第 1話

文字数 4,919文字

「ここは、本当に十年前なの?」
沖野若奈は周囲を見渡した。十二畳ほどの和室の中央に正座している。薄茶の漆喰壁にかかった水彩画の富士山の額縁もそのままである。T市の北側に位置するN町の『しらさき公民館』。その同じ第二和室の同じ位置だった。差し込む陽の高さから昼頃らしい。両膝が崩れていることに気づき、座り直した。足元の座布団はさすがに違っていた。
「若奈か」
右横に立っていた痩せ型の青年が覗きこむように腰を屈め、不安げに確かめた。もちろん初めて見る顔である。二五歳ぐらいだろうか、(かげり)のある端正な面立ちの、俳優になれそうなほどの好男子だ。少し動揺を覚えながら返事した。
「はい」
 青年に安堵の表情が浮かんだ。若奈の右手を開かせ、握っていたコファーをとりあげた。何を着ても似合いそうだが、薄紫のカジュアルシャツにベージュのコットンジャケットの組合せもそつなく決まっている。
「きみも過去の人間との人格のすげかえに成功したわけだ」
声質が体型に合わせたように細い。彼が兄の(しょう)一郎(いちろう)の移入先か、と若奈は思った。が、初対面だけに思わず他人行儀な口調が出てしまった。
「どんな方法を使ったんですか?」
 そう聞いてから若奈も、自分が発した声音の違いに気づいた。彼女よりも高いトーンの、(こつ)導音(どうおん)で聞いているから若干違いはあるだろうが、響きのよい澄んだ声である。
「とりあえず大声で、火事だあ!と叫んだ。そしたら、一発で決まった。ぼくのときも同じだったそうだ」
 あきれたような笑いを青年が浮かべた。その口ぶりも笑顔も翔一郎と共通するものがある。やっと彼を兄と意識できるようになった。膝を崩していたのは驚いた名残なのだろう。一本の棒のようにひょろりとした体つきの翔一郎を彼女はじっと見つめた。
「翔は誰の(からだ)に」
「これは田村輝彦さんという人の躰だ」少しはにかみながら兄が言った。
「じゃあ、わたしは……」
「きみは、杉伊小夜子に移入したんだ」
 翔一郎の反対側にいた、大部分が白髪の年配者が遠慮がちに口を開いた。垂水(たるみず)睦則(むつのり)の移入した蓮沼(はすぬま)俊蔵(しゅんぞう)とは、この老人なのだ。
「杉伊? 杉伊ってまさかあの」驚く若奈に垂水はうなずき、一瞬目をそらしてから言った。「そう、杉伊和宏の娘だ」
 立ち上がり、若奈は壁にかけてある鏡へ向かった。二十歳を少し過ぎたあたりの端整な顔が映っていた。聞かされていた通り病弱でやつれ気味ではあるが、十年後にいる若奈の容姿より遥かに美人である。肩より幾分背中にかかる黒髪、清楚、それも少し古風な面差しと細身に、浅葱(あさぎ)色のスーツも違和感がない。華やかな色柄より落ち着いた色彩を好みそうな女性に感じた。
「素敵な人ね」
 彼女はつぶやくと垂水を気遣うように見た。自分は同じ年ごろの女性に宿ったものの、彼は年配者の身に移入して十年過ごしたのだ。
「きみたちにはつい先日のことだろうが、こっちからすると久しぶりの出会いになる。でも、ぼくのことなら心配いらないよ」垂水は照れ笑いした。
「そりゃ、いっぺんに倍近い歳をとったようなもので、移入した当初は戸惑ったけど、健康には恵まれているんだよ、蓮沼さんて人は」
 若奈は元の時代では、まだ三五歳という垂水の小柄な体躯(たいく)を思い浮かべた。するとしわがれ声が混じる、七十歳に届いたと思える老人が垂水だとは、にわかには信じられないのだった。ただ、老人の顔には垂水と共通する気弱な優しさがどこか見受けられた。年老いたら垂水も、こういう風貌を呈するのかもしれない。
「借金まみれの蓮沼さんに移入し必死の思いで働き続けて、小さいながらも事業は上手く進み、今じゃ半分隠居の身さ」
 安物ではないスーツをごく自然に着こなしている様が、事業の安泰を物語っていた。
苦笑まじりに垂水は説明を続けた。
「どうにか人格交換に必要な身体を貸してくれる人を集めた。これが想像以上に難しかった。必ず元の身体に還れる保証はないわけだし、言っちゃ悪いが、人の意見を信じやすい人を見つけたわけさ」
