第16話

文字数 9,553文字

 二〇二×年、沖野翔一郎と若奈は勤めのかたわら『時間跳躍研究機構』という、いつか自分たちで未来や過去に行くことを不真面目に研究しているグループに所属していた。古今東西よりタイムトラベル現象に関する伝説や資料を集め、研究するのが主な活動だった。
 生来、オカルティックな事象への関心の強い翔一郎が会の所在地もT市よりクルマで小一時間離れた県庁所在地のF市であることから真っ先にとびつき、若奈は半ばつきあいのつもりで入会したのだが、話を聞いているだけでもおもしろく次第にひきこまれていったのだった。
 実際のタイムマシン製造となると技術的に不可能である。彼らは超能力など神秘的な方法を探索し、『形状』が生みだす現象に着目した。たとえばトーマス・ヒエロニムスが発明したヒエロニムスマシーン。害虫の発生場所の航空写真を入れておくと、その地域の害虫を駆除してしまうという装置である。しかもこの装置の配線は理論上なんの役に立たないものであるにもかかわらず、配線図を描いた紙だけでも同じ効果が得られるところ、図形が使用者に何らかのエネルギーを与えたか使用者の超能力を引きだしたと考えられている。
 また一九八〇年ごろからイギリス南西部の農場に多発しているミステリーサークルも、その形状に秘密が隠されているらしいのだ。今もって成因は解明されていないが、上空の飛行機に計器異常など発生がみられるうえ、近辺にはストーンヘンジなどの古代遺跡が多く、不思議なことにサークルと遺跡の石の配列が酷似している。
 伝説によるとこれらの古代遺跡は、ドルイド教団によって造られたエネルギー集積機だという。地中を流れるエネルギーを集め、それによって自ら持っている神秘力を引きだし、空中の飛翔や姿の消失、さらには過去や未来を自在に行き来することさえできたというのである。
 幸運にもドルイド研究家の桧原(ひのきばら)なる人物が見つかり、奇妙な物体を紹介された。それが時間を自由に移動できるというコファーだった。一説によると、ドルイドの僧が暝想によって到達した高い世界で発見したのだという。ミステリーサークルのような幾何学的形状をなしていることも関連がありそうだった。
 言い伝え通り精神的な衝撃等の実験をさんざん試みてはみたものの、何も起こらなかった桧原は、そのコファーを彼らに譲ってくれた。
 研究会の実験でも結果は出せなかった。そんな折り会員のふとしたひらめきでコファーの形状を数値化し、その数値の周波数の電磁波を所持者の翔一郎に照射したところ、姿が消え数時間後の未来に現れた。それも本部のあるF市ではなくT市で試して成功をみたわけある。どうやらT市という場所と住人も関係していることが判明した。
 だが、電磁波の流れている時間内でしか移動できないのであれば、発生前の過去へは行けないことになる。知人の無罪晴らしを画策して入会した垂水は、それで終わるわけにはいかなかった。
 T市に生まれ育った彼には少年時代の奇妙な経験があった。中学生時分、垂水は列車に飛び込もうとして、通行人に直前で救助された男性を目撃していたのだ。不思議なことに男性は垂水少年の顔を見て驚愕し、「おまえは、ぼくなんだ。心が時を超えて入れ替わったんだ」と言い放ったのである。
 過去にイタリアのジェノヴァにいた女性とナポリにいた女性が落雷のショックで同時に気を失い、目を覚ますと人格が入れ替わっていたという記録がある。二カ所で同時に落ちた雷が人格の橋渡しになったと考えられる現象だが、垂水の場合距離ではなく、未来の彼の心が時間を超えて男性と入れ替わったということではないのか。こちらも実験の成功によって確かめられた。垂水は入念に準備し、T市の同じ場所で本実験に踏み切った。
 茫然自失の表情で周りを見渡すばかりの垂水にスタッフが彼に問いかけると、自分は蓮沼俊蔵だと名乗り、友人の保証人になって背負った多額の借金から鉄道自殺しかけたのだと言う……
