第28話 塒(ねぐら)

文字数 16,623文字

・・・見上げた先には夏色の空があった。・・・


庭の草木は勢いが増している気がする。
昨晩に降った雨の所為だろうか…?


小田原城は海が近い。
海から吹き込む風が心地良いのだ。
春から初夏に東の海から吹く風を〝東風(こち)〟と呼び、東風が止むと梅雨になるらしい… 作左衛門が教えてくれた。


…ふと、特殊装備班のマーカス主任が言っていた事を思い出した。


〝「日本は雨期があり、7~9月は高温多湿でタイフーンが多いという事を経験しました。クリーニング・キットの他にメンテナンス・ツールも追加した方がよろしいかとぉ! 」〟


マーカス主任は〝日本の湿気〟が強烈だからアドバイスをくれたのだ。
湿気地獄はこれから始まるのだろう… 渇いた砂漠の街には慣れ過ぎているが、湿度の高い街は想像が付かない。

・・・マーカス主任は何をしているのだろうか?

彼が気を遣ってくれたお陰で私達は色々と助けられているのだ。
〝ソーラーパネル式発電システム〟を用意して貰えなければ、無線機や暗視ゴーグルなどのハイテク装備を使い続けられていない。
現実世界に戻った時の為に電源キープしてあるスマートフォンも起動不能に陥っただろう。

マーカス主任には御礼を言わなければならない…。

だが、それよりも私が行方不明者扱いになったら、どういう反応をするのだろうか?
そちらの方に興味が沸いた。


「旦那様…。」


庭石に腰掛けてぼんやりしていると急に背中から声を掛けられた。
作左衛門は〝気配を消す〟という悪い癖がある。
本人は意識してやっている訳では無いというのだが… 慣れるまでは驚かされてばかりだった。


「あっしは手配した荷を取りに行ってまいりやす…。」
「よろしく頼む。」
「へい。」


長廊下を楓殿が歩いて来るのが見えた。
着物姿の楓殿は完全に〝この時代〟へと溶け込んでいる。
綺麗な所作で私の隣に正座になった。


「またまた引っ越しですよ、賢人殿 (笑)」
「ああ。3回目だ。」
「一つ足りないわ。 時代も引っ越したから4回目(笑)」


誘き出し作戦を提案した私は、殿から太刀を授かった。
策は成功… 殿を暗殺しようとした忍びの者から黒幕の名前を自白させ、伊勢家に板東を攻める大義名分をもたらした。


その恩賞として…


私は伊勢家の〝軍師〟に招かれた。
知行は鷹舞郡六百貫文、城の目の前に建つ〝侍屋敷〟で暮らす事も許されたのである。(許されたと言うより、殿からの指示と言って良いだろう。)
私は伊勢家軍師であり〝鷹舞郡の領主〟となっていた。

…とは言うものの、実質的には伊勢家の家臣団に加わった事になってしまった。

〝なってしまった〟という表現も少し違うかも知れない。
何故なら、侍として戦えるという期待の方が大きいからである。
私の中で〝侍としての生き方を欲している自分〟が鎌首を擡げ始めていた…。


「奥方様、準備が整いましたに。」
「はい。では、始めましょう。」


この所、楓殿は笑顔が増えた。
殿の奥方である桔梗殿の〝茶の湯指南役〟に任じられたからであろう。
一人の女性としての居場所がある事を実感しているのが伝わって来るのだ。
百道三佐のカラーは薄れ始めている。


「賢人殿。始めますよ。」
「…ああ。」


奥方様としての振る舞いも板についてきていた。
私も〝楓殿〟と呼ぶ事に違和感は無くなっている。


「作左衛門さんが戻る迄に終わらせてしまいましょう。」


今日は〝泰安(たいあん)〟と呼ばれる縁起が良い日だと誉田が言っていた。
新生活を始めるにはもってこいの日らしい。

〝飛ぶ鳥跡を濁さず〟

昨晩、楓殿は日本の格言をアドバイスしてくれた。
どういう意味かと聞くと… 〝立ち去る者は、見苦しくないよう綺麗に後始末をしていくべき〟という戒めだと言う。
妙に納得してしまった私は、殿が使わせてくれたこの〝離れ〟を綺麗にしてから返すと決めたのだった。


