤだった。なんで普通に生きて普通の結婚してくれなかったのって恨むこともあった。でもさ、何一つ不自由ない生活させてもらってるんだから、感謝はしている。
 一度ささいなきっかけでパパと激しい口論になって、あたしつい、「ヤンキーだったくせに偉そうにして」って口走っちゃったんだ。パパ昔の自分が出てものすごい形相で、「もういっぺん言ってみろぉ」とか大声で怒鳴りながら(こぶし)ふり上げて迫ってきたんだ。殺されると思うくらい怖かった。ママが間に入らなければ殴られてたかもしれない。
 肩を両手で押さえながらママは、「落着いて」とつぶやいて首を横に振っただけで、後は何も言わなかった。パパを責めず、あたしのことも叱らなかった。パパがぷいと出ていってしばらくし、泣いてるあたしに、大声を出すこと自体暴力だからいけないよね、と謝ってから言ったんだ。あなたが今、親を憎むのも軽蔑するのも許すのも自由。どれも間違いではない。そのとき選んだことが正解と思えばいい。わたしたちは(みち)を踏み外して警察の世話にもなったけど、あれがあったから今の自分がある。あやまちに変わりはないけど無駄ではなかった。
 ママはこうも言ったのよ。服は着ているうちに汚れる。洗濯すればきれいになる。わたしたちは自分で泥をかぶったの。でも大きな汚れを落として、元のきれいさがわかった……なあんて、しくじり先生みたいな教訓たれなくていいっつうの」
 まんざらでもなさそうに、くっくっと笑い膝(ひざ)をばんばん叩いた。
「さて、今までは前置き」
 代志乃が(たか)のように眼光鋭く見つめた。
「芳斗くん」
 これまで〈あなた〉もしくは〈秋山君〉たまに〈きみ〉だった呼び方が一新し、芳斗は重大事項であることを覚悟した。
「あたしが今日、芳斗くんにわざわざきてもらったのは」
「はあ」
「あたしのこと……」
 そのとき階下から彼女を呼ぶ母親の声がした。半開きの口でドアを横目に一瞥し、「あ~、いいところなのになあ」ドラマのクライマックスをコマーシャルで邪魔されたように愚痴ると「はーい」と叫んで部屋を出ていった。
 戻ってきた二つの足音がしてドアが開き、芳斗は目が飛び出るほど驚いた。同級生で代志乃の親友、口うるささではひょっとしたら三学年一かもしれない遠藤日登美が姿を現したのである。
 代志乃から聞いてなかったらしく、日登美のほうも予想もしない彼に驚嘆の声をあげた。「ひゃーっ、なんで秋山君いるのよ! 代志乃、あんた西崎君から乗り換える気? それとも二股?」
 思ったことを口にださずにはいられない彼女は、後ろの代志乃にズケズケ言い放った。日登美の背中を押して一緒に入室し、学習机の椅子に腰かけながら代志乃が軽くうなずく。「そう、二股なの……ってなに言わせるのよ。相談があったからあがってもらっていたんじゃないの。失礼だよ」
「相談って、西崎君じゃだめなの?」
「だから、そう西崎君西崎君って言うのやめてよ。彼とはそんな仲じゃないんだもの。この部屋にだって一度も上げたことないんだよ。わかっているでしょ日登美も」
「怪しいなあ、二人っきりでどんな話していたのさ」
「関係ないよ、日登美には。じゃあ、ひとつだけ教えてあげる。秋山君とね、モンブランの早食い競争してたの、あたし完敗だった」
「早食い競争で負けた? あんたが」
「そう、超ワイルドな食べっぷりに圧倒されて、惚れちゃったかも」
「すると乗り換えたってわけね。なるほど」
 意味深な発言だったが芳斗は腰をあげた。会話の五割冗談コンビに加わる自信はとてもない。「じゃ、ぼくはこれで帰るよ」
「ありゃ、あたしのことは気にしなくていいんだよ、おとなしくしているからさ」
「そういう日登美が十分やかましいの」
 代志乃が玄関まで見送りにきた。「もっとゆっくりしてほしかったんだけど…… 邪魔がはいっちゃったものね」
「いいんだよ。ぼくのほうこそごちそうになって」
 靴をはきおえたとき、思いだしたように代志乃が言った。「ねえ、明日このことを木村先生に話してみようか。先生って不思議な話が好きじゃない、もっと詳しい解答をだしてくれると思うな」
 あたしのこと……の続きはお預けらしい。
「うん、いい考えだな。じゃ明日ね」
「ええ、さようなら」             
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み