第 9話

文字数 8,841文字

「あの、もしかして……小夜子さん、じゃありませんか」
 若奈の背後で声がした。
「え!」ふり向くと若い男が立っている。彼女より三、四歳年上とおぼしきなかなかおしゃれな身なりの青年は、みるみる驚きの笑顔になった。
「やっぱりそうだ。こんなところで会えるなんて奇遇だなあ」
 青年は軽く会釈し、若奈もつられて頭を下げた。どうやらこの若者と杉伊小夜子は知り合いのようだ。やっかいなことになったと彼女はしばし下に目を落とした。
「これから、どこか行くんですか」
 ためらいがちに、そしてぎこちない口ぶりで青年が訊いた。彼女が目を伏せたのもあるのだろうが、その妙なよそよそしさは二人がかつて普通の仲ではなかったことを想像させた。どうやら翔一郎の次は彼女の番らしい。
「ええ、少し買い物を……」青年の顔を見て彼女はこたえた。相手の誠実そうな表情にひかれるものを感じながらも、早くこの場面を切りあげることが頭の片隅にあった。
「あのときのこと、まだ怒っているかな」
 決心した面持ちで青年が訊いた。過去に彼の原因でトラブルが起き、二人の関係が途切れたのだろう、と若奈は考えた。
「怒るのが当然だよね」こわばった笑顔には非を詫びる気持ちが素直に現れている。若奈は青年の純粋さにも心ひかれた。あいまいな態度でつれなくするのはかわいそうだった。
「それはもういいんです。わたしのほうもいけなかったんです」
 自然に見えるように意識してほほえみながら彼女は言った。小夜子本人が聞いたら、事情を知らぬくせになに言うのと叱られるかもしれないが、青年が小夜子の姿を見るはもう二度とないはずだ。ならばその最後の想い出を、寂しく後味の悪いものにはしてやりたくなかった。
 お許しが出てふっきれたらしく青年の顔がぱっと明るくなった。
「せっかく会えたんだから、お茶でも飲みながら少し話をしたいな」
 現金な人だなと思ったが、若奈は誘われて素直にうれしかった。元来、彼女は惚れっぽい質なのだが、小夜子の肉体に青年への恋愛感情がしみこんでいたかのように、いっぺんに彼が好きになっていた。しかし誘いに応じるわけにはいかなかった。彼女は青年と小夜子の関係についてなんの知識もないのだ。彼の名前すら知らない。会話したところでたちまちしどろもどろになるのは見えている。
「今日は都合が悪いの、この次ということにしてくださらない。わたし連絡入れますから」
「ああ。じゃ仕方ないね」残念そうではあるが彼はこのことばをそのまま受け取ったらしく、喜びを表情に出すまいと努力していた。どうやらこの青年は小夜子の病気や彼女の父が殺人容疑で逮捕されたことを知らないらしい。二人の交際はごく短いものだったようである。
「あ、ぼくの番号とアドレス、まだ入っている?」
「どうかな。削除しちゃったかも……」
 小夜子のケータイを調べたわけでもないのにそう答えてしまった。不意に若奈の脳裏に記憶の断片が出現した。この青年の名は、「光一」のはずだった。些細な喧嘩で意地を張り自然消滅の結末になったことも、忘れていた景色のように甦ったのである。
 これまでにも、小夜子の脳にしまわれてある記憶の出現は度々経験していた。そのどれもが若奈の意識に遠慮するように、おぼろげで刹那的(せつなてき)だった。今回も強くは主張しないが、小夜子の青年に対する未練が感じられた。
 青年は笑いながら財布から名刺を出し握らせた。名刺には、西岡光一とある。
「それじゃ」
 遠ざかる西岡の姿を若奈はぼんやりと見送った。もう少し行くとデパート、その先にスーパーがあり目当ての買い物ができたが、西岡の後を追うようで行く気がしなくなった。しばらくたたずんだ後、のろのろと戻り始めた。
 つくづく杉伊小夜子の身の上を不憫に思った。あんな素敵な青年と知り合っていて、似合いのカップルではないか。これきりとは悲しすぎる。
 病気さえなかったら二人は結ばれることだろうに。若奈にはそんな予感がした。買いかぶりかもしれないが、あの西岡という若者は小夜子を本心から好きなようだし、世間体なんかに負けない強さとひたむきさが感じられた。それだけに、曾根と不倫関係にあったという事実が残念でならなかった。評判のよくない曾根に小夜子が好意を寄せたとは思えず、大方の推察どおり事故の負い目で関係を強要させられたと受けとめたかった。
