第20話

文字数 10,051文字

「やあ、うまくいったうまくいった」
 森谷はまるですべてが片付いたかのように浮かれていた。
「それ言うのは、被害者を無事救出したあとですよ」たわいのない成功で単純に喜ぶのがしゃくにさわり、芳斗はシビアな口調でたしなめた。
「うまくいったとはいえ、大幅なロスタイムですよ。三時半まであと二十五分ありませんよ」刑事の機転でロープが入手できたのだから、感謝の一言ぐらい述べるべきなのだろうが、なぜか素直に言いだせなかった。
「そうか、以外に手間どったもんな。どうだ、タクシー呼ぶか」
「そんなヒマあったら走ったほうが早いです。でもこれ無断で借りてきて悪い気がしますね」芳斗は着用している雨合羽やマスク、アミゴーグルをさわりながらすまなそうに言った。
「しゃあないよ。状況が状況だったんだから。それにしても、変装用具が全部自分んちのものだと、案外気がつかないもんだな」
 こういう経緯で彼が雨合羽を着ることになるとは、時の力の偉大さには感服するばかりだった。改めて人の力では時間の流れはどうにもならぬ、という認識を強めたのだった。
 しかし、と彼は想像してみずにはいられなかった。もしこれから八幡宮に行くのをやめたらどうなるだろう。ひき逃げは発生し、病院にいる芳斗は目撃するだろう。だが共犯と思われる二人組は存在しなかったことになる。当然現在の芳斗の記憶からも二人組は消え去り、こんな変装をしてロープを手に入れる骨折りもしなかったはずだ。
 それよりも、もし森谷の提案どおり代志乃を保護しにいったら、事件は起きないし小夜子と共にタイムリープする必要もなくなり、彼女だって死なずにすむのだ。ただそれだけの行為で、二人の人間を救うことになるのだ。 
 不意に足どりが鈍ったが、その考えを追い払った。あくまでも想像内の理屈である。逆らったとたん、そうはさせぬとばかりに様々な不可抗力が襲ってくるかもしれない。それはやってみなければわからないけど、彼には試す勇気がなかった。何かとんでもない結果を招きそうな恐怖があった。
 結局、芳斗は目撃したとおりの行動をなぞるしかなかった。少なくとも代志乃だけは確実に救えるのである。
「ふう、やっと着いた」防塵マスクは外したもののゴーグルと雨合羽はそのままだったので、鳥居の前に到着したときは全身ポッカポッカで額に玉の汗が浮いていた。脱ぎたくても例の小学生児童、それも二人がもう境内で遊んでいる。防塵マスクをまた装着した。
 小学児童たちは二人に関心を示しながらも芳斗の、どう見ても善良な市民ではない風体を恐れてかそれ以上近寄ってこなかった。その児童らにここで素顔をさらしていたら、どえらいことになっていたのだ。今となってはこんなコスチュームをさせてくれた森谷に感謝しなければならなかった。後々のことを考慮し、彼は森谷にもできるだけ顔を見られないよう頼んだ。
 その上で児童らには申し訳なかったが「こっち見んな、とっとと帰れ!」と野太い声で怒鳴りつけた。怯え顔でそそくさと境内を出ていく児童たちを見ながら、これじゃ余計悪い印象を与えてしまうな、と自己嫌悪に陥った。
 ロープを解き先端を投げ縄のように直径一メートルほどの輪に結ぶ芳斗に、さっそく刑事が質問を投げかけた。「それどういう具合に使うのかね」
「つまりですね、この輪を道路に設置して電柱の足場ボルトにロープに引っかけ、滑車代わりにするんです。輪の中に被害者が現れたら、木から飛び降りて宙に浮かせるわけです。もちろんぼくだけじゃ足りませんから、刑事さんにも飛んでもらいます。すると、見事に彼女は釣り上げられるって寸法です」
 森谷がそんなアホなという顔をした。「釣り上げるって魚じゃないんだぞ。もしロープが被害者にひっかからなかったら、終わりじゃないか」
「ご心配なく、必ず上手くいきます。上手くいったから彼女は歩いていなくなったんですよ」
 自信たっぷりに言い切る芳斗だが、小夜子のかけた催眠効果も薄れてきたのか、停年間近で頭の硬くなってきた森谷はすんなりと信じてくれない。
