第13話

文字数 6,229文字

 医師と私服刑事の会話を若奈はベッドの上で、眠ったふりをしながら聞いていた。もう昼近いだろう。
 警備員に発見されたあと、当然警察に引き渡された。症状の回復しないこともあって、近くの病院で診察を受け、治療のおかげで小康を得ていたのである。
「じき眠りから覚めると思います。事情を調べるのはもうしばらくしてからのほうがいいでしょう」医師のことばに四十歳ほどの刑事がうなずいている。医師と刑事が病室を出ていき、二人の婦人警官が監視のために残った。若奈は薄目を開けた。ベッドが一床あるだけの部屋。入院用ではなく点滴や採血等を行う処置室らしい。監獄のような寒々としたものを感じた。
 監獄か。容疑者の身上なのだから当然かもしれない。警察には沈黙を通したが、所持していた保険証から身元が割れてしまった。デパートに侵入した建物侵入及び傷害犯という扱いで報道されたはずだ。
 父親が殺人の容疑者、その娘が突如明け方のデパートに侵入し、さらに転落者も出たとなれば、誰しも単純な事件とは片付けない。若奈はただ彼女の肉親や周囲の者に申しわけない気持ちでいっぱいだった。そして、これが未来では既定の事実だったことに空恐ろしさを感じていた。しばらくして、さきほどの仁科(にしな)という刑事が入ってきた。眠ったふりもやめ、彼女はおもむろに上半身を起こした。治療といっても痛み止めの注射を打つくらいなので、自分の服を着たままである。
「おっ、目が覚めたか」
 若奈の姿に彼は顔をほころばせた。相手が若い女性のせいかやけに人触りが柔らかい。「姉さんが驚いていた。あまり心配かけちゃいかんな」
 姉さんというのは嫁いだ小夜子の姉で、父親の他にはただひとりの肉親だった。父親に続き妹までもという姉の心境を忍んでか仁科の面持ちは悲痛に満ちていた。若奈は下を向いた。近親者の名を聞くのは心が痛む。「わたし、どうなるんでしょうか」
「うん、それはまだなんとも言えんな。不法侵入もそうだが、屋上から転落した男性との関係も知りたいし」 
 警備員に捕まった際、彼女に傷害の容疑がかかることは承知で深沢の存在を知らせていた。命の恩人を放置する気にはなれなかったのだ。
「実は今朝、ひとりの若者がニュースを見たといって署に現れてね、昨日の夕方デパートで一緒だった女の子が変な人たちに追われていると訴えたあと消えてしまった。捕まったのは彼女じゃないのか。もしそうだったら、きっと二人に監禁されていたんだから罪はないと主張するんだよ。ほんとかい?」
 西岡だった。思いがけず証言にきてくれたのが嬉しかった。やはり彼は若奈が想像したとおりの誠実な青年だった。しかし、仁科の問いには沈黙した。どう応えていいかわからないのだ。
「まさかきみが、あの体格のいい男性を突き落としたとは考えられんが」
「あの人、容体はどうなんですか」
「普通なら死んだかもしれんが、誰が置いたのか真下にはダンボール箱が高く積まれていて、緩衝材(かんしょうざい)になったわけさ。大怪我ではあるが意識ははっきりしているし命が危ないってほどでもない」
「そうですか。仲間割れしたもう一人の男に突き落とされたんです。そのあと逃げてしまいました。わたしはその男に銃で脅されたんです」
「駐車場の近くで見つかった拳銃というのはそれだったんだな。その二人にきみが一晩監禁されていたとは、信じられないなあ。どこにそんな場所がある? といって夜中のデパートの、しかも最上階に忍び込むなんてどんな芸当を使ったらできるのかな」
 刑事の関心は罪状よりもそちらにあるようだ。推理ドラマのトリックに挑むような興味津々たる様子である。「大きな資材を運び入れるために屋上の扉を開けて、一部センサー等のセキュリティを切っていたし、トラブルで大幅に作業が遅れていたようだ。そちらに気をとられ警備員も油断していたわけさ。駐車場に出た業者がきみを見つけたんだが、もしや、業者のトラックに隠れていたのかな」
