第 7話

文字数 4,882文字

 事件当夜、帰宅後すぐに現場の再生を視た垂水、翔一郎、若奈の三人は落胆のあまりしばらく口を利けなかった。万一のために二機設置しておいた小型ビデオカメラのどちらも、全く録画されていなかった。誰かが故意にスイッチを切ったとしか考えられず、真犯人の二人組にまたやられたわけである。しかもカメラを持ち帰らないで、単にスイッチを切っておくあたり悪意のほどが感じられ、余計腹立たしかった。
 悪いことは重なった。翌日、若奈は体に走る激痛に見舞われ、垂水の知り合いという個人医院の医師から鎮痛剤の投与を受けた。会ってみると医師は病気に対して独自の見解を持っており、処方される薬剤の種類や調合もその理論に基づいているようだった。それで治癒した患者が多くいるわけだから、間違った診療はしていていないのであろう。
 さらに垂水と翔一郎が作り始めたコファーは、きちんととっておいたはずの設計図の一部欠如から大きな壁にぶつかり、その解決のために垂水は桧原の元に向かっていた。
 翔一郎の移入した田村輝彦はごく普通の独身サラリーマンで、人格交換のためにあらかじめ何日かの休暇をとっていた。だがその日数だけでは足りなくなったので、翔一郎は田村の上司に連絡し適当な口実でもう数日休暇を延長してもらった。 
 コーポの住人には、若奈は翔一郎の妹(事実そうなのだが)で遠くの実家から遊びにきている、ということにしていた。若い女と同棲中と見られては後に田村が迷惑すると配慮したわけだが、これがつい昨日の夕方、問題になったばかりであった。
 田村には島津(しまづ)恵美(えみ)という婚約前の恋人がおり、人格交換期間中のトラブルを考慮し出張という口実を彼女に与えていた。携帯電話も電源を切ったままだった。ところがその期日が過ぎたため突然、恵美が訪ねてきたのである。
 出張帰りの田村に会えるということで、恵美はつい茶目っ気をだしドアの外で後ろ向きになり、時代錯誤(じだいさくご)の手法ではあるが彼が顔を見せたら「バア!」と振りむいてびっくりさせるつもりだった。そこへスコープを覗いた若奈が、なんで背を向けているか知らないが見たところ女性だし、たぶんセールスだろうと判断してうかつにもドアを開いてしまったのだ。
 大口あけ目をむき出した恵美が「バ……あ、?」と言ったきり凍りつき、若奈のほうも部屋にあった写真で顔は知っていて、その本人と気づいて蒼くなった。両者とも予期せぬ女性との対面に度を失った。
「あなた誰なの?」田村より年上そうで(実際は三歳上、しかもバツイチ)気も強そうな島津恵美は、相手が自分より若くて美貌も上と判断するや、目をつりあげて厳しく問い詰めた。「どうして、こんなところにいるのよ」
「わたしですか? 輝彦さんの妹、じゃなくていとこで遊びに来てたんです」
 田村に妹がいないことぐらい彼女も承知だろうと、とっさに言い換えた。騒がしさに何事かと現れた翔一郎は恵美の姿で事態を把握し、動転のあまりのけぞって頭を押さえた。そのあわてぶりを恵美はますます怪しいとにらみ、刺すような視線を若奈と翔一郎に交互に浴びせた。が、何を思ったか表情を崩し恋人に甘えるというより、教育ママが出来の悪い息子に勉強させようとする猫なで声で訊いた。
「ねえ、輝彦ちゃん。このひと誰なのぉ、教えてぇ」
 したたかな女だと感心しながら若奈も、翔一郎に大きくうなずいて同意を求めた。
「イトコだよねー」
「ああ、そうだそうだ、従妹だよ」
 妹が平気でうそぶいているというのに兄のほうは動揺が隠せない。恵美は「あら、そう」と言いながらも完全に疑惑の表情である。こうなりゃ退散するのが一番と若奈は突然、あはははと甲高く笑い「ごめんごめん、せっかく二人っきりのいいところを邪魔しちゃって。じゃ、わたし帰るから、ごゆっくりどうぞ」
 奥にいってコートとバッグをわしづかみにして戻り、ひきつった顔の翔一郎に満面笑みのままで片手を振った。
「じゃあねー、バイバイ」