「きみ。物事ってのはねえ、思いどおりにいかないのが常なんだよ。きみは自分の目撃を最も都合のいいように解釈していないかな。こんなマンガみたいな方法が上手くいくなんて百年に一度の奇跡だよ。この際、因果律など考えんで道路にとびこもうぜ、男らしくてカッコイイじゃないか」
 どうやら刑事も不審な二人組が自分らであるのに勘づいたらしく、ロープの使用に否定的な言い方である。芳斗は角度を変えて説得した。
「でもそれだって難しいと思いますよ。森谷さん信じられないでしょうが、被害者はまるで魔法のように忽然と路上に出現するんです。しかもそのときクルマはわずか数メートルの距離、時間にして一秒そこそこです。タイミングを逸したら一緒に轢かれちゃいますよ。これしかないんです」
「しかし、ほんとかねえ」森谷は懐疑的に腕組してうなった。つりこまれたわけではないが、だんだん芳斗も不安になってきた。二人のジャンプするタイミングに狂いは許されない。一瞬を逃したらおじゃんである。
 そんな至難の、文字通り瞬間芸が自分たちの手によってなされるとは自信なかった。しかし、すぐに弱気の自分を打ち消した。その後の状況からして成功したのは事実である。あれだけ受難が続いたのだから、奇跡めいたことが起きてもいい頃だ。
 納得いかぬ表情の森谷に、とにかく合図したら飛び降りてもらうことを約束させた。
「まあいいとして一発勝負じゃ難しくないか。リハーサルしてみてはどうだ」
 森谷はどうしても不安を拭えぬようで忠告した。
「そうですね」思うところは芳斗も同じで速攻試してみることにした。二メートルの高さにある一番下の足場ボルトにロープをかけ森谷に先端を掴んでもらった。ボルトを支点にロープの角度が直角以上になるくらいの位置でぶら下がると、森谷の腕が上がっただけで体を浮かせるのは無理だった。太さ数センチの足場ボルトに滑車の働きを求める自体間違いなのだ。
「滑車が必要だな」森谷が唸るように言い、芳斗も舌打ちしてうなずく。
「よし、わたしがホームセンターへタクシーで行って滑車を買ってくる。きみはここで待っていてくれ。もし間に合わなかったら、きみがひとりでやるんだ。そのために滑車の代用品になるものを見つけておくんだぞ」森谷はケータイを出した。
「でも刑事さん。お金大丈夫ですか。さっきないって」
「ないとは言っておらん。きびしいだけだ。きみはそんな心配せんでいい」
 万一にと小夜子のミニバッグを差し出すと刑事は喜んで受けとった。電話しながらタクシーのくる方向へ歩きだした。残された芳斗は滑車の代用品を捜そうとして、この格好で歩き回るのはまずいと考え直し、人目につかない場所で待つことにした。あと二十分の間に、森谷が目的の品を買って戻ってくるのは確定している。
 事件発生時刻まで五分を切り待ちかねた芳斗が歩道に出ると、三十メートルほど先で停まったタクシーから森谷が降りてきた。何で近くまでこないのかと駆け寄った芳斗に森谷が説明した。
「すまん。料金が上がりそうだったので降りた。買ってきたぞ、高い出費だったよ」
 彼が手にしていたのは長さ十五センチあまりのフック型シンプルスナッチだった。金属製で四千円近くする。それで人の命が救えると思えば安いものだ。250キロが限度とあるから女子中学生ひとりなんて軽いもの。片側に二人の体重がかかってもまだ余裕ある。足場ボルトもその加重には耐えられるはずだ。
 滑車部分にロープを通し樫の木に登り太枝を伝い、電柱の真ん中辺にある道路に対し横向きの足場ボルトにシンプルスナッチのフックを引っかけた。こんな使い方するのは初めてだろうと思いながら木を下りると、リサイクル品回収の声が聞こえてきた。もう試してみる時間はない。
 輪にしたロープをさりげなく路面に設置し、また樫の木に登った。二メートル近い高さの足場のしっかりした幹と枝の分かれ目に腰を落ち着け、大体の長さのロープを手繰りよせた。出現地点から電柱までは二メートル以上の距離がある。滑車は彼の場所から斜め上方、地上から大体三メートルの高さだ。目算では角度五~六十度くらいで代志乃は引き上げられるはずだ。