「埃落としを始めます!(笑)」


楓殿指揮の下、〝ハタキ掛け → 箒掛け → 雑巾掛け〟と進めてゆく…。
ハタキ掛けが粗方終わった頃、通路の方から荷車を引く音が聞こえてきた。


誉田が手配してくれた〝引っ越し手伝い隊〟だろう。
裏木戸から、誉田が中間衆達を連れて入って来るのが見えた… 左手には紫色の包みを大事そうに持っている。


「風間殿。おはようございまする。」
「おはよう。朝からすまないな。」
「いえいえ。」


ちょっと遅れて〝鳴子の仕掛け〟を手伝ってくれた中間衆達が連れ立って入ってきた。
此方に向かって一斉に頭を下げている。

・・・見覚えのある顔もある。

鳴子を仕掛ける時にナイスな進言をくれた伊之助や八右衛門だ。


「おう、みんな。朝からすまないが宜しく頼む。」
「へい。」


古株の伊之助を筆頭にして、中間衆が一斉に(たすき)掛けになってゆく…
箒掛けをしていた千代と話をした後、雑巾掛け大会が始まった。


先ず… 木製の引き出しの付いた家具(箪笥(たんす)と言うそうだ)や棚を拭き上げた。
次に… 雑巾を綺麗に濯いだ後、畳を拭く事になった。


どうやら、畳は〝編み目に沿って〟拭くのがセオリーらしい。
私も真似てみたのだが、雑巾が滑る感覚が心地良かった。
畳を拭き上げていると・・・

雑巾を両手で床に当てながら、廊下を滑る様に進んで来る楓殿の姿が見えた。


「廊下を雑巾掛けするのは小学校以来よ。」


そう言った楓殿は何やら楽しそうである。
あっという間にL字の廊下を右に曲がって行ってしまった。
暫くすると〝笑顔〟で戻って来た。


・・・着物姿で廊下の雑巾掛けをする事が出来る楓殿に感心させられている・・・


日本の小中学校では、箒や雑巾を使って自分達で教室や廊下を掃除をするのだという。
給食の配膳も生徒が任されているそうだ。
清掃や配膳のスタッフが雇用されているアメリカでは考えられない事だった。


・・・取り敢えず… 私も真似してみた。・・・


木の長廊下… 鋭角ターン… 


・・・手で滑る感覚が意外と楽しい(笑)・・・


雑巾掛けが終盤に差し掛かった頃、持ち場を与えられた者達から続々と声が掛かり始めた… そろそろ終わりが近い。

誉田は中間衆に命じてハードケースを運び出させた… 器用に荷車へと積み上げてゆく… グレネード類のピンは結束バンドで封印したので心配ないだろう。
最後に小頭の惣兵衛に命じて〝銅銭の入った長持〟を組紐でしっかりと結ばせた。
鍵の部分に紙を貼っている… 封印のつもりだろうか?
誉田の几帳面な性格が醸し出されている。


手拭いを頭にかぶった千代が土間から戻ってきた。


「火の始末は済みましたに。」
「了解だ。」


伊之助や八右衛門が廊下の戸板を嵌め込んでいる…。
玄関の戸板に誉田が鍵を掛けた。
鍵掛けを見届けた私が〝離れ〟に向かって一礼すると、中間衆達も続々と頭を下げ始める。
誉田は〝優しい笑顔〟で中間衆達を見ていた。


私達は〝離れ〟を後にし、引っ越し先の〝侍屋敷〟へと向かった。


早速、難所である…。
本丸御門は吊り橋の先が石階段になっているのだ… 荷車は通れない。
石階段の下に用意された別の荷車へと移動させる作業が必要だった。
中間衆達は二人一組になって、手際良く荷車へと乗せ換えてくれた。


二の丸を抜けて三の丸御門へと向かう…。


三の丸の櫓には見覚えのある足軽が立っている… 鳴子を仕掛けた時、改善策を出してくれた小頭だ… 名前は分からない。


「よう、小頭。この間は色々と助かった。ありがとう。」


そう声を掛けると腿に手を当てて深々と一礼してきた。
上げた顔は満面の笑顔をしている。
私が右手で軽く敬礼のスタイルを作ると… 少し戸惑った後に弓を高く掲げた。


・・・肩衣を身に纏い懐剣を差しながらも、海兵隊特殊コマンド(MSOT)の生活に戻った感覚になっている自分が存在している。・・・


可笑しな気持ちのまま、三の丸の門を潜った。


吊り橋の先には道を隔てて〝新居〟が建っている。
新居なのだが・・・ 屋敷の正門はクロスされた青竹で封印されていた…。


此処は殿に手討ちにされた〝宿老 仁科五郎右衛門〟が暮らしていた屋敷なのだ。


屋敷の前は何度か通っている… だが、全く印象に残っていない。
鷹舞砦を出て城に入った時は、櫓や吊り橋の構造にばかりに気が取られてしまっていた。
庄屋の又右衛門に鳴子の仕掛けを頼みに行った時には、自分が誘き出し作戦の〝言い出しっぺ〟になっている事への不安感に苛まれていた。
侍屋敷の事など全く気にしていなかったのだ。

改めて見てみれば〝三の丸御門の真正面〟に門が建てられている。
吊り橋との距離は道を挟んで10mも満たない超至近距離である。
つまり、家臣として〝最上級のステイタスを持つ屋敷〟という事になる。

屋敷を囲む壁の〝よこしま模様〟にも見覚えがあった…

王恭造の秘密別荘を偵察した時、ドローンモニターに映った壁にソックリだ。
たしか… 神田警部補と百地三佐が〝維持費が掛かる〟とか何とか感心していた。


「楓殿。この壁、見た事がある。」
築地塀(ついじべい)・・・。」


そう言った楓殿は一瞬だったが悲しそうな表情になった。


誉田が小柄(こづか)を使って、正門に取り付けられた青竹の封印を器用に解いてゆく…
勝手門に取り付けられた鍵を開けて敷地内へと入って行った。
閂を外す音がした後、重厚な門の扉が開かれた。

