第18話

文字数 16,943文字

 森谷刑事がクルマを八幡宮の境内に乗り入れた。社殿までの短い石畳を歩きながら、若奈はふと低い声でつぶやいた。「ここでわたしたちは、市ノ瀬たちに拉致されたのよ」
 社殿に近寄った。「発振機を隠してあるはずよ。どこかから電源を引いて」
 社の正面のひさしには電球がとりつけてあって、センサーが明暗を区別し自動的に点灯消灯するようだ。調べてみるとそのコードに別のコードが接続され、見つからぬよう梁に発振機が隠されていた。「真犯人の証拠をつかめなかった場合、時間を逆行してまたやり直せるよう垂水さんが準備しておいたものなの」
「じゃ、今もこのあたり一帯にはその電磁波が出ているわけか。でも、もし停電になって装置がストップしてしまったらどうなるの?」芳斗が訊いた。
「そのためにバッテリーが装備されてあるけど、その電力の供給があるまで一旦、電磁波は途切れる。壊れるかバッテリーも使えなくなったら、その時点でトンネル、タイムトンネルといってもいいかしら、それが消滅してしまうの。理論的には装置が電磁波の放射を止めない限り、どれほど先の未来にだって行けるはずよ」
「だったら発振機を何機も設置しておけば、途切れずにすむんじゃないの」
「そのとおり。ただし電磁波が干渉しないように距離を置いてね。同じ周波数の電磁波が重なると乱れてしまい、要するに波動が相殺するらしくてトンネルが消えてしまうの。でも、実際としては台数よりも装置のメンテナンスが重要で、消耗部品を交換しないと数年で停止してしまうの。定期的なチェックが稼働年数を伸ばす決め手ね。もっともこれは未来から過去に逆行する場合で、逆に過去から未来へ進むのだったら、その途切れ目ごとにメンテナンスをしてリープを繰り返せばいいわけね」
 準備のいい垂水のことだから、他にも何ヶ所か発振機を取り付けているだろう。
「すると、今ここから何十年も先に行けるのか」
「あくまでも理論上ではね。現実には一年先でもかなりの障害があって難しいと思う」
 電磁波でなくても同じ周波数だったら音波、人声でもトンネルが発生するのではないか、研究会の中で意見が出て実験したものの成功には至っていない。
 芳斗が質問した。
「でも、人格交換だったら何十年先でもいけるんでしょう。どう違っているのさ?」
「それまだ説明してなかったっけ? まず『身体』を電車、『心』は電車の運転士、そして線路に平行して道路が走っているものと仮定しましょう。恐怖や驚きによって逃げだそうと運転士が電車を発車させるのがタイムリープね。電磁波、つまり送電があって初めて電車は走りだすわけ。
 電磁波を受けてないとき、あるいは重なるとショートしたと同じで送電がなくなり動かない。運転士は車両から出て線路に沿って自転車で走り、途中に同じく運転士の出てきた電車があればそこに移る。こちらは人格交換ということよ。ちょっと乱暴な例えだけど、これで理解できる?」
「うーん、自転車で何十年も走るのか」
「おことわりしておきますが、これ、垂水さんが考えた『たとえ』ですので」
 生意気なつっこみにイラッとしながらも、若奈の胸の内にはある考えが浮かんでいた。曾根殺害の真相究明である。
 市ノ瀬、深沢の二人が真犯人と決めつけていたのが、そうじゃなかったという。四日前のあの夜にタイムリープしてそれが本当なのか、真犯人は誰なのか確認したかった。思えばそのために自分たちは時間を逆行したのである。帰還の人格交換を前に、この機会を逃すのはあまりに悔いが残る。
 それにもうひとつ、彼女にはなさねばならぬ仕事があることに気づいていた。
「ここで待っていて。すぐ終わるから」
 彼女ひとりで十分だし、ひとりで試したかった。芳斗と森谷に言い残して社殿の裏側に歩を進めた。化粧を直すつもり(もしくは用足し?)とでも思ってくれたらしく二人は離れていく。これなら邪魔は入らない。
 三メートルほどある瑞垣と社殿の隙間に立ち、眼を閉じた。
「待て」聞き覚えのある男の声、同時に冷たい感触が頬にあたり左腕を掴まれた。驚いて目を開けた側らに、市ノ瀬が果物ナイフを構えて立っていた。そういえばさっきスクーターが神社の前で停まった。後をつけてきたのだ。
「声をだすな」市ノ瀬の脅しにこくりと頷いた。今、言ったばかりのことがまたふりかかるなんて。若奈は自分たちの馬鹿さ加減にあきれ過ぎて腹も立たなかった。あれほどコファーを欲していた市ノ瀬になまじ情をかければ、十分予見できる行動だ。そのうえ、彼女ひとりきりという絶好の状況を与えてしまったのだから。
「あんたに危害を加える気はない。言うことさえ聞いてくれたら」
 ナイフを離しながら市ノ瀬が言った。彼特有の威圧感は消え、恐怖を与えまいという配慮が伺えた。若奈は低い声で訊いた。「コファーを奪うつもり?」
「違う。おれを過去に連れていってくれ。それだけだ」
 市ノ瀬が若奈の腕を放した。急いであとを追ってきたのだろう、ジーンズにポロシャツ、ハーフコート、梳かされていない頭髪、脇の下に折り畳んだ新聞紙を挟んでいる。
 意図が呑み込めた。借金返済の金を作る気だ。ギャンブルでの失敗はギャンブルで取り返そうということか。しかし、この男をどこまで信用していいものか。