 彼らが暮らしていた二〇二×年、タイムトラベルを可能にしようと試みる集まり、その名も『時間跳躍研究機構』。名称だけはご立派な、アマチュアの研究会が活動していた。姓名判断に詳しい会員が、この画数だったら大吉ということで命名したわけである。長いので呼ぶときは『時跳(じちょう)研究会』、更に「時跳」が「自嘲」に聞こえて嫌だという意見も出て、ただの「研究会」と呼んでいた。
 しかし、その名付けが正解だったのか発足後まもなく、時間を自由に行き来できるという、伝説のサイキックマシーン『コファー』をドルイド研究家の桧原(ひのきばら)康雄なる人物から譲り受けた。何種もの幾何学模様っぽい金属線の組み合わせに、数種の鉱石も混じっている恐ろしく複雑な代物で、大きめの前衛的なブローチ、置物、オブジェ、はたまた文鎮等、見た目の連想は人によって様々である。コファーとは本来貴重品箱を意味するのだが、その箱に収められていたことから呼ばれるようになったという。
 老齢の桧原が若い頃、ドルイド研究のためにイギリスを訪れた際に入手し、言い伝え通りの方法を試しても全く機能しなかったものなのである。それがビギナーズラックにあずかり、早々に結果が出た。特定の周波数の電波が流れている時間内をタイムリープできることが確かめられたのだ。会員たちはみな狂喜した。これはノーベル賞ものの発見だ、センセーショナルに発表しようと主張する会員に対し、保守的会員が真っ向から反発した。別に自分たちが発明したわけではない。世間に知らせたら科学者たちの研究材料になり、悪用されることを考慮し政府の管理下に置かれてしまう。つまり自分たちからとり上げるわけで、だったら極秘にして自分たちだけで使おうという取り決めになった。
 過去に戻れたら誰もが試したくなること、それは一攫千金の金儲けである。しかし桧原からは、やるなとの厳しい忠告があった。掴んだ大金がトラブルや事故等で大方出ていってしまう、濡れ手で(あわ)が文字通りアワと消えるというのだ。ほんまかいな、とこっそりロト6で試した会員が詐欺と交通事故に遭い、得た札束の九割以上失う結末で全員ほぼ納得し自戒した。
それ以外の目的なら、と名乗りを挙げたのが垂水だった。父の親友である杉伊和宏が十年前に殺人容疑で有罪を受け裁判で戦い続けており、その無罪晴らしを画策していたのである。彼には更に十年遡(さかのぼ)った二十年前の中学時代、列車に飛び込みかけ直前で救助された中年男性の目撃記憶があった。保護された男は垂水少年を見るなり「おまえは、ぼくなんだ。心が時を超えて入れ替わったんだ」という妙な言動を残していたのだ。
 垂水は同じ地点に存在する未来と過去の人間の人格を入れ替える機能も、コファーは持っているという説を主張した。あの少年時代の体験こそ、未来の垂水が男と人格交換を果たした瞬間に違いないと確信したのである。会員たちの承諾を得てすべて自己責任の下に同じ場所で実験し、見事移入を果たしたのが二十年前のその人物、六十近くの蓮沼俊蔵だったのだ。多額の債務を自死で精算しようとした蓮沼は、桧原と親交があってコファーを有していたことも判明した。
 そして蓮沼に移入して十年経ち、研究会の中でコファーと抜群の相性を示した翔一郎と若奈も事件間近となった今、田村輝彦、杉伊小夜子両人との人格交換を無事済ませたわけである。この部屋を選んだのは、沖野兄妹の叔父が公民館の職員を長く務めていて借りるには都合よかったのだ。
「一度も還ってこなかったので、心配していましたよ」
 あらかじめ決めておいた帰還の人格交換が何度もからふりだったことを、それとなく翔一郎は責めた。
「すまない、これでも経営者だったし、仕事が忙しくてとても余裕がなかったんだ」
 口数少なくいつも疲れたような表情をして、行動力もあるほうではない彼にしては成功したと認めて欲しいのだろう。
「それから、若奈さんにひとつ謝らなければならない。知ってのとおり、杉伊小夜子さんは重病ってわけでもないんだが、少し無理が祟ったみたいであと一週間内に亡くなるんだよ。きみが平気にしていられるのは、知り合いの医者に頼んで特殊な薬剤、と言っても法に触れるとか劇薬じゃなく独自の調合による薬剤を投与しているからなんだ」 
