第23話

文字数 4,545文字

「もう、そろそろだな」
 いらいらする気持ちを抑えつけながら、芳斗は自身に言い聞かせた。朝の、それも同じ中学生の通学時間帯がとっくに過ぎた交差点で、なおかつ手ぶらで時間を潰すのは実に体裁が悪い。彼のスクールバッグと財布を持って、先に若奈は登校したのである。
 今日はいよいよ九日前の彼自身と人格交換を果たし、生前の槙田代志乃と最後の別れをしなければならないのだ。まだ体験してない先週の月曜日の午前中。辛いとはいえ、どんなことが起きるのか興味津々なのも事実だった。
 九日前の朝、彼は背後より肩をたたかれた驚きで未来の彼と心が入れ替わったのだ。そして、その女性看護師を待つことすでに三十分経過。あのとき知らぬ間に三十分が消失していたことを考えると、じき現れるはずだった。
 右手舗道の向こうに見覚えある女性の姿が現れた。芳斗は硬貨を拾った自動販売機の近くにしゃがみ、ちらちら覗いながら待ちかまえた。あと五メートル、三メートル、だが、看護師は芳斗に気づかずそのまま通り過ぎてしまった。
「えっ?」
みるみる看護師は遠ざかっていく。考えてみれば、ただしゃがんでいる中学生に誰も関心を持つはずがない。落とした小銭を捜しているくらいにしか見えなかったのだろう。ダッシュで追いかけた芳斗が背後まで迫ったとき、彼女は気配を感じたのかくるりと振り向いた。肩にかけたトートバッグがぶつかって急停止し、あわてて踵を返すと自販機まで駆け戻った。この不審極まる動作に看護師はスリかひったくりのニオイを嗅ぎとったらしく、追いかけてしゃがんだ芳斗に尋問口調で問いかけた。
「ちょっと、あんた……」
何も悪いことはしていない芳斗だったがこれには背筋がぴんと張るほど驚き、目前を(るい)(てき)型の彗星がビューンと横切って、九日前への移入の成功を確信した。あの程度の驚き方でも感知してくれたのだから、コファーとは相性が抜群にいい。スリに間違えられた理由もこれで納得した。
 因みにコファーのエネルギーラインは直径二メートル程度で、その範囲内にいなければ人格交換は不可能だ。自動車がまるごと一台タイムリープできないのも、二メートルの縛りがあるからだという。
「秋山君じゃないの」
 聞き覚えのある声にふり返り、ふたたび驚きそうになるのをこらえた。槙田代志乃が立っていたのだ。若奈の移入した彼女ではない。先週の月曜日、亡くなる一日前の代志乃なのである。
「きみ、なぜいまごろ」
 爪先から頭のてっぺんまで眺め、芳斗は呆然たる面持ちで訊いた。ひとつだけはっきりしたのは背後にいて肩をたたいたのは看護師ではなく、代志乃だったのだ。偶然ではなく、ここでも縁の深さを感じた。
「うん。少し寝坊しちゃって。それより何していたの?」
 どうやら遺失物拾得の現場は目撃してなかったようだ。
「靴の泥を落としていたんだよ。早く行かないと授業始まるよ」
 せかすように時計を見て歩きだす芳斗。ホームルームまでは時間があるが、とっくに遅刻している。代志乃の寝坊は少しどころではない。早足の彼を追いながら、やはり気になるらしく遠慮がちにたずねた。
「あれ、スクールバッグは持ってこなくて、いいの?」
 恐れていた質問だった。さっきから思案中なのだが、適切な口実がでてこないのだ。
「教科書とノートがなくちゃ大変だよ。どうするつもりなの?」
 不所持の理由なんかに関心はなく、授業への支障を心配してくれているのであった。「うん、まあ。他のクラスから借りてしのぐさ」
 きみが見せてくれたらいいんだけど、とは思ってもやはり口にはだせなかった。
 なんとかホームルームには間に合った。宣言どおり他のクラスの生徒から教科書、筆記具は下平から借りて一時間目の国語の授業が始まった。