「それは……」温厚そうな物言いとは逆に、目付きのやたら鋭い仁科が若奈にはどうにも煙たく感じられた。相手の目を見て、決心したという面持ちで言った。
「刑事さん、病状も落ち着きましたので、これから署のほうで詳しくお話しします」
 仁科が驚いて手を挙げた。「しかしきみはまだ安静にしてないと」
「ですから、もう大丈夫です。それにまた入院するにしても、ここじゃなく前の病院に戻ったほうがいいと思うんです。わたしの病気についてはよく知っていますから」
「うーん。ま、そう言われりゃそうだが、とりあえず先生に訊いてこないとな」
「じゃ、すぐお願いします」懇願するように丁寧に頭を下げた。仁科はいやと断れぬおのれを恨むが如く頭をかいて、もそもそと病室を出ていった。
 若奈は同じくベッドに()す身の深沢に思いを巡らせた。大怪我を負い、この先ずっと不自由な生活を余儀なくされた深沢。まさか転落が目の前で、しかも彼女が原因の一端とは思いもよらぬことだった。あのままだったら、彼女が地上に叩きつけられていたのだ。催眠効果もあったとはいえ、市ノ瀬に反旗を翻した深沢の勇気には心から感謝していた。
 それに引きかえいまいましいのは、その市ノ瀬である。冷淡で狡猾でかっとなると見境つかなくなる一番の(ワル)が、不公平にもあっさり逃げ切ってしまった。しかも、コファーを奪ったまま。何と悪運の強い男だろうか。思えば市ノ瀬にはやられっぱなしだった。唯一の得点は急所蹴りだけである。その蹴りだって小夜子の身体能力が低かったせいで、かなり甘く入ってしまったのだ。
 今度会ったら三倍返しにしてやる……。むくむく湧きあがる腹立ちに思わず唇をぎゅっと噛んで、すぐに頬をゆるめた。その前に死んじゃうんだものね。
「どうかしたの」婦警の一人が問いかけた。
「え、いえ、別に」
 我に返った。険しい表情の後でふっと笑ったのが奇異に映ったらしい。職業柄とはいえ細かいところまで監視しているのだ。
「変な気起こさないでよ」やけに間延びした口調と唇の端の薄ら笑いに空虚な悔しさを感じた。仁科刑事とのやりとりで、自分は被害者でしかないという供述をしたのに理解も同情もしてくれないらしい。父親が容疑者だからしかたないのか。
 変な気起こすな、そのひとことで思い出した。
 小夜子は捕まった後、警官に何らかの暴行をして病院から逃走後行き倒れになるのである。警官への暴行だけは阻止しようと思い続けてきたのだが、どうせ死ぬんだったらどうでもよくなった。それが小夜子の運命なのだと思うと、自らの決意とはいえ罪を犯すという意識が湧いてこない。婦警たちへの反感も手伝い、むしろしなければならないという義務感さえある。警官が一人でも少ない今がチャンスだった。
「あのう、トイレへ行きたいんですが」室内にトイレがないのを確認し、下ろした足に靴を履き両方の婦警に向かって言った。どちらも三十代前半の大柄な女性だ。トイレに立った際のすきをついて、しかも二人の婦警を突き倒して逃げ出す。限りなく可能性の薄い、今度もまたダメ元の計画である。
「わかりました」返事したのは右側だが、二人は同時にパイプ椅子から腰を上げた。すっと伸ばした背筋、寡黙で無表情、生真面目さを互いに競い合っているのではないかと思えるほど似た両人だった。
 廊下を前と後ろに挟まれて歩く。腰ひもにつながれたままというのが、身が縮むほど恥ずかしい。
 十メートルほど先にエレベーターホールがあり、隣に御手洗いの表札が見えた。あそこへ行って戻ってくるまでに、逃げださなければならないのだ。
 だがこの状況下では、そんな機会など皆無に等しかった。律義な婦警たちはトイレの個室のなかに入ってこないだけで、あとは若奈を挟むように油断なくつきっきりで暴力に訴えるすきなどないのである。
