第 4話

文字数 8,238文字

 目が覚めて目覚まし時計を見たとたん、秋山芳斗(あきやまよしと)は時刻が信じられず思わず腕時計に目を転じた。時刻の一致を確認すると、愕然とした。八時までもう十分もない。
 あわてて服を身につけながら、こんなことになった原因を目まぐるしく考えた。昨日は日曜日だったし、たしかに夜更かしした。好きな洋画を観てつい遅くなった。そのせいか今朝は映画を下地にした一大スペクタクルもののストーリーに加え、UFOの大母艦から発せられたピンク色のビームで空中に吸い上げられて、途中でビームが消滅して落っこちるといういつもの悪夢を見て、そこで目覚めたら寝過ごしていたのだ。そもそも彼は寝起きに自信があって、目覚ましをセットしたことは滅多にない。この自負があだになったのだ。
 いや、それならばそれで母親が起こしてくれてもよさそうなものだ。母にも責任はある。文句のひとつも言ってやろうとばたばた階段を降りると、母の姿はどこにもなく朝食の準備されたテーブルには、用事があってちょっと出掛けてきますとの書き置き。超がつくのんびり屋のくせに朝早くからどんな用があるんだよ、とぼやいてはみたものの、全く運のないときはこんなものである。
 通っている中学校までは二キロ近くの距離があり、駆け足しても朝のホームルームに間に合うのは難しい。メシなど食うひまはない。といって何も摂らないのも辛いので、立ったまま大急ぎでかきこみ家を飛びだした。
 商店街に出てほどなく背後でクラクションが鳴り、一台の乗用車が芳斗の横で停車した。助手席のチャイルドシートに収まっている幼女を一目見てピンときた。近隣に住んでいる芳斗の父の弟、叔父の冬樹(ふゆき)だ。隣は三歳になる彼の娘、つまりいとこの()(れい)である。助手席のウインドーが降りて、美玲に覆いかぶさるように身をのりだし叔父が声かけた。通勤途中に娘を保育園へ送り届けるところらしい。
「やっぱり芳斗だ。どうした今ごろ、寝坊したのか?」ずばり言われ、苦笑いして芳斗はうなずいた。そして、天の救いと安堵した。叔父だって彼の窮状に気づいたからこそクルマを止めたのだ。学校に寄れば少々遠回りにはなるが、よもや放ってはおくまい。「そうか、じゃ乗れよ。学校まで送っていくから」
「えっ、ほんとう! たすかるなあ」待ってました、と心で叫んで満面に感謝を表し、芳斗は後部座席のドアを開けた。
「でも、職場に着くの遅くなりませんか」叔父の勤務先はここから逆方向にある。気をつかって言ってみた。「なーに、余裕余裕。時間がなかったらおまえを乗せたりせんよ」
 美玲が可愛らしい声で父親に話しかけ、叔父も丁寧に受け答えして親子の会話が始まったので芳斗は黙っていた。いかに叔父とはいえ校門の前まで送ってもらうのでは気がひける。保育園に向かうのに都合がいいよう、中学校の百メートル手前の交差点あたりで降りるつもりだった。
 クルマは住宅地の狭い道路に入った。ここは交差点のある通りへの抜け道なのだが、中ほどまできて対向車が現れた。すれ違うのがやっとの幅員だし、相手ドライバーが美形の女性なので叔父は道を譲るべく路肩の蓋のない側溝すれすれにクルマを寄せて停車した。相手女性は頭を下げて慎重に通り過ぎた。
 いい気分で発進させた叔父に油断があった。ガタッという衝撃音がして、クルマの左前方が沈んだ。美玲が悲鳴をあげた。
「やっちまった!」叔父も叫んだ。落輪である。溝ぎりぎりのところにあったタイヤに気づかず、ハンドルをきったまま発車させたため前輪を落としてしまったのだ。
 このT市には二ヶ月に一回、街中の道路掃除を市民に呼びかけ、参加者にはちょっとした報酬を与えるという大富豪の奇特な事業主がいる。その清掃が側溝の内部まで及ぶものだから細い側溝の場合、蓋をしていないのもかなり見られるのである。あわてず叔父は脱出を試みた。四輪駆動車だからすぐに出られると考えたのだろうが、ボディがぶつかっているのかエンジンがうなりをあげるだけで一センチも動かない。
「じゃ、ぼくが押しますよ」