「いやだと言ったら」
 市ノ瀬が果物ナイフを放り投げた。「このとおりだ、頼む」
 頭を深々と下げた。初めて目にした彼女への最敬礼だった。
 若奈の脳裏に市ノ瀬の妻の顔が浮かんだ。市ノ瀬はこのチャンスに賭けている。それをきっぱり拒むのも勇気が必要だった。数秒の沈黙に市ノ瀬が顔を上げた。眼にはあきらめの色が見てとれる。
「そうだよな、人にものを頼むのに刃物で脅すなんて相変わらずだな、おれも」
 市ノ瀬が背を向けた。若奈は迷っていた。こんな男に世話焼くなんて、おめでたいにもほどがある。身から出た錆に苦しむのは当然なのだ。しかし……
 市ノ瀬が歩きだしたとき、若奈の口から自分でも思いがけないことばがついて出た。
「わたしに協力してくれたら、聞いてあげる」
 言い終わらないうちに市ノ瀬が振り返った。「もちろんだ」と答え硬い表情のまま頭を垂れた。この男を救うのではない、彼の家族のためと若奈は自身に言い聞かせた。
「急がないと」芳斗たちがいぶかって見にきたりでもしたら、ややこしくなる。一緒にリープするには普通相手の手を握るのだが、それにはまだ抵抗があった。市ノ瀬の左腕の肘のあたりに手を置いた。
「それじゃ、目を閉じて何も考えないで、と言っても無理だから、白一色の景色を思い浮かべて」
 イメージの慣れを防ぐため、今回は大胆にもティラノサウルスに喰われそうになった彼女と市ノ瀬が間一髪電車の車両に飛び乗る様を思い浮かべ、四日前の夜七時に意識を集めた。こんな想像でのスイッチオンを繰り返すと、コファーのほうもそれにいち早く反応するようになる。芳斗みたいにちょっとの驚きや痛みでも反応するタイプなど、人によって違いがあるようだった。
 三秒とたたぬうちに視界は闇に包まれていた。見上げると雲が多いながらも真上は星空。車の音も聞こえない。夜中を思わせる静寂ぶりだった。市ノ瀬がほうと感嘆の声を洩らした。二度目の体験だけに、さほど驚いてはいない。
「何日に戻ったんだ?」
「一三日、曾根が殺される夜のはずよ。時間は、七時頃だと思う」
「自信あるんだな」市ノ瀬はまた感心した。
「一メートル先のゴミ箱に、ゴミを投げ入れるようなものよ。数日ならまず外れることはない。心配だったら、たしかめてみて」
 暗闇での会話は、どうも不安だった。足元に注意しながら、街灯の差しこむ社殿の正面に歩を進めた。後をついてくる市ノ瀬に、若奈は意識を向けた。要望通り過去に連れてきた。彼女のことばを信用したのなら、市ノ瀬はもう何でもできる。このまま逃走することも、最悪、若奈に暴行し欲情を満たした後に立ち去ることだってないとはいえない。いつ落ちるかしれぬ吊り橋を渡っているようなものだ。狛犬(こまいぬ)の近くまでくると、顔もはっきり見える。訊きにくそうに市ノ瀬が口を開いた。
「それで、あんたの頼みとは」
 約束を守ってくれると思い、若奈は少し気を緩めた。
「車を持ってきてほしいの。ここからだと何分ぐらいかかるかしら?」
「十分程度だろう。どこへ行けばいい」
「あなたがわたしたちを放り込んだ穴のある場所よ。過去のわたしたちを解放するためにね」
 やっと呑み込めたという風に市ノ瀬がうなずく。「なるほど、それであのとき逃げ出せたわけだ。ここで待っていてくれ、すぐ戻ってくる」
 もう大金を掴んだのも同然という意識からか、市ノ瀬は子供のような勢いで道路にとびだした。事業の失敗やギャンブルでの借金、曾根との関係で自暴自棄になり、必要以上に悪ぶっただけであって根は家族思いで義理堅い男なのかもしれない。不釣り合いな妻が彼についていくのもこのあたりにあるのだろう。
 思ったより早く市ノ瀬が黒い乗用車で戻ってきた。若奈は後部座席の右側に腰を下ろした。助手席にはまだ抵抗があったし、道しるべのティシュペーパーが道路から外れてしまうからである。このシートに坐るのは二度目。縛られて押し込められたときのことをいやでも思い出してしまう。
「あんたの言う通り、日付も時刻も合っていた。たいしたものだ」
「よかった。あ、ちょっと失礼」ダッシュボードに手を伸ばし、カーコロンの瓶を剥ぎとった。液体の芳香剤は、重さでかなりの量が入っていることがわかる。
「そんなもの何に使う」
 細かいことが気になるらしい。市ノ瀬のほうも彼女の動きには注意しているのだ。
「心配なく。あなたを殴るつもりはありませんから。ところで、あの場所は憶えているんでしょうね」
 市ノ瀬は車を発車させた。「忘れるわけないさ。おれの仕事場だ。依頼主とのごたごたがあって作業は中断しているがね」
 自嘲気味に笑った。
「これほど手軽に時間を逆戻りできるんだったら、あんたたちだっていくらでも金儲けできるだろうに」
 機嫌よさそうな市ノ瀬に若奈は冷めた口ぶりで返した。
「こんなのまともな方法じゃない。まともじゃないお金なんて、すぐに消えてしまう。欲をかきすぎるとあとが怖いのよ」
 それは若奈たちが実際に体験して得た教訓だった。少しくらいならとギャンブルで稼いだ金の半分が、考えられないような出来事によって短時間のうちになくなってしまったのだ。楽して稼いだしっぺ返しとも受け取れる現象だった。