 住んでいた年代も二十年前。驚いたことに蓮沼は桧原と親交があり、コファーの複製を持っていた。未来に行けば借金から逃れられるという一心で様々試したものの桧原同様、機能するはずがない。心底絶望し列車に飛び込もうとして救われ、垂水との人格交換を果たしたのは奇跡といってもよかった。
 コファーには過去の人間と未来の人間の心を交換する機能もあった。所有者Aに強い逃避心や恐怖心等の心理的ショックが発生すると、人格が飛び出しコファーからもエネルギーラインが発生する。未来の同じ場所に所有者Bがおり、心理的ショックが起きて人格は飛び出ても、Bのコファーからのラインは吸収されAのラインと繋がった状態になってしまう。そして両者の人格は中を通って入れ替わるわけである。
 元々人間には想像を超えた能力が備わっている。だが障害になるものが多すぎて発揮できない。例えるならば泥水の底に存在する灯りである。そのままでは光を見ることはできないが、泥水に多量のきれいな水を一気に注ぎ込めば、短時間ながらも光を感じられる。コファーのエネルギーにはこの水のような作用もあり、人格を引き出してくれるらしいのである。
 特筆すべきは電磁波が発生しているときは、人格交換の条件を満たしていてもタイムリープになってしまうことだった。電磁波に共振している間は、エネルギーラインがタイムトンネルのように変化してしまうのではないかと考えられた。
「ここまで何か質問あるかな」田村が結構くたびれたと言いたげに、一度大きく息を吐き出した。芳斗はさっきから少し気になっていたことを訊いた。
「なぜそんなに詳しい話を、ぼくにしてくれるんですか」
 警戒の響きを感じたのか田村は表情を和(やわ)らげた。「協力してもらうには、心の底から信じてもらわないとね」
 芳斗が訊きたかったのは十年後で自分と彼らの関係なのだが、先がわかったらつまらないだろうとかわされそうで、突っ込むのはやめにした。
「言い遅れたけど、若奈が無事だったのはきみのおかげだ。ぼくからも礼を言うよ」
「そんな、お礼を言うのはぼくのほうですよ」
 小夜子が訊いた。「どうして、あんな時間のデパートにいたのかしら」
「前日の夕方、屋上駐車場でチンピラに突き飛ばされてタイムリープしたみたいです。それからあの二人組に攻撃をかわされて頭を打ち、元の時間に戻って病院に運ばれたけど、次の日には退院できました」
「結局、二人とも病院のお世話になったわけか。同じ病院だったらよかったのにね」
 残念そうに笑う小夜子を少し睨め付けて田村が言った。
「若奈が置いた発振機の電波に引っかかって未来に跳んでしまったわけだな。元の時間に戻れたばかりか軽症ですんだなんて、絵に描いたような運の強さだ」
 田村はしきりに感心していた。
「元の時間に戻るぞって、自分に言い聞かせていたから、その効果もあったんじゃないですかね」少し首を傾げて芳斗が言った。すべてを運で片づけられるのも不満が残る。自助努力を認めてもらいたいのだ。
「もちろんそうだ。思念の力は大きいからね。きみはたいしたものだよ」
 とってつけたようなほめ方でも、悪い気はしない。
「ところできみは、フリーマーケットで手に入れたと言ったね。じゃ、その売り主はどういう経路で入手したのか訊かなかったかな」
「さあ、そこまでは。ただ前から家にあったものらしいですよ」
「そうか、一般人にしたらアクセサリーのひとつにしか見えないもんな。実はぼくたちの研究会のタイムリープ実験で、被験者が戻ってこない事故があった。きみがもらったのは、過去に跳んだ被験者のコファーじゃないかと思っているんだが…… それじゃ、きみの体験談を聞かせてもらえないかな」促されるまでもなくしゃべりたくてうずうずしていた芳斗は、一昨日の朝から代志乃が変貌していたこと、昼のラーメン屋での奇現象、下校後判明した彼女との体験の違い、等を列挙した。