 乗せてもらって黙っているわけにはいかず、背負っていたリュック型のスクールバッグをシートに置いてクルマのリヤにまわった。フェンダーに手をかけ、発進に合わせて満身力を入れた。だが、即座に彼ひとりの力ではどうにもならぬことを悟った。車両は微動だにしなかった。
 叔父は降りると、落ちたタイヤをのぞきこんだ。車底が側溝の角に接触している。どうやら車体を引っぱりあげるしかなさそうである。
「やっばいなあ、こりゃ……」心底困ったというように顔をしかめて叔父がぼやく。学校はもう歩いて一、二分の距離だったが、さすがに見捨ててもいけない。
「どうしますか」
腕組みしている叔父に、芳斗はそっと問いかけた。時刻に気が気ではない彼としては「JAF《ジャフ》呼ぶからおまえはもういい、学校いけよ」とのお言葉を期待したのであるが、叔父はそこまで気がまわらないのか、あるいは芳斗といえども頼りにしているのか、苦渋の表情で押し黙った。芳斗を送ってきたことを後悔している様子もみられるので、うかつな発言はできなかった。
 と、後方からダンプカーの近づいてくる音がした。この狭い道を非常識にも、抜け道しようと侵入してきたのだ。しかし、これが叔父と芳斗には吉とでた。ダンプは先に進めず停車し、車内から土木工事のプロといった風態の、ハゲといかつい顔の頑強そうなおやじ二人がどやどや近づいてきた。
「あらららら、落っことしちゃったのかよ」引き上げの手伝いを余儀なくされたため、同情半分、不愉快半分という表情でハゲおやじがぼやいた。叔父が恐縮してこたえる。
「ええ、すみません。こんなところで」
「だけどまあ、これだったらみなで持ち上げりゃ出れるけん」
 おれたちこんなことにゃ慣れてるずら、と、どこかの方言混じりに強面のおやじが提案し、一同とりあえずやってみることにした。叔父が運転席につき、あとの三人は足場の悪い側溝の角に踏んばってフロントバンパーをつかんだ。
 エンジンがうなり「せーの」のかけ声とともにみなが力をこめると、発進のタイミングもよかったのか車輪はあっけなく路肩に戻っていた。
「いやあ、ありがとうございました」車外に出ていんぎんに頭を下げる叔父に、土方の二人は感謝されるほどのことでもねえよ、というそっけない素振りでダンプに乗りこんだ。
「じゃ、学校はもうすぐだからここで失礼します。今日はぼくのせいで迷惑かけちゃって、すいません」芳斗は運転席の叔父に声をかけた。
「こっちこそとんだ失態みせちまったな。じゃあな」
 叔父のクルマとダンプが走りさったあとを、芳斗も小走りに駆けだした。だが、やがてあることに気づいてはっと立ち止まった。スクールバックを車内に置き忘れてきてしまったのだ。
「なんてこった!」自らの失態に地団駄踏んでも、すでに叔父のクルマは視界から消えている。ケータイ電話は学校内には持込禁止となっており、使っている現場を押さえられたら即没収という厳罰が待っている。とはいえたいてい持ってきているが、しばしば抜き打ちで身体検査もする堅物(かたぶつ)の教師もいるからバッグに入れておいたのだ。このまま登校するほかないだろう。
 交差点では二、三人の大人が信号待ちしていた。そばを通って右折するのはきまり悪く、彼らが横断するまで手前の缶飲料の自販機近くで待つことにした。
 何気なく見た路面に五百円硬貨を発見した。販売機の周囲ではたまにあることだ。急いでいるとはいえスルーするのはもったいなかった。信号が変わって人々が横断し始めたのを機に近寄った。ブツを両足で挟むように立ち、しゃがんで靴のほこりを払うように見せかけて拾い上げると、ごく自然な動作で上着のポケットに突っ込んだ。たとえ間近に目撃者がいても、まさか拾い物をしたなどとは思わないはずだった。 
 が、喜びもつかの間、不測の事態が発生した。立ち上がろうとしたやさき、背後で誰かが肩をたたいたのだ。とたんに顔面から血の気がどっと引いていき、目の前を一瞬閃光が横切ったように見えた。
「何してたのよ」女性の厳しい声が聞こえた。反射的にポケットを押さえふりむいた。