 戻りの足どりは重かった。何もできぬまま十メートルの距離はすぐに尽きた。先頭の婦警がドアに手をかける。
 そのとき、若奈は廊下の角から現れた野球帽の男性の姿に、わが目を疑った。田村輝彦、すなわち兄の翔一郎だった。若奈のいる病院をつきとめた理由はともかく、救出にきてくれたのだ。翔一郎も彼女を見て驚き、なにか思いついた顔で戻り始めた。
 せっかくの機会を、生かす手段が浮かばない。ただ入室してはいけないと判断し、容体が悪化したふりしてその場にしゃがみこんだ。
「どうしたの。しっかりしなさい」演技と見破ったか、背後の婦警があわてることなく両脇に手をまわし立たせようとした。そのまま肩を抱かれ、無理に歩かされて入室した。
「きゃー!」
 ドアの閉まる直前、女性の叫び声が聞こえた。近くの廊下からである。婦警たちの表情がとたんに引きしまった。手のあいていた婦警がちょっと見てくる、と言い放ってとびだしていった。
 とうとう残ったのはひとり。しかも叫びに注意を奪われ、ベッドに入ろうとしている若奈の至近距離で全く無警戒に背を向けている。
 迷いはあった。しかし、今しかないという直感に体が動き出していた。婦警のうなじめがけて、両手を合わせた拳を思いきり打ちつけた。手と首の骨がぶつかる重い手ごたえがあった。うっと低く呻き、相手の身体がゆっくり沈んでいく。うずくまるような姿勢になって初めて彼女は、なしたことの恐ろしさに気づいた。近くにあったコートをつかむ余裕もなく、がたがた震えながら部屋をとびだした。
 勢いよく廊下へでると、兄の翔一郎がびっくりした面持ちで立っていた。婦警のひとりが騒ぎでいなくなったのを確認し、様子を伺っていたらしい。
「こっちだ!」翔一郎は妹が強行的に病室から出てきたのを、彼女のただならぬ表情で読みとると、手を引きエレベーターホールへと駆けだした。廊下に誰もいなかったのは幸いだった。
 もうひとつ幸運なことにエレベーターはこの三階に止まっており、すぐに乗りこむことができた。
「大丈夫か若奈」下降を始めたエレベーター内で若奈はまだ震えていた。翔一郎が肩を抱きよせると、荒い息のまま力が抜けたように頭をもたれかけた。正面に視線をすえて、やっと口を開き震え声で言った。
「わたし、警官を殴って、逃げてきたの」
 脳裏に、片ひざをついてうずくまった婦人警管の姿がよみがえった。どれだけの力で殴ったか覚えていない。ただ死につながるほどのダメージではなかったはず。
「仕方ない。ぼくだってそうするつもりだった」
 気にするなと慰め、翔一郎は着ていた黒っぽいロングコートを脱いだ。若奈にそでを通させ、野球帽も被らせた。男物のコートでも、そのまま歩くよりはいい。
「でも翔、よくこの病院をつきとめたね」落ち着きが戻ってきた若奈は、腰ひもを解きながら感心したように訊いた。翔一郎が、どえらい苦労したぞというように吐息をついた。「ニュースを観て、半日走り回った執念の賜物(たまもの)さ」
「ありがと」感謝の意もこめて、若奈はまた兄の肩に頭をもたれかけた。
「それはそうと、上手くいってくれたよ」翔一郎がほっとしたようにつぶやく。
「えっ、何のこと?」
「コートのポケットに『スパイダーボ』が入っていたのさ。検査待ちの椅子の近くに置いたんだよ。椅子に座ってまずぼくが驚いてみせ、そしたら隣のおばさんがひっかかって期待以上の絶叫してくれた。婦警でさえ怖がっておろおろしてたもんな」