 おれをこの場にひとり残す気か、とすがりつくよな兄の目が気の毒になり助け舟をだした。「恵美さんでしたっけ、輝彦ちゃん、風邪気味で気分よくないそうですから、そっとしてあげたほうがいいですよ。じゃお大事に」
 ドアを閉める寸前、さっそく激しくせきこむ輝彦ちゃんの声が響いた。
健闘を祈る。若奈はくすくす笑いながら心の中で兄を励ました。それからたっぷり一時間を近所の喫茶店でつぶし、部屋に電話を入れると恵美はちょうど帰った後だった。
 翔一郎はいかに恵美の追求が激しかったかを物語るようにぐったりしていた。いやいやながら彼が話したのはこうだった。風邪で頭が痛いと主張しようがゲホゲホせきこもうが「あの女、誰なのよ、どんな関係よ」の一点張り。翔一郎も田村への責任上二人の仲を壊すわけにはいかないので、あれやこれや必死に弁解したのだが、彼女は部屋に女物の衣類があるのを見つけヒステリックにきーっと叫んで、「これはなによ!」しばらく無言の後、わーっと泣き出した。と思ったらぴたりと泣きやみキッチンで文化包丁を握り、自らの喉に突き立て「あの女と別れなきゃ、あたし、のどカッ切って死ぬ!」。大変な騒ぎだったのだそうである。
 その流血の惨事寸前を上手く元のさやにおさめたというからたいしたものだが、どのように丸めこんだかは翔一郎も言いにくいらしくうやむやにした。どうやら彼がぐったりしたのはそちらに精力を傾けたからと、若奈はにやにや想像した。しかし以来、彼女はこの部屋にいることに落着かず、どこか後ろめたさを感じるようになったのだった。
 それも今日限り。デパートへの侵入事件で捕まり逃走後小夜子が亡くなるのは『明日』なのである。垂水からは桧原の所在が掴めずしばらく時間がかかると連絡があり、帰還の人格交換は絶望的となっていた。
 二人にとって重要なのは過去に戻って起こるはずの出来事を阻止し未来を変えられるかという一点だった。もしそれができるのなら、あらゆる事故や事件、更には病気でも命を落とさずに済むし、悪事に使うならば殺されるはずでなかった者が殺されたりと、良くも悪しくも好き勝手できる。自分たちのような一般人でさえ時間を遡ることはできたわけだからこれまでにもコファー、もしくは他の手段でタイムリープし過去を変えようとした者は存在したはずである。その結果未来は変えられたのか。この疑問に二人は幾つかの説を考えてみた。
 1、有名映画みたいに結婚するはずの両親の仲が遠くなれば自分の体が徐々に消えていく。破談になれば消滅する。つまり関係した人たちの未来は超現実的変化を遂げる。
 2、過去に戻って歴史を変化させたこと自体既定の歴史であり、つまり変えられないし変えたことにはならない。両親の結婚を阻止しても絶対邪魔が入り自分は消えない。
 3、過去に戻った時点でそこは並行(へいこう)世界のひとつで、行動のままに変えられる。両親の破談も可能。しかもそこは別の世界だから自分は消滅しない。
 「1」については大きな矛盾が存在する。過去に戻って何らかの行為をした結果両親の結婚がなくなった。自分は産まれない。産まれない自分が過去に戻るというパラドックスである。
 そうなると「2」が最も有力なのだが、これまで空想レベルで片づけられた並行世界が量子物理学の理論では存在するというから「3」にもかすかな期待が持てるわけである。望む方向に未来を改変できるなら別の世界でもいいわけで、とにかく最善を尽くそうという結論に落ち着いた。
 そこで当面の問題だった。病死は避けられないとして、侵入事件は部屋にじっと()もっていれば阻止できるのではないか、と提案する翔一郎に若奈は反対意見を述べた。あの二人組が侵入事件にも絡んでいることは確実で、たぶんこのコーポもつきとめられてしまい、部屋にいれば翔一郎にも身の危険が及ぶ可能性がある。小夜子がいつどんな形で事件に巻き込まれ、なぜ明け方のデパートにいたのか誰も知らないのでは普通に行動するしかない。と反論し翔一郎を納得させた。