「あーら、あんたあのときの」
 出勤途中らしき若い女性は知っている誰かと人違いしたらしい。間延びした声で言った直後、険しい顔で問いただした。「それはそうと、とにかくポケットの中の物、出しなさい」
 やはり見られていたのだ。芳斗は蒼ざめながらもたかが五百円、シラを切りとおそうと考えた。「何も入ってませんよ」
「じゃ、なんで逃げたの。あたしの財布すったでしょうが」
「はあ?」逃げた、すった、どちらも全く覚えのない行為である。そうなると芳斗も強気に出るまでだ。「何言ってんすか。じゃあ、ご自分のバッグ調べてくださいよ」
 女性は疑わしそうに睨みつけると、高級に見えるものの偽ブランド品らしきトートバッグを開け、中身を確認し始めた。「あれっ、全部入ってる」少し口惜しそうにぼやいて「ふん、今回は見逃すけど、次、変な真似したらケイサツつき出すからね」
 捨てぜりふを残し立ち去った。やれやれ朝っぱらから受難続きだな、と呆れながら校門をくぐった。
 生徒玄関にとびこむと、やはり誰もいなかった。彼の通う中学校のいいところはケータイの持込は厳しいものの遅刻しても、監視の先生がいて注意するわけでもなく校門を閉鎖するわけでもない。何分ごろだろうと腕時計をのぞき、ぎょっとした。なんと九時近くを表示している。一時間目も半分過ぎた時刻だが、家をでてからせいぜい十分程度しか経ってないはずであり、時計の進みすぎにちがいなかった。
 ホームルームの最中らしく教室後部の戸口にくると、内部のざわめきが聞こえない。音を立てないように戸を開け、教壇に立っている担任の木村先生をちらと覗って入室した。幸い席は戸口から遠くない列の最後から二番目なので、ほとんどの生徒に気づかれずに着席した。
「こらっ、今まで何していた」さすがに木村先生は黙っていなかった。表情は穏やかだが、語気鋭く問いただした。「遅刻の理由を言え、理由を」
「ええ、実は時計が遅れていたのを知らないで、家を出まして」
 起立して、もっともらしく弁明した。
「なるほどね、それできみの腕時計は今現在、何時何分をさしているのかね」
 先生の態度が不意に改まったのに、芳斗は不吉な予感を覚えた。
「はい、ええと……」ここで進みすぎた時刻を言うわけにはいかない。大体の見当をつけた。「八時二十五分です」
 そのとたん、どういうわけか全生徒がどっと笑いだし、いよいよ彼は不安になった。そしてようやく黒板に書かれてある数問の方程式の解答にも目がいった。木村先生は数学の担当でもある。ということはホームルームが終わって、数学の ……?
「ひとつ忠告しておくが、時計の電池を交換したほうがいいぞ。もう九時なんだからな」
「えーっ」声をあげて驚く芳斗にまた笑いがとびかった。やはり腕時計の時刻は正しかったのである。どう考えても信じられなかった。家を出た時刻から逆算すると、約三十分が知らぬまに過ぎてしまったのだ。
「なんか、隠している気がするな」異常な驚きぶりを誤解したのか、先生は探る目つきになった。
「いえそんな」
「ま、それはいいとして、カバンはどうした」
「あ、バッグですか。これも事情があって」
「話せば長くなるのか」
「はい」
 先生も厳しく追求する気はないらしい。「いいだろう、すわれ」
 授業は退屈だった。芳斗は数学が苦手だし教科書やノートがない。そのうえ今日やっているところは、習うのがかなり先のような気がするのだ。ま、こんなこともあるのだろうと思いながら、ただぼんやりと先生の顔を眺め、飽きると教室のあちこちに目を走らせた。
 そのうちまた妙なことに気づいた。今日は一七日の月曜日で一時限は国語のはずではないか、なぜ数学をやっているのだろう。まわりを見ても、みな当たり前という顔している。黒板脇に書かれた日付が一瞬、九日先の十月二六日に読めたような気したが、もちろん一七日の見間違いだった。
