第27話

文字数 3,011文字

 芳斗の口から深い安堵の息が出た。「おかえり……。心臓に悪い冗談だな」
「軽いフェイントじゃん。それはそうとお出迎え、ご苦労様です」笑顔のまま返し、代志乃は建物の窓へ駆け寄った。ガラスに映る自分の顔を確認した。「うん、間違いなくあたしだ」
 着ている衣服に気づいた。「え、見たことない服着てる?」
 どうやら十年後へ行って帰ってきて待機中の芳斗のことも知っていたようだが、それ以外は聞いてないらしい。訊かれる前に考えていた説明を始めた。「短い時間に色々なことがあったはずだけど、ぼくの病室を見舞った後、八幡神社へ行き崖から落下するイメージをしただろう」
「うん、その通り。なぜ知ってるの?」
「そしたら突然、宙に吊り上げられる感覚がした」
「そう、すごく痛かった」
「次にぼくの顔が見えて、ものすごい苦しみが襲ってきた」
「そうそう、言葉で表せないくらい痛いし苦しかった。ドバーッと血を吐いて、それから気が遠くなって、あと覚えていない」
 その責任は芳斗にもある。移入後の辛さは彼でさえ心苦しくなった。
「吐血したのは小夜子さんの身体に入ったからだ。気がつくと病院の治療室にいて、見知らぬ男性にここまで連れてこられた」
「う~ん、ちょっと違う。男性の他に女性もいた。無断で治療室に入ったらしくて怒られて逃げ出したんだ。そのあと女性のほうに鏡見せられてびっくりした。あたしの顔じゃないの。ここは二〇二×年で、あなたを元の体に戻してあげるから、と男の人に言われてここにきたのよ」
 翔一郎単独では困難と判断し、女性スタッフに協力してもらったのだろう。
「次にきみが入っていたのは沖野若奈さんの身体だ。しかも戻ってきた今日は二六日。きみにすれば八日経過したわけだ」代志乃からケータイを借りると、画像を開いた。「これが中学時代の若奈さん、八日間きみとして暮らしていたんだよ」
「面影ある、確かに大人になったこの人だ。十年後といっても景色あまり変わってないんだね」
 急に何か察したように首を捻った。「すると、秋山君もたった今、その若奈さんと別れたわけだよね」うなずく芳斗の至近距離まで彼女は接近した。
「お別れのキスとか、してなかったよね」口元を凝視した。頬がびくっと引きつるのを芳斗は隠せなかった。たぶん、若奈さんという言い方に〈何か〉を感じたのだ。
「証拠発見。口紅ついてる」芳斗は天を仰ぎ、眼を閉じていた。心の中で、化粧していたものなあ。とぼやいた。自らの手の甲に唇を押し当てて確認し、すべて悟ったかのように仰々しく代志乃が首を縦に振った。
「ああ、やっぱりそうでしたか。あたしがいない間にそういうご関係だったのですね。この洋服だってあたしのお小遣いで買って、つまりデートを楽しんでいたわけですね。まさかとは思いますが、他人(ひと)の身体を使ってそれ以上の行為は、していませんよね」
「ないです。全くないです。それからその服は、ジャイアンツ優勝祝いにお父さんが買ってきたものだそうです」
 浮気を責められている亭主みたいだと情けなくなったが、明らかにジェラシー、逆に言えば愛情の裏返しである。先読みする若奈だからこれを狙ってわざと口紅を残したのかもしれない。
 拭いてあげようとポシェットを開けた代志乃が、ティシュより先に一枚の紙片を見つけた。「なにこれ、あ、メッセージじゃん」目を通すこと約二十秒、はぁーと感心の息を吐いた。「いい人なんだね、若奈さん。あたしへの謝罪でいっぱい。そして芳斗君のこと誉めちぎっている。彼を大切にだって、へ~え~」
「ほんと、ぼくにも読ませて」芳斗が手を伸ばすと、後ろ手に隠した。
「だめ、これは親書なの。芳斗君には読ませないでと書いてあります」
 ウソに決まっている。