 ショーウインドーに映る彼女の容姿に足を止めた。見て判るほどやつれた顔ではない。こうして歩いていても、疲れを感じないくらい体力もある。明日で生命が終わる病人にはとても思えない。
 そもそも若奈は小夜子の病名を知らされていなかった。軽くはないが重病でもないというだけで垂水も、鎮痛剤を調合してくれる垂水の知り合いの医師も、正式な病名を明かさなかったのだ。ひょっとしたら、病気よりも薬の副作用で死ぬのではないか。現在の体調を(かんが)みると、彼女の胸にはそんな疑いさえ生まれてくるのだった。
 ウインドーの小夜子に頬笑んでみた。十二歳で母親を亡くし、厳格で怒りっぽい父親に育てられたためか、愛情の欠乏を感じるどこか切ない笑みに見えてしまう。
 ふたたび重い足取りで歩きだした。
 十メートルほど前方の二人の男が目に入った。大柄でがっしりした男と小太りの男。どちらにも見覚えがあった。まさかという驚きと、やはりという恐怖が交差し時間が停止した。彼女たちを拉致したあの二人なのだ。動揺が顔に出てしまったのだろう、小太りの男が口角を上げ、やっと気づいたかと言いたげに笑みを浮かべた。
 ここはあわてず普通の対応である。知り合いに会ったように目礼した。努めて自然な動作で(きびす)を返し歩き出した。数歩で早足になり、ほどなく小走りになった。後ろを振り返ると、二人も同じ歩調で追いかけてくる。コファーを奪い返すチャンスといきまいてみたものの、その場に立つと逃げることしかできない。
 行き交う人々の間をすりぬけるように走り、肩に強くぶつかってしまった人もいたが、振り返って謝る余裕もなかった。衆人環視のなかでの発砲はないと承知していても、いつ銃弾に撃ち抜かれるともしれぬ恐怖が背中に迫ってくる。騒がれないようつかず離れずの距離を保ち、誰もいない場所に追い込んで捕らえる魂胆なのだ。
 また後ろを向くと、差はほんの二、三メートルに縮まっている。誰でもいい、すがりつきたい心境だった。 
 西岡の後ろ姿が現れた。
「光一さん」絶叫しそうになるのをどうにか普段の語調で呼びかけた。ふり向いた西岡の左の腕をとびつくようにしてとり、これまた無理に笑顔をつくって言った。
「買い物、つきあってもらえない?」
 一瞬、呆気(あっけ)にとられていた西岡が喜びの笑みを浮かべてうなずいた。二人の男が立ち止まっている。西岡が二人に気づいてもなんら反応を示さないことから、彼らには若奈との関係が理解できず手を出しかねている様子だった。
 若奈は西岡にもたれかかるように腕を組み、彼らを無視して歩きだした。腕を引っ張られてついていく西岡も面食らっている。
「あそこへ、入りましょう」彼女はデパートを指した。道路を逃げていては人気のないところに行きかねない。そうなっては彼らの思うつぼである。常に人目があって追っ手もまきやすいとなれば、デパート内がベターだろう。これが事件の始まりでどんなふうに巻き込まれるのか不安だったが、それを知りたい好奇心もどこかにあった。
 店内に入ると、ともかく奥へと進んだ。彼らに気づかれないように別の出口から外へでる腹積もりだった。
「なに欲しいの、買い物って」
 態度の急変をいぶかるように真面目な顔で西岡が訊く。ちらちら後方に気を配っていた若奈はうろたえた。「ええ、父が誕生日なの、プレゼントを選ぼうと思って。何がいいかしら」
「ネクタイ、じゃつきなみだしね。手袋やマフラー、なんてのも平凡か」
 西岡のことばが耳に入らなかった。二手に分かれた彼らは、つかず離れずの距離を保っている。歩調を速めようとしても、腕を組んでいるのではままならない。これでは追跡を逃れるのは不可能だった。西岡と一緒に行動したことをここにきて後悔した。
 こちらからつきあってもらって気がひけるが、彼から離れようと思った。そのほうが動きやすいし、万一巻き添えになってもいけない。
「どうしたんだい。きょろきょろして?」
 落ち着かぬ様に気づいて西岡は立ち止まった。聞き流していると思ったらしく、語気がきつかった。
「ごめんなさい」若奈は謝り、つい本当のことを口にした。
「変な人たちが追いかけてくるのよ」
 おもむろに西岡がふり返って周囲を見渡した。客を装って陳列棚、それも女性化粧品の陳列棚という慌ててとり繕ったとしか見えぬハーフコート姿の小太りの男を、彼女はそれとなく指さした。「ほら、あの人……」