 森谷刑事も意図を理解したのかあわてて木に登り、芳斗より若干低い位置でロープを腕に巻き付け幹にしがみついた。飛び降りるには勇気が必要な高さだが、人の命がかかっていると思うと怖さを感じない。
 右手より直線道路を幸いに、制限速度をオーバーしてスポーツカーがみるみる迫ってくる。片手に発振機を握り右手でロープを握った。効果のほどは不明だが、小夜子の指示と受けとり発振機も使ってみるつもりだった。
ドライバーは若者。ケータイを耳にあてて談笑中だ。目標地点まで十メートル切ったあたりで、勘にまかせて装置のボタンを押した。
 とたん、天から降ってきたようにぱっと代志乃が、しかも見事ロープの輪の中に出現した。発振機を放り投げ、輪がすり抜けないことを祈りつつ、「ダァー」のかけ声で道路の反対側へ飛び降りた。森谷刑事の場合、かけ声に合わせたよりもしがみついているのが我慢できず落下したようだった。
 ロープに若干の抵抗を感じながらも、かなりの衝撃で着地し股関節に痛みが走った。振り向く直前、スポーツカーの急ブレーキ音に混じって代志乃の「キャーッ!」という悲鳴が聞こえた。急激な勢いで引き上げられ脇や胸に相当の痛みが走ったはずだ。
 胸元をつり上げられた彼女は、計算通り斜め五十度以上の上昇線を描いて電柱めがけて浮き上がり、二メートル近い高さで一瞬静止した。後ろ向きで落ちて転倒した刑事がロープを放してしまい、芳斗の腕に代志乃の全体重が一気にかかった。引っ張られ彼もロープを手放してしまった。制服のスカートを目一杯ふくらませた代志乃は、電柱の根元すれすれに一旦両足をついたものの、どすんと尻もちで着地した。また悲鳴を上げ、痛さに顔をしかめる代志乃。
 急ブレーキで二十メートルほど先に停止したスポーツカーのドライバーは、突如出現した歩行者がロケットのように飛び上がる非現実的光景二連発に(きも)を潰し、しかしながら衝突したわけではなく歩道に座り込んでいる姿を窓から頭を出して確認、今の、何だったの? みたいな顔で首を傾げた。とりあえず自分に非はないことを認めると走り去った。
「こんなことが上手くいくなんて、夢を見ているのか!」森谷が天を仰いで驚愕の声をあげているうちに、芳斗は手をさしのべ助け起こした。
「どう、空を飛んだ気分は」
「いたた……あ、わたし……どうなったの?」
 代志乃は何が起きたかわからない様子で、周囲を忙しく見渡した。別に怪我した様子はない。まもなく雨合羽の人物が芳斗であり、彼によって救出されたことを理解すると胸のロープをほどきながら、あることに気づいてささやいた。
「スカートめくれて、見えちゃったでしょ」
「かもしれないな」芳斗は目線を上に泳がせて返答した。空気抵抗に加え延びた小枝に引っかかり、まる見えだったとは言いにくい。代志乃はきまり悪そうに笑いながら「眼の毒よね」小声で言い、真顔に戻って病院の方角に目をやった。
「いけない、もうじき人がやってくるんだったよね」
 そうだった。すでに目撃者の『芳斗』や医師たちがこちらに向かっているのだ。芳斗は本日三度目の木登りをし、電柱からシンプルスナッチをとり外した。木から下りたときには代志乃はスクールバックを背負い直し、発振機を見つけて拾っていた。
 芳斗とロープの片づけに手こずっている森谷刑事の側にきて、狛犬のほうへと促した。小夜子が吐血した血痕がどす黒く残っているあたりである。奇妙なことに代志乃はその近くまできても、別段驚きや気味悪がる様子を見せなかった。制服のポケットをあちこち探し手にとって確認した。
「コファーはあるし一九日の水曜日にタイムリープするね」
 芳斗は何かおかしいことに気づき、刑事に替わってロープを束ねていた手を止めた。どうして代志乃は発振機やコファーという単語を知っているのだろうか。
「きみは……?」
 代志乃自身、何か重大な事実に気づいたように表情がこわばった。答えにくそうにためらい、つぶやくように告げる。「わたしは代志乃さんじゃなく、若奈、沖野若奈なの」
 しばらく芳斗はその文句を心の中で反芻した。代志乃じゃなく若奈? 若奈がなぜ?
