第10話

文字数 3,621文字

 鉄製のドアが開き連結通路を駆けてきた人物の姿に、逃げかかっていた芳斗の足が凍りついた。青いコートをまとった一見OL風の女性だったのである。女性のほうも芳斗を見て驚き一旦立ち止まった。彼女のすぐあとをベージュ系のハーフコート、続いて黒ブルゾンの共に中年男が同じ勢いで出てきた。
 芳斗の頭はたちまち混乱状態に陥った。混乱しながらも瞬時にあれこれ想像した。こんな時刻にいるのは客ではない。といって展示場の業者たちにも見えない。
 女性は芳斗に不審さを表しながらも避けるように駆け抜け、右手奥にクルマの出入口を確認するとそちらへ向かった。男二人も通路の途中で芳斗に気づき、足を止めた。中学生と判り小太りのハーフコートが語気粗く怒鳴った。
「なんだおまえは、なんでここにいる」
 なぜか知らないが、彼に対する強い敵意が感じられた。このままでは人質にされかねないと判断し、芳斗も女性と同じ方向へ駆けだした。クルマの出入口を通って順々に降りて行けば、地上に出られるのだ。なぜ今まで気づかなかったのだろうか。
「止まれ、撃つぞ」
 我が耳を疑った。撃つぞ? あいつらは銃を持っているというのか。
 キューン
 ほんの数メートルの距離で、コンクリートの床を擦る弾丸の鋭い音がした。ぴたりと停止し、無意識のうちに両手を挙げた。本当だった。体格のいい黒ブルゾンが芳斗をスリーパーホールドし、鼻先にサバイバルナイフを突きつけた。「さてはおまえ、あいつの仲間だな」
「あいつって、あの、女の人ですか。違います、全然違います」
 芳斗はガタガタ震えながら訴えた。それにしてもスタンガンの次は本物のガンにナイフ。どこまでも受難が続く一日である。
今の威嚇射撃で女の人も立ち止まっていた。ハーフコートが銃口を向けながらこっちへこいと合図した。
 女性は年齢のころ二二、三歳、華奢(きゃしゃ)な体つきの女性だった。人形のように整った面差しがそのスリムさと相まって、もの静かな雰囲気を漂わせている。ステンカラーコートに黒のデニム、こぶりのショルダーバッグをかけた姿は勤め帰りかちょっとした外出中の風情であり、とても悪事を働くような人には見えなかった。一歩一歩近づきながら芳斗にすえたその眼には疑問と不安が浮かんでいた。何者でなぜここにいるのかを詮索している様子だった。その青いコートで急に思い出した。彼の肩にぶつかっていった女性に間違いなかった。付着した長い髪の毛もこの女性のものかもしれなかった。
 ハーフコートが止まれと合図した。撃ち損じはまずない距離だ。ちらっと芳斗のほうを見て言った。「言うとおりにしろ。応じなければ、このガキを殺すぞ」
 芳斗はぎょっとした。人質にされてしまったのだ。鼻先にあった刃がいつしか喉元に押し当てられている。どんな要求かは知らないが、人相の悪いこの男たちのこと、応じても応じなくても女性は撃たれ、芳斗も刺殺される可能性が高い。それがサスペンスドラマの主役級以外の定石(じょうせき)である。
 そしてまた一瞬のすきをついて危機を脱するのもドラマのお決まりなのだが、拳銃を目の前にすると大胆な行動はとれるものではない。また空を指して「UFOだ」も無理がある。
「わかったから、その子は開放しなさいよ」彼女は芳斗に一度目線をあて、それからハーフコートに移し強く命令した。それは時間稼ぎであり、芳斗への合図も含んでいた。だらりと垂らしている彼女の左手。その指が親指から順番にゆっくりと折られていくのに気づいた。
 こういうシーンは映画で覚えがあった。最後の小指で同時にアクションを起こそうというのだ。彼はもちろん黒ブルゾン。彼女はハーフコートにとびかかり、あわよくば銃を奪おうという算段なのだろう。迷いはあった。だが、ひとりでは踏ん切りがつかなくても同調を求められるとやらざるをえないし、さきほどタケ兄ぃとの経験で度胸も据わっていた。尚かつ、スリーパーもいい具合に緩んでいる。
 小指が握られた瞬間、ナイフを持った黒ブルゾンの右手の手首をつかんで手前に押し出し、同時に体を少しひねり左のエルボースマッシュを力いっぱいみぞおち付近に打ちこんだ。自分でも驚くほど思いきりのよい動きだった。
 明らかに黒ブルゾンは、刃物に怯えている中学生が反撃するはずないと舐めて油断していた。「うっ」と相当のダメージを示す呻きを吐いて片膝ついた。
