第25話

文字数 5,485文字

「いらっしゃいませ」という奥さんの威勢のいい声がし、カウンターの奥で新聞に目を通していたサラリーマン風の客がちらりとこちらに目を向けた。まさしくあのときの客であることに、なぜか芳斗は安堵した。
 同じスツールに腰かけ、チャーハンとラーメンセットを注文した。いよいよ帰還、と思うと身がひきしまった。特に頭をカウンターに打ちつけた直後の体に戻るのであるから、怖さもあった。かなり痛かったのだ。怪我したかもしれないと心配にもなった。そんなことを気にしてはいられない。九日後の肉体に戻るためにここにきたのである。そろそろやらなければできあがってしまう。しかしこんなところで誰か驚かしてくれる人がいるだろうか。普通はいない。が、ふっと思い当たることがあった。いなかったら口実をこしらえて、頼めばいいことなのだ。彼は仰々しくしゃっくりの真似を始めた。
「あらまあ、お客さん、辛そうですね」奥さんがいたわりの声をかける。
「ええ、ひっ…… これじゃ…… ひっ、喉をとおらないかも…… ひっ」
 無口な主人までが口を開いた。「水を一気飲みすると、いいって聞いたがなあ」
 さっそくコップの水をごくっと音を立てて飲み干す芳斗。
「うーん、それでも駄目なときは……」
 依然、数秒おきのしゃっくりを繰り返す芳斗に主人は断言した。
「どうしようもないな」
「え、あの、もっとあるはずですけど」
 言い終わるのを待たず、主人の「アチョョォーッ!」というカンフーそのものの奇声が響き渡った。びっくりすれば治るという民間療法を実行したわけで、いつくるかと心構えはしていた芳斗も想像を越えた声量にとびあがって驚き……。たぶん奥さんとサラリーマンの客もたまげただろうな、と思った次の瞬間『天の川』が現れ、額に衝撃を感じてひざまずいた。
「すいません! 大丈夫ですか」労務者が平謝りに謝った。顔面をカウンターのふちに打ちつけた直後の彼に移入したのである。
「だいじょぶ、怪我はない?」いつのまに入ってきたのか、代志乃に移入した若奈がかたわらにしゃがんで心配気に顔をのぞきこんでいた。芳斗はひきつった笑いで二、三度うなずいた。なんとか九日先の彼自身と人格交換をやってのけたのだ。苦痛に顔をしかめつつも心は満足感に浸っていた。若奈の手を借りて立ち上がった。
「ほんとに大丈夫ですか」 
 動転したらしく労務者の声がうわずっている。額に当てていた手を下ろし、痛くないふりして芳斗はこたえた。「もうなんともないです。すみません、急に椅子を降りたぼくが悪かったんです」
「びっくりした、気をつけてね。で、こちらのお客さんは同級生?」
 駆けよってきた奥さんはひとまず胸をなでおろすと、若奈のほうを向いた。
「ええそうです。なんとなく気になってきてみたら、これですものね。ほんとにすみませんでした」母親じみた口ぶりで、若奈は恐縮そうに笑い頭をぺこりと下げた。彼女は目の前のどんぶりが空なことを認めると芳斗をうながした。
「さあ、食べ終わったのなら早く帰りましょう」
 食べた記憶のないラーメンとチャーハンの食器を見て芳斗は呆然とした。が、胃には満腹に近い感覚があった。ポケットには一万円札が入っていた。若奈から借りたお金である。それで支払いを済ませ一緒に外へ出た。「とりあえず、コファーを返却してもらいます」言われて芳斗はまたポケットを探った。
「因数分解、懐かしかった。調子にのって答えを教えてあげたけど、内心ひやひやしていたのよ。間違ってなくてほっとした」楽しそうに話す若奈を横目で見て、そんなこともあったかという風に芳斗はぼんやりと思い返した。彼女にとってはほんの数時間前のことでも、彼には九日も経った出来事なのだ。
「それと『二六日』の日付を『一七日』と読むように催眠効果で細工して、催眠かけた記憶も消しました。混乱しないように」
「あ、午前の授業が水曜日の時間割と交換するっていうのも辻褄合わせの口実だったわけだ。細かいところまで気を回すね」芳斗は感心したように笑った。
「それでどうだった、お別れは」歩きながら決心した面持ちで若奈が訊いた。思いがけぬ問いかけに芳斗は返事に詰まった。「どうって、そりゃ悲しかった」
「いっぱい話をした?」
「ま、それなりに」
 彼女はいたずらっぽく笑った。「キスのひとつぐらいしてあげればよかったのに」
「きっと、殴られるよ」
「カン違いしてます。おでこかほっぺにです」
「手の甲でも拒否されるな」
 芳斗も笑って言った。「でも、心残りはない」
