第 2話

文字数 13,747文字

 事件はT市の中央付近にある曾根(そね)信樹(のぶき)宅で発生した。三四歳になる曾根は妻との二人暮らし。十月一四日午前、実家に泊まって帰宅した妻が後頭部より血を流して死亡している夫を居間で発見した。後頭部には金属製人形の鋭利な突起部分が刺さっており、争った形跡もあって他殺と断定された。
 捜査の結果、一三日午後九時前曾根宅まで乗せたタクシーがあり、運転手の証言から杉伊和宏と判明した。杉伊の娘、小夜子と曾根は以前同じ職場に勤務しており、二人で外回りの仕事中飲み物をこぼして曾根に運転を誤らせ、小学生を負傷させる事故を起こしていた。曾根は会社での立場が悪くなり、小夜子は居づらくなって退職。妙なことにそれがきっかけとなって二人の仲は不倫に発展し、杉伊は曾根に交際を絶つよう求めていた。
 杉伊の供述はこうである。事件当夜曾根宅へ行き、事故の責任を楯に娘に関係を迫ったのではないかと問いつめた。が、曾根はしらをきりふてくされたため、揉み合いになり手近にあった人形を掴んで殴ろうとしたが、足払いされ転倒し首を絞められ意識が遠のいた。気がつくと曾根が死んでいた。
 死因は金属製人形の突起部分が後頭部に突き刺さったことによるもの。そして顔面にも強い打撃痕が残されていた。杉伊側は凶器の使用を頑なに否定、首を絞められ意識が途絶える寸前、誰かが現場に入ってきたような記憶もあることから別犯人説を主張したが、指紋も確認された他、杉伊には一度曾根への暴行歴があること、裁判でも反抗的姿勢をとり続けたことなどから、殺人罪で十年を越える懲役刑が言い渡された。
 しかし、曾根信樹が金貸しでのトラブルを抱えていたという事実が浮かび、別犯人の可能性も強くなって差し戻しを要求。真犯人が特定されぬまま、十年間に渡り裁判で争ってきたのだった。
「今夜、どうなるかな」
 田村輝彦が借りているコーポラスのリビングルーム。証拠固めに使用する超小型カメラの点検を終え、翔一郎が垂水にぽつりともらした。垂水は読んでいた新聞をテーブルの上に置いた。
「どうもなりゃしない。真犯人の姿を捕らえるだけだ。必ず撮ってやるさ」 
 強い意気込みで垂水が返す。曾根は好男子風の見かけとは裏腹に評判のよくない男で、金銭問題以外にも恨みを買う相手は何人かいるという噂だった。その誰かが真犯人に違いないのである。
 夜八時過ぎ、待ちかねたように三人は田村の車で曾根宅へと向かった。日中、法に触れる行為をして、部屋の中に設置した隠しカメラが犯行時刻前に録画を開始する手筈になっていたが、やはり真犯人を彼ら自身の眼でも確認しておきたかったのである。 
運転中の翔一郎が思いついたようにつぶやいた。「もしぼくたちがこれから、殺人の起こるのを防いだら、どうなるでしょうね。犯人の目撃よりも事件そのものを未然に防いだほうが、やっぱり得策じゃありませんか」
 後部座席の若奈が口をはさんだ。「でもこの事件には多くの人が関わったのよ。そりゃ殺しをさせないほうがいいに決まっているけど、それじゃ関わった人たちの未来が変わってしまうんじゃない」
「なんか歯がゆいな」
 翔一郎が不満を含ませて言うと、垂水が顔を向ける。「やりたければやってもいいと思う。ただし危険を伴うし、若奈さんの言う通り未来が変化する可能性も否定できない。こういう場合やめといたほうが無難だ」
 翔一郎が力の抜けた声で答える。「はあ、そうですね」
 ほどなく車は曾根宅隣の八幡宮の敷地に乗り入れた。昼間でも交通量が乏しく、民家もまばらなうら寂しい住宅街である。
 社の正面のひさしに暗い裸電球が一個灯っているだけ。居住しているような様子はない。鳥居の幅は楽に車が進入できるほどあり、境内は無断駐車に向いているらしく黒いセダンの乗用車が一台すでに駐車していた。翔一郎はその車が出やすいように、十分距離をとって停めた。