「思い過ごしだよ」ろくに観察もせず西岡はそっけなく言いきった。
「でも、化粧品よ。男の人が買うの?」
 自分でも意外なほどむきになっていた。
「奥さんに頼まれたんだろ…… ネクタイもいいけど、ベルトなんかも悪くないな」
 歩きながらあちこちの商品をのんびりと見回す西岡。まるで彼自身がもらいたいような口ぶりである。 
 若奈は少しばかり唖然となった。この人はわたしの素振りを何とも思わないのだろうか。怯えているのを感じないのだろうか。いや気づいているのかもしれない。不安をつのらせまいとわざと知らんふりしているのかもしれない。そう思い直してもそれは彼のドライな一面にぶつかったようで、腹立たしさの混じった幻滅を覚えてしまうのだった。
「あたし、男の方の気持ちってよくわからないんです。光一さんの趣味にお任せします」不機嫌になっていた彼女は皮肉をこめて言ってやった。
「でもやっぱり、無難なところでネクタイがいいな。ええと、紳士ものは確か三階だったな」
 若奈の言うことを都合よく解釈したがる彼は、ことばのとげにも気づかず(ひと)り決めするとエスカレーターのほうへ足を向けた。鈍感な人、と若奈は余計苛立ったが、まだ別れる決心もつかずあとについて昇りのエスカレーターに乗っかった。男たちは相変わらずぴたりとついてくる。
 三階に着き西岡が目当ての売り場を探して歩き始め、彼女もとりあえずついて行った。探しているうちに隅のほうへきた。
「ごめん、ちょっとトイレ……」西岡が片手を挙げて謝るような仕草をし、近くの男子化粧室へと駆けこんだ。あたりに目を走らせると、小太りの男はいくらか離れた陳列棚の陰にいたがもうひとりの大柄な男は見当たらない。
 同じ壁の五メートルほど先にエレベーターホールがあり、ちょうどドアが開いたところだった。若奈はとっさに駆け寄り内部にすべりこんだ。小太りは間に合わなかったものの、意外にも姿のなかった大柄の男が近くにいて同乗することに成功した。
 エレベーターが上昇する。黒いブルゾンを着た男が威嚇するがごとく若奈の前に立ち、見下ろしている。視線に耐えきれなくなり、彼女は横を向いた。階が一つずつ上がっていき、乗り降りする客を見るとその度に男を押しのけて降りたい衝動にかられた。
 とうとう最上階の六階まで昇ってしまった。親しい者同士のように男はごく普通に若奈の肩に腕をまわしエレベーターを出ると、向かいにある階段口へ連れていった。
「やめてください。大声をだしますよ」
 若奈は不快さをあらわにして手を払いのけた。無言でまた肩に手をかける。銃を所持しているかもしれないのだから騒いで人を呼ぶこともできるのだが、威圧感に逆らうことができなかった。
「どうやって逃げたんだ」階段を降りながら初めて男が口を開いた。階段を使う客がほとんどいないとみて連れてきたのである。
「たすけてくれた人がいたの。生憎(あいにく)だったわね」
 若奈は無理に笑った。そのことばを鵜呑(うの)みにするとは思えなかったが、男の腕が肩から離れた。恐怖心も薄れてきた若奈は、並んで降りながら訊いた。
「わたしたちのこと、どうして知ったの?」
「方法はいくらでもあるさ」
 踊り場で立ち止まり、男ははぐらかした。妙に落ち着いている。推察通り住所を捉まれコーポからずっと尾行してきたからに違いなかった。
「居場所を探り当てるなんて、さすがね。わたしたちのケータイを調べたのかしら」
 男は渋々ながら喋りだした。
「ああ、ショップを一軒ずつ調べたのさ。落とし主に返してやりたいと。そしたら何軒目かでそのケータイを売った販売員に出会ったわけだ。日が浅かったし、なかなかいい男だったこともあってよく憶えていた。むろん客の住所は教えてくれなかったが、なんだかんだと話を向けているうちに町名らしき言葉をつぶやいた。そのあたりを探していたら、あんたが外出したわけだ」
 もっとハイテクを駆使したのかと思ったら、足を使った地道な手法だったのだ。
 背丈ほどある作り物のポトスの鉢植えが隅に置かれていた。若奈は鉢を背にして立ち、相手の顔を見て話の矛先をずらした。「あなたたちも、曾根さんに借金していたわけ?」
 男は口の端をゆがめ、吐き捨てるように言った。
「さん付けでよぶ奴じゃない」
「曾根さん、ずいぶん嫌われていたんだ」
