第17話

文字数 5,645文字

 総合病院の駐車場というのは、午前の特に開業時刻あたりの混雑がひどい。最も広いメインの駐車場はすでに埋まっており、彼らが見つけた空きスペースは道路を隔てた第三駐車場だった。
正面口で垂水が待っていた。ふだんあまり笑わない垂水の表情が重荷をかかえているようにより固く締まっていた。いい知らせはないらしい。若奈は少しばかりの落胆を感じた。
「連絡が遅くなってすまない。さんざん探したが桧原さんはつかまらなかった」
 単調で簡潔な口ぶりは、疲労の様子を表していた。
「そうでしたか。お疲れさまでした」若奈は森谷と芳斗を紹介した。
「こちら、秋山君と刑事の森谷さん、訳あって協力してもらっています」
 刑事と聞いても垂水の無表情に変化はなく、軽く会釈しただけだった。
「手ぶらで帰ってきてしまったし、なんとかしなきゃならないと思って、そんなとき駐車場の転落事故を知ったわけさ。病院を捜し会ってみたところ、あいつらのひとりだったよ。それで翔一郎君に電話したら、きみも同じ考えで動いていると聞き連絡したんだ。残念ながら怪我した男はコファーを持っていなかったが、仲間の居場所は聞き出した」
「よく聞き出せましたね」
「あっさり白状したよ。仲間割れしたようなものだし、死ぬほどの怪我もさせられたんだから。これから行ってみよう」
「じゃ、わたしも一緒に」
「そうか。危険だが、そうしてもらえるとありがたい」
森谷が自信たっぷりに言った。
「危ない仕事は、わたしの出番だ。任せなさい」
「もちろんぼくも行くよ」
 若奈が釘を刺す。「芳斗君はずっとクルマで待機していること」
 ものの二、三分走り、垂水の乗用車に続き森谷の車も市ノ瀬の敷地に乗り入れた。奥に黒っぽい地味な外壁の一軒家があり、手前の左側には大型機械が入りそうな屋根の高いシャッター付きの倉庫があった。家屋の玄関前には「市ノ瀬建設」の看板が立てられていた。
 芳斗を除く三人が車から降りた。倉庫の大きさからして個人経営の建設業らしい。
 垂水が緊張の声音で言う。
「行こう」
 若奈はうなずき、垂水に続いて引き戸の玄関に歩み寄った。呼び鈴を押す前に垂水は油断するなと目配せした。
 あの市ノ瀬がまた目の前に現れる。恨みの三倍返しなどと意気込んでいた若奈も、恐怖と緊張で手に汗が滲んでいた。相手は彼女を殺そうとした犯罪者だ。また銃を持っていたら、狂ったように刃物を振り回したら…… 刑事の森谷がいるとはいえ、少しも安心できない。
 若奈は護身用の防犯スプレーを握りしめた。
 呼び鈴が響いた。
「はい」間をおかず戸の内から聞こえてきたのは、予想せぬ女性の返答だった。半分開き、出かける前というコート姿の三十代中ごろの女性が顔を出した。眼が大きく整った面差しではあるが、どこか(うれ)いの見える容貌だった。まるで彼女が出てくるのを承知していたかのように、垂水は落ち着いて訊いた。
「ご主人はいらっしゃいますか」
 女性の眼に怯えの色が差した。平静を繕って応えた。
「ええ、居りますが」両手を合わせて握り、うつむいておずおずと言った。
「あの、支払いでしたら、もうしばらく待ってもらえませんか」
 借金取りと勘違いしたのだ。この様子からすると尋ねてくる者は債権者と思うくらい、方々に借金があるらしい。垂水は首を横に振った。「いえ、そういう用件ではありません」
「はあ……」
 不安な面持ちのまま女性は奥に下がった。「あなた、お客さん」と遠慮がちに呼ぶ声がした。
 若奈はこの家庭的な雰囲気の女性が市ノ瀬の伴侶とは、認めたくなかった。彼女が描いていたのは、髪をどぎつく染めた(はす)()な水商売風の女。「なによあんたたち」と突っかかってきたら横面(よこっつら)をひっぱたいてやろう、とさえ考えていたのである。
 ただ、女性は水商売に向いた容貌でもあった。細いなで肩にコートを着てもわかるくびれのある腰つき、男の気を引きつける体型である。きちんとメイクしてそれなりの服装をすれば、艶っぽい美人になるだろう。とにかく悪い男に引っかかったものだと若奈は他人事ながら同情した。
 だらしなくスウェットシャツを着た市ノ瀬が現れた。垂水と若奈、そして警察関係者という風采の森谷を見て驚き、後ずさりした。
「あんたらは」
 垂水は穏やかだがはっきりと言った。「返してもらいますよ」
 背後の妻が市ノ瀬に問うた。
「何なの、この人たち」
「おまえは、もう行け」焦りの口調で命じた。
「でも……」
「いいから行くんだ」
 疑問と不安の表情で、女性が戸口に歩き始めた。若奈と目が合うと、目礼した。気持ちを残すように一度ふり返りながら玄関を出た。