石畳が通っている… その真正面には豪壮な玄関が見えた。
石畳がスペースを左右で分けている。


【 右側のスペース 】

バスケットコート2面程の広さである。
地面には荷車や馬の足跡が残されており、右奥には灰色の壁を背にして藏が二棟建てられているのが窺えた。

【 左側のスペース 】

木枠に竹で編まれたパネルで仕切られている。
潜り戸から覗くと赤松を中心に様々な樹木が植えられた日本庭園作りになっていた。


築地塀の内側に植えられている松の木が邪魔をしていて、外から様子を窺う事が出来なかったのだが… 敷地はかなり広い。


石畳を振り返って門を見てみると… 面白い作りになっていた。
門の両側は簡素な〝長屋式の住居〟になっているのだ。
使用人達が暮らしていたのだという。


「風間殿、先ずは・・・如何致しまするか?」
「…そうだな。ハードケー… いや、長持を藏に入れてしまおう。」
「畏まった。」


誉田は藏の一つへと向かい鍵を使って扉を開けた。
小頭の惣兵衛に長持から藏の中へと仕舞うようにと指示を出している。

次に玄関へと回り、施錠されていた戸板を開けた… 誉田が二つの鍵を手渡してきた。
千代と惣兵衛が一礼してから中へと入ると、中間衆達は手慣れた手つきで両サイドの縁側に取り付けられた戸板を外していった…。


玄関の〝上がり間〟を中心にしてシンメトリーの構造に見えたが、この屋敷も奥に深い作りになっている。


誉田の話によると…


玄関から見た左側(赤松のある日本庭園側)には、居間や囲炉裏の間、奥の間の他にも豪勢な客間や複数の畳部屋が作られているそうだ… 三世帯で暮らしても充分過ぎる部屋数だ。
玄関から見て右側(バスケットコート2面分ほどの殺風景な庭側)には、家来達が生活する複数の小部屋や大部屋、納戸、そして、広い土間の調理場が作られているらしい。
母屋も玄関から伸びる廊下を軸にして、左右で仕切る作りになっていると言う。


先住者の生々しい痕跡が残る屋敷を前にして、千代の顔が曇っている…。
元家主の仁科五郎右衛門は殿に手討ちにされているのだが・・・ この屋敷内で亡くなった訳ではないので事故物件にはならないだろう。(…と自分に言い聞かせた。)
館の主が殿に〝手討ちにされた〟のを目撃している中間衆達は固まっていた。


「旦那様ぁ。やっぱり〝大掃除〟が必要だら…。暫く待ってておくんなんしょ。」


重たい雰囲気を払拭するかの如く、千代は器用に頭に布を巻き襷掛けになった。
井戸の方へと向かっている。
それを見ていた中間衆達は何かに弾かれた様に動き始めた。


私の新しい〝(ねぐら)〟は此処になったのだ…。
つまり、アメリカ合衆国海兵隊大尉 ケント・カザマではなく… 日本国陸上自衛隊 一等陸尉 風間賢藏でもない… 〝相模國 伊勢家軍師 風間賢人〟になる事を意味している… 侍として生きる道が此処で始まるのだ。


今が続いて欲しいという期待と徐々に薄れてゆく過去の生活が頭を交差してゆく… 。


その反面、楓殿は〝リアルな生活感〟を目の当たりにして微妙な表情になっていた。
先住者の痕跡が気に入らないのだろうか?
それとも〝侍社会のリアルな現実〟を想像したのだろうか…?
明らかに〝納得いかない〟という表情をしていた。

私達は〝賢人殿〟と〝楓殿〟と呼びあう事が普通な事になっている。
楓殿にとっても此処は〝居場所〟になるのである。
楓殿の笑顔を絶やさない事も私の大切な仕事なのだ。


「…楓殿。此処も先住者の垢を消そう。」
「賛成。」


水が溜められた樽に掛かっていた布で〝囲炉裏の部屋〟の床板を拭いていると…


「旦那様ぁ。駄目だぁ。埃を履いてから拭かんと! 床が傷だらけになるだに。」
「あ… すまない…。」


千代に叱られている私を見て、楓殿は微笑んでいた。


ハタキを持った千代は、凄い勢いで欄間や天井の埃を叩きまくっている。
どうやら、床の埃だけでなく此処も天井から掃除する気らしい。
結構な量の埃が舞っている… 掃除は上から下への基本を思い出して恥ずかしくなった。


ハタキ掛けが終わった千代は箒を使い始めた… 奥の部屋から庭へと向かって、リズミカルに掃き出している。


ハタキと箒は2セットしかないので、私は埃を掃き出し終えるまで各部屋を見て回った。
これをやらないと落ち着かないのだ… 悪い癖である。(実は2回目の掃除にうんざりしているという話もある)


歩き回って気付いたのだが、この屋敷は建物全体を廊下が取り囲んでいる。
外周を〝ぐるり〟と回れる設計になっていた。


雑巾掛けをしていない畳部屋に入らない様に注意しながら屋敷を探索していると… 廊下の奥まった場所で〝黒い甲冑〟と〝マント〟が飾られた板の間を見付けた。
兜には立派な〝大前立て〟が付けられている。
これは五郎右衛門の物だろう…。