 誰かに訊いてみようと思ったとき、床を転がるエンピツが視界の端に入ってきた。無意識に拾おうとし、落とし主である右隣りの槙田代志乃(まきたよしの)の左手に右手がぶつかった。代志乃が先につかんでおり、顔を見合わせ気まずく笑った。ちょうどいいタイミングだと、数学の授業している疑問を彼女に小声で尋ねた。
 代志乃はたっぷり三秒間、相手の顔を見つめた。ショートが映える(うり)(ざね)(がた)の輪郭に、目鼻唇すべて愛らしさの黄金律に則った形と配置。男子生徒の多数がずばり可愛さクラス一かも、と噂する代志乃のぱっちり開いた瞳で三秒も凝視されると、顔に何かついていたかと不安になる。着衣に柑橘系の柔軟剤を使っているらしい彼女は、爽やかな香り漂わせながら半ば呆れたように説明した。
「今日の午前中の授業は水曜日の時間割と交換するって先週、先生が言ったじゃない。忘れてたの?」先生方の都合で、たまに他の曜日の時間割で授業を行うことはあるのだが、そんな話は聞いた覚えがない。が他の生徒らがみんな教科書とノートを開いているところ、彼だけが聞き逃したらしい。これではスクールバッグ持ってきても、たいして役に立たなかったなと彼は嘆息した。
「それともうひとつ訊きたいんだけど、二次方程式なんてまだ先のところじゃないかい」
「ああこれね。先生にも考えがあって先に勉強させるんだって。それより秋山君、教科書がなくちゃ困るでしょう。わたしの貸してあげようか」
 突然の提案に芳斗は面食らった。「貸してあげるって、きみはどうするんだよ」
「わたしは()()()と机つなげて、一緒に見るから」
 と言うなり代志乃は右隣りに坐る大親友、口数の多さと威勢のよさ、ついでに顔の凛々(りり)しさでもクラス一と誰もが認める遠藤日登美と交渉に入った。
「うん、OK、OK」ものの二、三言かわしただけで日登美は芳斗のほうを見て、親指と人差し指で丸を作ってにっこり笑った。気持ちはうれしかったが、どうも照れ臭い。拒否顔する芳斗に代志乃がささやいた。「それともわたしと机くっつける?」
 返事する暇を与えず、彼女は数学の教科書を芳斗に差しだした。仕方なく芳斗が受けとると、日登美のほうが机と椅子を代志乃の席に近づけてきた。その音に気づき、黒板に数式を書いていた先生が顔を向けた。
「どうした遠藤、授業が飽きたので槙田とおしゃべりか」
 このひとことにたちまち日登美がほっぺたをフグのようにふくらませ、机を両手でばんとたたいて起立した。「失敬ね、先生ったら。あたしは代志乃が数学の本を秋山君に貸してあげるっていうから、じゃあたしは代志乃と一緒に教科書読もうと思って、くっつけたんじゃないの!」
 教師たりとて失言は許すまじ。目をぎらつかせた激しい口ぶりに木村先生も一瞬のけぞり、はずみでチョークが折れて床に落ちた。「そういうことか、それならまあ、いいんだが……。じゃ秋山、ありがたく見せてもらえよ」 
 まだ二十六歳で独身の木村先生、チョークを拾うときにつんのめったりするほど動揺し、生徒たちの笑いがとびかった。
「芳斗君、よかったね。槙田さんは案外きみに気があるのかもよ」人をからかうことを趣味にしている早川がやじをとばすと、同志の川西も負けじと張り合う。
「これを機に、おつきあいを申しこんではどうですか。誰かさんに遠慮しないでさ」
 誰かさんとは、代志乃と特に仲がいい西崎瑠(にしざきる)(らん)という男子生徒のことだ。成績は並みの上くらいだが、運動神経が抜群で『るらん』というキラキラネームに合ったかなりのイケメンとくる。その西崎はみんなに合わせてへらへら笑っていたが心中穏やかでないのは、しょうゆ顔の笑っていない切れ長眼に表れていた。
 代志乃が平然と言う。「まわりのことなんか、気にしないほうがいいよ」
「そうだよ。あいつら誰にでもああだからね。口の悪さだけがとりえなんだから」
 自分のことは棚にあげる日登美。代志乃があきれ顔を浮かべたあと、また芳斗にささやいた。「それでさ、秋山君バッグ持ってこないんだったら、午前中いっぱい教科書貸してあげるよ。日登美いいよね」
「うん。いい、いい、そうしなよ」