「借金を返済する以上に儲けないことね」どうせこんな忠告、市ノ瀬の耳に入るはずないだろうが。 
 家並みが途切れるようになった。若奈はポケットティシュのパックから一枚一枚抜きだしては、香水を含ませ車外に投げ捨て始めた。
 不意に柄にもなくしんみりと市ノ瀬が切り出した。「おれは、未来の人間なら身元が判らないと考えて、あんたたちを本気で殺そうとしたし、深沢と仲間割れして死なせるところだった。あの拳銃だって昔のつてを頼りやっとのことで手に入れた。そんな男を信用するなんて、どうかしている」
 若奈の手が止まった。照れを含んだ遠回しの感謝に、図らずも目頭が熱くなった。それを隠そうと、彼女は無理に声をはずませた。
「わたしだって、これからあなたを刺すかもしれないよ」
「そのときは、手加減なく頼むよ」また自虐の笑いを洩らした。暴力では何も解決しないことを実感したのだろう、歯がゆいほど毒気の抜けた改悛ぶりだった。
本当に心を許したのか、市ノ瀬が思い出話を始めた。
「高校時代、担任の嘉川という先生とクラスの何人かでK岳に登ったことがある。その先生が小学生の頃、家に居候していた男と山に登り、滝の近くの祠に、見たこともない形の小物を祀ったというんだ。男の話では、自分はその小物で遠い未来から迷い込んだということだ。祠の内にそれはまだあって、たしかに神秘的な形をしていた。先生から絶対に持ち出すな、身につけたら不幸になると言われたことも憶えている。おれがコファーに関心を持ったのも、この一件を思い出したからさ」
 タイムリープ実験で行方不明になった柴崎祐司のことだと若奈は思った。彼はかなりの昔に跳ばされたのだ。「その男の人がどうなったか、知っているの?」
「さあ、そこまでは聞かなかった。けど、そのときおれは、なんか感じるものがあってコファーを写真に撮っていたんだ。それで、K岳に登って祠の中を調べてみたのさ。 なくなっていたね、やはり。逆に言えば誰かが持っていったが故に、余計欲しくなったんだ」
 その何者かに持ち去られたコファーが、こともあろうにフリーマーケットに出品され秋山芳斗の手に渡ったのである。
 あの仮説を真実にしようと柴崎が滝の祠にコファーを収めたのだ。エネルギーを転写した水を生活に使い続け、いつのまにか自分たちはタイムリープ可能な性質へと変貌していた。自分たちだけではない、この町のかなりの住人がそうかもしれない。
 タイムリープや人格交換の詳しい原理は、こうなっているんだろうという予想でしかなく研究会で解明されたわけではない。クルマの構造を知らなくても操作方法が解れば運転できるように、使い方を発見したからコファーも利用できたのだ。ブレーキとアクセルを間違えて暴走したクルマと同じで、操作を誤れば被験者をとんでもない年代に飛ばしてしまうかもしれない。柴崎の場合はそれだったのだろう。
 油圧ショベルが置かれた荒地に着いた。
「あとはひとりでやってくれ」
「ありがとう」若奈は素直に礼を言った。まさかこの男に礼を述べる立場になるとは、夢にも思わないことだった。
「これを持っていったほうがいい」
 グローブボックスから見覚えあるペンライトを取り出し、手渡した。
 若奈は受け取り、ドアを開けた。
「じゃ、これで。それから事をなしたあとは、辛いでしょうけどこれから四日間じっと隠れて何もしないことね。あなたがもうひとり存在するわけだから」
「ああ、そうだな。しかし、深沢には……」後のほうはつぶやき声で聞きとれなかったが、深沢の身を案じこれからしようとしていることは推察できた。屋上駐車場の下に緩衝材となるダンボール箱等を積んでおくはずだ。  
 車はすぐに方向転換し、来た道を走り去った。感謝している割には、彼女の帰りのことを気にかけてくれなかった。市ノ瀬の意識はもう次の行動で一杯なのだ。
 テールランプが見えなくなり真っ暗闇に閉ざされると、心細さが襲ってきた。懐中電灯を点し、あたりを調べてみる。重機で掘られた穴は、幅が約一メートル長さ三メートルと縦長で、深さは意外に浅く六、七十センチほどしかなかった。すぐ側には掘った土が山をなしている。たったこれだけの深さでも、手足が自由に使えないと這い出ることができないのだ。 
 車がやってくるまでにはまだ三十分以上ある。黙っていると寒さか身にしみてきた。油圧ショベルに寄りかかると、気休めでも寒さが和らいだ。
 三十分が倍にも長く感じられて過ぎたころ、遠くに灯りが見え低いエンジン音も聞こえてきた。重機から顔を少し出して覗いてみた。前方を照らすヘッドライトに、過去の自分たちを肩に担いで進む深沢と市ノ瀬の姿が浮かびあがった。
 翔一郎と若奈を穴に放りこんですぐ二人は車に乗り込んだ。バックで方向転換したときに彼女をライトが照らし、ぎくりとしたがそのまま走り去った。
 暗闇の中、異常な胸の高鳴りを憶えながら慎重に穴に歩み寄り、翔一郎のいる場所に大体の見当をつけて足を下ろした。小型の折りたたみナイフをポケットから出し、おそるおそる腕を伸ばした。
 肩のあたりにぶつかった手をさするように下ろしていき、粘着テープにナイフの刃をあてた。手首を傷つけないように切り込みを入れていった。