「風間殿…。」


複雑な気持ちになっていた私に、誉田が後ろから声を掛けてきた。


「手討ちにされた者の具足で御座る… 手配します故、早々に売って仕舞うが宜しいかと。」
「・・・そうだな。縁起は良くない。」
「はい。」


甲冑や槍の飾られている場所の脇にある一枚だけの襖を開けると…


何も無い畳四枚半分ほどの部屋があった。
一枚の畳以外、何も敷かれていない… 窓も無い… 天守にあった〝切腹の部屋〟を思い出してしまった。


・・・そっと、襖を閉じた・・・


その隣の部屋には荘厳な仏壇が設置されていた。
仏壇の中は空っぽになっているのが遠目からでも窺えた…。
どうやら、位牌関連の物だけは持ち出せた様子である。
少しだけ安心した気持ちになれた。


・・・居間や奥の間だけでなく、土間・調理場・家人達の部屋… 屋敷の住人達が何をしていたかが浮かぶ程の生活感が残されている。・・・


納戸には着物や帯の材料だろう、巻かれた〝綺麗な布〟も大量に保管されていた。
此処は〝人が生活していた痕跡をそのまま残した状態〟で時間が止まっているのだ。
赤鬼の言っていた〝一族郎党、連坐島流し〟と〝所領没収〟という言葉が思い出される… 位牌以外は何一つ持って行く事を許されずに連行されたのを物語っていた。


先住者の存在を感じる物は全て売ってしまった方が良いだろう…。
見る度に〝五郎右衛門の死に顔〟が頭に浮かぶ生活は精神衛生上宜しくない。


・・・すると、客間の方から楓殿の嬌声が聞こえてきた。・・・


戻った私の姿を見た楓殿は目を輝かせている。


「賢人殿! これを見て!」


客間は誉田の言った通りの豪勢な作りだった。
茶の湯道具一式も揃えられており、欄間や襖絵、掛け軸や家具なども上等な物ばかりである。
楓殿は先程まで不機嫌な表情だったのだが、やる気満々の顔へと変わっていた。
廊下を行ったり来たりしている… 掃き掃除が終わっていないので畳に上がれないのだ。


「賢人殿、

にやるわよ!」
「・・・了解。」


取り敢えず・・・


生活の基本になる場所(奥の間や居間、囲炉裏のある部屋)にあった〝先住者の生活感がある物〟を全て撤去する事にした。
納戸から空いていた長持を引っ張り出して〝先住者の遺物〟をガンガン詰め込んでいる私に誉田が近付いて来る。


「作左衛門に命じて、其も売ってしまうが宜しいかと。」
「・・・火事場泥棒みたいだぞ?」
「お気に召されまするな。 此の屋敷は既に風間殿が主。此処にある物をどうなさるかは風間殿の御一存故。」


遺品になるであろう物を金に換えるのは気が引けた…。
だが… 見る度に〝仁科五郎右衛門の死に顔〟を思い出す生活は息が詰まる。
それに、今は〝金を使うべき時〟でもある。
居心地が良い〝(ねぐら)〟にしなければ、そう遠くない未来に尻の座りが悪くなるのは目に見えているのだ。

私達が納得できる空間を作らなければならない… そう、自分自身に言い聞かせた。


雑巾が綺麗な内に、〝奥の間〟から順に拭き上げる事になった。
(…楓殿は意外と潔癖症らしい。)
先住者の垢を落とす… つまり、〝離れ〟と同様に人の手が触れた物、足を付いた場所を徹底的に掃除をするという事である。

〝離れ〟と同様に怒濤の雑巾掛けを始めた私達を見た誉田が目を丸くしている… 徐ろに〝失礼!〟と言って部屋を出て行った…。
戻ってきた誉田は襷掛けになっており、手には雑巾が握られている。
畳を〝右手一本〟で勢い良く拭き始めた。


桶や樽の水を綺麗な水に入れ替える手間が五度ほど繰り返された…。


磨き上げられた板の間や埃が無くなった土間では、声の反響が大きくなっている。
屋敷の中が一皮剥かれた感じになったのだ。
楓殿は手を〝パンパン〟と叩いて一皮剥けた事を確認している。


千代が綺麗になった廊下に〝ちょこん〟と正座になった…。


「こんだけやっただし、いいにするかね。 一緒に掃除をしてくれた旦那様と奥方様は初めてだら。 まっこと・・・ありがとうごぜえます。」


床に頭が付く程の丁寧さで頭を下げた。
上げた顔には、いつもの愛嬌たっぷりの笑顔があった。
誉田と中間衆達は温かい眼差しで千代を見ている。

…すると、惣兵衛が〝湯屋〟の確認をしてくれと言う。

すっかり見落としていた。
この屋敷にも湯屋があったのだ。
惣兵衛達は私が見落としていた湯屋の清掃を自発的にやってくれていた…。
これには感謝である。


湯屋の確認に連れられて行った私達は度肝を抜かれた…。


半地下で組み上げられた大きな石の炉、人が入れるほどの大釜、三人でも余裕がある湯船が鎮座している。


「凄いわね。三和土(たたき)って、こんな時代からあったんだ…」
「たたき? 床の事かい?」
「和風コンクリートよ。」


それに、排水などもしっかりとした造作だ… 湯船の水は三和土(たたき)に掘られた溝を伝って、屋外の排水路へと流す仕様になっている。
下手なシャワー室よりも立派な作りである。