「中途半端なお調子者さ」
 意外なほど曾根への憎悪は感じられなかった。若奈はこの男が根っからの悪人とは思えなかった。曾根殺しの主犯は小太りの男で、彼は誘い込まれただけかもしれない。
 この場から逃げようと思えば逃げられる。だが、巡ってきた絶好の機会。この男だったら、気持を操ることは難しくないだろう。「それで、コファーは使ってみたの? というより使い方知っているのかしら」
 腹の内を見透かされまいとして、男は沈黙した。あのとき若奈たちを脅して操作方法の会得を図るつもりが、失敗した。今、彼女を捕らえたのもそのためなのだ。
「あなた、深沢(ふかざわ)さんでしょ」ふと転落事故に遭う深沢という人物がいたことを思い出し、動揺を誘うつもりで言ってみた。男は沈黙を続けたが、視線の急な動きが答えだった。彼が深沢に違いない。
「わたしたち未来から来たんだもの、あなたたちのことは何でも知っている。この先どうなるかもね、二人のうちどちらかが事故で大怪我するのよ」
「脅しか」
「事実を言ったまで。でも心配なく、あなたじゃないから」
「市ノ(いちのせ)が……」
 驚きとも安堵ともとれる口調で深沢がつぶやく。もう一人は市ノ瀬というのだ。
「金儲けのためにコファーを奪ったのでしょうけど、初心者には絶対できない」
 深沢は鼻で笑った。「残念ながら、あれは市ノ瀬の懐の中だ。おまえたちに取り返されないかと肌身離さず持っている」
 若奈はその口調に市ノ瀬への軽い嘲りを感じた。この二人、信頼関係は思ったほど強くないのかもしれない。彼女は背中の位置にあるショルダーバッグの内部に手を差し入れた。持たせてくれた翔一郎に感謝し、手のひらサイズの発振機のスイッチを入れポトスの根本へ落とした。重なり合った葉に隠れ見つけられる心配はない。二階からの落下にも耐えられるし、電池は半日以上持つ。
「それにコファーだって壊れているかもしれない。あれって衝撃に特別弱いのよね。市ノ瀬さんが来たら伝えることね」
「本当か……」言ったきり押し黙る深沢。人の言うことを信じやすいようだ。この男に催眠効果が利くかもしれない。
若奈の職場に催眠術をかけるのが特技という九つ上の女性がいて、結構親しかった若奈はその手ほどきを何度か受けたことがある。催眠術だなんて、心理カウンセラーにでもなるつもりかと最初思っていたのだが、呑む買う打つと三拍子揃ったダメ亭主の性格改造が目的で、自称催眠の一流プロから習得したのだという。その亭主改造催眠がものの見事巧くいったものだから自信を持ち(もっとも一週間で元に戻ってしまったが)、あなたもダメ男と結婚したときに試してみなさいとレッスンを買ってでたのである。
 彼女曰く、自分の習ったのは催眠術ではなく催眠効果であり、大事なのは相手をトランス状態にもっていくことで、眠いときか興奮しているときに陥りやすいという。それにはハーブの精油を数種調合した臭気と、ことばとボディタッチのハイブリット式が有効なのだそうである。さらに男子が女子に触られてドキっとするのが効果あるらしく、レッスン通り職場の男子数人、さらには翔一郎にも施術してみると若奈に素質があったのか、そのメソッドがすこぶる画期的だったのか、程度の差はあれみんなかかってしまったのである。
 それだけ自信を持っているだけに、精油を小さなスプレーボトルに詰めバッグに携帯していた。翔一郎の言うあれとはこの精油、得意技は催眠効果なのである。オレンジに似た香りなので疑われることはまずないし、やるなら人気のないこの場所が最適だった。
 彼女は、気づかれないように左手でスプレーを抜き出し、あたりに吹きかけながら深沢の肩に右手をあてた。「眼をようく見てよ。あたしがうそをついていると思う?」
 立ちのぼった臭気に一瞬気をとられたものの、彼女のことばには耳を傾けている。肩に置いた右手をゆっくり胸へ降ろしていき、催眠の基本となるワードを繰り返した。数秒後には眼が鈍い光りを帯び始めた。催眠状態に入ったのだ。
 そこへ市ノ瀬が現れた。
「おい、どうした」
 どこかはっきりしない深沢の表情、そして甘酸っぱいかすかな香りに気づき、市ノ瀬は相棒の肩を手荒く揺すると若奈の襟首をつかんだ。
「さてはおまえ何かしたな」
