第26話

文字数 9,216文字

 放課後から三十分後、指定された時間ちょうどに芳斗の自宅前でタクシーが停まった。五分前から道路に出ていた芳斗は、後部座席より代志乃もすっかり板に付いた若奈が現れたことにまず驚いた。まさかタクシーで迎えに来るとは。さすがに富裕層は違う。
 彼女のファッションにも目を見張った。見覚えある明るいオレンジ色のワンピース、それも膝上十センチ以上のミニだった。よく見ると、花柄模様がちりばめられていた。
 耳には貝形のイアリングを付け、うっすら化粧までしている。肩に斜めがけしたピンクのポシェットが十五歳の少女をより可憐に見せていた。
 それに対して芳斗の服装はデニムパンツにポロシャツ、パーカーという至って普通でつり合いがとれない気がするのは否めない。
「わたし、ママにはデートだと伝えて出てきたの。たぶん、これが芳斗君とする最初で最後のデート」そこまで言うと寂しげに笑った。「それじゃ乗って」
 乗り込むなり彼女は少しおかしそうに言った。「パパったら熱狂的巨人ファンで、遅くなったけどリーグ優勝のお祝いに、こんなジャイアンツカラーの服買ってきたんだって。でも、ちょっと短いのよね」裾を気にしているのが何とも頬笑ましかった。「娘思いのおとうさんじゃない。いいセンスしてると思うよ」
 絶望視された事件からの生還は、どれほど嬉しかったかしれない。とはいえその喜びを素直に表すのも照れくさく、野球の優勝にこじつけたのだろう。 
 タクシーで走ること数分、ふたりはその後一言も話さなかった。初老の運転手が気を遣い声かけずにいてくれたのもありがたかった。これからやろうとしていることは、少なくとも楽しいものではない。
 タクシー代は初乗り料金に一度加算された金額だったので若奈が払うと言って譲らず、彼女が頼んだクルマだからと芳斗も承知した。ふたりが降り立った場所、そこはどちらにも苦い思い出しかない、近寄るのもためらわれた八幡宮だった。
 クルマから降りる際、彼女は運転手に五分以上経っても現れなかったら発車させてもいいが、それまで待っていて欲しいとの旨を要請していた。芳斗が怪訝な顔をすると「後でわかるから」とだけ答えた。
「電磁波は、途切れてないはずだけど」一抹の不安を残した顔で発振機の隠された社殿の軒を眺め、境内へと歩を進めた。
「それでは先ず、うまく行くように願掛けしましょうよ。神社にきたんだから」
 ふたり並んで手を合わせる。横顔が普段見慣れた制服姿とは別人のように華やいで、うなじから肩の線が妙に大人っぽく見えた。そう映るのは、ずっと好意を抱いていた同級生とは違う入れ替わった年上の女性だからであり、躰の横取りを心の片隅で許していない自分に今更ながら気づくのだった。
 柏手と礼、鈴を鳴らし賽銭と一通りの作法を一緒に終え若奈がつぶやいた。
「こんな願い、神様もきいてやるべきか迷ってるだろうね」まだ何も聞かされていない芳斗にも、彼女の計画がおぼろげながら掴めていた。溜息ついて若奈が続ける。
「生かす優先順位は、一位代志乃さん、二位小夜子さん、わたし最下位だもの。残念なことにルックスでも」
「そんな自虐的な発言、若奈さんらしくないですよ。それじゃ何のために願かけたかわからない」芳斗が笑い彼女も笑って吹っ切るように言った。
「そうね、そこを何とかして欲しいと頼んでいるわけだものね」
 社殿の裏側に回り、お馴染みとなったタイムリープである。日時は八日前の一八日火曜、電磁波が三時半には一旦途切れているからそれより以降の時刻になる。あまり遅いと小夜子の躰が臨終を迎えてしまう。狙いは微妙だ。