 授業に集中している代志乃の横顔を見ると、この子の命があと一日とはどうしても受け入れられなかった。変な表現だが、まるで故人の映像を観ているような寂寥感を覚えるのだ。
 二時間目三時間目と進み、四時間目理科の授業になった。この時限が終わればお別れである。代志乃を盗み見る回数が増えてきた。
 理科の若松先生はたびたび授業の後半は勝手に自習させて自分は居眠りするという、あまり熱心さの見受けられない女性教師であり、本日もそのご様子だった。生徒らのざわめきを聞きながら寝入ってしまったのである。
 突然、代志乃が顔を向けた。「なんかさあ、秋山君の視線すごく感じるんだよね、言いたいことあるの?」
 芳斗はどきりとした。気づかれていたのだ。一瞬、言葉に詰まった彼を見てにやりと笑った。「それとも、あたしに気があるのかな」
 最後だから「ずっと前からさ」と答えてもいいのだが、それでは芸がない。映画の主人公を気どってみた。「今日は特別、きみが可愛く見えるから」
「それが正常な見え方、今までピントずれていたんだね」がっかりするほどあっさり代志乃は返した。でも、やはり照れはあったらしく両手をポンと打った。
「そういえば今朝、秋山君の夢見たんだ。それもねえ、全然いい夢じゃないんだ」
 その割に表情は嬉しそうである。
「あのねえ、秋山君の乗ったタクシーが、交差点で事故起こす夢」 
「え!」芳斗は顔をしかめた。
「しかも、ひっくり返ったクルマから這い出てきた秋山君の左腕がないの」
「それじゃ、じき出血死だ」
「ところが血は一滴も出てなくて、ピンピンしているわけ。あたしが大丈夫なの、と訊いたら、『利き腕でないからいいんだ』と言ったわけよ」
「すごいポジティブ思考だ」
 安心させるように代志乃が笑った。「その夢で寝過ごしたんだけど、変に心配しないでね」
 皮肉にもそれが彼女の運命を暗示しているようで、芳斗は言いようのない哀しさを覚えた。「的中したら、きみと話すのも今日が最後かもしれないな」
「そういうのをネガティブ思考というんだよ」
「もし明日死ぬとしたら、きみは何をやりたい」
「そうねえ、おいしいケーキをおなか一杯食べることかな」超甘党の彼女である。予想通りだった。
「たしか秋山君の叔父さん、『そねっと』に勤めているんだよね」
 叔父の冬樹の勤務先が洋菓子店であることを、芳斗は口にしたことがないのに知っているのだ。「うん、でも全然ケーキは作れないよ。販売の店長だから、できてきたケーキに文句つけるのが仕事なんだ」
「店のお偉いさんだものね」
「そねっと、の嫌われ者ともいわれている」
 芳斗は意味ありげに笑った。そろそろ代志乃に〈甘ーいことば〉を云うべき頃だ。
「もしよかったらさ……」芳斗は声をひそめた。
「今日、うちにこない? 叔父が試作品のケーキをたくさん持ってやってくるんだ。全部試食して、批評してもらいたいんだ。正にきみには適役だ」
 そんなことあるわけないのだが、代志乃はコロッとひっかかり狂喜した。
「えーっ、ぜんぶー」
「しっ、きみひとりだからね。これまで世話になったお返しだと思って」
 日登美をちらりと(うかが)う。代志乃も小声で返した。「うん、絶対行く」
 授業も終わりに近づき、芳斗は彼女に渡すメモがあったことに思い当たった。下平には悪いが借りたノートの用紙一枚切り離し、それを更に半分に切っていざ書こうとし、八幡宮の『幡』の字をしっかり憶えていなかったことに気づいた。焦れば焦るほど思い出せず、辞書を引いているうちに代志乃は机の上を片づけ始めた。『八幡宮に』と殴り書きして間一髪、彼女のノートに差しこんだ。