「まだ時間はありますけど、とりあえず一度現場をたしかめてきますか」
 夜気が肌に冷たい。顔の識別ができるまでに延びている街灯の明るさはありがたかった。垂水と翔一郎がおもむろに道路へと歩きだした。神社の敷地には端(みず)垣(がき)が張り巡らされており、曾根宅へ入るには一旦道路に出なければならなかった。
 やや遅れた若奈の耳に落ち葉を踏みしめるかすかな足音が聞こえたかと思うや、右腕を背後から突然何者かが掴み、頬に冷たいものを押し当てた。
「少しおとなしくしてくれないか」
 落ち着いた男の声だった。若奈は自分の身に何が起きたのか理解できなかった。驚きながらも目線だけを動かし、頬の物体を確認した。それが拳銃と判り、金縛りにでもあったように全身硬直した。心臓の鼓動が体を通して耳に入ってきた。ほぼ同時に垂水がもうひとりの男に襲われ、サバイバルナイフを喉元に突きつけられていた。二人ともあの車に隠れていたのだろう。
「何だ、おまえたちは」
 驚きに声を震わせ叫ぶ翔一郎。若奈を捕らえた男が押し殺した声で命じた。
「静かにしろ。女を殺すぞ」二人は共に三十代中頃で黒尽くめの服装。若奈の方は小太りで中背、陰険な目つきのふてぶてしい面構えだ。垂水側は大柄のがっしりとした筋肉質で、やはり目つきに鋭さがあった。強面(こわもて)も脅しの材料と意識しているのか、素顔を堂々と(さら)している。リーダーとおぼしき小太りが口早に命令した。
「持っている物全部よこせ」
 強盗だった。翔一郎は腹の内で舌打ちした。こんな時に、なんて運が悪い。
「金なんて、たいしてないぜ」翔一郎は財布を放り投げてやった。物取りならば金品を手にしたら消えるはずだ。小太りの男は銃を当てたまま若奈も一緒にしゃがませ、地面の財布を素早く拾い上げた。懐にしまいこんで、また命じた。
「金だけじゃなく、もっとあるだろ」
「おいおい、勘弁してくれよ。この寒空に身包(みぐる)みよこせと言うのか」
 苦笑いする翔一郎に相手は驚くべき要求を突きつけた。
「おまえたちを未来から運んできたコファーがあるだろ。それを出せと言っているんだよ」三人は唖然たる表情で互いを見合った。代表して翔一郎が問い詰める。
「何者だ、おまえたちは」
 この二人がコファーという名を知っているということは、自分たちと同じ未来年から来たか、自分たちが来るのを何らかの手段で知り得た者たちだ。いずれにしろ真実を暴かれまいとする真犯人の可能性が強い。
「そんなことはどうでもいい、早くしろ」
「残念だが、ここにはない」
「ほう、それを信じていいのかな。こっちは本気だぜ」銃口を頬からこめかみに移し、首に腕をまわした。若奈の息を飲みこむ声が聞こえた。
 大柄の男は垂水の懐中をさぐり、財布をとりあげた。取り戻そうとした垂水の頭を殴りつけた。がくりと(ひざまず)く垂水。後頭部を押さえている垂水をそのままにし、二人は翔一郎と若奈を黒い乗用車へ連れていった。大柄の男が先に翔一郎の手首と足首を粘着テープで何重にも巻いて、後部座席に押し込んだ。
 若奈も同様に縛り、兄の傍に転がした。声が出せないよう口もふさがれた。それらは極めて短時間のうちに行われた。ほどなくして運転席のドアが開き大柄の男が腰掛け、もう一人もじきに助手席に納まった。垂水を連れてこないのが妙だった。動けなくなるほど怪我したとは思えないし、逃走されたわけもあるまい。
 車が走り出した。芳香剤が強烈に匂う車内で、翔一郎と若奈はテープから抜けだそうと手首をひねったり揺すったりした。しかし強度も粘着力もある布テープは、多少もがいた程度では緩みそうになかった。
 明らかに計画的な犯行だった。垂水は逃げたのではなく、コファーを持ってくるよう脅迫されたのだろう。曾根殺しの真犯人だとすれば自分たちも殺害し、奪ったコファーで金儲けか悪事を企んでいることは察しできる。