 すがるような女性の視線が若奈には痛かった。夫が警察沙汰の事態に絡んでいると推察したのだ。
「とにかく、中へ入ってくれ」テーブルと客用のソファ、玄関から入ってすぐ応接室になっている。市ノ瀬が自嘲の笑みを浮かべた。
「今のところ、開店休業中だ」
 垂水が遮るように切り出した。「コファーを返してもらいたい。警察もいる、いやとは言わせない」
 森谷刑事に目をやった。市ノ瀬が観念したように二、三度首を縦にふる。
「あんたたちには悪いと思っているよ……だけどもうしばらく待ってくれ。金を返さなくちゃならん。一儲けしたいんだ」 
 市ノ瀬は頭を垂れた。「なあ、使い方を教えてくれ、たのむよ」
「断る」
「どうしてもだめか」
 強い語調で垂水が言った。「いいか、あんたがぼくたちにしたことは、強盗と暴行、拉致監禁だぞ。今すぐ手錠をかけられるんだ」
「一回こっきりだ。女房と子供をこれ以上苦めたくない。とっくに愛想尽かしてもいいおれをまだ見捨てないあいつらだけは、なんとかしてやりたいんだ。牢屋に入る前に借金を片付けさせてくれ」
「泣き落としか」垂水が苦い顔をした。
「話を聞いてくれ、今回のことは出来心だ、誰かにそそのかされてやったことなんだ」
これが若奈を平気で屋上から突き落とした、市ノ瀬であるはずがない。垂水が言うまでもなく滑稽な芝居だった。こんなことで惑わされるものですか、と若奈は市ノ瀬を見すえた。
「垂水さん、とりあえず話だけは聞いてみましょうよ。殺人事件の真相だって知るいい機会じゃない」
若奈のことばが終わらないうちに、市ノ瀬は咳をきったように早口で話し始めた。 
「おれは深沢と一緒に土建屋をやっていた。この手の業種で経営が安定しているところは少なくて、おれのところだっていつも借金を抱えている状況だった。それで投機に入れこみ、お決まりのようにますます借金は膨らんでいった。女房は知り合いのスナックに勤めたが、そんなのは焼け石に水だ。そんなとき、スナックの常連客の曾根が融資を申し出たんだ。なんでも親の遺産が入ったとかで気前よく言ってきたわけさ。一度のつもりが二度三度と甘えて、しかし所詮借金を返すための借金なんて売上が上がらなきゃ脹れあがるだけで、曾根も返済をきびしく迫ってきた。
 そんな、にっちもさっちもいかないおれのところへ何者からか情報が届いた。曾根はじき杉伊という男に殺されることに決まっているというのだ。もしそうなら、願ってもない話だ。だが、杉伊の冤罪晴らしのために未来から人間がやってきて、場合によっては曾根殺しを阻止するという。
 最初はいたずらだろうと思ったさ。けれどもし本当なら曾根は死なないかもしれない。それよりも時間を移動できるというコファーに惹かれた。莫大な金儲けができるものな。情報をもたらした人物はコファーを奪う計画まで手引きし、半信半疑のままおれと深沢は、その計画に沿ってあんたたちから奪ったわけさ」
 そして最後にはわたしたちを殺すつもりだったのね、と切り込もうとして若奈はことばを呑み込んだ。疑問が浮かんだのである。
「では、曾根殺しの真犯人はあなたじゃなかったというの?」
「ああ。おれも深沢もやっていない」
「じゃ、誰なの」
「知らん、おれたちは見てない」
「その情報をもたらした人物って、妙ね」
 垂水が意見を述べる。
「該当する人間となると、三人しかいない。きみか翔一郎君、そしてぼくだ」
 苦笑しながら垂水は結論づけた。「一番怪しいのは、最初に人格交換したぼくということになるな」
 垂水は計画の発案者だし、中心となって進めてきたのも彼なのである。情報の漏洩をする道理がない。若奈たちのあずかり知らぬところで、人格交換した者がいたということなのか。
「それは後回しだ。さて、どうする若奈さん、頼みを聞いてやるべきかどうか」
 市ノ瀬の話に疑念を持たず自嘲めいた発言までする垂水に、若奈は軽い反発を覚えた。この悪党の言うことなんか信用できない。どこまで事実で、どれから偽りなのか。すべて真実だとしても、情に流されはしない。
 玄関の戸が開く音がした。みながふり向くと、市ノ瀬の妻がとびこんできた。
「おまえ、どうして」驚く市ノ瀬の両腕を握り、妻は激しく問いつめた。
「何をしたの、あなた」
「心配するな、たいしたことじゃない」
「正直に言って。何をしたのよ」市ノ瀬は目をそらして押し黙った。垂水が妻を気遣うように言った。
「ある物を返してもらいたいんです」
「盗んだの。だったらすぐに返して」
 市ノ瀬の表情に諦めが見てとれた。「わかったよ」
 隣の部屋へ入り、しばらく経って戻ってきた。奪ったときの小さな袋を差し出した。垂水は受け取って内部を確認した。市ノ瀬が妻に伝えた。
