第14話

文字数 9,890文字

 昼食後、気をひきしめて各教科の復習に精だしていた芳斗だったが、普段自宅で多くて二時間しか勉強しない彼のこと、三時を過ぎると疲れと飽きで眠くなった。この五階病棟の休憩コーナーには、飲み物の自販機が設置されている。缶コーヒーでも飲んで一息つくことにした。
 エレベーターホールの左横に設けられた休憩コーナーには、自販機一台と二人掛けのテーブルが二卓あるだけのシンプルなもので誰もいなかった。ホットの缶コーヒーを買い、窓際の椅子に腰かけた。何気なく振り向くと、病院の裏側の光景が眼に飛び込んできた。真っ直ぐ伸びた道路の先に杉木立があり、その前を横に走る道路と繋がっていた。距離にして五~七十メートルほどだろうか。木立の向かい側がクルマの少ない駐車場で障害物がないため瑞垣と鳥居、奥に社があるのが見えた。
 いつのまにか隣のテーブルでは、スーツ姿の中年男性二人が腰を下ろしていた。上司の見舞いを終えたらしく、「あの様子だと退院はまだ先だな」という談笑が聞こえた。ふと彼は昨日の代志乃の一件を思いだした。『未来からきた?芳斗』の書き置きにある八幡宮とはここをさしているのではないか。そう思うと気になって目が離せなくなった。
 やがて鳥居の前の道路に二つの人影が現れた。一人はコートを着た年配風の男で、もう一人は黒い雨合羽を頭から被り、顔は白いマスクで覆われている。ゴーグルもかけているようだった。雨合羽のほうはロープの束らしきものを持っていた。雨合羽がかなり大きな木に登り太枝を伝ってすぐ側の電柱の中程の、木の枝に隠れてよく見えなかったが、たぶん足場ボルトにロープを引っかけて下りてきた。
 リサイクル品回収を呼びかける軽トラックの音声が流れてくると、雨合羽は電柱にかけたロープの一端を路上に置き、(みず)(がき)をのり越えまた木に登った。年配の男も木の陰に隠れてしまった。
 ほぼ同時だった。赤いスポーツカーが左手より疾走してきた。鳥居の前を走りぬける寸前、目を疑う現象が起こった。
 電柱の前の路面にペイントされた制限速度の数字の上に、スクールバッグを背負った槙田代志乃がこちらに正面を向けて現れたのである。まるでぽとりとインクを落としたように忽然(こつぜん)と。もちろん顔は判別できなかったが髪型や背格好、着用しているコート等で代志乃だと直感した。
 声をあげる暇もなかった。次の瞬間スポーツカーは代志乃の体を高々と跳ね飛ばしていた。舞い上がった代志乃の体は電柱の側に落下した。驚愕のあまり芳斗には代志乃が空中で一瞬停止したように見えた。急ブレーキで停止しドライバーは窓から顔をだしていったん後方を確認した後、そのまま走り去った。
「ひ、ひき逃げだあ!」
 隣の男性たちが芳斗のすっとんきょうな叫びに驚いて、立ち上がった。
「なに、ひき逃げだって」ちょうど通りかかった青年医師と女性看護師もぎょっとしたような顔で詰めよった。
「どこだ場所は」
「あそこの神社の前です」
 指し示すなりエレベーターに駆け寄り下りのボタンを押した。現場に駆けつけ、一刻も早く代志乃を病院に運んで手当しなければならない。間の悪いことにエレベーターは四階から下降中で、戻ってくるまでに時間がかかりそうだった。ためらうことなく階段口に向かい駆け降りた。
 裏口から出て神社につながる直線道路を全力で走った。おそらく奇妙な二人組が先に介抱して病院にも連絡しているだろう。それがわずかでも救いだった。あの分では怪我の状態は深刻だ。
 事故現場付近には人の気配がなかった。首を長くして待っているはずの二人組の姿は見当たらなかった。なお驚くことには被害者槙田代志乃まで消えていたのである。
「でもどうして?」二人組が病院に運んだとは考えられない。もしそうなら途中で出くわしたはずである。休憩コーナーに居合わせた二人も律儀に後を追っていて次々と到着した。「おい、どうした」
 芳斗の困惑ぶりに気づき、青年医師は不審そうにたずねた。
「ええ、実は被害者がいないんですよ」