 何度か右左折し、いつしか車窓からは建物や街灯の明かりが消えていた。農道に入ったらしく緩い登り坂やカーブが続き、黒い木の影が矢継ぎ早に通り過ぎていく。人口二十万に満たぬ地方都市である。ものの五分も走れば郊外の広陵地帯だ。木立はこのあたりで栽培が多い桃の樹であろう。
 翔一郎は車窓の景色に注意をはらった。万が一逃走できた場合のために、道順を覚えておかなければならない。民家があれば人に訊けるからいいが、畠ばかり続く道路では記憶だけが頼りだ。  
 若奈は未だに、自らのおかれた境遇が実感できなかった。まるでサスペンスドラマを観ているような他人事の感じなのである。もちろん恐怖は禁じえない。しかし小夜子が死ぬのはまだ先なのだから垂水が警察に連絡していて、必ず救助にきてくれるはずだ。悪い方へ未来が変わるかもしれないことは、一切考えたくなかった。
 翔一郎の上着からケータイ電話の呼び出し音が鳴り響いた。垂水だ、と二人は思った。それを待っていたかのように車は停止した。助手席の男が後ろに体をひねり、音のするあたりに腕を伸ばした。反射的に翔一郎は身を引いたが、難なく抜き取られた。
「聞こえているよ。ああ、二人とも無事だ」
 小太りの男が静かに答えている。「まさか警察には云ってないだろうな……」
「……よし、すぐ行く」
 垂水が要求に応ずるつもりなのだ。短いやりとりのあと、車はふたたび走り始めた。砂利道に入ってほどなく、赤土がむき出した平地に停車した。畠を潰す作業の途中と思われる場所である。ヘッドライトが照らした先には中型の油圧ショベルがあり、その近くには掘削(くっさく)による盛り土が見えた。二人の男は車を降り、後部のドアを両側から開け翔一郎と若奈を引きずり出した。
「しばらくあそこにいてもらおう」小太りの男はそう言い若奈の体を肩に担ぎ上げ、ヘッドライトの光をたよりに油圧ショベルの方へと歩き出した。翔一郎を同様に担いだ大柄の男が続く。後からきた男が翔一郎の体をどさりと下ろした。
 転がり落ちる感覚に翔一郎は塞がれた口で悲鳴をあげた。平地ではなく穴の中に投げ込まれたのだ。両手両足を縛られていると受身はできない。後頭部をしたたか打ちつけた。追い討ちかけるように若奈の体が倒れ、妹の頭部を腹でまともに受け止めた翔一郎は顔をしかめた。若奈が頭をずらしながら言葉を口走った。テープで塞がれていても「ごめん」と言ったのは判った。
 車のドアが閉まり、エンジン音も遠ざかっていった。周囲は目を閉じているのと変わらない漆黒(しっこく)の闇になった。
 二人は上半身を起こした。脚は十分伸ばせたが、肩を並べるのがきついほどの狭い、縦長の穴のようである。深さはそれほどあると思えない。せいぜい一メートルくらいだろう。しかし、両手両足を縛られて立ち上がることができない二人には、脱出の叶わぬ深さであった。翔一郎が何か喋り、若奈は顔を向けた。もう一度今度はゆっくり話し、彼女も耳を口元にくっつけたが、やはり聞き取れない。何度喋ってもただの唸り声にしか聞こえないのだった。
 翔一郎は若奈に背中を押し付けた。手首の粘着テープを切ってくれというのだ。若奈も体の向きを変え兄の手首に触ってはみたが、幾重にも巻かれたテープを縛られた両手で切り破くことは不可能だった。それは翔一郎が若奈に試しても同じだった。
 若奈の胸に耐え難い恐怖が迫ってきた。先にあの二人が戻ってきたらどうなるか。あいつらは男だ。乱暴するに決まっている。ここに担がれて運ばれたときの、ぞっとするような男の手の感触がまだ体に残っていた。小太りの男は彼女の腰のあたりを撫で、あとが楽しみだな、とつぶやいた。
 ふと地面をこする足音が聞こえ、若奈の身がびくりと震えた。車が戻ってきた様子はなかったしそんなはずは? 