 翔一郎が塞がれた口で何かしゃべった。もちろん若奈は応えず切断を続けた。半分以上に切り込みが入り、あとは翔一郎の力で引きちぎれると判断してとびだした。過去に戻っても同じ人間は二人存在できないと主張する科学者もいるが、現実には可能なのである。学者は理論上でしか言っていないのだ。
 軽トラックが通りかかる前に農道に出ていなければならなかった。一本道から農道までざっとペンライトで照らして道路の状況をつかみ、あとの二人のために点灯したまま地面に置いた。
 これから先はどうなるのかわからない。不安にかられながら歩を進めた。農道に出て少し歩いたところで、右手の緩いカーブからヘッドライトが差し込んできた。軽トラックとおぼしき軽いエンジン音も聞こえた。なんとしても停車させなければならない。道路の真ん中近くに立ち、両手を挙げて振った。
 さほどスピードの出ていない軽トラは、ドライバーもびっくりしたらしく数メートル前で急停止した。若奈は運転席側のウインドーに駆け寄った。窓が開くなり頭を下げ下げ懇願した。「すみません、町まで乗せてってください」
「えー、あんた今時分、どうしてこんなところにいるの?」 
 暗がりで顔は見えなかったが、声の感じから中年女性のようだ。若奈は早口に言った。「わけはあとで話します。お願いします、乗せてください。決して怪しい者ではありませんから」若奈が男であれば拒否されただろうが、若い女性ということで不審よりも不憫に思ったらしい。
「ん……まあ、それじゃ乗りなさい」
「ありがとうございます」
 若奈は丁寧に礼を述べて助手席に坐った。ドアを開けた際の車内点灯で、女性ドライバーの顔がはっきりした。五十代後半の農家の主婦といった風貌である。力仕事も任されそうながっしりとした、いかにも働き者といった体格だった。
 通りかかったのが女性ドライバーでよかったと思った。男性だったら、人によっては彼女のほうが警戒しなければならない。
「寒かったんじゃないの、こんな山道で」中年女性が話を向けた。
「ええ、でもわたしが悪いんです、彼とドライブ中喧嘩して車降りちゃったんです」
 若奈は口実をもうけた。「迎えにくると思ったら、こなくて」
「はー、そりゃ、彼氏のほうも意地っ張りだね。若い女の子を山中に放っとくなんて、考えられないわ」 
 住宅がひとつふたつと過ぎていき、道路も街灯に照らされるようになった。対向車とすれ違った。たぶん市ノ瀬たちの車だろう。気づかれるわけなかったが、反射的に顔を伏せた。 
 コンビニが見えてきた。軽トラックの女性はその前の道路を右折するというので停車を求めた。
「ほんとにたすかりました」降車して、ふたたび篤く礼を言った。
「じゃあ、彼氏とうまく仲直りしてね」
 若奈は照れ笑いで頭を下げた。
 店の前を通りかかり、出てきた客が彼女を見るなり驚きの声をあげた。
「あら、あなた。小夜ちゃんじゃないの。今までどこにいたのよ、体のほう大丈夫なの。全く、あたしが言ったこと聞いてないんだから」
 若奈はすぐに言葉が出なかった。この五十代後半頃の、年甲斐もなく髪の毛を派手に染めた女性は杉伊小夜子の知り合い、それも愚痴っぽく馴れ馴れしい踏み込んだ口ぶりから杉伊家とは結構つながりの深い、親類かもしれなかった。そういえば顔立ちが杉伊和宏に似たところもある。どうやら小夜子の伯母のようだ。
 小夜子の父親には適当な口実を入れて安心させていたはずなのだが、誤解か不測の事態が起きたのだ。
「ともかくうちに帰りましょ、帰りましょ」
 中年女性は若奈の二の腕を痛みが走るほど掴み、彼女が今きた方向に歩き出そうとした。
「待ってください」ようやく彼女は声を発して、踏ん張った。このまま杉伊の自宅へ送還されるわけにはいかない。
「帰りますから、手を離してください。痛いんです」
 女性は手を下ろした。「本当に? あの男のところへ行ったりしちゃだめよ、絶対にだめよ」絶対、と言ったあとに若奈の右手をぎゅっと握りしめた。小夜子の身を本気に心配しているようだが、典型的な世話好きおばさんである。
「はい」若奈が神社の方向へ早足に歩きだすと、中年女性が背後で叫んだ。
「あんた、やっぱり行くんじゃないの」追いかけてきた。若奈は思わず駆けだした。しかし、女性は二、三歩走っただけで立ち止まった。
「聞き分けのない娘だよ、お父さんに言いつけてやるからね」
 愚痴を背に浴びながら若奈は小走りに遠ざかった。
 どうも釈然としない。小夜子と曾根は関係が切れて結構な時間が経っているはず。伯母の口ぶりは小夜子がまだ曾根に未練を残しているように聞こえる。
 小夜子の清楚な容貌の蔭には、不品行な男に惹かれてしまう性分が隠れていたのかもしれない。こんなとき小夜子の記憶が出てくればいいのだが、残念ながら何かのきっかけで現れるようで、意識的に思い出すことはできないのだった。
 八幡宮に置いた自分たちの車を一回確認し、曾根の家の前に立った。これといった特徴のない灰色の壁の、築二十年は経ったと思われる二階建て一軒家である。