「とにかく逃げないと」強引に二人の手を握り、目を閉じ頭の中に真っ白をイメージしてと命じた。逃げるというのがタイムリープのことだと気づき芳斗は戸惑った。これによって代志乃が一日消息不明になるからだ。といって元の時間に戻らなければ、もっと大変なことになる。
 芳斗はともかく、初めて会ったばかりの女子中学生に逃げようと言われて手をつかまれた森谷は、茫然自失の状態だった。準備してほどなく、めまいに似た感覚がやってきた。タイムリープの瞬間である。
 不意に空気が冷たく感じられた。握っていた手が放れ代志乃がぼそっと言った。
「終わった。もう目を開けてもいい」
 曇り空なのではっきりしないが太陽の位置は低く、ひんやりした大気からして朝も早い時刻のようだ。社の正面に戻ると地面の血の跡は掃除されたみたいに消えている。未来に跳んだことは疑いない。
 ようやく落ち着ける時間ができ、芳斗は雨合羽を脱ぎゴーグルを外した。さっぱり訳のわからぬ森谷は芳斗に耳元でそっとたずねた。
「代志乃とか若奈とか言ったけど、この子、誰なの?」
 芳斗はあいまいにことばを濁すしかなかった。彼自身、まだ事実がのみこめないのである。
 気まずい雰囲気が漂っていた。代志乃はむずかしい顔をして社殿の屋根を眺め、森谷はそんな彼女にたずねるきっかけがつかめず所在なく突っ立っている。芳斗もどう切りだすべきか困っていた。彼女が若奈なら、いつのまに人格交換を…… いや、それよりも彼女が若奈なら代志乃の人格は小夜子の肉体に移入され、代わりに死んだことになる。
 まるで芳斗の心を読んだように、消え入りそうなつぶやきが聞こえた。
「申しわけないけど、槙田さんはわたしのために……」
 若奈が吐血後、力をふり絞って道路に出たのは代志乃と人格交換するためだったのだ。芳斗を見て驚き何か言おうとしていた小夜子は、移入した代志乃に他ならない。もだえ苦しんだ末、意識不明になって病院に運ばれていったのが代志乃と思うと、愕然とした。自らが生き延びるために、他人の身体を横取りするとは殺人と同じ。それも元々は命を救うつもりの代志乃である。決して許されるものではない。
 だが芳斗は憤りを覚えながらも、若奈を責める気にもなれなかった。きれいごとなど切羽詰まった人間にありえない。それしか手段がなかったから撰んだのである。我が身に立場を置き換えたら、やはり同じ選択をしていただろう。
 ごめんなさいと涙ながらに謝罪した姿がよみがえり、心にしみた。
「若奈さんが悪いんじゃないですよ」芳斗はそれしか言えなかった。こちらを向き、うつむいたままかすかにうなずく若奈が見えた。
「さてと、そろそろ腹も減ってきたし、どこかに飯を食いにいこうや」
 ひとり蚊帳(かや)の外といった森谷は相当込み入った事情があるようだが、誰も説明してくれそうもないし訊くべき状況でもないと判断し、とりあえずこの暗いムードを一掃しようと口を開いた。してみると、芳斗もすきっ腹だった。経過時間からするにそろそろ昼食をとるべき頃なのである。
「でも今は朝なんですよ。こんな早くに開いている飲食店、この辺にありますかね」
 刑事が自信ありげにこたえる。
「ほんの二、三分歩いたところに早朝喫茶があるんだよ。そこ行こう。なに、中学生は校則で喫茶店に入れないって。今時、そんな校則あるのか。ま、今回だけは特別わたしが許す。ついでだからその合羽やロープも返してくるよ」
 刑事が先頭、芳斗がそのあとを歩き、だいぶ遅れてついてくる若奈は大きな荷物を背負ったように足どりが鈍い。まるでこれから刑事の取り調べを受けるような悲壮な表情である。何も言わなければ、絶対に気づかないこと。森谷刑事はもちろん、誰にも真実を明かすまいと心に決めた。
 やがて喫茶店に着いた。どうやらその店の主人は森谷刑事の顔見知りらしく、刑事はなれなれしくあいさつし先に借り物を返してくると言って出ていった。一番奥のテーブルの二人掛けソファに向かい合って座り、芳斗はピラフを、まだ食事には間がある若奈はオレンジジュースのみを注文した。