 ただの病死ではない。不法侵入事件で捕まり、脱走し行き倒れで亡くなることは調べていた。その事件も彼女は巻き込まれたようなのだが、詳細は不明だった。
 若奈は改めてこの親娘を不憫(ふびん)に思った。父親は殺人罪でこれから十年も獄中の身となるうえ娘は病人。むごい運命である。今は自分が病気の主なのに垂水のいう、たぶん法的には怪しい鎮痛剤で症状が抑えられているがために、彼女にはまるで他人事としか聞こえなかった。
「ぼくは自宅で療養中の彼女を無理に連れてきたんだよ。それで無理にとは言わないが、きみにはすぐに未来に還ってもらいたいんだ。家族が案ずるだろうし薬だっていつ効かなくなるかもしれない。つらい思いをさせたくないんだ」
「還るって、これからすぐ?」
「いや、あくまできみの気持ち次第だけど」
 若奈には寝耳に水のことだった。杉伊和宏が真犯人かどうか究明するために過去にきたのではないか。それならば最初から小夜子ではなく健康体の人間を選ぶべきだろう。少し考えて理由が呑みこめてきた。
 今回の計画は垂水が発案者であり、真犯人は絶対別にいるという確信から実行されたものだった。つかんだ証拠を所定の場所に保管し、十年後で彼らのスタッフがそれをとりだして上訴すれば、杉伊氏の冤罪は晴れるわけである。
 つまり垂水のねらいとは小夜子を、父親の無罪が確定するかもしれない十年後に呼び寄せることだったのだ。亡くなる前に父の無罪を知らせてやりたいのだ。帰還の人格交換を行う場所には無罪確定後、スタッフが小夜子を連れていくから、今すぐ若奈がその場へ向かって交換してもなんら支障はないのである。
 とはいえ、その犠牲となって即座に未来へ舞い戻るのには抵抗があった。現在、同じT市でもこの町とは反対側のS町には十三歳の若奈が暮らしている。そんな中学生時分の彼女や家族や友人たちにも会ってみたかった。たぶんそれは垂水や翔一郎にしても一緒で、真犯人究明だけのために時間を越えたわけではないだろう。
 それに若奈は小夜子の容貌が気にいっていた。ほんのしばらくの間でも杉伊小夜子として行動したかった。「事件が起きるのは、いつなの」
「明日の夜だ」
「二、三日だったら、大丈夫よね」
 若奈は二人の顔を交互に見ながら懇願するように言った。小夜子の家族には心配かけないよう口実の電話を入れれば済むことだ。この計画には何が起きても自己責任を承知の上で、翔一郎と彼女が参加を申し出たのだ。それ故、垂水の言うことにはなるべく従うつもりだったが、彼女の気持ちも理解してほしかった。
「それくらい、いいでしょう」
「そうだね。きみだって色々考えていたことがあっただろうから。しかし、無理は厳禁だよ」垂水だって本心は協力者を求めていたのである。還ってほしいという老婆心に気づいたらしく、ぎこちない笑顔を見せた。
 若奈は窓越しの景色を眺めた。中庭の色づき始めた銀杏の枝が風に揺れ、肌寒そうな秋の様子が伝わってくる。ほんの数分前、同じ窓からは初夏の光景が見えていたのだ。少し先のスーパーは十年後にはマンションに変わってしまう。
 小さなカレンダーが壁に掛けてあった。二〇一×年、十月。
「ほんとに、時間を飛び越えたんだ」しみじみそう感じた。とてつもなく遠い所にきてしまったような心細さと、名状し難い不安が胸を貫いた。標高二千メートル近いこの地方の名山、K岳は山肌を紅く染めている以外変わらぬ佇まいだった。
 ふたたび鏡に向かうと、彼女は人形みたいに整った面差しをじっと見つめた。美しく飾るより礼儀を意識した薄目の化粧が、万事に於いて控えめな人柄を表しているように思えた。正反対に近い性格の自分はそのイメージ壊すかもしれない。
笑みを浮かべてつぶやいた。
「こんにちは小夜子さん。短い間でしょうけど、よろしくね」

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