「それはきみ自身との人格交換だよ。他人と人格交換して戻れなかったら困るから、ぼくたちも自分自身での実験をずいぶん試したよ。きみの場合、月曜日の朝から何日か後の通学途中の自分と入れ替わり、数時間後の昼休みにまた月曜の身体に戻ったんだ。きみが会った槙田さんは数日後の彼女であり、逆に月曜の彼女は未来からきたきみと会っていたんだから、お互いの記憶が異なっていた。並行世界ではないと思う」
「すると、ぼくはまた過去に戻るってことですか?」
「そういう方向に現象が必ず動くはずさ」
 なんとなく理解できた。とすれば、現在消息不明中の彼女は無事帰ってくることになる。その質問は後回しにして芳斗は、見舞いにきた代志乃にコファーをあげたことや、彼女の祖父の家にも同じものがあったこと等続けて説明した。しばらく考え込んでいた田村が話し始めた。
「世の中狭いものだな、垂水の移入していた蓮沼さんが槙田さんのおじいさんだったとは。それはともかく、昨日の午後、槙田さんが路上に突然出現したのは推察通りタイムリープだね」
 起きてしまったことは、やはり変えられないのだ。
「道路の真ん中とはね。路肩だったら違っていたのに」
「ぼくが目撃したことを詳しく話したからですよ。制限時速のペイントの上ではねとばされたって。たぶん他の場所では上手くいかず、そこで試したときに機能したんじゃないですか」
「車両のほうも急に現れて避けようなかったわけだ。偶然起きたひき逃げかもしれんな」
「それじゃ挙動不審の二人組との関連は」
 田村が自信のなさそうな表情を浮かべた。「はっきりとは言えないけど、ぼくが思うにその二人は、ひき逃げ犯とは何らつながってないような気がする。目撃者の小学生の証言もあながちでたらめじゃないだろう」
 芳斗は思わず大声を出した。
「あんなに跳ね飛ばされて全然怪我しなかったというんですか。奇跡ですよそれは」
 冷静に田村が言い返す。「その奇跡が起きたのかもしれない。きみが経験した数日後の未来では槙田さんは生存していたんだからね」
 その先は想像できないようで首を捻った。
「とにかくコファーを手に入れなきゃならない。ぼくたちだって未来への帰還に必要だ。特に若奈は病身のこともあって急を要するんだよ。しかし、桧原氏を訪ねている垂水からの連絡はまだないんだ」苦渋の顔で田村が芳斗を見た。その所持者と期待して呼びだしたところ、同級生にあげた後では失望するのもわかる。
「ねえ、市ノ瀬に奪われたコファーはどうなの」
 やにわに小夜子が兄へ問いかけた。
「居場所がわからないだろう。探しようがない」
「でも、入院中の深沢だったら知っているし、教えてくれるかもしれない。行って損はないんじゃないの。わたし何か感じるものがあるのよ」 
 田村はしばらく考えてから笑って同意した。
「そうだな、おまえの勘には定評があるから、期待できるかもしれんな」
 小夜子は芳斗のほうを向いた。「ということなの芳斗君、もう少し力を貸してくれるよね」
「ええ、そりゃまあ、いいですよ」授業がまだ多少気がかりだが、事件の目撃者である彼が協力しないわけにはいかない。
「よし、じゃぼくも一緒に行こう」外出の支度にとりかかる兄に、すんなり妹は従わなかった。「いいえ、この程度のことはわたしと芳斗君で十分です。何かあったら連絡入れますから。こう見えてもわたしたち二人、チームワークがとってもいいのよ、ねえ」同意を求められ、芳斗はしどろもどろに返事した。彼としても小夜子と二人のほうが気楽なのだ。
「それに、万一わたしと一緒のところを恵美さんに見られたら、最悪流血かも」
「あっ、そうでした」駄目押しのようで、田村は素直に承知した。
 迎えられたときと同じように田村に見送られ、芳斗は小夜子と外へ出た。身軽さを重視したのか小夜子は、長財布ほどのミニバッグひとつ持っただけだった。