「いない?」青年は驚いて聞き返した。
「そうです」芳斗は事故前に現場付近で挙動不審の二人がいたのを話し、彼らがどこかに連れていった可能性を主張した。青年はしばらく芳斗の顔を見つめていたが、みなに付近を捜すよう指示した。やがて社の近くにいた男が地面に何か発見したようで、手を振ってこちらに呼びかけた。
「これを見てください。血痕です」その赤黒い血痕は狛犬の下に少し、離れた社殿近くには大量にあった。青年が顔を引きつらせて怒鳴った。
()いたあと拉致したんだ。すぐに警察に連絡しよう」
「大丈夫かな、槙田さん」
 芳斗のつぶやきを青年が聞き返した。「知っている人か、被害者は」
「ええ、同級生の女の子です」
「しかしきみ、あそこから顔は判別できたのか」
「背格好や服装で判りました。間違いありません。ぼくはもう少し、この付近を捜してみます」いても立ってもいられぬ心境の芳斗は、道路をスポーツカーが走り去ったほうへ歩きだした。すぐ隣の民家を過ぎようとしたとき、門のそばにいた六、七歳ほどの男の子から思いがけぬ声がとんできた。
「ねえ、さっきのひとさがしているの」
「きみは何か知っているの」芳斗の質問に児童はこくりとうなずいた。
「自動車にはねられたひとでしょう」
 彼ははっとなり、急いで児童を神社に連れていき病院に戻ろうとしている人たちを呼び集めた。貴重な目撃者なのだ。
「この子が事故を目撃していたらしいんです」
 高鳴る胸を鎮めようとするのがやっとだった。
「ねえきみ、その話をしてくれないかい」
「うん、あのね…… 」
 児童の話とはこうだった。彼が境内で友達と遊んでいると、変な格好した人と年とった人がきて話をした。やがて変な格好した人が二人に向かって「とっとと帰れ」と怒鳴ったので怖くなって家に帰ったが、境内に忘れ物をしてまた戻った。その途中、中学生の女の人が赤いクルマにはねとばされ歩道に落ちた。女の人はすぐ立ち上がり、二人と話をして社のほうへ行ってしまった。また叱られるのが怖くて離れた場所から観ていたというのである。
 はねとばされて落下した場所までは芳斗と証言が一致している。また二人組のうち一人は雨合羽のようなものを頭から被っていたし、もう一人は身の動きや体型から年配者のように見えた。それも一致している。しかし、被害者がピンピンしていたなんてあり得るだろうか。そのうえ二人組と共に歩いていったという。よく見るとひとりが登っていたのは、大木ではないが若木でもない(かし)の木だった。電柱にかけたロープはなくなっている。青年が一語一語言い聞かせるように小学生に問うた。
「本当にその女の人は、歩いたんだね」
「うん、あるいて、いっちゃった」
 見舞客の男がたずねた。「本当かな」
「まさか、うそを教えこまれたんだ」
 やがて駆けつけた警察は、この事件を凶悪なひき逃げ及び拉致事件として緊急配備を敷き、赤いスポーツカーと被害者を拉致した二人組の捜査を開始した。目撃者である芳斗と男の子は事故の状況を詳しく尋ねられた。
 児童のほうはどんなに訊かれても『歩いて二人組と一緒に、どこかへ行った』主張を曲げず、捜査員たちを悩ませた。後の聞き込みでは、彼らの他に目撃者はいないようだった。訊かれている最中、オレンジ色のワンピースを着た代志乃に容貌が(げき)()の女子中学生らしき子が、よほど急いでいたらしく全力疾走で通り過ぎた。一瞬どきっとしたものの、人違いのようだった。こういうときはそう見えてしまうものなのだ。
 目撃したことはすべて話したつもりだが、ただひとつ代志乃が降ってわいた如く路上に出現したことはごまかした。どうせ信じてはもらえないだろうし、今になってみると見まちがいだった気もするのだ。
 大胆に推理すると彼女は二人組によって神社のどこかに隠されていて、クルマが近づくや突き飛ばされて出てきたように思えるのだ。あの車両とは共犯で、彼女を計画的に殺そうとしたのかもしれない。ロープはどうにも解釈しようがないが、これも彼らには何らかの意味があったのだろう。警察もひき逃げと二人組がつながっている線で捜査するようだった。