 庭は神社の端垣に接する家の左側と、駐車場を兼ねた玄関前にL字型に造られていた。その左側のカーテンに遮られた出窓から明かりが漏れている。あの部屋がこの後修羅場となる居間である。門をくぐり足音を忍ばせて出窓に近づいた。
 遮光カーテンが閉まりきっておらず数センチの隙間があった。レースのカーテン越しに室内の様子が一部分覗け、ソファに腰掛ける人影がぼんやりと見えた。テレビの音声がかすかに流れてくる。曾根一人っきりのようだ。たしか彼の妻は今晩実家に泊まって、明日の昼前に帰ってくるのだ。
 まだ小夜子の父もきていないとなると、殺害時刻までは時間がある。ケータイの表示時刻はタイムリープ後から一時間経っておらず、時刻補正機能が働いていないかもしれない。「117」にかけると、二十時十七分だった。待つのは我慢できるとしてカーテンの隙間で見えるのは部屋の限られた一部だけ。これでは人物の識別ができない。若奈はどうしたものかと考えた。
 外が駄目となれば、思いきって家の中に入りどこかに隠れるべきだ。我ながら無謀だが、迷っている場合ではなかった。見つかったらそのときはそのとき、適当な口実でごまかせばいいではないか。
 と、車の入ってくるエンジン音が神社の境内から流れてきた。市ノ瀬と深沢が戻ってきたのだ。穴から逃げ出した彼女たちをここで再び捕らえるつもりなのだ。
 車を降りた二人が端垣に近寄ってくる気配を感じた。若奈は後ずさりして出窓から離れ、家の角の蔭にしゃがんで隠れた。さっき謝意を伝えた男とふたたび敵の関係になる。気持ちを無理に切り替えなければならない。
 市ノ瀬たちが端垣を乗り越えて、曾根の敷地に侵入した。出窓に近寄り一度内部を伺うと姿勢を低くした。彼女との距離は五メートルもない。市ノ瀬と深沢が低い声で会話を始めた。「現れるかな、ここに」
「くるさ、それが奴らの目的だ。おい、車をあそこに置いたら、おれたちがいることを教えているようなもんだ。どっか別の場所に移動させてこい」
「そうだな。それで、少しの間、抜け出していいか。用があるんだ」
 市ノ瀬が呆れたように言った。
「ちょっと待てよ、向こうは三人だぜ。おれだけじゃ手に余る」
「じじいとヤサ男と、女じゃないか。おまえひとりでも大丈夫だろう。用が済んだら戻ってくるよ」市ノ瀬が渋々承知し深沢は車に戻っていった。あまり乗り気じゃない深沢のこと、未だ半信半疑の気持ちもあるのだろう。
 彼らをこの場から退去させる算段していた若奈には好都合だった。
 防犯スプレーをとり出した。市ノ瀬といえども顔面に浴びたら手出しできないだろう。さらに彼女の邪魔をさせないよう、一緒にタイムリープして数時間後に置いてくるつもりだった。
 突然、青白色の光芒(こうぼう)が彼女の目前を一瞬なぞるように照らした。足を動かしたかすかな音に気づき、市ノ瀬が懐中電灯の光を走らせたのだ。若奈はさらに身を縮めた。近寄ってきたら、不意討ちをかけなければ。
 接近してくる気配はなかった。しかし市ノ瀬も警戒している。不用意にはとび出せない。
壁から慎重に顔を出した。こちらに背を向け、窓の下にしゃがんでいる市ノ瀬が漏れた室内の灯りで薄ぼんやりと浮かび上がった。
 わざわざ後ろ向きの無防備な背中には、『罠』という文字がどうしても読めてしまう。覚悟の上でやるしかなかった。とびかかって相手の顔に一瞬吹きかけるだけなのだ。芳斗を見習い、「いち、にっ、さん」で思いきりよく飛び出した。一メートル近くまできて、眼が眩むほどの閃光を真正面から浴びた。至近距離まで詰めて噴射しようした判断が甘かった。とっさに横を向いた彼女の右手を市ノ瀬は捉え、下ろしながらぐいと捻った。関節がきしむような痛みに若奈は低い悲鳴を上げた。
「まさに返り討ちだ」
 市ノ瀬の満足げな笑いが耳元で聞こえた。手首や腕の関節を決められ、いつのまにか市ノ瀬に背を向けた屈辱の格好だ。またやられた。若奈は無念と苦痛に奥歯を噛みしめた。このままではスプレーも奪われてしまう。幸い噴射口は手首の角度から相手に向いているように思えた。ヘッドを押しながら左右に手首を振った。
 シューという噴射音に続き、今度は市ノ瀬が悲鳴を上げ手が離れた。胡椒のような匂いが鼻をついた。ガスをまともに浴びたらしく、顔を両手で被い激しく咳き込んでいる。若奈が「えいっ」とばかりに体当たりすると、簡単にひっくり返った。市ノ瀬の腕を片膝で押さえ、目を閉じてすぐにイメージの準備をした。
 数秒で手応えはあった。夜だから暗さに変わりないが市ノ瀬と共に、たぶん三時間先の未来へとリープを果たしたはずだった。こんな場合相手の思念が流れてくるので正確な時間には跳べない。すぐに玄関のあたりまで駆け、二十時三十分への溯行(そこう)を図った。リープの感覚が終わり、市ノ瀬の咳き込んでいた声は消えていた。
 得意とはいえ続けざまに行うのは初めてで、狙い通りの時刻に着いたかどうか心許ない。再び「117」で確認すると二十時三六分。上出来だね、と気をよくし勝手口へと向かった。