 不意に春のバス遠足で有名なお寺を見学した記憶が甦った。石段を踏み外して転び膝をすりむいた代志乃に、後ろを歩いていた芳斗が財布に入れていたキズバンを差し出した。放っておけなかっただけで、下心は全くなかった。彼女はびっくりした顔で受けとり、ほほ笑みながら「ありがとう」と礼をつぶやいた。
 このとき代志乃の前を歩いていた西崎も気づき、彼女の手を引き怪我を気遣いながら一緒に歩き出した。創傷だけじゃなく打撲で歩行が困難だったのだ。これがつきあい始めたきっかけじゃなかったかと思っている。西崎と歩きながら芳斗を見た眼は何か言いたげだった。あのとき芳斗も気づいて、もう一歩踏み込む勇気があれば展開は違っていたかもしれない。
 思い返せば、一学年のときから槙田代志乃のことは十分意識していた。二年のクラス替えで同じクラスになり、率直に嬉しかった。彼がそうなのだから代志乃に好意を抱き、交際を申し込んだ生徒も何人かいたという。その誰にも彼女は関心を示さなかった。ガードが堅いとか理想が高すぎるとか、単にわがままなのではとも噂された。
 同じクラスとはいえ、用のない限り代志乃と会話する機会は皆無だった。たぶん彼女は芳斗に興味なく、芳斗は話しかける勇気にかけていた。清掃会で何度か顔を合わせても、必ず清掃区域が違うという運も縁もない状況だった。
 それが変わり始めたのがバス遠足、その後の席替えである。隣同士になったことを芳斗は、何かが前進したと思った。遠足での一件で芳斗の好感度はアップしており、代志乃も気さくに話かけてきた。それで判ったのは決して理想が高いのではなく、自分が好きになれないから交際をはねつけただけということ。それをわがまま、理想が高いといえばそれまでだが。
 席が隣でよかったのは、授業中指名されて答えが解らず彼女に教えてもらった回数が片手で数えるほどあったことだ。といってもきっかけはその逆で、先生に英文の訳を訊かれ答えられず困り果てていた代志乃に、たまたま知っていた芳斗が紙に書いてさしのべたのである。これはいくらか下心があった。その後、芳斗の超苦手な数学の時間、指名を受けて悶々としていると、鶴の恩返しの如く代志乃が解答式を書いて手渡してくれたのだ。彼女にとって数学は大得意教科だった。
 以来、解答に詰まる度に数学はもちろん他の教科でも頼るようになった。彼女はほとんどの教科で成績がよく、他の生徒は訊くだけ野暮だったのだ。 
 さすがに回も重なると「また?」と苦い顔された。そこを拝み倒すと「あたし、あなたの家庭教師じゃないよ」愚痴りながら困った人を甘やかすことに意義を見いだしたらしく、教えるのがどこか楽しそうになった。たまに代志乃の苦手な理科の時間に知識を披露して借りを返すと「まだまだ借金いっぱいあるからね」不敵に笑うのだった。
 そこまでの仲になっても芳斗にとって彼女は高嶺の花であり、西崎と張り合うなんて考えられなかった。
 見舞いにきてくれたときの言葉が耳に残っている。「この縁がずっと続いてくれたらいいね」  一度のデートもなく別れを用意するとは、運命の女神も罪ないたずらをしてくれた。
 かくして四時間目が終了した。昼食の準備をしている代志乃を見ると、陳腐な嘘の内容に良心が咎めた。
「槙田さん」
急に哀しさがこみ上げてきた。姿は代志乃であっても、代志乃の人格にはもう会えない。なんとも淋しい最期だった。自ら云っていた〈めっちゃ波乱の多い家系〉その最たる波に呑まれてしまい、誰にも知られず亡くなるのだから。
「いろいろ世話になったね、ありがとう……きみのことは忘れない」
 胸が詰まり最後のほうは涙声になった。代志乃が怪訝な表情をするや、彼は身を翻して教室をとびだした。
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