 入院患者という身でもあり、芳斗はまもなく病院に戻された。新たな情報が入ることを考えて、病室には帰らずロビーのソファに腰掛けた。じっとしてはいられぬ気分だった。代志乃は重症のはずだ。その彼女を連れ去るなんて人間のやることじゃない。改めて二人組への憎悪を覚えた。あれからだいぶ経つ。もう事切れているかもしれない。生きていてくれよと祈るしかなかった。
 そばに誰かが坐った。現場検証のときに見た初老の刑事だった。ひき逃げに加え拉致も絡んでる凶悪事件と聞いて数名の刑事がきていた。
「同級生かもしれないんだって、被害者は。ショックだったね」
 刑事はしんから同情するように話しかけた。年輪を実感させる落ち着きに満ちた、ややスローテンポな喋り方の人情派刑事である。ぼさぼさ頭に年期の入ったコートも妙に似合っている。似た人をどこかで見たことがあるような気がした。
「我々も全力を尽くすから、あんまり気を落とさんでな」
「ええ。そうですね」彼はぽつりとこたえた。口を開くのが大儀だった。
「実はね、この事件。ひとつ大きな疑問点があるんだな」
 刑事が側頭部を掻きながら芳斗に話し始めた。「加害車両の遺留品が全くない。被害者をはね飛ばしたら塗料の欠片は残っているもんだが、一切見つからない。ほんとに事故はあったのかと思うくらいだ」芳斗は少し不安になった。
「つまり、ぼくが狂言でかついでると言いたいんですか」
「いやいやいや、その他にも不可解な点が多くてね。たとえば、きみは病院の窓から被害者が同級生だと、なぜ確信できたのかね。双眼鏡でも覗いていない限りあの距離では判別できないはずなんだが」
「ですから背格好や着衣に見覚えがあって」
「それはただの思いこみかもしれん。似た女子中学生は他にもいるよ」
「わかりました。ぼくの思いこみだったかも知れません。でもひき逃げはたしかに起きました」
「いや、わたしはね、被害者が同級生じゃないほうがきみも安心できるんじゃないかと思ってね」
 回りくどい気遣いはやめてほしいな、と彼は腹の中でぼやいた。
 そこへ角刈りの筋骨たくましい、犯人が抵抗しようものなら一本背負いで投げとばしそうな若手の武闘派(ぶとうは)刑事が登場して、年配刑事に小声で伝えた。「森谷(もりや)さん、杉伊でしたよ、病死したのは」
「そうか、全く顔に似合わぬ大胆な()だな」
 芳斗は角刈り刑事の顔を見た。何か感じるものがある。ひょっとして、あのとき彼と行動を共にした女性のことではないのか。芳斗は角刈り刑事が立ち去ると、森谷という刑事にさりげなくたずねた。「あのう刑事さん、デパートに侵入した女の人、何か盗んだんですか」
「ああ、あの娘だが、まだわからん。取り調べもできんくらい体の具合が悪くて、近所の病院に入れておいたら、そこで騒ぎがあって、まあ、クモのおもちゃが歩いているのを見たばあさんが腰抜かしただけなんだが、その騒ぎのすきに脱走しちまって。捜していたんだよ。さっきこの病院に身元不明の女が運ばれて亡くなったと聞いて、容貌が共通しているようだから確認に行ったんだが、やはり本人だったよ。病気だったというからな」
 屋上で彼女がうずくまったのは、病気のせいだったのだろう。顔を合わせたのはほんの数分、交わしたことばも一言二言、かすかな関わりだったが芳斗には彼女の理知的で機敏な行動が忘れられなかった。尊敬していたといってもいい。その、杉伊という名の女性の死は、胸に重くのしかかった。
「重病ならデパートなんかに忍びこまなきゃいいものを。訳わからん女だよ」
 さきほどから不快感を抱いていた芳斗は、女性を揶揄(やゆ)した言い方が我慢ならなかった。「刑事さん、その女性はそんな人じゃないんだよ。どうにもならない事情があったんだよ」
「おや、きみはあの娘の知り合いだったのかい」
 刑事は芳斗の語調に驚き聞き返した。
「いえ、ただそんな気がしただけです」
