第 3話

文字数 3,166文字

 先を登っていく()(がわ)の足取りは軽い。まだ六十を越えたばかりだが、この時代では老人とよぶべきだろう。段々畑を日々歩き回っている彼にとっては、勾配のきつい登山道も足腰の鍛錬の場と考えているようで、鼻唄まじりに歩いていく。現在流行っているらしいその唄も、柴崎祐司にとっては一度も耳にしたことのない懐メロ歌謡だった。十二歳になる嘉川の孫、周太も距離を置かずついてくる。足が根をあげているのは、柴崎だけだった。
「ほら、あそこだよ」鼻唄をやめ、嘉川が指す行く手に落差五メートルほどの滝が現れた。柴崎は安堵の息をついた。滝が山の中腹でなかったら、とうにへばっていただろう。間近まできてみると、あと三割の落差と水量があれば名所となったかもしれない、迫力に欠ける滝というのが柴崎の印象だった。
「一年中、水の涸れないのがここのいいところだな」
 嘉川がいくらか得意そうに言った。滝壺からは一跨ぎできそうな幅の川が流れていた。これがこのK岳の(ふもと)まで下り、町の水源となる河川に結合する。
 大昔、このあたりで怪我した天女に()(こり)たちが手当してやったという伝説が残っており、滝壺のすぐ側に木製の小さな(ほこら)建立(こんりゅう)されていた。この先何十年もの年月に十分耐えられるはずの新しさだ。柴崎は観音開きの扉に手をかけた。内部には木彫りの如来像(にょらいぞう)が収められていた。像の裏側だったら、気づかれないし盗まれることもないだろう。ここにコファーを置いて帰るのは思いきりがいる。しかし、これは絶対必要な措置だった。
「綺麗な物ですな」嘉川は感嘆の声を洩らした。初めてコファーを眼にした者は、その神秘的ともいえる曲線の組合せに引きこまれる。
「なんか大層な御利益でもあるのかね」
 真顔の嘉川に柴崎は笑みを浮かべた。「あるもなにも世の中を変える力を持っていますよ」そのせいで自分の人生は大きく狂ってしまったのだから……
 『時間跳躍研究機構』
 政府の機関かと思いきや、興味本位の集まりに過ぎない研究会をルポライターの柴崎が、母親の郷里である地方都市でひょんなことから耳にして、記事にしてやろうかととびこんだのは勘の鋭さを示していた。 
 研究会ではすでに人格交換や身体のタイムリープ実験に成功していたのである。柴崎としてはなんともおいしい話であり、すぐに入会して自ら実験台を志願した。
コファー所持者に外部から電磁波を当てて起こすタイムリープに対し、彼が試したのは電磁波の発振機も所持したリープ実験だった。電磁波の発生期間内の時間移動しかできない前者に対し、こちらは過去への遡行(そこう)も可能と考えられたのである。せいぜい数日、最大でも一週間の遡行が限界、と会員たちは予想し柴崎自身も軽い気持ちで臨んだ。垂水が蓮沼との二十年を隔てた人格交換を果たした後だけに、成功を疑う者はいなかった。
 しかし、予想どころではない結果が待っていた。柴崎が放り出されたのは、二〇二×年より半世紀も前の一九六×年だった。彼の父母でさえまだ小学時代の、誰ひとり知る者のいない世界に迷い込んでしまったのである。
 すぐに帰還のリープを考えたが、事前の訓練もなくほとんど偶然起きてしまった事故である。逆に更なる遡行に至る危険もあって、うかつには手を出せなかった。そうしているうちに発振機を紛失し、帰還の望みは絶望的になってしまったわけである。   
 ちょうど一週間前、未来より飛ばされてきた胡散臭(うさんくさ)い柴崎を根っからの善良さからか疑わず、居候させてくれたのがこの嘉川だった。
「別に罰のあたる物じゃないけど、周太君がおじいさんになった頃なら、ここから持っていってもいいですよ」周太も興味深げに眺めていたが、たぶんその頃には忘れているだろう。
「そんな大層な品をなんでまたここに隠すのかね」嘉川はよほど関心があるらしく、鋭くつっこんでくる。「滝の水にこの力が移って、それを飲んだ人たちに御利益がもたらされるんじゃないか、と考えましてね」