「さて、ここからは芳斗君だけが頼りです」手を繋ぐ前に、思いがけぬことを若奈が言い出した。「要するにわたし、極度なスランプに陥ってタイムリープできなくなったのよ。だから芳斗君に一任します。戻る日付と時刻を思い浮かべながら、代志乃さんのように崖から落ちるイメージしてください」
「え、ぼくがやるの。二つを同時にイメージなんてできないよ」
「お昼に聞いたでしょう。もっと自信を持とうって。どうしてもできなければ、わたしが思いきり殴りつけます。それは最終手段。さあ、目を閉じて、一八日、一五時四〇分を心で唱えて」
 殴ると聞いて芳斗はすぐに従った。集中して数秒後、両肘を後ろに引っぱられたと一緒に両膝の裏を強く押され、「あっ」と叫んで大きくよろめいた。その上体を若奈が抱きとめた。(ひざ)カックンで驚かす、それが彼女の作戦だったのだ。リープしたかどうかよりも背後からハグされて、名残惜しそうにゆっくり離れた若奈が気になった。
「上手くいったかな、失敗なら最後の手段よ」脅すように笑い若奈がケータイを出す。〈177〉の気象予報と〈117〉に電話すると、日付は一八日、時刻は一五時四五分だった。
「すごい、ニアピンじゃん。あれ一発で決めるなんて芳斗君、超天才だよ」
 それは誉め言葉だ。彼女も同じイメージで協力してくれたからできたのだ。
 現場検証の真っ最中のはずで耳をそばだてると社殿の正面より、吐血の痕を調べているらしく人の気配が感じられる。やばいと芳斗は思った。ここから出ていけば警官からの職務質問は高確率で免れないし、過去の芳斗にも見られてしまう。彼は提案した。「この瑞垣を乗り越えて隣の敷地から出ようよ」
「えっ!」若奈が異常に驚く。「いやだ。悪魔の()む家だよあそこ。(げん)が悪いよ。それに一メートル以上の瑞垣に脚かけたら、また、まる見えじゃない。あれ、もしかしてそれ狙っている? 二匹目のドジョウ」
「そんなことない。目を閉じて後ろ向いているから大丈夫」
「絶対にダメです……」思わせぶりに一呼吸置いた。「だって、履いてないんだもん」
「えええっ!」若奈の三倍驚いた。
「今、喜んだよね。なわけないでしょ」
「ずるい、ひっかけだ」
「ひっかかるほうに問題あり」にやっと笑った。「それじゃ別々に出よう。わたしはスキップして正面突破します。そのあと病院まで全力疾走するの。ではまいります」
本当にスキップ、それも度を超したハネ方で鼻歌唄いながら境内を駆け始めた。 
 社殿の裏で目茶苦茶嬉しいことがあり、浮かれまくりの脳天気な女子中学生が出てきたとしか思えなかったようで、捜査員数人が手を止め呆然と眺めた。ではなく、ジャンプの度に大きく翻るワンピースの裾に視線が向いてしまうのだ。ルンルン気分を強調し途中で「やったー」と叫び、くるりとターンするサービスも忘れなかった。捜査員たちの心の中で、おおっ!という歓声が上がったことは想像に難くない。もくろみ通りに彼女はすんなり境内からの脱出に成功し、様子を物陰から覗っていた芳斗はつぶやいた。「見せまくってたじゃん」
 病院の出入り口には芳斗が先に着いた。「あー、きっつ」息を切らし若奈が駆け寄った。「一八日の芳斗君に顔見られたと思う」
 現場検証のとき本人を目撃していたとは、思い返すと笑うしかない。
 総合案内所で、一時間近く前に運ばれた意識不明の女性患者について尋ねると、 緊急外来ではないかと教えられた。そちらへ行き、治療室へ入りかけた女性看護師に若奈は言った。「わたしたち、こちらで治療を受けている患者さんの知り合いなんですけど」
「えっ、お知り合い?」看護師が驚いて聞き返した。若奈がうなずく。「ええ、杉伊さんというんです。薄いブルーのブラウスにベージュのコートを着ていたと思います」
「そう。身元がわからなくて困っていたところなの。で、どういうご関係ですか」