 店の時計は七時二十分を回っていた。朝刊を見ると一九日、水曜日のものである。校門前ではもうひとりの芳斗と若奈(小夜子)が話をしている時分だ。今こうして肉体の異なる同じ相手と、同じ時間に向かい合っていると思うと何ともいえぬ妙な気分だった。
 頭では理解していても、彼はまだ代志乃の死を受け入れることができなかった。事実、代志乃の身体は存在しているし、彼女と若奈がひとりの人間になってしまったような錯覚に陥り、意外なほど悲しさがわいてこないのだった。
「隣に座らせて」眼を合わせるのが辛いのかスクールバックを端に置いて、芳斗の左隣に少し離れて腰かけた。
「こんなことになるなんて、思わなかった」すぐに運ばれてきたオレンジジュースにはまるで口をつけようとせず、若奈は放心したように言った。
「わたし、これからどうすればいいんだろう」
 彼女には十年後に残してきた身体がある。代志乃として暮らしていくにしても、いつかは自身の体に還る日がくるだろう。そのとき代志乃はどうなるのか。未来の肉体に宿っている小夜子が代志乃として生きていくことになるのか。だが、その疑問を避けるかのように若奈が口を開いた。
「他人の躰を借りるって、まるで変装したような刺激的な歓びがあるのね。わたし、小夜子さんの躰に入って鏡みたとき、綺麗なひとだなあってためいきついた。芳斗君、がっかりするでしょうけど、沖野若奈の容姿とは比較にならないくらいなの。うらやましかった。杉伊小夜子と名乗ることに快感さえ憶えたわ」
 突然そのような心情を打ち明ける若奈に、芳斗は返すことばが見つからなかった。代志乃を肉体より追い出したという罪の重さからだろう。胸の詰まりを取り除くみたいに淡々と続けた。「小夜子さんが余命いくばくもない身だってことがわかっても、そんなに動揺しなかった。垂水さんはそれと知っていて、彼女を撰んだのよ。父親の無罪になった姿を見せてあげようとしたのね」
 ピラフが運ばれたので若奈は沈黙した。思い詰めたような顔で言った。
「わたし、覚悟はしていたの。間に合わないかもしれないと。でも実際にそうなってみると、やはり死ぬのが怖くてたまらなかった。何がなんでも生きたかった。
 そのとき、代志乃さんが路上に現れることに気づいたのよ。目前に迫った車両で彼女がショック状態に陥れば人格交換できるかもしれない。あとクルマを避けられるかなんて頭になかった。それしか生き延びる方法はないと思って、ためらうことなく実行した」
 声は同じでも代志乃とは異なる大人っぽい口調は、確かに若奈のものだった。
「ぼくだってその状況になったら同じことをしましたよ。誰が悪いんでもない、成り行きがそうさせたんです、槙田さんもこれが運命だったんですよ」
 なぐさめにならぬとわかっていても、口に出さずにはいられなかった。彼女は首をゆっくり左右に振った。「椅子とりゲームで、代志乃さんを押しのけてまで席を奪ったの。罪には問われないかもしれないけれど、彼女を犠牲にして命を得た殺人者なのよ。今度は自らを犠牲にして生涯、槙田代志乃のままで生きていくべきだと思う。彼女の肉親や周囲の人のためにも」
 芳斗は初めて沖野若奈にひとりの人間としての弱さ、平凡さを見た気がした。彼にしてみれば命拾いをした杉伊小夜子を十年後より呼び戻して、代志乃としての人生を送ってもらってもいいと考えるのだが、罪をつぐなう気持ちで一杯の彼女にはその意志はないようだった。若奈の自虐的といっていい責任感の強い性格が、むしろ気の毒でもあった。
 それきり若奈は下を向いて沈黙した。鼻の下に人差し指を当てて何か堪えている様子だった。「スッ、スッ」と息を細かく吸う音も聞こえる。やばい泣き出す。罪の意識が急にこみあげてきたのだ。もし肩を震わせて泣いたら、自分はその肩に腕を廻して励ましの言葉をかけるべきだろうか。相手は年上だし、恋人同士じゃないんだから失礼か、等と考えているうちに、彼女は鼻と口を両手で覆った。はっ、はっという息遣いも洩れてきた。とりあえずハンカチを、とポケットを探したとき彼女は一度息を吸い、上に顔を向け「ハクショーン!」割りと豪快なクシャミをした。