「女同士のヒミツもあるんです……。ともかくー、ものすごーい事情ありそうだから、これから洗いざらい話してもらわないとね」
「これからじゃ、遅くなるよ」聞くも涙、語るも涙、とまでいかなくても波乱に満ちた全貌である。
「明日学校あるんだよ。八日間の記憶抜けていたら、対処できないじゃん。遅くなるなら夕飯出す。クルマで送らせる。絶対きてもらうよ、(うち)に」
「いいよ」若奈にも頼まれており芳斗は即答した。「あれ、素直だね」代志乃は拍子抜けし、やがて含み笑いした。「芳斗君、あたしのママに惚れてるもんね。ああいう熟女というか人妻系が好みなんでしょ。安心なさい。ママも芳斗君には好感持ってるらしいよ」
 芳斗も彼女の口撃(こうげき)パターンには慣れていた。「なら今度、真剣に誘ってみようかな」
 そうきたか、と代志乃が笑い返した。
「条件を出します。スイーツの大食い競争であたしに勝ったら、ママを口説く挑戦権与えます。今度は大食いでリベンジ。負けないからね」
「望むところだ。また楽勝さ」
「ふふん、まずはケーキ屋に、直行。それと、あれもはっきりさせなきゃね。あたしのこと、の続きと、きみのことは忘れない、とか聞こえた芳斗君のセリフ」
「そこは手短に行こうよ。あとがつかえてるから」
 やっぱり聞かれていたのか。こうなるのなら言わなきゃよかったと後悔した。
 洋菓子店『そねっと』には三人ほど客がいた。公民館より歩いて数分の距離である。
 十坪ほどの店内で女性販売員二人が忙しそうに接客中、気の抜けたような顔でショーケースの裏に突っ立ってる冬樹を見つけて、代志乃が訊いた。「あの人が芳斗君の叔父さん?」
「そう、店長はお気楽もんよ」まぬけ面がちょっと恥ずかしかった。
 代志乃は歩き出すと、ショーケース越しの冬樹の正面に立った。「いらっしゃいませ」笑顔で型通りに応対した叔父が隣の芳斗に気づき、まさかという表情になった。代志乃と甥っ子を交互に見た。代志乃が「こんにちは」と挨拶した。「芳斗君の叔父様ですよね」うなずく冬樹に代志乃は手のひらで示した。
(カレ)です。あたしの……」芳斗の手を握り、コクッと斜めに首を傾げ同意させた。
「ねっ、」
「そうらしいです」照れくさそうにぼそぼそと答えていた。
 呆然としていた冬樹がぎこちなく笑い、顔を近づけ小さくささやいた。「うまいことやったな」
「たくさん買いますから、サービスしてくださいね」そんなこと代志乃は平然と言ってる。喜びも束の間、芳斗は内心蒼ざめた。どう考えてもここの会計は彼が持つべきである。ショーケースに眼を落としている代志乃に気づかれないよう、叔父に耳打ちした。「後で払うから、立て替えておいてくれない」
 冬樹の躊躇は一瞬だった。「よし、前途を祝し特別大奉仕だ。好きなだけタダで持ってけ、と言っても八個。末広がりの八個でどうだ」気持ちをくんで太っ腹な対応してくれた。
「うわー、うれしい。ありがとうございます」手を叩き小躍りして歓ぶ代志乃は、小学生のように無邪気だった。冬樹がまた耳元にささやいた。「請求書、兄貴に回すから」
 それじゃタダではない。相変わらずみみっちいな、と思いつつも感謝した。これで形は違えど『ケーキ試食』の約束は果たせるわけだ。
 ショーケースには二十種類ほどのケーキが並んでいる。
「どれにしようかな……」眼を輝かせながら、真剣な表情で代志乃が選び始めていた。
「ねえねえ……どれがいぃい?」
 芳斗の顔を見て、ほどよい甘え声で訊いた。
「そうだな、まずモンブランは外せないよな」 
 世界一の幸せを掴んだ歓びが、芳斗の胸にじんわり広がっていった。

               終
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み