第11話

文字数 3,366文字

 とびこんでいった少年がどうなったのか、内部が暗くて若奈にはわからなかった。ただ静寂だけが流れた。それがいい結果を示しているとは思えない。
 たすけにいきたかった。しかし、さっきまで些少(さしょう)だった腹部の痛みが急に突き刺さるような鋭痛に悪化し、救助はおろか彼女自身逃げることもままならぬ状態にあった。
 深沢と市ノ瀬が現れた。二人とも困惑したような釈然としない面持ちだった。その意味はつかみかねたが、市ノ瀬の握るナイフや彼らに血痕が見られないことに、若奈は一応安堵した。
 二人の特に市ノ瀬は若奈と対峙するや、これまでの恨みがこもったような一層冷たい目つきで睨んだ。連結通路の手すりにつかまって身を起こした若奈の胸倉を、ぐいとつかみ手すりに押しつけた。刃物を喉にあて早口に言った。「ここから落としてやる」背後は建物と駐車場のすきまだ。この落差ではよくて重症、死亡する確率のほうが高いだろう。若奈は警備員が駆けつけるのを待った。それにしても、遅い。結構派手に騒いでいるが内部までは届かず、監視カメラも設置されていないか機能していないのだろう。
「わたしを殺したら、コファー使えないよ」
「考えが変わった、おまえは信用できない」
 営業時間外にタイムリープさせられたことを理解したのだ。
「だったら、いっそ一突きにすれば。それとも返り血が怖いの」
 若奈は精一杯の嘲りを吐いた。これは市ノ瀬の脅しだ。極限まで怖がらせ、服従させるつもりなのだ。
 それには応えず、相棒に目配せした。深沢が若奈の両脚に腕を回して抱え上げ、同時に市ノ瀬は背中から脇腹に左腕を入れて持ち上げた。あっというまに若奈の体は高さ一メートル以上ある手すりの上に乗っていた。落ちなかったのは、とっさに市ノ瀬の首に右腕を回してしがみついたからだ。それは市ノ瀬にしても予期せぬ行動だったようで、ナイフを屋上の外へ落としてしまった。舌打ちし、思い直してかすかに笑う。
「お別れのキスでもする気か」
 真上の息のかかる近さには市ノ瀬の顔。まさしくキスする格好だ。が、若奈は恐怖に加え腹部の痛みもあって、ジョークを解する余裕がなかった。脅しではなく本気らしい。手すりに乗っかっているのは両膝の裏側のみ。膝から上は外にとびだしており、腕を放したらおしまいなのだ。なんとかして時間を稼がねば、なんとかして…… 
 護身用に用意した防犯スプレーも床に落ちたバッグに入っている。
「こんな低い手すりの柵をつけたデパートの幹部も一緒に恨むんだな」
また市ノ瀬が笑う。おかしなもので、絶体絶命の状況にありながら若奈も全く同感だった。屋上全体に巡らせた防護柵は人の背丈以上あるのに、連結通路の柵だけは半分の高さなのだ。
 しがみついた腕が疲れてきた。このまま落とす気なのか、泣きつくのを待っているのか市ノ瀬の無表情はどちらにもとれる。怒りと恐怖に顔をそらし、深沢と眼が合った。すぐに外した視線を深沢がまた向けた。たすけて、と若奈はすがるような眼で訴えた。深沢は戸惑いの表情で一度下を向き、急に思いついた様子で市ノ瀬に忠告した。 
「おい、そろそろずらかろうぜ。捕まっちまうぞ」扉の開いた出入口をちらちら見渡す焦燥感もいい。あと一押し……。無言の声援に深沢が応えた。
「この女を人質にして、仲間に迫ればいいんだ。殺す必要はないだろう」
 これぞ正論だ、という自信の口調で指摘され、感情的な己に気づいて市ノ瀬の表情が固まっている。だが挙げた手を下ろすわけにもいかず、返って意地を張らせてしまったようだ。
「また欺されたいのか。なまじ情をかけたらこっちがやられるぞ」
 それきり反論しない深沢。もう少しねばってよと視線を送ったが、彼女を見ようとしない。ふと催眠効果を思いついた。臭気だけで効くかもしれない。あのあとスプレーはバックではなくポケットに仕舞ったはずだ。左手でコートの右ポケットを難儀して探り、宙に向け思いきりスプレーを噴射させた。柑橘(かんきつ)(けい)の強い香気があたりにたちのぼる。だが、先に反応したのは市ノ瀬だった。ためらいなく肩をつきとばした。