「そうかい。いやあ、デパートの警備員によるとね、彼女にはもう一人共犯がいたらしいんだよ。そして共犯というのがどうも中学生らしいんだな。制服につける校章のバッジが階段に落ちていたわけだ。きみ、その生徒に心当たりがあるとか」
 心臓がどきんと鳴った。あわてて否定した。「あ、ありません」
「きみ自身がその生徒だってことは」
「む、むろんありません」
「きみ、なにか隠しちゃいないかな」
「いやなにも」
「重ねて訊くが、きみは共犯ではないんだね。今、白状すれば罪は軽くなるし、ご両親もあまり心配させずにすむ。実を言うとね、店内に設置された赤外線暗視カメラにばっちり顔が映っていたんだな」
 芳斗は色を失った。まさか決定的証拠を撮られていたとは…… もはや認めるしかないじゃないか。がっくりうなだれ、「申し訳ありません、そのとおりでぼくが」
 消え入るような声で自供を始める彼の耳に、刑事のかん高い笑い声が聞こえた。
「ははは、冗談だよ冗談。共犯者もカメラも全部ウソ。きみがあんまり沈んでいるものだから、気をまぎらわしてやろうと、ちょっと芝居をうったんだが見事にひっかかっちまった。どうもきみは暗示に弱いタイプらしいな、人にだまされやすいようだから注意したほうがいいよ」
「はっ?……」
 芳斗はしばらく呆然としていた。冗談だったの……。
「そ、そうですね、気をつけます。じゃ、ぼくはこれで失礼します」
 当てずっぽうが的中していたなんて恐ろしく勘の働く、風采からしても和製コロンボ刑事である。でも考えてみたら、自分には完璧なアリバイがあるんだったとベッドの上で苦笑いしていると、ノックの音がしスライドドアがゆっくり開いた。
 その入室してきた二人の客の一人を見て、目を疑った。部屋がくるくる回転したようなめまいにも襲われた。槙田代志乃であった。隣の遠藤日登美は彼女の影みたいなもので、つまりいないも同然だった。
 スクールバッグを腕に下げた代志乃は挨拶しようとして口を開き、芳斗のただならぬ表情に驚いてことばを飲みこんだ。ドアが開いたときの笑顔も一緒に消えた。一切事情を知らぬ日登美だけが軽やかに、しかしながら他の入院患者に配慮し小声で切りだした。
「あら、もう起きてていいの。今日はね、お見舞いにきたんだよ。うれしいでしょ、美女二人の顔が眺められてさ」
 芳斗と代志乃の間に重い空気が挟まっていることに気づき、日登美も真顔になった。
「どうしちゃったのよ、二人とも黙りこくってさ。病室で暗くしちゃだめだよ」
 なんとか雰囲気を和ませようとする日登美。代志乃がようやく口を利いた。
「ねえ、何があったの」
 未だ全身が硬直した状態で芳斗はぼそっと言った。「きみはひき逃げされたあと、二人組に誘拐されたのじゃなかったのか」
「寝ぼけたこと言わないでよ」日登美が手に持ったバッグを揺らしながらせせら笑った。「代志乃は学校上がってすぐ、歯医者に行ってたんだよ。あたしもつきあって待っていたわけ。治療が終わったその足で秋山君のもとに駆けつけたんだから。あ、少ないけどこれお見舞い」
 スーパーで買ってきたらしい、清涼飲料水や菓子類の詰まったポリ袋を近くに置いた。見舞いにきてくれたのは嬉しかったが、今の日登美はうるさいだけだった。その気持は代志乃も同じらしい。いきなり両手を合わせて日登美に言った。
「ごめん。ここを外してもらえない。秋山君に大切な話があるの。変な話じゃないよ。いてもかまわないけど込み入った内容だから、事情を知らない日登美には理解しづらいと思って……」
 ささやき声で言われると真実味がぐっと増してくるものらしい。一瞬納得しかけ、不満そうにふくれる日登美。「でもさ、お見舞い行こうと誘ったのは代志乃なんだよ。いてもかまわないのならあたしにも聞かせてよ」 
 代志乃は困った表情をし、決心したように少しはにかんで言った。
「本当は、二人だけの内緒の話なの……わかってよ」
 二、三秒間の沈黙後、日登美が大きく何度もうなずいた。
「やっぱりそういうこと。乗り換えちゃったんだものね。それじゃ帰るわ。気が利かなくてごめんね。じゃ、ごゆっくり、お大事に。それから下平君あとでくるって言ってたからね」