あのとき小夜子がバッグを預けたのは、素姓を明かしたくなかったのだ。事前に口実を練っていたらしく、若奈が淀みなく説明を始めた。
「杉伊さんはわたしたちのエレクトーンの先生なんです。レッスンの後三人でお茶飲んで色々話してるときも、元気がなかったんです。別れてからなんか胸騒ぎして。連絡入れても繋がらなくて。神社で倒れた人がこちらに運ばれてと聞いて駆けつけたんですが、間違いないようです」
「はあ、エレクトーンの先生だったの」意外という顔だった。小夜子は小学生までピアノを習っており、人に教えるほどではないにしろそこそこの腕はあったと聞いている。意外そうにしたのは、芳斗を見てエレクトーン習う顔じゃないってことらしい。
「あの、面会してもいいでしょうか」
「ええ、どうぞ。意識がまだ戻らないのよ」
 集中治療室に廻すほど重症ではないと判断してくれたのは幸いだった。その場合、面会者は身内あたりに限られてくるらしい。
 看護師に続いて若奈と芳斗も入室した。思ったほど広くない部屋の中央のベッドに、酸素マスクを付けた小夜子が寝かされていた。左腕に輸血か点滴のチューブが固定されている。周囲には心拍数や血圧、心電図等を表すモニターがあり、刻々と数値を変えていた。医師がひとりに看護師が二人。症状が落ち着いているのかせわしい動きはない。さきほどの看護師が患者と中学生たちの関係を説明した。
 芳斗はただ静かに眺めていた。一週間以上前に亡くなった女性が目の前にいる。少し()けて見えるのは、病床にあるせいかもしれない。その躰に代志乃が入っていることが、頭で思っても心が認めなかった。患者が杉伊小夜子という見知らぬ女性にすり替わっていた。自分がここにいること自体、場違いな気がしてならなかった。
 それは芳斗だけ、若奈には色々な負いの責め苦に耐えねばならぬ場面だった。一歩二歩、力のない足どりでベッドに近づくと、しゃがみこんだ。目を閉じ眠っているのか昏睡しているのか解らない小夜子の右手を握った。
「杉伊……先生」演技を怠らず呼びかけた。湧いてくる感情を受け流すことで泣き崩れかねない自分を保っているのだろう。「あの、」医師のほうに顔を上げた。「このお守り、先生からいただいたものなんです。持たせてあげていいですか」コファーの一部を見せて訊いた。医師は患者の容体が急変するとは予想していない。いかにも中学生らしい心遣いと思い「どうぞ」とすぐに応じた。彼女は右手にコファーを握らせ、その手を腹部のあたりから被っている肌布団の中に戻した。それは見せかけで小夜子の背中の下にコファーを差し入れた。「がんばってね、大丈夫だから」つぶやいて立ち上がった。芳斗の側に戻るとき、涙がひとすじ頬をつたっていた。
 まるでそれが届いて安堵したかのように小夜子の症状が悪化した。「血圧が低下しました」モニターを見ていた看護師が緊迫した声で伝えた。
「心拍数も低下しています」医療スタッフの動きが急にあわただしくなった。
 若奈は室外に出るよう芳斗の腕をとった。「ここにいても邪魔になるだけ。外で待ちましょう」廊下に出て彼女は説明した。
「なんとか間に合った。このあと致死性の不整脈に陥って医師は除細動、心臓への電気ショックを施すはずなの」もちろん芳斗も予想はしていた。ドラマで見る素肌の胸の二カ所に電極を当て、患者の体が大きくバウンドするあれだ。それを行う場合、残っていたくても二人は室外退去を命じられたはずだ。
「これに賭けているのよ」噛みしめるように若奈が言った。「代志乃さんが躰から飛びだしてくれたら、なんとかなるんだけど」
 ドア一枚とはいえ、廊下では中の様子を伺い知ることができない。若奈は胸の前で両手を組み、行ったり来たりしていじらしいほど祈りの姿勢を続けていた。その切なる祈りには、叶うはずがない小夜子の奇跡的な回復も込められているはずだった。