〝離れ〟の湯屋と比べて全てが二倍以上のスケールで作られていて、湯屋の中には井戸までが掘られていた。
いや、逆だ… 井戸を掘った所に湯屋を建てたのだろう。


「凄いな。大殿様の湯屋より広いぞ。」
「へい。家人達も使わせて頂いておりやしたに。」


どうやら此処は〝共同浴場〟という位置づけらしい。
…という事は、大殿様の湯屋は個人用の贅沢設備という事になる。
単純に湯屋の大きさで比べられる物ではないのであった。


そうか… 家人達も使うというのであれば、掃除をした直後の一番風呂は楓殿に譲った方が良いだろう。
スパ施設にある循環ろ過装置などあるはずも無く、ましてや掛け流しですらないのである。
現代育ちの女性であれば〝むさ苦しい男達〟が入った湯に浸かりたくはないだろう。


「楓殿。一番風呂の権利を授けよう(笑)」
「光栄ですわ(笑)」


まんざらでもない、という表情をしている。
喜んでくれて嬉しい気持ちになったが… この大きな湯屋を毎日掃除するのかと思うと多少だが憂鬱な気持ちになった。


湯屋のある裏庭を確認しながら一周していた時、敷地の角に建てられた(うまや)から〝ブルルッ〟と馬の鼻息が聞こえてきた… 楓殿も音に反応している。


「どういう事?」
「馬がいるぞ…?」


厩に近付く… 三頭の馬が繋がれていた。
封印された屋敷で馬が飼われている… 不思議な気持ちで馬達を眺めている私に、誉田が近付いてきた… 耳元に顔を寄せてくる。


「馬は恩賞に入っては御座らん故、支度金で買うた事にして下されませ…。」
「お前からの贈り物か?」
「…いえ、仁科家の馬で御座る。」


誉田は得意げな素振りで、藏を案内すると言い出した…〝付いて来い〟と言う。

ハードケースを入れなかったもう片方の藏には米俵が山積みにされていた。
麦俵・味噌・塩・醤油・油などの食料や燃料類が残されている…。
これだけの米… 何人を賄えるのだろうか?


「馬と米俵付きの居抜き物件なんて聞いた事ないわよね(笑)」


全く以て、その通りである… 楓殿は肩を竦めていた。
半ば呆れたような表情をしている私達を見ながら、誉田は〝どうだ〟と言わんばかりの顔で腕組みをしている。


次はハードケースと長持を仕舞った方の藏に移動した。


中には… 大前立てが付いていない濃紺の甲冑が六領、弓と矢・長刀・槍・打刀などの大量の武器類、飾り付けられた馬具などがきっちり手入れされた状態で保管されている。
棚で仕切られた藏の奥には、数十人分の足軽用の鎧が置かれていた… 一個中隊分ほどはあるだろう… 兵士を雇えば直ぐにでも参戦可能な物量だった。


「風間家の〝松笠菱〟に塗り替えれば直ぐに使え申す。 …伊勢家用人の甲冑師を手配しました故、風間殿の甲冑と大前立てに陣羽織、それに旗指物を作られるが先決。」
「何から何まで… 誉田、ありがとう。」


私は太股に両手を付き、誉田に45度の礼をした。
楓殿も礼の姿勢をしている。


「頭をお上げ下されませ。 殿は仁科家の〝所領没収〟と〝一族郎党島流し〟を御下知為され申した。 拙者は御下知に従うただけの事。」


そう言うと〝ニヤッ〟と不敵な笑顔を浮かべた。
赤鬼は〝輝明は殿の命令に忠実過ぎる〟と言っていたが、そんな訳でもないらしい… いや、誉田も一皮剥けたのかも知れない。


誉田の後方で楓殿は小さな木箱を手に取り凝視していた… 気になる物でも見付けたのだろうか?
すると… 長廊下の方から、私達を呼ぶ声が聞こえた。


縁側に戻ると大きな土瓶と大量のお椀、それに、大皿に盛られた大根を輪切りにした物と〝野菜の漬物〟が用意されていた… 土瓶には〝江川〟と書かれており木の栓がされている。


「お疲れ様でごぜぇやす。」


千代は私達に深々とお辞儀をした。
土瓶の栓を抜き、お椀に注ぐと私に差し出してくる。
お椀には白く濁った液体が入っていた… 一口付ける… 日本酒だった。
他のお椀にも酒を注ぎ始めた。

私は酒と肴を作ってくれと頼んでいなかった… 酒も買ってはいない… 食糧倉庫にあったのだろうか? 何れにせよ、誰かが機転を利かせたという事だろう。


中間衆達はなみなみとお椀に注がれた酒と私の顔、誉田の顔を見比べている… 皆の視線が一斉に私へと集まった。


嫌な間が空いた…


「賢人殿。頂いても宜しいですか?」
「あ、ああ。そうだな。 皆で乾杯しよう。 誉田、まだ明るいが… いいよな?」
「…勿論で御座ります。」


それを確認した中間衆達は次々にお椀を手に取った。
私が縁側の小上がりにあった踏み石の部分に腰掛けると、惣兵衛達は一瞬〝ギョッ〟とした表情になったが、皆ぞろぞろと座ってきた。
誉田もちょっと離れた小上がりの石に腰を下ろしている。
私達は縁側の下で車座になっていた。