 右腕が市ノ瀬の首を離れ、頭部から落ちていくのを感じた。死を意識した次の刹那、片足を掴まれて落下の感覚が止まった。思わず眼をやると深沢が身を乗り出し左の足首を握っている。細身(ほそみ)の小夜子とて五十キロ近い体重はある。引っぱられて一緒に転落しかねないところ、大柄な体格が幸いし前屈みになっただけで済んだのだ。
 こういうときは痛みを忘れている。逆さ吊り状態から渾身(こんしん)の力で上体を持ち上げ、伸ばした右手を深沢が握った。そのまま引っぱり、体が手すりを乗り越えたところでもう一方の腕を背中に廻した。抱き合う格好になりそのまま床に降ろした。感謝の意味で深沢の耳元に吐息を残すと、精根尽き果てたように倒れ込んだ。
「どういうつもりだ」
 その様を呆然と眺めていた市ノ瀬が、極力怒りをこらえているような口調で訊いた。
「そんなにこの女がいいのか」
 深沢はじっと見つめたきり、何も言わなかった。
「どうなんだよ」肩をこづいた。深沢がぶっきらぼうに応える。
「まだ必要だろうが」
 市ノ瀬の頬に冷笑が浮かんだ。
「そうか、おまえはこの女に洗脳されてたんだものな」荒い息をして伏せている若奈の横面を市ノ瀬は、小憎らしげに爪先で軽く蹴った。
(いろ)仕掛(じか)けに引っかかるなんて、だらしないぜ」さも面白そうに、また蹴った。
 唇をぎゅっと結んで見守っていた深沢は、膨れあがった怒りが爆発したように突然、市ノ瀬の顔面を殴りつけた。市ノ瀬はふっとび、反対側の手すりに背を打ち付け片膝ついた。殴られた口の端を拳でぬぐいながら、彼はまだ冷笑を浮かべていた。それがまた深沢の怒りを買った。襟首をつかんで立たせると、顔面めがけて右ストレートを放った。
 市ノ瀬はこれをきわどくかわし、逆に腕をとらえて腹に膝蹴りをたたきこんだ。深沢の体が折り曲がった。続けて喉輪をかまし、手すりに背を押しつけた。長身だけに上体が大きく外に(しな))った。
「落としてやろうか、それで目が覚めるかもな」
 市ノ瀬の腕が深沢の上体をさらに押し出した。身を起こしていた若奈は自身の体験を重ね合わせて恐怖した。
「もうやめて……」
 なにかににつけ皮肉な解釈をつけたがる市ノ瀬のこと、感心したようにつぶやいた。
「ほう、いつしか相思相愛か」
 今や市ノ瀬の言動すべてに反感を抱く深沢は、これでぶち切れた。喉輪を喰いながらも右に回り、逆に市ノ瀬の背中を激しく手すりに打ち付けた。またしゃがみこんだ市ノ瀬の肩に手すりを掴みながら両膝を落とした。一度二度、三度目を落としたとき、市ノ瀬も怒りを爆発させた。身をぐっと起こすと、深沢の体は手すりを握っていたこともあり肩車されたように高く持ち上った。尻から上がったために前のめりになり、勢いで握っていた手が離れ屋上から落下していった。
 とっさに市ノ瀬がふり向き、眼下に視線をこらした。手すりから身を乗りだした姿勢で、しばらく微動だにしなかった。
 地上に激突した打撃音は、聞こえなかった。すべては一瞬であり、深沢の転落を知っていた若奈にも目の前で起きたことが現実には思えなかった。
 市ノ瀬がこちらに向き直った。目は遠くにあり、あれほどの悪党でありながら別人のようにおどおどしていた。落とすつもりはなく、深沢の体を押しのけようとしただけ、と表情が訴えていた。若奈が視界に入ると、避けるように連結通路を歩き始めた。彼女のほうを何度かふり返り、駐車場に出ると駆け足で車の出入り口通路へと消えていった。若奈は立ち上がろうとした。彼女だって逃げなくてはならない。こんなところにいたら捕まってしまうのだ。よろめきつつも歩き、ときおり襲ってくる耐え難い鋭痛にまた倒れこんだ。
 誰か駆け寄ってくる気配がした。ついに来たわ。でももうそんなこと、どうだっていい。この苦しみをどうにかして欲しい。
「おい、きみ、どうしたんだ」警備員らしき人物が尋ねた。厳しさを含んだ油断のない口ぶりだった。それもそうだ。倒れて動けないとはいえ、不法侵入者なのだから。
「おい、しっかりしろ」
 肩を揺すった。若奈は面をあげ苦痛に邪魔されながらも、皮肉っぽい笑みを浮かべてつぶやいた。
「遅すぎるよ」がくりと顔が床に落ちた。
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