 五分ほど経っただろうか。最初に会った看護師が出てきた。沈痛な面持ちで伝えた。
「たった今、息を引きとりました」若奈の眼が一瞬大きく見開かれた。事実を受け入れるようにうなだれた。小夜子でも代志乃でも亡くなったのは変わりないだけに、表情が強張っている。ドアを開け「どうぞ」と看護師が促しても若奈は立ちつくしていた。芳斗に背を押され歩き出した。今にも転びかねない不安定な足どりだった。 
 ベッドのそばまで二人がくると、向かい側にいた医師が頭を下げた。「予想外の急変に処置する間もありませんでした」言い訳ではなく本当にそうだったのだろう。若奈が唇を噛みしめた。小夜子の躰を酷使した自己の責任を改めて感じたのだ。
 近くには除細動器があった。使用されたのは間違いない。管や機械類から解放されて、穏やかに眠っているような杉伊小夜子の顔。不思議なほど哀しさはなかった。ひとりの若い女性の亡骸(なきがら)を、代志乃の死と思うのが怖いのだった。
 目眩(めまい)を起こしたかのように体を揺らし若奈がしゃがみこんだ。小夜子の腕に突っ伏すと、肩を細かく震わせ忍び泣いた。よほど親密だった師弟関係に映ったようで医師や看護師たちもかける言葉がなく下を向いていた。忍び泣きが(すす)り泣きに変わってまもなく、芳斗は若奈の肩に手をかけて立ち上がらせた。小夜子の背中に手を差し込こんでコファーの回収をしたら、そうするよう頼まれていたのだ。
 若奈は芳斗の肩に顔を伏せてしゃくりあげた。「すみません、外で気持ちを落ち着かせます」持て余したように芳斗は言って廊下へと連れ出した。それも打ち合わせ済みだった。
「ごめん、とり乱して」
 泣き笑いの顔で若奈が謝った。眼は真っ赤である。「芝居のつもりが本気で泣いちゃった。思ったより泣き虫でしょ」
 ハンカチで涙を拭くと、出入り口に向かって早足に歩き出した。「ここはこれで終わり。次は元の二六日に戻ります」気持ちをすぐに切り替えていた。小夜子の衣服にはもうひとつのコファーが残されているはずだが、こちらの回収は困難で諦めるしかなかった。
 病院と八幡宮の中間まできて、まだ検証が終わっておらず数名の人影が確認できた。すぐ近くのコンビニに入り、試験的に始めたイートインの椅子に芳斗を座らせると、若奈はこれから使うボールペンと小さな手帳を買った。二人分のコーヒーとタマゴサンドも購入し一方を芳斗に差し出した。「エネルギー補給と、泣いた分の水分補給。これでも年上なんだから(おご)らせて」
 コーヒーを一口すすり、テーブルの上で手帳に〈置き手紙〉を書き始めた。その表情は真剣でじっと眺めていた芳斗と眼が合うと、スルーしてごめんねという彼女らしい気遣いの笑みを浮かべた。書き終え、遠くを見るような眼でつぶやいた。
「あと、これを所定の場所に保管するだけ。でも上手くいくかは何とも言えない。打ち合わせ済みとはいえ、まずこの手紙を十年後の兄が読んで、小夜子さんの入ったわたしの躰を同じ治療室まで連れて行く。そこで両者の人格が飛びだしての成功だから、相当厳しいと思う」
聞きながらうなずいていいものか迷ってしまう芳斗だった。        
 十五分後、捜査員たちはすでに引き上げていた。境内へと足を踏み入れ、ふたりが立った場所は狛犬の側だった。吐血の痕跡はきれいに清掃されている。
「戻りは、たぶん大丈夫と思うからわたしに任せて」
 若奈が芳斗の左手を握った。本当にデートみたいだな、と芳斗は思った。若奈も同じことを考えたように顔を向け、ふふふと笑った。化粧を直したのか唇に艶がある。
「レッツ、タイムリープ」少しおどけた彼女の号令に目を閉じた。 
 数秒後、ふたりは共にケータイを出していた。芳斗が「177」若奈が「117」