 翔一郎の前に着地した震動が感じられた。連中のうちのどちらでもないことは何となくわかった。その人物は甘い香水の匂いを漂わせ、無言で翔一郎の肩に手を当てた。香りには覚えがあった。あいつらの車内でかいだ匂いと同じだ。
 肩に置いた手が手探りするようにそのまま下りていき、縛られた手首で止まった。もぞもぞとした動きが伝わってくる。刃物か何かで粘着テープを切断しようとしているらしい。たまらず翔一郎は「誰ですかあなたは」と訊いてみた。くぐもった声でも理解できたはずなのに、やはり返事はなかった。おおかた切れたらしく、相手は逃げるように出ていった。翔一郎は急いで口と足首のテープを剥がし、若奈の手足も自由にした。
 二人が穴から出たとき、あの人物の気配はあたりに感じられず、点きっぱなしの懐中電燈が地面に転がっていた。若奈が拾いあげる。百円ショップで売っているような、この暗がりでも安物と分かるペンライトだ。
「今の人、どうしてわたしたちのことを知ったのかしら」
「知るか、本人に訊いてくれ」肩をすくめる翔一郎。二人が監禁されたのを知っていたとなれば境内での一部始終を目撃しており、車の後をつけてきたはずだ。今のところ当てはまるのは垂水しかいないが、あれはどう考えても垂水とは違うし、尾行してきたような車の記憶もない。
 どうやってここまできたのか、なぜ正体を隠すような動作をしたのか、そしてどこへ行ってしまったのか、謎だらけだった。危機を救ってもらったことに感謝しながらも、翔一郎は不穏なものを感じた。
「たすけてくれるとは思っていたけど、ちょっと予想外よね」あの人物の正体も気になるが、自由を得た喜びで若奈は大きく息を吐き出した。
「喜ぶのはあとだ。じきあいつらが戻ってくる。早く逃げよう」
「そのためにわざわざ懐中電燈を置いていったわけか、御親切にどうも。でもどうするのよ、歩いて帰るにも翔、帰り道憶えている? わたし全然自信ない」
 走行時間はほんの五分足らず。距離にして三キロ余りだろう。しかし拉致という極度の緊張下、知らない土地での夜の走行だったのである。どこで右左折しどの道に入ったのかできるかぎり憶えたつもりでも、いざとなると若奈ほどではないにしろ翔一郎も弱気になった。 
 これから迷うことなく順調に進んでも歩行速度では三十分近くかかり、犯行時間に間に合うかどうかだ。今となってはあの二人がカメラの存在に気づかないことを願うしかない。ペンライトを翔一郎が持ち、二人は一本道を歩き始めた。
「結構痛いもんだな、粘着テープを剥ぐときって」
 翔一郎が口元をさすりながらつぶやいた。電燈の光を兄の顔に当てると若奈は叫んだ。「うわっ、血だらけ」
「えっ!」
「ウソぴょ~ん」
「全く、いつものおまえだな」
 ふざけているうちに、前方の幹線道路を軽トラックとおぼしきエンジン音の車両が走り抜けていった。「あっ、しまった……」
 急いで道路へ出たものの、テールランプが急速に遠ざかっていく。翔一郎は悔しさに歯噛みした。貴重な幸運を早々に逃してしまったのだ。肩をたたいて若奈が慰める。
「次があるよ、翔」
 最初の選択はこの農道をどちらに進むかである。「たしか最後は右折だったから、左だよな」
 今の車両も左に走り去った。時間帯を考えると市街に戻る車だろうから、まず間違いはない。しかし、若奈が首を傾げた。「そうかな、左折したような気がするけど」  
翔一郎がまた愚痴をこぼした。
「さっきの人、ついでに道順の目印でも残してってくれりゃよかったのに」
 ここは妹の勘より兄の記憶を信用し、進路を左にとった。数分も歩かぬうちに道が二又に分かれていた。いわゆるY字路である。兄妹は揃って「あー」と吐息を漏らした。二人ともどちらを通ってきたかまるで憶えがないのである。
 十字路や丁字路での右左折のように九十度の角度で別の道に進入するのと違い、Y字路のように浅い角度で入る場合よほど注意していないと気がつかないのだ。
 ヒントになるものは一つもなかった。優先道路を判別する一時停止の標識はどちら側にもあり、センターラインは両方ともなかった。道幅も同じくらいだった。  
 翔一郎は額に手をあて若奈は頬杖つき、しばらく黙りこくった。農道に入った後は、外の景色を一瞬たりとも見逃さなかったつもりだ。なのに全く覚えてないとはどうしたことか。翔一郎にある不安が浮かんだ。