 各種クラス一番の二人に押しきられ、芳斗はあいまいにうなずいた。それほど彼は、代志乃の強引さを迷惑に思っているわけでもなかった。彼女は成績も気立てもよく、背丈だけは平均並みだが、都会への修学旅行で自称芸能プロの社員からスカウトされ、もう一度スカウト受けたら歌はいまいちなので、女優の道を本気で考えると公言しても、誰も反対しないくらい魅力に富んだ女生徒なのである。時と相手と気分によって言い方が荒っぽくなったり、顔に似合わぬきつい冗談をとばす一面もあるけどそれも個性であって、外野のヤジは嫉妬と受けとってもいいくらいなのだ。
 しかし、それだけに疑問なのだ。その代志乃がなにゆえ彼によくしてくれる気になったのか、が。三ヶ月前の席替えで隣になったから普通に話はするし、ちょくちょく授業の解らない箇所を尋ねたりするが、今のところそれ以上親しい間柄ではない。川西が言ったように、懇意(こんい)にしているのは西崎である。何か魂胆があるのか、それとも西崎とケンカでもしてその腹いせに見せつけるつもりなのか。
「さてと、これについて質問のある者? いないな。よぉし、あとは自習だ」
 自習の一声にみなはどよめいた。授業はもう終わったも同然なのである。
「待て、喜ぶのはまだ早い。おまえらに自習といえば、ただ遊んでいるだけだ。そこでひとつ課題を与える。おれが昨夜考えた練習問題があるから、それらを解くように。
 いいか、これはおれがおまえたちのために、わざわざこしらえた問題なんだから、いい加減な気持ではやるなよ。試験はこんな感じで出るんだからな」
 それじゃ全然自習じゃないじゃないか、との不満があちこちで聞こえたが、木村先生はかまわず黒板に問題を書き並べた。因数分解で解く二次方程式が五問。……因数分解ってなに? の芳斗には、何時間がんばっても解けるはずがない難問ばかりである。「解答を名簿順に黒板に書いてもらう。制限時間五分」
 芳斗は蒼くなった。名簿が二番なのである。
 ほどなくふり当てられた生徒が一人二人と黒板に向かう。こいつらさっき習ったばかりでもうこんな問題解けるのか、と芳斗は驚いた。遅れてきてちんぷんかんぷんの自分に当てた先生へ怒りがこみあげてきた。
「秋山君、だいじょうぶなの」
なかなか腰を上げない彼を見て、代志乃が心配気に訊いた。
「うん、どうも紙と鉛筆がないと」それでも、ぼくまるで解らないから教えてよ、とは言いにくい。こんなピンチを幾度も彼女に救ってもらっているので、これ以上世話になるのは自分がみじめに思えてくる。少しして代志乃が何も言わず、リングノートから紙を一枚切り離し鉛筆と一緒に差しだした。
「どうも」こんなものもらったところでどうにもなりゃしないのだが、とりあえず格好だけはしようとしてやっぱりと思った。用紙に数式が書かれてある。彼を悩ませている二問目の解答式で、しかも『まちがっていたらゴメンネ!』との添え書きまであった。「あ、こ、これ……ありがと」お礼のことばにつっかえる芳斗を見て、彼女は解答に自信ないのかどこか心配そうに二、三度細かくうなずいた。
 黒板に出たのは芳斗が最後だった。答えを書き終えるなり木村先生が、「ほう、正解だ」と驚きの声をもらした。だが、戻りかけにふとささやかれた。
「槙田に感謝しろよ」ちらちらのぞいていた紙が代志乃よりもらったものと、察していたのである。校長の方針なのか各教師は積極的に、それも平均以下の生徒をなるたけ指名し、芳斗だけじゃなく他の生徒にSOSを求める行為はあちこちで見られた。訊く方も教える方も先生の眼を盗むことが当然のようになり、教師たちも一応注意はするものの黙認していた。あるいは教えあうのも、教育の一環と考えていたのかもしれなかった。
 席に着くなり、同じくほっとした表情の代志乃に芳斗は心からの礼を言った。
「いつもながらありがとう、たすかったよ」
「困ったときはお互い様、気にしない」
 屈託のない笑顔は、彼の胸にふたたび暖かいものを呼び起こすのだった。
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