で確認。「日付は二六日でばっちり」芳斗が言うと若奈も答える「時刻は一六時〇八分、一八日にリープした直後です。過去のわたしたちと鉢合わせしなくてよかった」 
 路肩に一台のタクシーが停まっていた。それを見て若奈が駆けだした。後を追いかけた芳斗が着く前に彼女は運転手に合図していた。ドアの開いたタクシーに乗り込み「ぎりぎりセーフね」胸をなで下ろしてつぶやいた。五分待って欲しいとは、これだったのかと芳斗も納得した。初老の運転手が笑う。
「まだまだ余裕で待つつもりでした。でもいいのかな、一度精算してまた走らせるんじゃ高くつくけど」
「だいじょうぶです。次はN町の『しらさき公民館』までお願いします」
 そこまでは結構距離があり、今度ばかりは割り勘を申し出ると若奈も快く応じた。
「ここの職員がわたしの叔父なの」公民館の前で彼女は説明した。L字型の細長い老朽化した建物である。駐車場の奥に中庭が広がっている。玄関でスリッパに履き替え、受付で呼び出してもらった中年男性に彼女は、事前に撮っていたらしいケータイの画像を見せた。
「こちらの沖野若奈さんとわたし、友だちなんですけど」
 男性が眼を細めて覗きこむ。「ああ、若奈の友だち」まさか本人とは夢にも思っていないのがおかしかった。
「学校のクラブ活動でこちらの部屋をお借りしたいんですが、第二和室を見せてもらえませんか」
「いいですよ」若奈の叔父は姪の友人ということで気軽に応じた。案内して第二和室の襖を開けた。「こちらです」 
 若奈と芳斗は入室した。あちこち見廻し、縦横に歩いて距離の確認を続ける若奈に時間がかかりそうと思ったらしい。「終わったら教えてください。向こうにいますから」叔父が立ち去ったと見るや襖を閉め、彼女が近寄り手にとったのは水彩画の富士山の額縁だった。
「この絵は十年後でもそのまま壁にかかっているの。メッセージを隠すには最適なはず」言いながら裏蓋を外していた。さっき書いた紙を入れて蓋を戻した。
「こういうのは最先端の技術なんかよりも、原始的な方法が信頼できるのよ。ただ、未来の小夜子さんを欺さなきゃならない兄には、申し訳ないとしか言いようがない」
 翔一郎の人柄の良さを知っているだけに、心情は理解できる。そんな彼でも妹のためなら非情に徹するはずである。
 若奈が部屋をゆっくり見渡した。「ここでわたしは小夜子さんの躰と入れ替わったの。もうずっと昔のことみたい」苦い過去をふり返る表情に一瞬、杉伊小夜子の面差しが重なった。
「始まりがこの部屋なら、終わりはあそこ」窓の外に眼をやった。首を捻る芳斗に彼女は小さくガッツポーズした。「いよいよ大詰め、クライマックスです」
 受付へ行き、後で借りるかどうか電話しますと伝えて外へ出た。次に若奈が足を向けたのは公民館の中庭だった。色づいた銀杏の樹が三本、建物に沿って植えられていた。真ん中は第二和室の窓より距離を置いた正面にある。若奈はその樹の近くで足を止めてふり向いた。銀杏の葉の黄色とオレンジの服が絵のように調和している。口を結んでうつむき、やがて顔を上げた。
「芳斗君、ここであなたとはお別れです」柔らかな口調だった。用が済んだからこれで帰宅する意味ではないことに気づくまで、数秒かかった。「正確には確率三分の一のお別れ、今までのこと心から感謝しています。ありがとうございました」
 頭を下げた。いつになく大人びて丁寧で、他人行儀な態度だった。十年後の未来に還るということがあまりに突然で混乱し、芳斗は言葉をなくしていた。何か言わなきゃと思うほど、頭の中が真っ白になった。