「そう、よかったね」

  

 二人の間にしばらく会話が途切れた。
我ながらつまらないことを訊いたものだ、と若奈は己を恥じた。
「また高校受験するのって大変だね」
 気詰まりを埋めるように芳斗が言った。
「うん、代志乃さんの志望は一流高校だから、自信ないのよ」
「でもきみだったら、きっと大丈夫だよ」
 他人(ひと)のことだと思って、と若奈は心の中で言い返した。受験だけじゃない、悩みはまだある。代志乃の母が若いながらも経験豊富なだけに、彼女の人格を別人のものと勘づいたようなのである。接するときの態度がどこか以前とは違ってきているのだ。微妙によそよそしく、若奈の言動に苛立ちや愁いを表すこともでてきた。あなた代志乃じゃないでしょ、そう断言してくれたほうが救われるものを黙って受け入れようとしている。それが彼女には胸を(えぐ)られるように辛いのだった。
「思い切って、白状しちゃおうかな」
「え、何を?」
「わたしは代志乃じゃありません。沖野若奈と申します。代志乃さんほど優秀ではありません。志望校のランク落としていいですか?って」
 芳斗は難しい顔をした。「それはダメでしょ。だいいち信じてくれないと思う」 
「そうだよね」若奈は垂水の説を思い返した。人格交換が船長同士の交換に例えられるとすれば、船員たちに船長の座を奪われることはないのだろうか。立場からすれば船長代理みたいなものである。垂水の十年間ではなかったけど、もしそうなれば沖野若奈の人格、今のわたしはどうなるのだろうか。
 わかるはずがない。 
「ま、なんとかなるよ」相変わらず芳斗は高校受験のことだけを云っている。
「そうだよね」同じ返事をつぶやいていた。
 確かに、このままでいくしかないのだ。大変だろうけど、垂水の借金に比べたら些細な問題である。これから世の中に起きる出来事を彼女は知っているのだ。大きな強みではないか。母親との関係は槙田代志乃の『船員たち』のアシストで改善されて行くだろう。それに、『船員たち』が存在するということは、代志乃が百パーセント死んでしまったわけではない、という解釈も成り立つ。一緒にいるんだと思うと心の負担がぐっと軽くなるようだった。
 ただ、ひとつだけ気がかりがあった。自分の躰にいるとき『船員たち』など感じなかった。逆に言えば人格交換特有の現象ということになる。臓器移植で発生する拒絶反応であり、本来の形ではないように思えてしまうのだ。
 角を折れると、先に『来々軒』を出た下級生カップルが手をつないでゆっくり歩いていた。若奈はその二人を顎でさした。「いい感じね」
「そうだね」
 ぼくたちとは関係ないよ、と言いたげな気のない返事だ。
 ついさっき若奈の意識に『船員』からの情報があった。
「遠足で代志乃さん、きみに心が動いていたこと、知っていたよね」
「うん、なんとなく」
それが西崎瑠蘭の強引さに折れ、イケメンぶりにも惹かれて交際を始めたわけだが、次第に我の強さが鼻について決別したのも本当だった。
「それからずっと芳斗君のことは気になっていたの。ケーキ試食をもちかけられてきみのほうにも脈があると思ったのよ。ところがその記憶がない芳斗君は知らぬ存ぜぬだものね。不安になった彼女は気持ちを確かめようと自室に連れてきたってわけ」
 芳斗はいいタイミング得点を重ねていたのだった。困ったときに親切を受けるとポイントも高い。二度の窮状を救ってもらい、気になる人から付き合ってみたい男子へと移っていった。解答できない度に頼ってくる図太さには呆れつつ、放っておけないいじらしさも覚えたのだった。
「それも、だいたい勘づいていたよ」
「瑠蘭君に勝てるはずないと諦めてたものね。芳斗君は草食系がいいところかもしれないけど、これからはもっと自信を持って積極的にいこうよ」
「はい。努力します」教師から励まされたみたいに芳斗が下を向いて返事した。
 ただ、そんな代志乃も両親が元ヤンキーだったことに極度な引け目を抱いていた。
 優等生で人気者だけに知られて軽蔑されるのを恐れ、交際を申し込まれても慎重になった。理想が高いと言われた理由はそのあたりにあったようだ。
 上にいる者は見くだすし、下の者は上に嫉妬する。良すぎても悪すぎてもだめ、芳斗の何事も中くらいで満足する欲のない性格が彼女には安心できたのだ。
 残念そうな芳斗のつぶやきが聞こえた。「そうか、無理矢理でもデートに誘えばよかったんだな」