 腹をくくるしかないことであり、恐怖は湧いてこなかった。いつも通りに過ごそうね、と笑って言うと兄も笑顔で同意した。
 日もだいぶ傾き、若奈は買い置きの食材が底をついているのに気づいて、コファー製造に没頭している翔一郎に声をかけた。
「わたし買い物に行ってくる。最期の晩餐(ばんさん)は、豪華にするね」
 残った一部の設計図が届かないので想像で製作するしかなく、完成しても機能しないことは明らかなのだが、まるで大差をつけられて臨む最終回の高校球児のように諦めることなく必死に取り組んでいた。
「ああ? ああ、気をつけて行ってこい」言葉の意味を理解し、さすがに少ししんみりした口調で翔一郎が応えた。
 翔一郎の周りにはペンチやニッパー等工具の他にピアノ線、銅線、針金の切れ端、色々な鉱石等が散乱している。ソーラーパネルに光をあてると発電するように、金属線の幾何学模様に数種の鉱石の組み合わせが天と地のエネルギーを変換し、人間の奥深く眠っている特殊能力を引き出すという理論らしいが、苦心(くしん)惨憺(さんたん)している翔一郎が言うには、ついうとうとして見た夢にメイトン星のエルコンと名乗る異星人が現れ、銀河の大宇宙と人間を(つな)ぐガジェットだと教えられたという。そんなことはどうでもいいから設計図を教えてくれと念じたが、もう夢に登場することはなかった。とにかく複雑かつ精密な装置の製造作業であり、その熱意のほどを眼にすると若奈も胸が熱くなった。あえて明るく冗談をとばした。 
「うれしいでしょ、わたしが出ているときは恵美さん、きても心配ないものね」
「バカ言うな。とにかく早く帰ってこい。へたに道草くってあいつらにでも出くわしたら、大ごとだぞ」
「心情的にはそうだけど、出会わなきゃ困るのよね。コファーを奪い返すチャンスはそのときしかないもの」
 笑う若奈に翔一郎はまた口癖の「バカ言うな」をぼやいた後、しばらく考え込んだ。「そうか、そうだな。やつらだってぼくたちを探しているわけだし、むしろ会う確率は高いかもしれん……しばし待たれい」
 がちゃがちゃと引き出しをひっかきまわし、妹にあるものを差し出した。
「備えあれば愁えなし、予備はあるから発振機を持ってゆけ」
 運良くコファーを取り戻しても、人格交換では逃げられない。だが発振機の電磁波によって未来にタイムリープすることができる。その発振機自体も特定の周波数の電波をボタン電池四個で最大十二時間強、十メートル範囲内に発生し続けるシンプルな構造なので、何機か製作していたのだ。石橋を叩いて渡る主義、言い換えると心配性の翔一郎は続けざまに忠告した。
「それに防犯スプレーとあれも持っていたほうがいいぞ。おまえの得意技だし」
 スプレーは常に携帯しているが得意技とは? ああ、あれか。
「いいか、コファーを奪い返したらすぐに帰還の場所に行って人格交換するんだぞ。おまえが助かるにはそれしかないんだから」
「了解。そうならなかったら、御馳走買ってくるね」
 ここから最も近いスーパーは五分ほどの距離である。その少し手前には問題のデパートがある。デパートの前を通ることになるが、スーパーで買い物を済ませさっさと帰宅するつもりだった。
 早足で歩いている最中、知らずに蹴った空き缶がカランという音をたてて歩道の隅に転がった。まるで自分が捨てた物のように無意識のうちに拾い上げた。中学、高校時代隔月清掃会では稼がせてもらった。その癖がつい出てしまったわけである。
あのころは小遣い銭欲しさにゴミ拾いしていたが、今となっては清潔な環境の大事さがよく解る。環境の美しさが人々の心の美しさに繋がっているのだ。主催者側は神社付近の掃除を重視しており、境内の草取りや落ち葉のかき集めなど結構大変だった作業を懐かしく思い出した。
 少し先の自販機の側に缶用のゴミ箱があり、その中に空き缶を落とした直後だった。
「あの、もしかして……小夜子さん、じゃありませんか」
 背後で声がした。    
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