また、嫌な間が空いた…


皆、なみなみと注がれた椀には口を付けようとせず、じっと私を見ている。
そういう事か(笑)


「皆、色々ありがとう。乾杯!」
「乾杯!」


中間衆達は〝待ってました〟とばかりに、お椀へと口を伸ばした。
空きっ腹には沁みた… 二軒分の広い屋敷を雑巾掛けをした後なのだ。
胃がジーンとしてくる。

中間衆達だけでなく、誉田や百地三佐も〝たくあん〟と呼ばれる大根の輪切りや〝野菜の漬物〟を掌に載せながら、お椀の酒を美味そうに口を付けている。
皆、酒が振る舞われるとは思っていなかったらしく、とても嬉しそうだ。
皆で〝ダイコンの漬物〟をポリポリしつつ飲む日本酒… 思った以上に美味い。


千代が二杯目の酒をお椀に注いで回っている。
ふと… 此処で落ち着ける様な気がした。


・・・潜入任務開始から、これで4度目の引っ越しだった。 習志野駐屯地前のマンションから始まり、中島警視達が用意した箱根のアジト、本丸の離れ… それに、時代までも引っ越した。・・・


ポーラは… 何をしているのだろうか?
神田警部補の撮ったスクープ画像は大佐に届いているだろうか?
VWビートルのエンジンに火を入れたのは何時頃だったろうか?


アメリカでの生活が昔の話に感じ始めている。
私は大切な何かを失い始めているのか?
目の前に積み上がってゆく事実に飲み込まれてしまいそうで怖かった…。
だが、目の前の事実に折り合いを付けなければ、時間だけが浪費されてしまうのだ。


土瓶の酒と漬物があらかた無くなった頃、楓殿からタイミング良く声が掛けられた。


「そろそろ、竈に火を入れましょうか。」
「ああ・・ああ、そうしよう…。」


作左衛門から〝引っ越しが終わったら手伝い衆に渡して欲しい〟と頼まれた銭の入った紙包みを渡そうとすると、酒が駄賃だと思っていたらしく惣兵衛は恐縮して断ってきた…。
それを見ていた楓殿が、すかさずフォローを入れてくれた。


「賢人殿の気持ちです。貰って下さいね。」
「…風間様、奥方様。ほんに、ありがとうごぜぇます。皆、喜びますき。」


惣兵衛は銭の包みを両手で受け取ると、頭の上に捧げるように持って来て深く一礼した。
他の中間衆達も深々と頭を下げた後、城へと戻って行った。



〝新居〟の雰囲気にも慣れてきた頃、作左衛門達が戻ってきた。
エプロンに見えるが違う物を身に着けた少年達と一緒に荷車を押している。



荷台の長持には… 寝具や日用品だけでなく、新しく入れ替えたいと感じたであろう小物などが大量に積まれていた。
御膳で使われていたお椀や箸にコップ(麦の茶で使う物)も入っている。
新生活で必要になる物品の買い出しを作左衛門に頼んでおいて大正解だった。

藏や土間へと荷を運び終えた少年達に、作左衛門が駄賃を手渡している。

戻ってきた作左衛門が〝布団〟を縁側の廊下へと運び上げると、千代は〝よっこらしょ〟と掛け声と共に担ぎ上げて、奥の間へと運んで行った。
これで、此処で生活する最低限の準備は完了しただろう。
足りない物は、その都度で対応すればいい。


中座していた誉田が〝紫色の包み〟を持って戻ってきた。


「風間殿、此方をお預かり申した…。」


誉田は紫色の布を広げて見せた。

〝風間〟と記された木の札だ… 将棋の駒を連想させる文字が掘られており、黒い染料で文字が塗られている。
これは〝表札〟だという。
手に取ると予想以上の重さがあった。


「気遣い… すまない。」
「…いえ、御前様からで御座ります。」


桔梗殿から…?


「聡哲様とのやり取り… 御前様のお耳にも入った由。」

「…この屋敷を与えられた事、一門衆の間で揉めているのか?」
「いえ、揉める前に手を打たれたという事で御座りましょう。 御前様が拙者に表札を託したという話は、既に評定衆に広まっておりまする。」


やはり、スキンヘッド野郎は私の事を良く思っていないという事だ。
桔梗殿も私と同じ事を感じたからこそ〝風間に表札を授ける〟という形で、私が屋敷を与えられた正当性をアシストしてくれたのだろう。


誉田が唐突に正座をした… 太股の上に両手を乗せて軽く頭を下げている。


「風間殿。 拙者が思った事を申し上げまする… 宜しいでしょうか?」
「言ってくれ。」

「…風間殿は殿と御前様から厚い信頼を得ておりまする。 無論、拙者と孫六殿からも…。ですが、此処は伊勢家代々の〝御由緒衆筆頭〟が与えられていた屋敷で御座る。 さすれば… 必ずや妬む者が現れましょう。 これより田植えが始まりまする。 よって、暫く戦は御座らん。この期間は目立つ行動を慎んだ方が宜しいかと存じまする。」


楓殿と赤鬼が言った通りの展開になってきている。
…しかし、私は目立つ行動をやらかす事などあるのだろうか?