肩を並べて歩きつつ、訊くべきかどうかと迷っている口調で小夜子が訊いた。
「槙田さんのおじいさんの家って、知っているわけ、ないよね」
 予想もしないことを訊かれ芳斗は立ち止まった。
「ぼくは知りませんけど。槙田さんのおじいさんがどうかしたんですか」
「変なのよ、垂水さん。連絡入れても全然つながらないのよ。とりあえず自宅へ行ってみたいの」小夜子がそうしたいのなら、従うまでだ。
 とっくに学校は始まっている時分で、中学生の姿はどこにも見かけない。すると急にさぼっているような罪悪感がこみあげてきた。小夜子はどんな計らいをしてくれるのだろうかと不安になった。たずねてもいいのだが彼女を信頼してないようで、言い出せなかった。そんな芳斗の気持をつゆとも知らず、彼女は言う。
「じゃ、まずは代志乃さんのお宅へ伺って住所を聞きだすことね」
「あの、電話でたずねたらだめでしょうか」
「どうして。そんなに遠いの?」
「いえ、もし警察がいたら小夜子さん、まずいことになりませんか。ことばは悪いけど脱走したわけだし、住所調べだったら電話でもできますよ。わざわざ行かなくても」
 小夜子は苦笑して手で口元を覆った。「そうねえ、電話でいいけど。でもわたしは住所もそうだけど、一度代志乃さんの自宅の様子を見ておきたいのよ。もし警察がでてきたら、そのときはそのときじゃない」
 この人、ずいぶん楽観的なんだなと感心した。
 一緒に歩いていると芳斗より小夜子は数センチ背が低い。それで思い出したことがあった。「おとといデパートの付近で、追い越しざまにぼくにぶつかったこと、覚えていないでしょうね。ぼくの肩に小夜子さんの髪の毛が付いていたんですよ」
 小夜子がはっと立ち止まって彼の顔を見た。「覚えている。芳斗君だったんだ。ごめんなさい、追われていたから謝る余裕がなかったのよ」
 ふふふと笑って付け足した。「そのうえ、抜け毛まで残すなんて。恥ずかしいな」
「あの髪の毛が小夜子さんのいる時間に、ぼくを引き寄せたように思えてならない」
 それにデブのチンピラに出入口内で突き飛ばされ、そこが発振機の電波の及ぶ範囲だったらタイムリープできたのだ。小夜子が真面目な口調で返した。
「そうね、髪に思念が宿っていて、わたしの気持ちが伝わったのかもしれない。『(そで)()れ合うも多生(たしょう)の縁』ともいうし、縁があるのね、わたしたち」
 袖振れ合う、の格言は知らないが、縁があるというセリフ昨日も聞いたはずだ。
「それで思い出したけど、芳斗君って度胸あるよね。デパートの駐車場で、わたし合図ふっておきながらためらっちゃって、芳斗君が動き出してから踏み込んだのよ。撃たれなくてよかったね」
 芳斗は唖然とした。あのときハーフコートの男が狙いを芳斗へ変えたのを確認してとびこんだわけだ。「そうか。間一髪だったんだ」
 少しばつが悪そうに言い訳する小夜子。
「銃を向けられてたら、やっぱりびびるわよ」
「でもバッグで拳銃を弾きとばした動きは早かったですよ。直後の蹴りも決まったし」
 小夜子がくすっと笑った。「反則のキックね、あれは狙っていたの」
 しばらく歩いていると、小夜子がときどき後方を意識するのに気づいた。奇妙に思った芳斗が理由を訊く前に、低い声でささやいた。「尾行(つけ)られている」
 ショックを隠せず、反射的にふりむこうとする彼にすばやく注意がとんだ。
「後ろ見ないで……たぶん警官だと思う」
 小夜子が右の路地に入っていったので芳斗もついていく。しばらく歩くと廃屋になった空き家が一件あり、その先には空き地が広がっていた。屋根や壁がぼろぼろの屋敷を囲むような数本の大木で辺りは薄暗く、草も伸び放題、心霊写真が撮れてもおかしくない雰囲気があった。
「ここにいて」さりげなく言い残し、小夜子は敷地の中へと足を向けた。つっ立ったままの芳斗に尾行者が早足で近づいて声をかけた。
「きみ、ちょっと」