 救えるものなら代志乃を救いたい。だが、それは障壁が幾つもある。第一にタイムリープ自体が今の彼女には成功しないのだ。心理的なブロック、小夜子の躰を死に至らしめた自責の念や代志乃を救えば小夜子が死ぬというジレンマが、心の奥深くで邪魔しているのだろう。
 たとえできたとして最大の壁が待っている。研究会で行った睡眠状態での人格交換は、通常よりも確率的に相当低いというものだった。睡眠でそうなのだから意識障害の場合、実験しなくても不可能と考えられた。例えるならパソコンのスリープ状態と電源オフの違いである。画面が真っ黒では、一切の入力を受けつけないからだ。
 ただ、望みがゼロというわけでもない。コファーは緊急避難装置の役目もあり、身の危険を察知していち早く作動する。いいか悪いかは別として驚きや恐怖、痛みでスイッチが入るのはそのためだ。だからこそ睡眠中でも機能するわけで、作動しにくいのは体の感知能力も落ちているからだろう。
 だとしたら意識がなくてもショックが強烈であれば、肉体に危険が迫ったと判断されスイッチは入るかもしれない。パソコンと人間は違うし、意識不明での人格交換は実際に試したわけではないのだから不可能とは言い切れないのだ。
 その可能性を彼女はあえて隅に追いやっていた。タイムリープ不可が一番の理由だが、何ひとつ不自由ない代志乃と比較し、杉伊一家がまるで狙い撃ちにあったかのように不幸一色だったからである。理不尽と思いながらも小夜子に肩入れし、諦める理由のひとつに加えていたのだ。
「槙田さん、あのまま亡くなったんだ」芳斗がぼそっと訊いた。
「心肺停止になって一度は蘇生したらしい。でもそれきり」
「じゃあ、電気ショック試したんだね。それでも意識が戻らなかったのか」
「かなり難しいと思う」
 別れの哀しさが後を引いているのか芳斗の言うことはどれも未練がましく、遠回しに責められているような気がした。
「そういえば現場検証のとき見かけた女の子、槙田さんに瓜二つだったけど、ああいうときはそう見えてしまうものなんだな」これも未練絡みで思いだしたのだろう。無意識にうなずきかけ若奈は、はっとなった。天からの重大なお告げに思えた。足を止め即座に聞き返していた。
「その子、もしかしてオレンジ色のワンピース、着ていなかった?」
「なんで知ってるんですか? でも、槙田さんそんな服持っていないと言ってた」
 持っていなかったはずである、そのときは。だが昨日代志乃の父親が買ってきたのである。それと同じ服を。
 藪の中で諦めていたのが突然、道が現れたようだった。小夜子の体が死を迎える前へのタイムリープは成功するのだ。ということは心理的ブロックも外せるはずである。いや自分にできないのだったら、芳斗に頼めばいいではないか。若奈は興奮を抑えながら早口に言った。
「放課後、わたしにつき合ってほしいの。代志乃さんを救い出す、いえ、戻ってきてもらう方法を見つけたの」
芳斗の眼が驚きに大きく見開いた。信じられないと言いたげになり、喜びでぱっと輝いた。「もちろん、今すぐにだって」
「じゃあ、わたし芳斗君の(うち)まで迎えに行く。私服でそれも晴れ着で待ってて。デートのつもりで」
「は? デートのつもりで……」
「こういうことは、どきどきしながら臨むのが成功の秘訣なの」
 いいことばかりではない。ひとり弾かれる問題が控えている。それを小夜子に押しつけるのは、心苦しさの極みだった。小夜子の死因が若奈にあるとなればなおさらだ。
 だが躰の主(オーナー)は小夜子である。病気だって彼女が発症したもの。野球に例えるならばホームランを打たれたのは自分だが、ランナーを溜めたのは小夜子なのだ。敗戦投手は彼女ではないか。もし未来の小夜子が若奈として人生を送るなら、彼女だって同じ負い目を抱えてしまう。どんな理由があるにしろその人の宿命、自身の肉体に還るのが正しいという確信があった。
 何よりも『船員たち』が望んでいるのだ。
 彼女は歩き出した。先を行く下級生カップルは話に熱中し立ち止まっている。追い越しざまに女生徒をチラ見すると、なかなか可愛い子じゃん。
 対抗心が湧き上がった。横に並んだ芳斗の左腕に右手を伸ばし、景気づけのつもりで腕を組んだ。たちまち驚きと緊張と困惑の混じった芳斗の横顔が視界に入り「年相応に純情だよね、かわいい」。代志乃の声が遠くから聞こえたような気がした。うなずきながら若奈は誓った。待ってて代志乃さん。必ずたすけるから……。
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