「なぁ誉田。 楓殿と赤鬼にも同じ事を忠告されたんだが、俺はそんなに目立つ事はしていないし… 出来ないと思うぞ?」

「・・・生意気な事を申し上げまするが・・・既にしておりまするぞ。」
「何をだ?」

「佐久間貞光との〝一騎打ち〟で御座る。 御内儀殿を人質に取った敵に一騎打ちを申し込み、二刀流を相手にして誰も目にした事のない技にて生け捕りにされ申した・・・ 兵は勿論、奉行衆、(かしら)達もしっかと見ておりまする。 風間殿の知略と闘いっぷりは城を預かる御一門衆にも轟いておりまする故。」


佐久間との一騎打ち・・・あれは勝ったのではない。
佐久間の動きがスローモーションで見えた事で〝勝ててしまった〟のだ。
だが、ジークンドー・スタイルのCQC(近接戦闘)は、この時代の兵士にとってインパクトが強かったという事だろう。


「それに・・・」

「まだあるのか?」
「…風間殿は殿から太刀を授けられ申した。」

「・・・そういう事か。」


侍として、家臣としての妬み嫉みを誘発する事例が重なっているという事だろう。
しかし… 軍師として目立たずに動くには、どう振る舞えば良いのだろうか?
さっぱり見当が付かなかった。


「なぁ、誉田。 稲刈りが終わるまで… 俺は何をするのが最良だと思う?」

「・・・そうで御座いますな。 風間殿が拝領した土地は、全て仁科殿の所領で御座った。 先ずは、御自身のお足下をしっかと固めるが重要かと。」


つまり、仁科五郎右衛門を慕っていた領民からしてみれば、殿の軍師として新たに領主になった私は〝前任者と比べる対象〟にもなっているのだ… これは、多少厄介かも知れない。
しかし、足下をしっかり固めると言っても私は自由に動かせる〝駒〟を持っていない…。
何を取っ掛かりにして足下を固めれば良いのだろうか?


「誉田、お前が俺の立場だったら、先ず何をする?」
「・・・。」


誉田は暫く考えていた。


「…先ずは、庄屋どもを味方に致しまするな。 銭と米は庄屋が集めておりまする故。」


誉田が〝そうだ〟という表情になった。


「風間殿は賦役(ふえき)が免除されておりまする。この内容、庄屋達は未だ知り申さぬ。…そう、これを上手く利用為されるが宜しいかと。」


誉田輝明… 頭の切れる男だった。
賦役とは〝ただ働き〟なのだ。
ただ働きが無くなれば、田畑の耕作や商売に専念できるのである… 賦役が免除されれば領民達の生活はかなり改善する筈である。
他では有り得ない特別な恩恵を与えるのであれば、税率を上げても良い位だろう。


そう感じる反面、自分の〝駒〟を作ろうとした自分を恥じる私も存在している。


「…そうか。良く教えてくれた。ありがとう。」
「それと、いま一つ… 殿は先の評定にて〝儂は板東を獲ってやる〟と皆の前で宣言為され申した。 この事… よもや、お忘れ無き様。」

「…了解した。肝に銘じよう。」

「風間殿、楓殿。 何かお困りの事あらば、拙者を遠慮無くお呼び下されませ。 何時でも合力致しまする。」
「ありがとう、誉田。」

「拙者はこれにて失礼仕る。」


誉田は一礼すると立ち上がった。


「なぁ、誉田。この表札だが… お前が取り付けてくれないか?」
「拙者で良ければ喜んで。」


私達は石畳を連れ立って正門へと向かった。
少し遅れて歩く楓殿は顔色一つ変えずに歩いている… 家二軒分を掃除した後の空きっ腹に飲んだ日本酒だったのだ… 相当、行ける口だろう。
一緒に晩酌を楽しめるかも知れない… 期待して良いだろう。
反面、誉田の顔は赤い… 酒が回っている様子である。

紫色の布から表札を取り出すと、梯子の中程まで上った誉田が手を伸ばしてくる… 私は表札を手渡した。
表札の裏に掘られた穴に杭を差し込み、しっかりと押さえ付けている。


「…如何で御座ろうか…?」


梯子から下りてきた誉田は、吊り橋の方へと移動して表札を確認している。


「よし! これで正真正銘、此処は〝風間の館〟になり申したな。」
「うん。」
「雰囲気、変わったわね・・・」


表札が掲げられた表門は雰囲気がガラッと変わっている。
小さな板だったが、屋敷全体に息吹を吹き込んでくれていた。
取り付けられた表札を梯子を担いだ作左衛門が得意げな表情で見ている。


此処は〝(ねぐら)〟ではない… 私の本陣になった気がした。


「・・・では、風間殿、楓殿。拙者はこれにて。」


そう言うと、誉田は吊り橋を渡って行った。
私は誉田の背中に声を掛けた…。


「俺は… 矛の赤鬼衆、盾の馬廻り衆、その何方でもない部隊を作ろうと思ってる。 殿にも、そう伝えてくれ。」


「…承知仕った!」


大きく頷いた誉田は城へと戻って行った。
私達の話を聞いていた楓殿が私に視線を送ってくる。


「賢人殿・・・ちょっといいかしら。」
「なんだい?」
「気になる物を見付けたわ… 来てくれる?」


そう言うと、武器藏へと向かっていった。
中へと入った百地三佐は、真っ直ぐ棚の方へと向かってゆく… 小さな木箱を手に取った。
先程、手に取って見つめていた木箱である。