 日登美が退室するなり、芳斗は他の患者を考慮しベッドから出て代志乃を病室の外へと促した。休憩コーナーに行き椅子に腰かけるなり、窓から見える八幡宮を示しながら早口に話し始めた。
「槙田さん、きみを目の前にしてこんなこと話すのは不思議でならないんだが、あの『書き置き』の事件が発生したんだよ」
 事件のすべてを、彼が見たこと聴いたこと全部語った。
「警察ではきみの行方を必死になって追っているはずだ」
 これ以上は驚けないという表情で、代志乃が八幡宮から芳斗に視線を移し感想をもらした。「あたし、事故なんか遭ってないのに。どういうことなの?」
 これまでの体験を考えると、タイムリープ現象が彼女にも起き、未来から時間を逆行してきてクルマに轢かれ拉致された、と仮定すべきなのだ。
「うん、だからやっぱり」芳斗は改めて彼女の容姿を上から下まで眺めなおした。あのときと寸分違わぬ容貌だ。それは自信ある。しかしながら間違いなく本人だったかと問われれば、きちんと顔を判別できたわけでもなし、被害者が代志乃という確実な物的証拠が残っていたわけでもない。風貌の相似した女生徒を例のメッセージの先入観によって、代志乃と思いこんでしまった可能性もありえるのである。
「いや、似た人と見間違えたかもしれないな。あ、それより、きみケータイは持っていたのかな。呼び出してもつながらなかったと警官が言っていたけど」
「一度没収されたことあるんだもん、持っているわけないじゃん。家に置いてきてるよ毎日」
 似た人のついでにオレンジ色の服を着た少女の話もしたが、彼女はそんな洋服は持っていないとのことだった。
「まあ、とにかく何事もなくてよかったじゃない。まだ謎が残っているけど、たぶんこれで事故の危険性はなくなったと思うよ」
「ね、秋山君」まさに腹の内を見透かしたように代志乃の眼が笑った。
「本当はあたしがこれからあの神社に行き、過去に戻って事故に遭うと思っているんじゃない」
 まるで他人事のように代志乃はさらりと言い、頬のぴくつきを確認したらしくまた笑った。否定しようとするのを彼女は遮った。
「もしかしたら、すごく変わったデザインのブローチ、裏に留め具が付いてないからオブジェらしき小物、持っていない?」
「え!」芳斗は思わずうなった。フリーマーケットでおまけにもらった代物ではないか。
「あるんだったら見せて欲しいんだよね」小首を傾げてほほ笑む代志乃にいやとは言えない。病室に行って制服のポケットから取りだしてきて、代志乃に見せるや目を丸くした。
「やっぱり、秋山君も持っていたんだ。それと同じものねえ、ずっと前からおじいさんの家にあって、あたしその風変わりなデザインが気にいって欲しかったんだけど、これはあげるわけにはいかないと言われて触れさせてももらえなかったんだ」
 ちょうだい、といわんばかりに眼をらんらんと輝かせている代志乃の気持ちを、これまた無視するわけにいかない。「だったらきみにあげるよ。ぼくはあまり興味ないし、とにかく人目をひく斬新さだものね」
「いいの、ほんとに。あとで返せって言わないよね」
「ぼくも男だ、二言はない」
「ありがとう。それにしても秋山君がこれを持っていたなんてねえ。名前も似てるし、あたしたちって不思議な縁があるみたいね」
 芳斗も同感だった。この一、二日信じられない偶然が続き、見えぬ糸でつながれている気がしてならなかった。距離が急速に縮まり、特別な存在に思えてきたのもたしかだった。
「この縁がずっと続いてくれたらいいね」
「ま、まあね」芳斗は返事に窮してあいまいにうなずいた。内心うれしくてたまらなかった。かなり悲観的にみてもこれは遠回しの告白である。大体にして彼の願いどおり見舞いにきてくれたのだ。特別な感情を抱いていると断言していい。自分にも春が来たのだ。
「あたし考えたんだけど」急に声のトーンを低くして代志乃が言った。ついにデートの誘いかと胸をときめかせていると。「たぶん、いえ絶対にこのオブジェのせいだと思う」
「何が?」