 ハーフコートがすぐさま拳銃を向けたが、低い体勢でとびこんできた女の人の、下からすくいあげるようにふり回したショルダーバッグに弾きとばされた。銃は空高く舞い上がり、屋上の外へ消えていった。
 間髪入れず彼女はハーフコートの股間にケリを入れた。見事にヒットし、短い悲鳴とともに上体を大きく折り曲げた。
「さ、早く」正にドラマさながらの逆転劇にしばし呆然とする芳斗の手をとり、クルマの出入口へと駆けだした。体を直角に折り曲げぴょんぴょん飛び跳ねているハーフコートの姿を横目で見て、彼女はぷっと吹き出していた。滑稽(こっけい)に映ったのだが、あれは民間療法みたいな応急処置で、女性には理解できないだろうなあと芳斗はいくらか同情した。
 体勢を立て直した黒ブルゾンに行く手を阻まれ、二人はUターンして連結通路に向かった。内部に入り、鉄製扉のロックを探しているうちに黒ブルゾンが扉を引っぱった。なんとか閉めようと引き合う彼女に芳斗も加勢したが、敵は片足をすきまに挟んでおり閉め切ることは不可能だった。
「奥へ、行こう」彼女が指示した。一、二の三のかけ声で一緒にドアノブを放した。引いていた勢いで黒ブルゾンの体が後方にのけぞった。そのすきにガラス扉を抜け、右の壁の角に身を寄せてしゃがんだ。ここでやりすごすつもりなのだ。店内に逃げて助けを求めるものと予想していた芳斗も急いでそばに身を潜めた。
 六階はレストラン街が半分で向こう側の半分が催事場になっている。奥にある催事場の区画だけ明るさが見えていた。やはり催事の準備作業中らしい。非常口の常夜灯であたりは真っ暗というわけではない。入ってきた彼らが壁の右側を向いたら見つけられてしまう場所だ。
 二人の気配が間近に感じられた。思わず芳斗が息を止めると、女の人は前方に何かを投げつけた。カチンという硬貨らしき金属音が階段口で響いた。
 女子供の抵抗に負けてよほど逆上していたのか、二人の中年男は古典的手口にまんまとひっかかり、まっすぐ音の方向へ歩を進めた。しかし、さすがに彼らも闇の中では慎重だった。ものの数歩で立ち止まった。これではまずいと判断し、女の人が忍び足で出入口に戻った。あとに続いた芳斗が鉄製のドアを抜ける寸前、追いかけてくる彼らの声を耳にした。
 屋上へ行こうとする芳斗を制止し、女の人は扉に手をかけた。「押さえるのよ」
 彼としてはやはり、駐車場を下るのが得策に思えた。言いかけた芳斗に首を振って説明する。「逃げても捕まる。警備員がやってくるまで、もちこたえるの」
そういわれればあいつらはまだナイフを所持しているし、警備員がきたら先ず捕まるのはやつらだ。上手くいけばそのすきに逃げられるかもしれない。芳斗は左側、女の人は右側のドアにもたれかかった。
 間近にある女性の横顔。目をやった芳斗は、改めてその上品な面立ちに注目した。子鹿を思わせる優しげで黒い大きな瞳に、形のよい幾らか薄めの唇。背中にかかる髪形が清楚さを引き立てている。芳斗の視線に気づいてこちらを向いた。会って間がないというのに、頼りにしているわ、とでもいうような気さくな微笑みを浮かべた。
 左の扉が押された。芳斗がふんばっているのに気づくと、体当たりしてきた。二発目は二人で両方のドアに当たったらしく、破られはしなかったものの痛みを感じるほどの衝撃だった。続いて三発目が襲った。より強い当たりで瞬間的にドアが数センチほど開いた。これも持ちこたえたが打ちどころが悪かったらしく、女の人がうずくまった。
「大丈夫ですか」芳斗が訊くと彼女はうつむいたまま、かすかにうなずいた。
 またくるかと思いきや、今度は力で押してきた。そうなると相手は大人二人、分が悪い。じわじわすきまが広がりだした。とても無理と察した芳斗は、奇襲をしかけるべくとっさに彼女の手をつかんで二、三歩後方へさがった。
 バタンとドアが開き、敵がそろって姿を現した。そこへ「ダァー」とA・猪木ばりの気合いでダッシュした。相手は二人、両方いっぺんに倒すのはこれしかないとジャンプすると、横向きでのフライング・ボディプレスを見舞った。
 だが跳んだといっても相手の胸の高さ、しかも動きは読まれていた。一歩前にいた頑強な黒ブルゾンにがっしと受け止められ、エルボーのお返しといわんばかりの強い腕の振りで後方へ投げとばされた。絶対こいつ格闘技経験者だ、と思いつつ背中から落ち、床に頭部を強打した。同時に満天の星々がワープ航法時のように急速に遠ざかっていった。
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