 ふりむくなり芳斗は「あっ、」と短く叫んだ。昨日ひき逃げの現場検証後に病院内で、冗談のつもりが実は的を射ていた発言の森谷刑事その人ではないか。
「モ、モリヤさんだったんですか」
 驚きのあまり、とんきょうな声を発する芳斗。刑事の方は驚いた様子もなく鋭い視線を向けた。
「きみこそなんで、あの女と。まさか杉伊……」
「その杉伊小夜子ですが、何か」五メートルほど先の空き家の玄関と門の中間地点にすっと出てきて、小夜子が森谷に名乗った。
「おまえは亡くなったはずなのに」
 場所が場所だけに幽霊を見る目付きの刑事。同じ文句を芳斗からも聞いているだけに不吉なものをかぎとったようで、小夜子は眉をくもらせた。だけじゃなく彼女の闘志にスイッチが入り、個人的に恨みがありそうな上目遣いの刺すような視線で刑事を睨みすえた。それも瞬時のこと。穏やかな顔に戻った。
「わたしに用があるのなら、こちらへどうぞ……。芳斗君はそこにいてね」
 玄関前で立ち止まり、振り向いた彼女は下を向いていた。森谷が近くまできても顔を上げずに言った。「死んだはずなら、わたしは幽霊かもしれませんね」(いわ)くありげな状況に、そこにいろと言われた芳斗も状況を確認できる位置まで接近した。
「逮捕するんですか、死んだ女を」顔を上げて彼女は静かに訊いた。「いや、確かめたいことが二、三あって」森谷は()じ気づいていた。
「まず確かめるのは、わたしの手に血が通っているかどうかじゃないですか」肩の高さに腕を上げ、ゆっくり右手を差し出した。恐る恐るという感じで森谷がその手に触れようとしたとき、小夜子の右手がすっと上昇した。森谷の手が追いかけると今度は下降した。
 ぽかんとする森谷を出し抜き、彼女は手の平を蝶が舞うごとく上下させた。妖艶(ようえん)ともいえる動きである。五秒ほど続いた後、刑事の左手に手の平を重ねた。「ほら、冷たいでしょ」森谷がゆっくり首を下げる。「まるで氷だ」
「わたしは雪女なの」小夜子がささやいた。幽霊と雪女は別物だろうとの疑念を挟まず森谷が機械的にうなずく。「きみは雪女だ」小夜子は薄笑いした。ふうっと息を吹きかけたら、森谷の顔全部が凍傷起こしそうな冷たい笑みだった。
 小夜子が本当に息を吹きかけると、森谷は石像の如く直立不動になった。「そう、それでいいのよ」満足げにつぶやいて重ねた右手を刑事の手首から肩へと伸ばし、熟練したエステティシャンの手つきでさすり続けた。耳元では複雑そうな命令を繰り返している。二つの行為が見た目以上の心地よさをもたらしたようで、森谷の眼が眠そうになり、がくりと()()いだ。一呼吸置き、彼女は森谷の耳元でパチンと指を鳴らした。
 ようやく芳斗も小夜子が森谷刑事に催眠術をかけたのだと理解した。
 小夜子の「カモン!」という右手の合図があり、近寄ってみると案の定、森谷は今目覚めたような顔して「わたしゃなにしようとしていたんだろう」と、しきりに首を傾げた。どういうわけか、あたりにはほのかな柑橘系の臭いが漂っていた。
「催眠効果でわたしについての記憶を多少変えたから、協力してくれるはずよ」
 小夜子が、わかっているでしょうけど念のためという顔でささやいた。
「すごいですね。こんなことできるなんて」
 芳斗が尊敬のまなざしで誉めると、小夜子は「結構疲れるのよ」と言いつつ誇らしげに髪を掻き上げた。これなら楽観的に構えられるわけである。役者顔負けの演技だったし、側にいたら芳斗までかかってしまう恐れもあったわけで離れていろという指示も的確だった。
 小夜子は森谷に向かって、自分たちは一日前に戻って代志乃を交通事故から救おうとしていること、そのためにはコファーなる器具を見つけねばならぬことを手短に説明した。一日前に時を逆のぼるなど普通の人なら真っ先に疑問を持つだろうが、ここが催眠効果のうれしいところで森谷は「ほう、そりゃすごい」と驚いただけであっさり受け入れた。