「ごめんなさい、こんなときに」ハンカチを手にして固まっている芳斗に恐縮の笑いで謝った。「あ、ピラフにとんじゃったかもしれない」
「それはないよ、たぶん」
 真正面じゃないし距離もあった。彼女だって鼻と口はしっかり塞いだままだった。
 証明するようにピラフの皿を持ち、スプーンで口に運んだ。
「いいの、それ食べると、わたしとの間接的キスになるよ」
 芳斗は噛むのをやめた。代志乃が喋りそうなセリフを代志乃の口調で言ったのだ。「冗談だよ」と、すぐに付け足すところも代志乃にそっくりだ。テーブルに置いたハンカチを見て彼女は言った。
「わたしが泣き出すと思ってあわてたでしょう。突然、胸がいっぱいになって。そしたら、涙より先に鼻がむずむずしてきて。生理現象、時と場合を選ばずってことかな。おかしなものね、クシャミに乗って全部とんでいっちゃった」
 若奈が笑い、芳斗もつられて笑った。一度唇を噛んでから残念そうにつぶやいた。
「あーあ、でもいいところだったんだよね」
 聞き覚えのあるセリフに、芳斗はぎくっとした。「クシャミで消えちゃうなんて。芳斗君の胸に顔を埋(うず)めて、大泣きしたら楽になれたのにな」
 そんなことされたら困ります、とも言えず芳斗は黙って聞いていた。やがてマスターがちらちら二人を伺っているのをみてとり、若奈はきまり悪そうな顔でそっとささやいた。「中学生カップルが、朝早く深刻に話してるから、気になるのね」
わざとらしく顔をあげ、思い出し笑いをしながら言った。「それにしても、ロープで吊り上げるなんて、よく思いついたわね」
「窮余の一策ですよ。それに発振機のおかげで上手くタイミングとれましたし」
 若奈が一瞬眉根を寄せた。
「芳斗君、やっぱりあのとき発振機を操作したんだ」
「ええ。若奈さんの指示だと思ってやったんですが、スイッチを入れたのと槙田さんが現れるのが同時だったのも、関係あるんですか」
 言いにくそうに声を落として彼女は説明した。
「少し先の未来からリープしてきた代志乃さんが電磁波の相殺で、つまりタイムトンネルが途切れたために出現したわけよ」
 同じ波が打ち消しあう。芳斗は背筋がひやりとした。たしかにそうだ。
「でも、あなたが悪いんじゃない。これはもうどうしようもないことなんですもの。わたしも人格交換を行うために社殿の電磁波を相殺したんだから」
 逆にいえばそうしなかったら、彼女が死を迎えていたのである。正しいとも間違いとも決められない行為なのだ。気まずさを消すように若奈が話題を変えた。
「さて、これからが大変。やるべきことが山積みだものね」
「どうします。家に帰ったら大騒ぎになって、根掘り葉掘り訊かれますよ。なんせ渦中の人なんだから」
「森谷さんに協力してもらって、なんとかごまかします」
 ほとんど苦にしてない様子だった。そこへちょうどその森谷が戻ってきた。
「いや参ったよ。雨合羽やマスクを見るやあのじいさんときたら、それもうちの物だったんですか、あの強盗は変装して盗みを働いていたんですかって蒼くなったものだから、ごまかしにどえらい苦労したよ」刑事は全精力を使い果たしたといわんばかりに、ドタリと向かいの席に腰をおろした。若奈はくすっと笑い芳斗の耳元にささやいた。「ね、ごまかしの名人がついているんですもの」
 確かに間が抜けているようでそつがないコロンボ森谷刑事が一緒とあれば、頼もしい限りである。
「もうそろそろ登校する時刻じゃなくて」
 そう言われて芳斗は今が朝であり、学校へ行かなければならないことを思いだした。ここからではかなりの距離だが、時間にはゆとりがある。
「わたしは刑事さんとしばらく相談することがあるから、先に行ってて……約束どおり、遅刻はさせなかったでしょ」
ピラフを大急ぎで掻きこむ芳斗に彼女は自慢気に胸を張った。結果的にこうなっただけであるが、その点は認めざるをえない。さすがは若奈である。
 
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