「これからおれは務所暮らしだ。おれなんかと離れるちょうどいい機会だ、おまえたちはここを出て、どこかへ行け」妻は不安そうに見つめ口を開きかけ、だが何も言わなかった。別れることなど考えられない、という思いが切なげな眼に表れていた。市ノ瀬の台詞といい妻のしぐさといい、真剣なだけに安い人情芝居に見えてしまう。若奈は耐えられなくなって顔を背けた。
 妻の様子を眺めていた垂水が乾いた声で言った。
「ぼくたちには急ぎの用がある。あんたを今、警察に連れて行く余裕はない。自首するなら勝手にすればいい」
 庭に出て垂水が若奈にささやいた。
「ひどい目にあったきみには不満だろうけど、市ノ瀬にも同情の余地がある」
「そうですね、あのままじゃ奥さんがかわいそうですものね」たしかにすっきりはしないが、垂水の温情は納得できた。あれが本当に市ノ瀬夫妻の演技であって、今頃彼女たちを嘲笑っていてくれたほうが楽かもしれない。
 車に乗り込む前に、若奈は垂水に告げた。
「蓮沼さんの自宅では、奥さんが寝込んでいるんです。自宅に戻って付き添ってあげてはいかがですか。これから先はわたしたちだけで大丈夫ですから」
「そうしてくれるか、じゃ、あとは任せるよ」
 垂水の乗用車が遠ざかっていくのを見送りながら、さあ、いよいよだわ、と自分に言い聞かせた。
 昨日、病院から逃走した若奈はタクシーで中学校まで行き、芳斗が下校するのを待ったのである。ところが彼は現れずまた車でコーポへと無事帰宅したのだった。
 夜になっても、今日亡くなるはずだった若奈、小夜子は何事もなく生きていた。翔一郎と二人で首を傾げながらも「よかったあ」と歓んでいると、テレビのローカルニュースが入り、愕然とした。杉伊小夜子が神社で倒れ、近くの病院で亡くなったというのである。結局、この矛盾にはコファーを得た彼女が過去にタイムリープし、病死するという解釈しか当てはまらなかった。
 重要なのはここである。小夜子の肉体がタイムリープ後に息絶えるのはたしかとしても、それが必ずしも若奈の死とは断言できない。つまり人格交換を果たして若奈が未来に還ったあとの、杉伊小夜子本人の死という可能性もありえるのだ。ただ、郊外に近いN町で人格交換を済ませた小夜子が、わざわざまた中心街に戻ってくるかという疑問が浮かび上がった。
 そこに道を開いたのが今朝、芳斗から聞いた代志乃の事件だった。若奈はこんな計画を立てた。まず昨日に逆行したらすぐにN町に走り人格交換を行う。あとは翔一郎や芳斗たちに小夜子を連れて神社に戻ってもらい、代志乃を事故から回避する。かなり無理があるとはいえ、この手順にすべてを託すつもりだった。
 若奈はケータイ電話をとりだした。垂水が当てにできないとなると、翔一郎を呼ばなければならない。
「ああ若奈か、今どこだ」呼び出しのあと押し殺したような翔一郎の声が流れてきた。どこか狼狽している様子でもある。
「準備できたの、すぐ神社まできてほしいのよ」
「ああ、すまん、もう少し待って…… あっ、やめろ」
「もしもし、どうしたの?」
  翔一郎の叫びが途切れ、落ち着いてはいるが刺のある女性の声が流れてきた。
「やはりあんたね。あんた輝彦の何なのさ」田村の恋人、島津恵美だった。彼女がまた部屋にやってきていたとは間が悪い。若奈は小さく溜息つくと、ひとことひとことかんで含めるように言った。
「従妹です。いいかげん信じてください」
「ふーん、いとこねえ。従妹が何で彼につきまとうわけ。(ちな)みにね、いとこ同士は結婚できるのよ。もっと賢いウソをつきなさい」語尾が意地悪い調子に上がっている。人の言うことを聞こうとしない嫉妬に燃えた女の顔が目に浮かび、バツイチになったのもわかる気がした。若奈は苛立ちをぐっとこらえた。「あの、輝彦さんに代わってください」
「だーめ」
 ブツッと電話が切れた。
「ばか」切れたケータイに思わず言ってやった。島津恵美だけではなく翔一郎にも向けられた文句だった。押しかけた恵美が悪いのは当然だが、妹の生死がかかっているというのにからきしふがいない翔一郎の態度が腹立たしかった。そのうえ難儀してはいるものの兄だって結局、恵美に迫られ内心いい気分なのだろうと思うと、少しやきもちも覚えた。
 ともかく、この分では翔一郎が抜けだすには時間がかかりそうだ。あまり遅ければ彼女たちだけでリープ決行となる。十分こと足りるとは考えているが、やはり心細かった。何か失敗の予兆のようで胸が次第に重くなるのだった。 
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