「わたし、右だと思う」突然、若奈がつぶやいた。翔一郎は声のほうに顔を向けただけで、何も言わなかった。難局に出遭うと意外に意気地がなく、優柔不断に陥りやすい兄の性格を心得ている若奈は、翔一郎の両肩を揺さぶった。
「翔、考えたってどうにもならない。わたしの勘に賭けてみてよ。違っていたら、また戻ればいいじゃない」
 翔一郎は素直にうなずいた。最初に下した左方向への進路が間違いだったように思えてきたのだ。彼はもう、半ば捨て鉢になっていた。
「貸して」若奈は兄の手から懐中電燈を奪うように掴むと、先に歩き始めた。
「あれ、またティシュペーパーが落ちている」
 若奈は雑草の生えた右端の一点に光をあてた。翔一郎も目をやると、ポケットティシュの一枚が広がった状態で草にからまっていた。「さっきもあったけど」
 小首を傾げ、若奈は恐る恐るつまみあげた。覚えのある甘い香りが微(かす)かにする。若奈は声をあげた。「これ、あの人と同じ香水の匂いだ」
 翔一郎がかいでみる。たしかにテープを切っていなくなった、謎だらけの人物が発していた匂いと同じものだ。ほとんど乾いているが、真ん中あたりに香水を含ませたのだ。「これはたぶん、カーコロンだな。しかし、どういうことなのかな?」
 じれったそうに若奈が説明する。
「鈍いのねえ、あの人が残してくれた帰りの道しるべなのよ。翔の願い通りじゃない」
「ええ? これがか。風で飛ばされるぞ」
「文句言わないの。だから香水で濡らしたんでしょうが。もう……少しはありがたいと思いなさいよ」 
 若奈はこの香水付けのティシュペーパーが帰り道を教えてくれると信じ切っていた。翔一郎にかまわずすたすた歩き出した。まだ疑問なところはあるが、そもそも翔一郎とて頼れるものならどんなものでも頼りたい心境なのだ。若奈の後について行くしかなかった。
 腕時計を見ると、十分以上経過していた。あれ以来アクセスする道路もなく、ティシュペーパーもぽつんぽつんと確認できた。まっすぐの道であれば進むのは早い。無風とはいえ夜気で次第に体が冷えてきたこともあり、若奈の身体に響かない程度の早足を維持した。
「ねえ、翔」歩きながら夜空を見上げ、若奈は言った。雲が多く月は隠れているが、真上には星空が広がっている。「星がとてもきれいね、満天じゃないほうがロマンティックに見える」
「はあ? おまえは非常時でも夢見る乙女かよ。見習いたいぜ」
「いつまでたっても女子の気持ちがわからないんだよね、だから彼女できないのよ」
「まさかおまえ、変な気おこしちゃいないよな。躰は別々でも兄妹なんだからぼくたちは」
「まったく翔一郎ときたら。わたしは、星空のロマンに感動しているだけじゃない」とは言ったものの端正な田村輝彦の面差しに、どことなく兄とは別の男性を意識するようになってきたのも嘘ではないのだった。
 何か無性に会話を続けたい気分だった。人気(ひとけ)ない夜道で二人っきりという状況がさせるのか、他人と人格交換したら必ず気になる事を兄にも確かめてみたくなった。
「ね、トイレの度に、きまりわるくなかった?」
 鈍いと言われた翔一郎もその質問には即答した。「まあな、人様の体だから。ただ、あちらだって同じことを感じているはずだし、そもそもそれは暗黙の了解済みで、必要以上に意識してはいけないことじゃないのか」
「そりゃそうだけど、やっぱりあちこち比べてしまうよね。わたしの顔見て、勝った、と思っているだろうな」
 咳払いひとつして翔一郎が言った。「ま、兄妹して美男美女じゃないからなあ。ただ胸は僅差(きんさ)だがおまえが勝っている、と思う」
若奈はプッと吹き出しながらも両手を胸に当てて確かめた。「うん、楽勝ね」
「映画や小説なんかじゃ、心が入れ替わる設定なんていくらでもあるんだよな。それもほとんどが男と女の入れ替わりだ。ストーリーが面白くなるものな」
「コファーを使えば、男女の人格交換もできるわけでしょ?」
 若奈が訊く。研究会の訓練では、万が一元に戻れないリスクも考慮し過去の自分との人格交換を繰り返した。仕上げの実験も同性同士の交換を慎重に行ったのだ。
「もちろん。倫理上の問題でやらないだけさ。もしやったら痴漢と同じだ」
「そうかな?」
「そうじゃないか。おまえやっぱりおかしいぞ」この話題は打ち切りと言うように翔一郎が歩調を早めた。しばらくして長い登り坂にさしかかった。歩き疲れてきたのか翔一郎が愚痴をこぼす。
「ケータイをとられなかったらなあ。垂水に連絡つくんだが」昨日購入したばかりのプリペイドケータイを、一回も使わず奪われたことが余計悔しい。