 連続のリープのせいか怠さを感じた。気にしてはいられず鍵のかかっていないドアをゆっくりと開け、キッチンにあがった。曾根宅の見取図は大体憶えている。リビング兼ダイニングとキッチンはカウンターで仕切られており、ここにいたら発見されてしまう。手近な部屋に隠れようと、姿勢を極力低くして数歩忍び歩いたところで、折悪しく冷蔵庫を開けにきたらしい曾根と出くわした。
 全身の血が逆流する思いだったが、こうなったときの心構えもできている。
「こんばんは、元気?」多少引きつりながらも笑って会釈した。一方、曾根信樹は口をへの字に曲げて驚いていた。吐く息が酒臭い。少し酔っているようだ。
「きみ、どうしたんだ、まるで泥棒みたいに」
 曾根は写真で見たときより端正な顔立ちだった。背も高く女性のハートを掴むコツを心得ているような、ホストになったら相当稼げそうな雰囲気がある。彼女でさえ、はっと思ってしまう男の色気も漂っていた。
「いえ、近くを通りかかったものだから、どうしているかなと思って」 
「よく女房のいないのがわかったな。体の具合はいいのか」
「ええ、大丈夫」早く退散しないと、小夜子の父が現れる。
「人を待たせているの。わたしこれで、帰ります」
「それはないだろ、少し話をしたい」
 振り向いた彼女の右腕を掴み、ぐいと引き戻した。すばやく左腕も捉えて引き寄せ背中に腕を廻し、背骨が折れるかと思えるくらい強烈に抱きしめた。
「ちょ、ちょっと……。」息が詰まるほど苦しい。抱擁というよりさば折りに近い。
「帰らないでくれよ」
 よりを戻すために小夜子が訪ねてきたと独り決めしたようで、曾根の声が嬉しさに弾んでいる。逆らったらもっと興奮し、押し倒して暴走しかねない。そんなところへ杉伊が登場したら大変だ。若奈は小さく何度か頷いた。曾根が彼女の両肩をつかんで言った。「ずっときみのことは忘れなかった。女房とは別れる。ぼくと結婚しよう。あいつだってだいぶ前から他に男がいるのは公然の事実さ。実家に泊まるなんてうそぶいて浮気しているのさ」
 激しい嫌悪を感じさせる口ぶりだった。結婚して十年以上経ち、互いに飽きがきている。子供は一人いたのだが幼くして事故で亡くし、原因が子供嫌いの夫の邪険な扱いにあったことも不仲の一因になったようだ。その後子宝に恵まれず別れるのには支障がない。不倫した小夜子に妻が法的処置をとらなかったのは、自分も訴えられることを考慮したからだろう。
 曾根が肩に手を回したままリビングに促した。よほど嬉しいのか放そうとしない。コートを脱がそうとする曾根の手を彼女は「すぐ帰るから」と言って下ろさせた。
壁に掛かった円形の大きなアナログ時計が八時四十分を指していた。杉伊がくるまでしばらく時間はあるようだが、すんなり帰してくれるような口実を考えなければならない。
 アンティーク調の木製キャビネットの上に、金属製とおぼしき黒い悪魔の人形が立っていた。二十センチほどの大きさである。他に見あたらないところ、これが曾根の命を奪う凶器となるわけだ。そう思うと槍を前方に掲げ不敵に笑う表情は、いやが上に恐ろしく見えた。若奈は指さして訊いた。「あの人形、誰の好みなの?」
 曾根が吐き捨てるように言う。「女房さ。全く見ているだけで気持ち悪くなる。若い男と一緒になりたくてぼくを呪い殺したいのさ。保険金も手にはいるしな」
 手足が短く頭でっかちな体躯だから、どことなくユーモラスな趣もあるのだが、とにかく顔が怖い。切れ長でつり上がった眼が邪悪さに満ちている。
 そして五センチ以上はある鋭い槍。人形には怪我の危険性のあるものは持たせないのが常識だろう。異国の呪いとか魔術とかの専門に特注で作らせ、魂まで吹き込んでもらったのではないかとさえ思えてくる。「人目につくところなんかに置かないで、場所を変えるとかしまうとかすればいいのに」
「あいつは薄笑いしながら脅したんだ。この人形を動かしたら死ぬからね」
 呪術の力を借りようとするとは空恐ろしい妻であるが、我が子を夫の過失で亡くした恨みや不貞行為を考えれば、根深い憎しみになったとしても不思議ではない。一念通って亭主は消え、大金も転がり込んだのである。一挙両得でさぞ笑いが止まらなかったことだろう。
「本当になるよ、その呪い」
「おい、きみまでそんなことを」若奈の肩に置いた手を背中にまわしながら曾根が苦笑いした。背中の右手が下りていく。腰をひねってやんわり払いのけると、それがまた男心を(くすぐ)る仕草に映ったのか手を伸ばしてくる。
「バチが下るのよ、悪いことばかりしてるから」
 若奈は冷たく言い放った。
「なんだよ、悪いことって」とぼけ顔で言う曾根の右手を掴み、持ち上げて目前につきだした。
「すぐ手を出す、癖の悪さよ」曾根の手を投げつけるように放した。
「できているんでしょ、市ノ瀬の奥さんと」 
 彼女と曾根は顔見知りで金銭関係もあった。あの男好きのする容貌に、曾根が黙っていたとは思えない。
「は? 何を根拠にそんなことを」曾根が驚きの笑いを見せる。表情には嘘が読みとれない。一瞬、己の直感に不安がよぎり、嘘を通さねばならなくなった。
「あたし、見たんだ。二人でホテルに入るのを」
「でまかせ言うな」
「証拠の画像出しましょうか」
「ああ、出してもらいたいね。苦心の合成画を」