 小夜子が槙田家へ向かうことを指示すると、刑事は上機嫌のチンパンジーみたいにオーバーに手を打って承知した。
「うん、行こう行こう。あの角の先にわたしのクルマがあるんだ。乗せてってあげるよ」芳斗は唖然としながら歩きだした。人を疑うのが仕事の老練な刑事でもこんなにも完璧に催眠術にかかるんだな、といたく感心した。昨日彼の演技に騙されただけに、溜飲の下がる思いでもあった。
 刑事の後をついていくと、あの角の先とは五分も歩かねばならぬ中学に近い有料駐車場で、着くなり芳斗と小夜子は呆れて顔を見合わせた。森谷はちょうど出勤途中だったので、遅れることを署に電話連絡するとともに代志乃の家の様子も聞きだした。
 槙田宅にはひき逃げ犯からの要求があった場合に備え警察官が待機しているという話だった。
 森谷はあちこちに錆がきているグレーのセダン、ほんとにコロンボ刑事を真似たのではないかと思えるボロ車を(プジョーではないが)芳斗の案内で槙田宅の近所まで走らせると、二人を車内に残してひとりで家をたずねた。
 やがて戻ってきた森谷は、T市の隣町の蓮沼宅では代志乃が行方不明になったショックで祖母が体調を崩し、家政婦と親類の者が付き添っているとの情報をもたらした。
 乗用車は蓮沼宅のある隣町へと進路を向けた。その道中、芳斗は森谷がどのあたりから自分たちを尾行してきたのか気になり、失礼を承知で尋ねると
「ああ、あれかい」森谷刑事はのんびりとこたえた。
「きみが昨日、わたしの質問で妙に動揺していたんで、学校の近くで待ってみたんだよ」
 またも冷や汗の出る思いだった。「疑っていたんですか、でもぼくは無実ですからね。アリバイ完璧ですよ」
「わかっとる。時間を飛び越えでもしなきゃできんからな」
 芳斗は後悔した。これから昨日に戻る旨を伝えたのだ。疑ってくるかもしれない。コロンボは完璧なアリバイを些細なミスから崩していくではないか。
 住所のみならず正確な道順や目印まで聞きだしていた刑事は、代志乃の母方の祖父、蓮沼俊蔵宅までクルマを乗り付けた。
「ふーん、ここがそうだったんだ」古さが逆に落ち着きを出している豪勢な造りの一軒家、その表札を確認するなり小夜子が感慨深げな声をもらした。
 呼び鈴が家の中に響き渡ってだいぶたち、白いエプロン姿の家政婦とおぼしき六十代女性が現れた。OL風の若い女によれよれコートの中年男性、そして制服姿の中学生という一風変わったとりあわせの三人を見て、用件の見当がつかないらしく首を傾げた。
「突然伺ってすみません。俊蔵さんのことで少しお聞きしたいのですが」
 小夜子の柔らかな声にうなずきながらも、保険の勧誘か開運印鑑のセールスか、しかしこの中学生はなんだろう、と推理を巡らす様子が顔に出ていた。
「旦那様でしたら留守ですが」
「いつごろ、帰宅されますか」
「さあ……二、三日前に遠方の友人に会ってくると言って家を出たきり、連絡がとれなくてわたしたちも困っているんです」
 小夜子は家政婦の後方に目線を移した。「あと、どなたか」
「奥様は体の加減がすぐれなくて、床についているんですが。なにぶん、わたくし手伝いのものですので」お引き取りくださいと言いたげな口調だった。
 小夜子はこれ以上いても得るものはないと判断し、簡単に礼を述べると二人のほうを向いた。
「帰ろうか」
 クルマを出してほどなく、小夜子のケータイが鳴った。
「はい、若奈です……あ、垂水さん、どちらのほうに……、え、はい、わかりました」
 小夜子は芳斗と森谷に言った。「垂水さん、深沢の入院先をつきとめて、病院の前で待っているというの。T市立中央病院なんだそうだけど。刑事さん、そこまでお願いできますか?」
 間髪入れず、森谷刑事がおどけ声で返事した。「了解、ボス」
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