 スパイダーボというのは一見、蜘蛛(くも)にそっくりな十センチほどの電動のオモチャである。センサーとプログラミングによって、動く物体に接近し執拗に追い回すという悪趣味な性質を持っている。あんな不気味な物が迫ってきたら、たいていの人は腰を抜かすだろう。いい歳こいた翔一郎がそんなオモチャを買っていたことに若奈は呆れ、(本人曰く、コファーの部品取りに使えるかもしれないので買ったとのこと)夜中に一度びっくりさせられゴミに出そうかと思い、そこまでしなくてもと軽いいたずらのつもりで、手近にあった翔一郎のコートのポケットに押し込んだのだ。それが役に立ったとは、あのとき捨てなくてよかったと思った。
「なんであれが入っていたのかな……? あ、おまえか」
 若奈が「えへへへ」と笑ってごまかしたとき、チーンと音がしてエレベーターが一階に停止した。
「さあ、いよいよだぞ」ドアが開く。踏みだす一歩が怖かった。翔一郎が何げなくあたりを伺い、歩きだした。若奈もぴたりと張り付きついてゆく。
「別の出口に行こう」翔一郎がささやいた。見舞い客用の出入り口である。正面玄関よりはたしかに人目につかない。 だが、廊下の途中に立っている人物を認め、若奈はぎくりとして足を止めた。仁科刑事がケータイで話し中だったのだ。
「あの人、刑事」翔一郎に教える。
「そうか。べたべたくっついて歩いたら、かえって目立つかもしれん。ぼくが注意をひきつけるから、そのすきに行くんだ。そのまま外に出ろ、コートにケータイが入っているから、あとで連絡する」
 人を捜すように翔一郎はあちこち見回しながら歩き、さも不注意であったかのように刑事の肩にどんとぶつかった。危うく電話機を落としかけた刑事がむっとしたように睨み、「あーっ、すみませんすみません……」翔一郎が身ぶりも大げさに謝り続ける側を若奈は顔を伏せて通り過ぎた。
 外へ出る。冷たい空気が緊張感をいやがうえに高めた。このあたりの地理にほとんど不慣れな彼女には、コーポまでの道筋もまるで見当がつかず、目の前の道路を右か左、やみくもに逃げるしかなかった。
 もう紛れもない犯罪者である。細かいことまでいえば、治療代も踏み倒したわけである。西岡光一や小夜子の姉がこれを知ったら、どんなに驚き怒り、悲しむだろうか。
 すまない、と若奈は彼らに、そして殴りつけた婦警と小夜子本人にも詫びた。でも、あれしかなかったのだ。わかってほしいと心の中で呟いていた。
 どこをどう歩いてきたかの憶えもなく数分後、彼女は疲労を癒すため人目につかない民家の垣根にもたれ、息を整えた。道順を尋ねてもよかったが、この足でコーポまで帰るのは厳しかった。車を拾って帰ろうと思った。残された時間はあまりないはずだし、タクシー代はコートに入っている。
 ふと顔をあげると、さほど遠くもないあたりに杉の木立が見えた。神社があるらしい。唐突に彼女は、市ノ瀬に襲われたあの八幡宮を思いだした。あれがすべてを狂わした。以来、追われ逃げることが続いている。
 でも、と彼女は気をとり直した。どうにかこうにか、すりぬけてきたのも事実だった。今だってまだ発見されていない。
 かさかさと猫が近くを通る物音で、びっくりして我に返った。若奈に警戒して走り去る猫を見ていると、コートの内ポケットでケータイの着信音が鳴り、また驚いた。
「若奈か」翔一郎の声だ。
「ええ、わたし」
「今どこにいる」あたりをざっと見渡した。町名を記しているようなものはどこにもない。「わからないの」
「何か目印になるような建物はないのか」近くに神社がある、と言いかけてやめた。迎えにきて、それで見つかったら翔一郎まで捕まってしまう。「ひとりで帰れるから、大丈夫」
「本当か」心配そうな翔一郎。しかし、決心を翻すつもりはなかった。きっぱりと言った。「大丈夫です。翔こそ気をつけて……」
 ずっと考えていながら忘れていた。タイムリープしたに違いないあの中学生の男子を思い出した。あの子に会えば希望はある。 
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