「あ、ケータイだったら持っているよ、あたし。ほら」
 若奈は上着のポケットから小夜子のケータイ電話を取り出した。この時代はスマートフォンが普及しておらず、ガラケーが主流だった。「なに、早く言えそれを」
「今思い出したんだもん。それに、垂水さんの番号入ってないのよ。翔、憶(おぼ)えている?」
 小夜子の所有物だけにこちらも使ったことがなく、電源を切ったままだった。
翔一郎の溜息が聞こえた。
「憶えてないよ。ぼくも打ち込んでそれきりだもの。ま、いいや、通りかかった車に拾ってもらえるって幸運もなくはないしな」
「もしかしたら、垂水さんが小夜子さんの番号を入れていて、向こうからかかってくることもあるよね」
 若奈は電源を入れ、念のため電話帳を調べてみた。すると、垂水の名前が出てきた。
「見て、これじゃないの」
「おお、早速かけてみよう」翔一郎がとり上げる。二、三回の呼び出し音で相手が出た。「はい、垂水です」 
 声が蓮沼よりかなり若いように感じながらも翔一郎は応答した。
「ぼくです。沖野です。垂水さんですよね」
「はっ? どちらさまですか」
 明らかに老人ではない若者の声だった。驚いているのは小夜子の名が表示されたのに、翔一郎が喋ったからだ。これは蓮沼に移入した垂水ではなく、二十代の垂水本人なのだ。となると話が面倒になる。翔一郎は電話を切った。「蓮沼さんじゃなく、今の垂水さんが出た」
「ええっ、どういうこと。二人は昔、いい関係だったってこと?」
「番号入れていたからって、そうとは限らないだろ。お父さん同士は親友なんだから」
 その後、電話帳を繰っても迎えにきてもらえそうな名前は、もちろん見あたらなかった。凶悪事件に巻き込まれたのだから一一○番してもいいのだが、事態が大げさになることを考慮するとためらわれた。
 今の時間帯、この辺を通る車両は滅多にないらしい。まだ一台も見ていない。もし通りかかったら、前方からきたのはあいつらの車かもしれないからむやみに止められないが、後方からの車だったら乗せてもらえる可能性もある。だが、この様子では望み薄だった。
 翔一郎の上着から着信音が、それもモーツアルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が〈ジャ~ンカ、ジャ~ンカ、ジャカジャカチャ~ン……♪〉と賑やかな電子音で流れてきた。ピアノを習っていた小夜子の選曲としては妥当なところだろう。
「さっきの垂水さんからだ。どうしよう。おまえ出ろ。そもそもおまえの電話だ」
「えーっ、そんな」でも確かに彼女が応答すべきなのだ。若奈は大きく深呼吸し、ケータイを耳に当てた。
「小夜子ですが」
「きみ、今どこにいるんだ」
 心配そうな気持ちが早口で伝わってくる。間違いなく二十代の垂水の声だ。
「どこって」
 まさか人里離れた農道を歩いているとは言えない。
「さっきの男と一緒なのか。誰なの、沖野って」
 畳みかける垂水に若奈も動揺してつい、「あれは兄」
「え、きみに兄さんはいないだろう」
「いえ、義理の兄よ」
 十数秒のやりとりで背中を汗がつたっている。小夜子に嫁いだ姉がいることでどうにか切り抜けたが、以後の受け答えはより慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「今どこにいるんだ。お父さんが心配しているんだよ、近くにいるのか」
「近くです。すぐ帰ります」若奈が電話を切ろうとした直前、垂水が気になる言葉を放った。
「曾根なんて忘れてしまえよ」
 若奈は絶句した。小夜子と曾根が関係を持って、別れたことも周知の事実。にもかかわらず念を押すような口ぶりは、ぼくのところに帰ってこい、と云っているように聞こえた。やはり、二人は交際していた期間があったのだ。どう返事していいか解らず、長い沈黙のあと若奈はかすれた声で「はい」とだけ告げた。
「早くうちに帰れって、お父さん心配しているから」
「近県にいい医者がいるから診てもらうって口実がバレたのかな。もう少しましな口実考えりゃよかったのに垂水さんも」
 前方は下りの緩い左カーブになっていた。その行く手よりかすか流れてきたエンジン音が次第に大きくなり、ぼんやりとヘッドライトの光が差し込んできた。