「そう、じゃあ……」若奈は嘲るような眼を向けながら、もったいぶるようにじわじわとケータイを出し始めた。曾根の眼線はしっかり注がれている。無表情が平静を装っているように思えてしまう。
「画像だけじゃなく、動画も撮ったのよ。あとをつけて」
 操作しながらチラ見すると、曾根はあらぬ方に目を向け無関心といった様子で黙秘を続けている。「あー、これこれ。きれーいに写ってる。これぞ動かぬ証拠。動いている証拠もあるけどね。とくと御覧くださいませ」
 画面を『(あおい)御紋(ごもん)印籠(いんろう)』さながらにつき出すと、渋々という様子で曾根が視線を向けた。
 見るなり眉間に縦皺を寄せ、驚き顔で若奈に目を移した。画像は今、撮ったばかりの曾根の姿なのである。若奈はいたずらっ子のように笑って小首を傾げた。
「うそだよ」
 曾根の口から安堵の溜息がふうっと漏れた。
「ほーら、シッポを出しちゃった」すかさず突っ込むと無表情に戻り目をそらした。ばれたも同然だった。「何回寝たの?」
 一転、鬼の形相で問い詰めた。
「一度や二度じゃないでしょう。結婚しようですって? そんな気もないくせに、冗談じゃないわ」
 怒気を込めてまくし立てる若奈に曾根は唇を噛みしめていた。それが図星を表しているのでも、開き直りの態度でもかまわない。この場を切り上げるきっかけになればいいのだ。続けざまに決定的な捨て台詞をぶつけた。
「さよなら、あなたとは本当にお終いね。今日はそれを言いにきたの」
「ちょっと待ってくれ」
 やっと口を開き、腕を掴んで引きとめた。「ぼくの話をもう少し聞いてくれ」
 また抱き寄せようとする素振りに、これまで怒りの演技をして気持ちが高ぶっていた若奈は本当にかっとなり、空いた右手で曾根の頬を打った。
「触らないで、顔も見たくない」
 曾根が呆然と立ちつくしているうちに、強引に手をふりほどき勝手口へと向かった。
 だが、靴を履く寸前、背後から肩に両腕を廻されて強く抱きすくめられた。驚いて身をよじる彼女を曾根は無言でそのまま力任せに後方へ引きずっていった。
 曾根にしてみればはるかに年下の女に冷たくあしらわれ、プライドを傷つけられたのだ。諦めるものと踏んだのが、逆切れの結果を招いてしまった。
「やめてよ」足をばたつかせようがおかまいなくキッチンを通り、リビングのカーペットにどんと後ろ向きに突きとばした。尻もちついた若奈の腿のあたりに曾根はすばやく馬乗りになり、両腕を床に押さえつけた。
 暴行される…… 彼女が恐怖した刹那、脳裏にひとつの記憶がフラッシュバックした。小夜子の経験が甦ったのだ。
 仕事で曾根と外回りしている小夜子。交通量の少ない道路。日暮れ。運転中の曾根が小夜子に何か話しかけた。缶入りの炭酸飲料を一口飲んだ小夜子が顔を向けたとき急に(むせ)てしまい、曾根の膝から太腿にかけて茶色い液体を噴きこぼした。咳き込みながらあわてて謝り、曾根の衣服をハンカチで拭く小夜子。驚いたものの曾根は「もう、気をつけてくれよ」とこぼしながらもそのまま運転を続けた。だが太腿まで拭いてもらって欲情に火がついたらしい。「クリーニング代の代わりに、これで勘弁してもらおうか」などとこじつけるように呟いて胸のふくらみに手を伸ばした。
 いきなりのことに彼女は手を払いのけ曾根に運転操作を誤らせ、車は自転車の小学生に接触。転倒させ、大怪我させてしまった。
 若奈が聞いていたのは、運転中の曾根の膝に小夜子が飲物をこぼしたがために驚き事故を起こした、という内容だった。しかし若奈はこの記憶が真実であると確信した。曾根が上司という立場上、小夜子は自ら罪を被ったのである。
 曾根という男の醜い面をもうひとつ見た不快感があった。その曾根が薄笑いした。
「誰もいないんだ。帰すわけないだろう」曾根が顔を近づけてくる。そっぽ向いた若奈の頬に酒臭い息がかかった。曾根の支配的な態度からみて、とうに二人は男女の関係まで達していたはずだ。彼にすれば、これは暴行ではない。
 また小夜子の記憶が現れた。退職後の小夜子に、曾根は己の非を土下座して詫びたのである。新しい職場を探してくれ仕事に就けば、調子はどうだとか困ったことはないかとか、精一杯の厚意を表した。それが彼女を引き戻すための手管でも、重なれば真心に思えてくる。胸が熱くなり心を委ねてしまったのだ。悪い男かもしれない、瞞されて遊ばれただけかもしれない、でも、わたしには必要だった人、惚れたわたしの負け……。そんな想いさえ伝わってくる。
 市ノ瀬への融資も彼の妻と関係を持つのが目的と気づき、顔を背けたまま若奈はつぶやくように言った。
「お金で釣ったのね、市ノ瀬の奥さんを」気に入った女は欲のまま手をつける。そういう男なのだ。その曾根が耳元でかすか笑いを洩らした。
「向こうだってその気になってたよ」
 若奈は前を向いて睨みつけた。こんな男に身を売った市ノ瀬の妻、そして市ノ瀬はもっと不憫だった。
 そのうえ小夜子の曾根を(かば)う気持ちもやるせない。西岡と会ったとき小夜子の記憶が出てきたと一緒で、今こうして現れるのも曾根への強い未練としか受けとれなかった。様々な感情が口惜しさとなって胸を()きあげ、目尻から涙がこぼれ落ちた。