「わたしはただコファーの一部がゆがんでいて、そのままじゃ使い物にならないと忠告しただけよ」すごまれた怖さよりも、あと一歩というところで邪魔が入ったことが口惜しくてならない。
「つい細工しちゃったんだって。あんたたちに盗られる前にね」
 市ノ瀬の右手がゆるんだ。
「で、新品と交換いたしますってわけかい。たいしたもんだ」
 階段を昇ってくる人の話し声が聞こえた。顔付き、服装、頭髪とどれをとってもチンピラのイメージしか湧かない三人の若い男たちは、若奈たちの姿が思いがけなかったらしくとたんに静かになった。
 踊り場にただよう男二人に女一人の緊迫した雰囲気は、彼らにとって好奇の対象だった。遠慮のない視線を浴びせ、三角関係のもつれがどうのこうのと好き勝手な想像を言い合いながら、未練たらしく階段を昇っていった。人目を気にするように周囲を見回し、市ノ瀬が若奈の左腕を掴んだ。
「一緒にきてもらう。騒いだり逃げようとしたら殺す。毒の注射器も用意している」
 用意周到な彼らだから、はったりじゃないのかもしれない。最悪のシナリオになりそうだった。とっさに口実を言った。「待って、とりあえずコファーを見せて。調べてみる」かまわず連れて歩き出そうとする市ノ瀬に若奈は踏ん張った。
「五秒でいいの。あと好きにすれば」
 市ノ瀬が彼女を見た。
「本当に五秒だぞ」
 うなずく若奈の腕を放し、市ノ瀬がハーフコートの内ポケットに手を入れた。無造作にとりだしたのは裸のコファーだった。大事な物と認識している割には容器にも入れず持ち歩いていたのだ。よほど強い衝撃を与えない限り壊れることはないはずだが。 
 逃げられることを懸念し再び若奈の腕をがっちり掴んだ。眼で指示され深沢が右腕を捉える。市ノ瀬が空いた左手でコファーを顔の高さにかざした。
 ゆっくりと腕を上げ手のひらに受けとった。「一、二、」と市ノ瀬はカウントを始めた。損傷の確認している暇などない。目を閉じ脳裏に一頭のシェパードをイメージした。視線が合った瞬間、「ガォッ!」と跳びかかってきて押し倒された。小学生の頃の恐怖体験を鮮明に描き、押し倒される寸前、電車の車両に乗り込みドアが閉まり二時間後に走り出したことを思念した。これぞ幾度も訓練し、ほぼ完璧にマスターした精神ショックという起動スイッチである。オンとともに発振機の電磁波に乗って二人の存在しない時間に移動できる……、かもしれない。断言できないのは身体的接触のある場合、他者も引き込む可能性大なのだが二人の腕をふり解くなど不可能、ダメ元でやるしかないのだ。
 市ノ瀬は急に「四、五」を早口で数え、若奈があっと思ったときにはコファーをとりあげていた。頭が上に引っ張られるような感覚になるスイッチオンの直後だった。
「どうしたんだこれは?」
「一体、何が……?」二人の男がぎょっとしたように叫んだ。それもそのはず、瞬時にして周囲が漆黒の闇と化したのだから。そのうえ物音ひとつない静寂である。発振機もコファーも立派に機能した。まずかったのは、やはり二人を巻き込んでタイムリープしてしまったことだ。
 鋼鉄の箱で遮断するというイメージの力だけでは、排除しきれないのである。しかもこの暗がりからすると、二人分の想念によって着いた時刻にも大幅な狂いが生じたようだ。
(はか)ったな」暗闇で市ノ瀬が怒鳴った。こうなることも一応想定していた若奈は、声の方向に思いきり両腕を突きだした。両手が市ノ瀬の胸付近に強くぶつかる衝撃を感じ、自らも反動で一歩のけぞった。
 大の男とはいえ闇のなかで不意を喰ってはたまらなかったようで、転倒した市ノ瀬に押されて深沢まで転び、短い悲鳴が続けざまに聞こえた。もう逃げるしかないと階段を慎重に昇り、六階の右側から入ってくる緑色のかすかな光に気づいた。人間、暗がりでは明かりに引かれてしまう。そちらに足を向け、後悔した。非常口を示す常夜灯だった。たぶん駐車場への出入口だろう。
 錠がかかっているとあきらめつつ押してみた両開きのガラス扉が開いたときは、生まれて初めて神仏(しんぶつ)の加護を実感した。その数メートル先には鉄製の扉があり、さっき少し明るさが漏れていたような気がして、半分期待しながら押すとやはり開いた。階段を昇りきり、こちらにくる二人の気配がした。屋上への通路に出たとき、追っ手は背後に迫っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み