「灯りを消せ」翔一郎はとっさに若奈の腕をとり、右側の桃園にとびこんだ。園地は道路よりも若干低く、路肩には雑草が伸びている。二人は膝をつき、腹ばいになるほど身をかがめた。またたくまに車が通り過ぎていった。翔一郎は伏せながらも顔を上げ、車両を目で追った。ボディカラーまでは識別できなかったが、形状は乗用車とみて間違いない。
「戻ってきたんだ、あいつらが」十分遠ざかったのを確認し、翔一郎は立ち上がってつぶやいた。「ぼくたちがいないのを知ったらまたやってくる。安心できないぞ」
 衣服についた埃を掃いながら、道路に戻った。とはいえ、今の車があいつらと断定できたわけではないので、これからは両方向の車両を警戒する必要があった。トラックとか軽自動車とか、はっきり他の車種と識別できた以外は停車を求められなくなった。正に追われる身になり、自然と歩調は早まった。
またケータイからモーツアルトが流れてきた。画面を見た若奈はちっと舌打ちした。
「ああ、もう今度は自宅からだ」遠くに投げつけたくなった。
「このままほっとこうかな」
小夜子の肉親を無視するのは良心の呵責を憶える。二度深呼吸して
「心配かけてごめんなさい。もうじき家に着きますから」一気に喋り、返事を聞かず電話を切った。ついでに電源も落とした。
 三百メートルほど進んだあたりで丁字路にぶつかった。またも右か左かの選択を迫られることになった。
「そうだ」翔一郎が若奈から携帯を借りる。
「あ、だめだ。この時代じゃナビのついた機種は少ないんだ」
 後方からまたエンジンの唸りとライトの灯りが接近してきた。二人は道路を駆け渡って沢にとびこみ、今度こそ腹ばいになって隠れた。枯れ草や土の匂いが鼻に入ってくる。ヘッドライトが頭上を照らし、車は右方向へ一時停止せずに曲がり、急加速で消えていった。「あの急ぎ方、やつらだな」
 曾根宅に引き返すのだろう。 
「ということは、右へ行けばいいわけだ」 
五分ばかり歩くと、家屋が一軒二軒現れた。ようやく市街に入ったのだ。暗闇の道を辿ってきただけに街灯のやわらかな光を浴びると、安心するものがあった。服にまだ残っていた細かな枯れ草や、土埃を払う余裕も生まれた。
 このあたりからの地理には自信がある。しばらくしてコンビニがあり、その先を左に折れまっすぐ行くと八幡宮のはずだ。
「車を持ってこよう」犯行時間はとうに過ぎている。やつらが待ち伏せしている可能性もあり、危険な行為だった。
「ぼく一人で行く、きみはここで待っていたほうがいい」
「いいえ、わたしもお供します。もしうろついていたら、おしり触ったお返しに大事なとこ蹴とばしてやる」無理に止めたら、翔一郎が蹴られそうな勢いだった。
「そりゃまた頼もしい」
 鳥居まで約三十メートルと迫った。二人は民家の塀に身を寄せ、境内に目を凝らした。街灯の明るさだけでは黒い乗用車の有無は判別できない。しかし、これ以上の接近は向うに勘づかれるおそれがある。
「翔、わたし様子見てくる」若奈が耳元にささやいた。翔一郎はとびあがって驚き、即座に反対した。「バカも休み休み言え、やつらは銃を持っているんだぞ」
「いくらなんでも、いきなりズドンはないでしょ。何かあったら目一杯悲鳴あげるから」と言うなり若奈はそろそろと歩きだした。
「お、おい……」後追いしようとする翔一郎を、若奈は手のひらを前に出して押しとどめた。
 度胸あるふりして出てきたものの、若奈とて内心ひやひやだった。だが、いつまでも待っても埒はあかない。そもそも曾根殺害の犯人だとすれば、現場付近に長居するはずはないだろう。いない確率のほうが高いのである。一歩二歩、姿勢を低くし慎重に歩を運んだ。
 (みず)(がき)の間から境内を窺ってみた。暗いが、物の見分けぐらいはつく。自分たちの乗用車がぼんやりと識別できた。どこに視線を転じても、黒の乗用車は見当たらなかった。人の気配もここからは感じられない。
 思いきって鳥居をくぐった。狛犬や木の陰などに動くものはないか、注意深く観察した。念のため、危険覚悟でペンライトの光をぐるりとあててみた。やはり、人の気配は感じられない。彼女は翔一郎を呼ぼうと振り向いた。いつのまに近寄ったのか、目の前にその翔一郎が立っていた。「わっ、びっくりした」
「いないようだな」
「うん、そうみたい」
 彼らの車は最初停めた場所から少し離れた所にあった。垂水がコファーを用意するために使ったのだろう。油断なく身構えながら車に近づくと、翔一郎は懐中電燈をあて下回りをざっと調べた。