 研究会のタイムリープ実験を高い確率で成功させた者には、奇妙な一致があった。全員、といっても垂水、沖野兄妹の三人だけだがこのK岳周辺のT市に生まれ育っているのである。
水にはエネルギーや情報を転写する性質があると云われている。飲料水に毎日「自分は若返る」と言って飲み続けたところ数年後白髪頭が黒くなったという報告もある。K岳の水の湧き出る場所に誰かが昔コファーを落とし、そのエネルギーを帯びた水で育った人々がタイムリープし易い体質に変化した、という仮説が立てられた。
 仮説が正しいとすれば、その〈誰か〉は柴崎しかいない。山に詳しい嘉川に訊くと、五合目あたりに水流の途切れない格好の滝があるというので案内してもらったのである。柴崎は谷間に消えていく川の流れを眼で追った。下界の町に住む今はまだ少女の彼の母も、この水で成長する。大人になって上京し父となる男と出会い結婚し、自分が産まれた。中央出身の彼にタイムリープできたのは、母親からの遺伝なのだろう。不思議な縁だと思った。
「どうです。山頂まで登ってみますか」嘉川が促した。
「いや、ぼくは膝ががくがくしていますから、とても」
「そうですか」嘉川としてもそのつもりで言ったわけではないらしい。
「その辺でお昼にしますか」柴崎は平地になった草むらを指した。じき正午になる。用事はすんだし、あとは帰るだけだ。三人分の弁当を周太の母が準備してくれた。
「これからどうするつもりだね」海苔の巻かれた握り飯と卵焼きを食べ終えた嘉川が訊いた。これだけでも時代から考えて豪華なおかずのはずだった。
「うちはずっといてくれてもいいんだよ。周太の勉強みてくれるだけでも有り難い」
 柴崎は田畑の手伝いや周太に家庭教師のまねごとなどで恩を返していたが、同年代の息子夫婦にはやはり気兼ねが多かった。職を見つけて立ち退こうと常々思っていた。
 周太も笑顔で祖父に賛同した。「ぼくもずっといてほしいな。柴さんの話、すごくおもしろいし」
 周太は勉強好きで成績がよく、将来の夢が教師になることだった。とりわけ柴崎にはなついていてよく話をした。周太だけには『未来人』であることをそれとなく洩らし、彼のいた時代の様子を聞かせていた。それが周太には興味津々なのであった。
 柴崎は何も云わず笑みを浮かべていた。正直、どこへも行きたくない気持ちもあるし、元の時代にさえ未練が薄れていた。ジャーナリストとは名ばかり、アルバイトで食いつないでいたのである。生活のすべてにおいて不便だが、のんびりしたこの時代のほうが彼には合っている気がしていた。
 独身の柴崎にとって気がかりは親兄弟だが、こうなっては死んだものと諦めてもらうしかないだろう。素人集団がまぐれで発見したタイムリープ方法に、好奇心だけでとびついた軽率さが原因だ。誰も恨めない。
 その研究会も、発見が発見だけに機密漏洩には厳重だった。世の中、ことに国家に洩れないよう彼らなりの配慮を怠らなかった。そこに踏み込んだよそ者の柴崎。大胆に邪推すれば、柴崎を葬(ほうむ)るための実験だったともとれる。
 だとしても、恨むつもりはなかった。人生なるようにしかならない、が彼の座右の銘だ。これが彼に与えられた運命ならば、素直に受け入れるまでだ。
昼食を終えてもう三十分以上になる。暇をもてあました周太が近くを歩き回っている。薄曇りの空に心地よい風。このまま下山するのは惜しい天気だった。
 柴崎祐司は嘉川の顔を見て、思いを断ち切るように言った。
「せっかく来たんだから頂上まで登りましょう」にやりと笑い嘉川が腰を上げた。
「そうしてくれないと、こっちも連れてきた甲斐がない」
 柴崎も立ち上がり大きく背伸びした。まだ三十代半ばなのだ。なんだってできる。嘉川と周太の後をまた歩き始めた。
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