 玄関のチャイムが鳴った。曾根が頭をもたげ、舌打ちした。二度三度せかすようなチャイムの音。「誰だよ、こんなときに」
 玄関のほうに顔を向けてぼやく曾根。杉伊和宏が訪ねてきたのだ。
 曾根の斜め後方にキャビネットの悪魔人形が見えた。一メートルもない距離で、構えた槍は曾根の後頭部の高さにある。「ばかぁぁぁぁ!」若奈は声の限り叫んで怒りをぶちまけ、両腕で思いっきり曾根の上体を突きとばした。わたしが殺人犯になってもいい……。
 小夜子の細腕に曾根は大柄すぎた。不意を喰ってのけぞりはしたものの転倒までは至らず、すぐに彼女の両手首を片手で床に押さえ、一方の手で口をふさいだ。無駄とは知りながら、腰を左右に何度も振って抵抗を試みた。
「騒ぐな、殺すぞ」見たことないであろう小夜子の激情に出くわし、曾根は動揺を隠せなかった。口元の手を喉に下ろし、軽く締めて脅した。だが若奈は冷静だった。それはついに来てしまったという諦めでもあった。
「あの客はじきここに入ってくるよ。残念ね、ベッドまでいけばよかったのに」 
 放っておいたら訪問者が帰ると読んだらしいが、娘の叫びを聞いた杉伊は必ず家の中に上がりこんでくる。いや叫ばなくても入ってくるだろう。杉伊の曾根に対する憎悪は相当なものだから。
「おまえは?」曾根の目線が宙をさまよった。ようやく自分の知っている小夜子とは別の人格に気づいたのだ。
「そう、あたしは小夜子じゃないのよ」冷笑する彼女の首を曾根は恐怖とも驚きともとれる表情で締め上げた。喉に激痛が走る。が、すぐ我に返り抵抗できないほどに緩め、片手をブラウスの襟にかけた。そのとき。
「この野郎!」 
 怒号とともにひとりの男が曾根に真正面からとびついた。胸倉を掴んで立たせた。若奈は咳きこんで喉を押さえ、よろよろと立ち上がった。足元がふらついている。写真で見た杉伊和宏が目の前にいた。血走った眼が人一倍逆上しやすい性格を物語っている。若奈はしばし自分がなぜここにいるのかを忘れ、棒立ちになっていた。杉伊和宏の登場が現実のこととは思えなかった。そして、背丈で上回る曾根の襟首を激しく揺さぶり何か怒鳴っている杉伊に、漠然とした恐ろしさを覚えていた。十年ほど前に妻を亡くし長女は嫁ぎ、今の杉伊にとって命よりも大事な娘、その小夜子を全力で守ろうとしている姿には、一種狂気と重なるものがあった。
「行け、」
 杉伊の声ではじかれたようにキッチンへ駆けこんだ。勝手口のドアが開きかけ誰かが入ってくるのに気づき、あわててリビングに戻った。落としたミニバッグを拾い二人の揉み合う様を視界の端で捉えながら、引き戸を開け隣の和室に隠れた。
 ふと彼女は思った。杉伊がここに駆けつけたのは、さきほど店の前で出くわした中年女性が連絡したからだろう。『事故の責任を楯に娘への関係を迫ったことを問い詰め、曾根と揉み合いになった』という事件当夜についての供述は偽りだった。娘が乱暴される直前で逆上したなどとは、父親として言えなかったのだ。そうなると、杉伊を冤罪に陥れた直接の原因は若奈の行動にあったわけだ。
 若奈はこれで何度目かの疼くような心の痛みに襲われた。変に演技なんかしないで、もっと早く無理にでも帰るべきだったのだ。その芝居に酔って楽しんでいた自分が情けなかった。深沢の転落も自分絡み、事件のすべてが彼女の行動に起因したものではないか。一体、わたしは何のためにこの時代にきたのだろう。
 若奈は頭を振って自虐の気持ちを追い出した。己を責めているときではない。杉伊の供述では曾根の暴力で気絶させられる直前、侵入者があったということだった。今、勝手口より入ってきた人物こそ真犯人の、はずである。
 曾根の短い叫び声に、引き戸を数センチほど開けてリビングの様子を覗った。証拠を残すために急いでケータイのカメラを起動させた。が、すでに事は終わっていた。犯人となった男が目の前を動転した足どりで通り、勝手口から逃げ帰った。
 構えていた右手がだらりと下がっていた。信じられないというよりも、信じたくない事実だった。その顔には見覚えがある。十年後の未来でよく知っている人物。今ここでは二十代前半の若者だが、間違いない。垂水睦則だった。
 若奈は恐る恐る居間に歩み寄った。人形の、前方に突きだした槍の部分が(ぼん)(くぼ)に突き刺さり、首筋から血を流して曾根が仰向けに倒れていた。少し離れた場所に杉伊も仰向けで眼を閉じている。こちらは気を失っているだけだ。
 やったぜといわんばかりの口角を思いきり上げた悪魔の横顔が見えた。けたたましく笑う声さえ聞こえてくるようだった。殴りつけるためとっさに掴んだ人形が床に落ちた、と杉伊は供述している。人形に杉伊の指紋しか残っていないということは、その後に入室した垂水とやり合うかして曾根は転倒し、そこにちょうど槍が待ち受けていたのだ。この人形を動かしたらあんたは死ぬ、という曾根の妻の脅し文句が甦った。偶然以外の力が働いたと考えてもおかしくない事態だった。 
 全身が急に重くなった感覚に若奈は両膝をついた。曾根の最期に愕然として崩れ落ちる小夜子のように感じられた。
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