「秋山君に起きたタイムスリップだよ。おじいさんも話していたもの。人間には元々時間を跳びこえる超能力が眠っていて普通は発揮できないけど、このオブジェはその能力を引き出すんだって」
 にわかには信じられない話ではあるが、豊富な実体験を持つ芳斗には頭の中にすうっと入ってきた。やっと彼女の考えが読めた。
「まさかきみはこれから神社に行って、試すつもりじゃないだろうね」
「そのまさかなの」
「気はたしかかよ、わざわざひき逃げ事故に飛び込んでいくなんて」
 好奇心ではすまぬ危険行為である。
「だって、あなたが観てきた未来ではあたしは普段通りの生活していたんだから、何を心配することがあるのよ」
「そりゃそうかもしれないが、そんなことしてどんなメリットがある。現場近くには大量の血痕もあった。大怪我したんだよ」
「そんなに負傷したんだったら、ますますあたしじゃなかったということじゃないの。それに目撃者の小学生は、被害者の中学生が歩いていったと証言しているんでしょうが」
「それは犯人たちに言い含められたからさ」
「子供は正直なの。脅されたって嘘はつけないよ。第一、言い含めるくらいだったら、連れ去るか殺すはずだよ犯人たちは。つまり、男の子の目撃は真実なんだよ」
「何メートルもはね飛ばされて無傷だったなんて、ありえないよ。血痕という証拠があるじゃないか」
 代志乃は鼻を鳴らした。「うーん、実に何とも矛盾の多い事件ね。これは真相解明のために、是が非でもタイムスリップしてみるべきだな」
 頭を大きく縦にふった。
「秋山君、タイムスリップする時のこつとか知っているんじゃない。教えてよ」
「そんなこと知るもんか、すべて偶然起こったことだ」
「でも、どこか共通する点があるはずだね」
「教えない。きみの考えには断固反対」
「今までの話からすると、痛い思いや怖い思いがきっかけになったみたいだけど。タイムスリップもののSFじゃ、たいてい恐怖とか驚きが引き金になってるんだよね」
「さあどうでしょう」
 代志乃は降参したというように口を(とが)らせた。「わかったよ、帰ればいいんでしょ」
「そう、すぐに帰宅して両親を安心させることが大事だよ。なにせ渦中の人なんだから」
「でもさあ、その前に一度だけ試してみてもいいんじゃない。それで何もなかったら、被害者はあたしじゃなかったって証明になるんだよ」
「そりゃ、そうだけど」
「逆にあたしだった場合、起きてしまったことに干渉するわけで、その反動でもっと悪くなるかもしれないじゃん」
 よくわからないがそんな理屈もありかなと思い、芳斗はうなずいていた。
「ま、あたし未来でピンピンしてんなら心配ないって。それより秋山君、明日学校に出てこられる? きっとみんなにもなんだかんだ訊かれるし、ひとりだと心細くて」
「一応退院は明日だって聞かされているから。でも待てよ、病院の先生にお願いして今日のうちに退院させてもらおうかな。もうどこも悪くないんだし」
「そんな、無理にとは言わないよ」
「いやぼくだって気がかりだしさ、試験も近いんだし、第一、病院にいればいるほど費用はかかるわけだし。よし決めた、今日退院だ。明日試験があると言えば医者も認めるさ」明日は登校すると決意したとたん、ある考えが浮かんだ。
「それでどうだろう、授業の前に木村先生に事件の概要を話しておこうよ。二人で話せば先生もきっと信じるだろうし、朝のホームルームでみんなにも適切な説明をしてくれるよ。そのために明朝はいつもより三十分ほど早く登校して話のプランを練っておこうよ」
 昨日、代志乃の自宅を出るときにも同じような約束を交わしたのだった。
「うん賛成」先のことなどみじんも苦にしてないさわやかな笑顔で「それじゃお大事にね、さよなら」と言い、代志乃は去っていった。
 芳斗はさっそく担当の医師に退院を請願した。医師のほうも芳斗のすこぶる快調な様子から後遺症はないものと判断し、思いのほかすんなりと承諾した。

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