「これからわたしは人格交換します。考えられる可能性が三つあります。ひとつは」胸の高さに挙げた右手の親指を折り曲げた。「代志乃さんが無事に戻ってきた場合です。そのときは芳斗君が彼女にこれまでの事情を詳しく説明してください……。二つめは」人指し指が折られた。「小夜子さんが還ってきた場合です。これは事情の説明がより複雑で時間もかかるでしょうが、お願いします……。三つめは」彼女は右手を下ろした。「今のままということです。そのときはわたしにも考えがあります」
 一瞬視線を空に向け、その考えが彼女にとっていいものでないことが想像された。若奈にすれば、代志乃の躰にいるのが罪であり苦痛でしかないのだ。ようやく芳斗も、未来に還ることが本当に思えてきた。
「わかりました。で、質問をひとつ。若奈さんがいなくなった場合、残されたコファーはどうすればいいんですか」
 訊きたいことは他にもあるはずだが、今はそれしか思いつかない。
「それは、代志乃さんのおじいさんに返したほうがいいでしょう」
 うなずく芳斗に若奈がほほ笑んだ。「最後にわたしから芳斗君にお礼があります。受けとってください」ふたりの間には一メートルほどの距離があった。一歩踏み出すとささやいた。「目を閉じて」 
 右手を掴まれた。何か手渡すのかと思ったら両手が背中に廻され、唇に柔らかなものが意外なほど強く押しあてられた。一秒に満たぬ感触。心の準備は出来ているつもりだったが、電撃を喰ったような痺れが体中に走った。少し背伸びしていた顔がすっと離れていく。中学三年女子らしいはにかんだ表情があり、動揺を悟られまいと固めていた芳斗の頬が緩んだ。とりあえず「かわいい」と言われることはなさそうだった。        
 彼はすばやく周囲も見渡した。駐車場には数台の車両があるのみで、隣は大きな倉庫だし道路からも死角になっている。誰にも見られてはいないはずだった。
 二歩下がった若奈がおずおずとケータイを差し出した。「これがわたしなの。十三歳現在の沖野若奈」
 さきほど叔父に見せたそれには通学か帰宅途中を、たぶんすれ違う直前に写した少女の画像があった。活発さが伝わってくるボーイッシュな顔立ちに、代志乃とは別の中性的な愛らしさが覗いていた。この十年後の容姿は人並み以上の美人が想像できた。小夜子には到底及ばないとの発言は卑下にしか思えなかった。     
 若奈がまた笑みを浮かべた。泣き出す直前のように口元が歪んでいた。微かに声を震わせて告げた。「大人になったら逢いましょう。さよなら。元気でね」
 芳斗のさよならは相手に聞こえぬつぶやきになった。若奈は胸の位置で手の平を小さく動かしながら後ずさりした。彼を見つめたまま後退し、ここが予定の場所と示すように銀杏の側らで立ち止まった。小さくうなずいて手を下ろし、眼を閉じた。
 三分の一ではない三分の二以上の高確率で代志乃が戻ってくる。そんな自信。一分一秒でも早く元の躰に還って欲しい、その願いが痛いほどに伝わった。もし、〈今のまま〉で且つ代志乃の人格が飛びだしていたら、彼女はまた病院の治療室へ行って人格交換し、自分が犠牲になる決意だったということを芳斗は知っていた。
 数秒が過ぎた。オレンジ色のワンピースを着た少女が目を開いた。芳斗の姿を見て
あからさまな困惑顔になった。初対面の者への警戒心を秘めた小声で尋ねた。
「どちら様ですか」
 芳斗は全身から力が抜け、その場に座り込みそうになった。杉伊小夜子が還ってきたのだ。まさかの事態だった。それは代志乃の死を示している。芳斗は落胆を悟られないように顔を伏せ、何から話すべきか思案した。その耳に、くっくっという聞き覚えのある笑いが入ってきた。驚いて顔を上げると、見慣れた代志乃の笑顔があった。
「あたしだよ」

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