「まさか走っている最中、ドカンと爆発はないだろうが」幸い不審物は見当たらなかった。車内も一応確認してから乗車した。エンジンをかけようとして突如、翔一郎が叫んだ。
「待った。隠しカメラを回収してこなきゃ、あとでまずいことになる。おまえはここで待っていろ」兄が車を出ていき、若奈はいうとおり残ることにした。
 驚くほど早く翔一郎が戻ってきた。黙って発車させると、苦しげにつぶやいた。
「曾根を見てしまったよ」
「そう」
「いやなもんだな」若奈がついていかなかったのも、それが怖かったからなのである。
「とりあえず一度、あの畠まで行ってみよう。垂水さんも捕まって穴に放り込まれたかもしれない」
 その選択は正しかった。翔一郎たちを悩ませたY字路で垂水睦則を発見した。
「すまん、たすかったよ」
後部座席に腰を下ろし、垂水はしんから安堵したように言った。「お互い無事でなによりですよ」
「ああ、しかし」垂水は言いづらそうにことばを切った。
「コファーをやつらにとられてしまった。きみたちを殺すと脅されて、持ってきたら力ずくで奪われた。偽物(にせもの)を渡すことも考えたが、見抜かれたらきみたちの身が危ないと思って本物を持って行ったんだ。そのあと車で重機を置いた畠に連れていかれたわけさ」
「仕方ないですよ、命あるだけでも儲けもんだと思わなきゃ」翔一郎と若奈も、すでにやつらの手に渡ったものと諦めていた。彼らはあそこで三人まとめて殺すつもりだったのだろう。
「全くだ。きみたちも逃げ出せてよかったじゃないか」
 翔一郎と若奈は一瞬顔を見合わせ、若奈のほうが先に口を開いた。
「それが奇妙なんです」
 正体不明の人物の説明をしている間に、翔一郎はもう少し先まで走らせ砂利道で車をまわした。若奈が話し終えると、垂水は深く息をついた。
「今回はわからんことばかりだな」
「落ちていたティシュの匂いはカー香水のものですよ。しかしあの車には他に誰も乗ってなかったし……」と、翔一郎。ふと思いついたように若奈が言う。「トランクに隠れていたってことは」
「難しいな、トランクリッドが開いたままで走行したら、がたがたと音がしてすぐ気づく」
 後方のトランクにちらと目をやって垂水は断言した。推理はそこから先に進めず、三人とも口を閉ざした。話に区切りをつけるように翔一郎が言う。
「でもまあ、犯行現場は撮れたわけだし、一応の目的を果たしたんだから」
「あの人たち、これで終わるかしら。わたしたちの居所を捜し出すんじゃないの」
 翔一郎から取り上げたプリペイド式ケータイが、住所の割り出しに使われることはないのだろうか。若奈の不安そうな問いかけに垂水が返す。「その可能性はまずないだろう。万一見つかったとしても、返って都合がいいようなものだ。やつらから早くコファーを取り返さなければならない。若奈さんを未来に帰還させるためにもね」
 若奈の胸が疼いた。杉伊小夜子は病身であり、あと数日後には絶命する運命なのである。取り返すと簡単に言うが、殺人犯の二人から果たしてできるものか彼女にはとても信じられなかった。不安を察して垂水がすぐにつけ加える。
「いや、心配はいらない。設計図をとってあるから力を合わせれば必ず造れるさ。それに万一に備え、神社にはだいぶ前から発振機を取り付けておいた。完成したら過去に戻ることもできる」
 コファーの特筆すべき点は二つの機能を持っていることで、時を隔てた人格交換の他に、特定の周波数の電波が流れている期間内では肉体そのもののタイムリープが可能なのである。その発振機をすでに仕掛けておいたとは、手回しのいい垂水であった。
「垂水さん、あのうちのひとり、垂水さんが話していた何日か後に立体駐車場から転落する男じゃありませんかね」
 急に思い出したように翔一郎が言った。殺害事件の発生する前後に起きた事件事故を垂水が調べ上げたところ、あるデパートの屋上駐車場で転落事故が起きていたのである。小夜子が巻き込まれた事件もこれとつながりがあるらしいのだ。
「そういえば関連があるかもしれんな」あまり興味がないといった、大儀そうな口ぶりで垂水は答えた。欠伸をかみ殺し、笑いながら彼は言った。
「そういうことは明日話そう、今日はもうくたびれたよ」
 翔一郎は素直にうなずいた。三人ともとんでもない目に遭ったのだ。特に老人である垂水の疲労ぶりは想像がつく。早く帰って休息をとることが必要だった。
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