「それがどうかしたのかい?」
「ええ、見て。」


木箱を差し出してきた。
漢字が書かれている… 崩し字気味だが、私にも読める程度の崩し字だ。


「・・わし・・いや、たか・・・まう・・とりで?… 鷹舞砦か?」
「そうよ。」
「開けてみよう。」


・・・中には一本の鍵が入っていた。・・・


「鷹舞砦… 鍵・・・あっ!」
「どうした?」
「覚えてる? 砦の建物脇に… 鍵の取り付けられた小屋があった。」

「・・・あったな。あったぞ。真新しい作りで… 戸には〝鍵〟が掛けられていた… 場違いな雰囲気だった。」
「そうよ。砦に鍵を使う場所、あの小屋しか無かったわ。」


私達は砦の敷地全体を調査していた… 鍵付きの小屋を調査する前に殿が黒装束達に襲われる事件に巻き込まれたのだった。
この鍵・・・あの小屋のものである可能性は高い。
私の中で〝薄れていた期待〟が膨れ上がっている。
小屋の中に〝切っ掛け〟がある気がしてならなかった。


「調べてみる価値はありそうだな。」
「ええ。」


私は頭の中を整理した… やらなければならない事の優先順位を組み立てる…
楓殿も何かを考えている様子だった。
私は楓殿が口を開くのを待った。


「…私、見えた気がするの。屋敷の事、領地の事… 今、やらなければならない事…。」
「そうか。俺もなんとなく見えてきた。朧気だけどね…。」
「屋敷の事… 四人で話をしてみない?」


私と考えている事は同じだろう。
この屋敷には致命的に〝人〟が足りていないのだ。


「うん… そうしよう。俺達二人じゃ、どうしようも無い事だらけだ。」
「・・・囲炉裏の部屋で待っててくれる?」
「了解した。君に任せる。」


私は〝囲炉裏の部屋〟へと向かった。


本丸の〝離れ〟よりも規模が大きい… 囲炉裏の部屋も一回り以上広いのだ。
円い敷物に座っていても尻の落ち着きが悪い。
直ぐに、楓殿は作左衛門と千代を連れて戻ってきた。
二人は部屋には入らずに、廊下で正座をしている…


「二人とも、入ってくれ。」
「へい…。」


作左衛門と千代は丸い敷物には座ろうとせず、入口近くに正座をした。
楓殿がアイコンタクトを送ってきた… 私は頷いて返した。


「作左衛門さん、千代さん。今日から此処で生活が始まるんだけど… この屋敷で、今一番必要な物は何かしら?」


二人は少し驚いた様子だったが、顔を見合わせると作左衛門が腰を浮かせて少し前へと出た。


「申し上げても宜しいんでしょうか…。」
「構わないわ。思っている事を言って頂戴。」

「…へい。家人衆が…足りておりやせん。」

「賢人殿が恥を掻かない様に、この屋敷を維持するには何人必要かしら?」
「…槍持、長持衆に草履取り… 小間使い、奥の女中達に… そうですなぁ…」


作左衛門は指を折りながら考えている。


「…あっしの他に男衆が五、六人は必要かと。」
「旦那様、奥方様… 女中と奉公人ならば、直ぐに集められるだら。」


千代が自信たっぷりの表情で言ってきた… どうやら、伝手があるらしい。


「そんな直ぐに集められるの?」
「へい。丹那様の御屋敷奉公だらば、あっという間に集まるだら。」


楓殿が〝私に任せろ〟的な表情を送って来た。


「千代さん、どういう事か詳しく話を聞かせてくれる?」
「へい。何てったってぇ旦那様は御殿様の軍師様。 奥方様は御前様の茶の湯指南役様だぁ。 この御屋敷で行儀見習いさせて貰えばぁ、嫁ぎ先にぃ苦労しねくなるだに。」


嫁ぎ先… 千代は胸を張って誇らしげに語っていた。
私の屋敷で働けば、嫁としての付加価値が付くという事か?


「ねぇ、千代さん。お給料って… どれ位払えば良いのかしら??」
「女中には私とおんなじ額だけんども… 奉公娘にゃ行儀作法と読み書きに飯と着物、寝床さえあれば・・銭は要らねえだ。 たまぁに、甘いもんでも買える小遣いをくれてやればぁ、大喜びだに。」


奉公娘… 行儀作法や読み書きを教えて貰う代わりに住み込みで働く、そして嫁としての価値を上げて嫁いでいくという事だろう。
如何にも中世的な〝ギブ・アンド・テイク〟だった。


「雇うなら、身元がしっかりしている人が良いの… 例えば、作左衛門さんと千代さんの身内の人とか。」
「はぁ。それでいいだらば… 直ぐにでも上がらせられるだに。」


作左衛門と千代は顔を見合って頷き合っている。
二人とも〝それならば好都合〟という表情だ。
作左衛門が軽く頭を下げた…。


「旦那様、奥方様。 中間や小者にも給金が必要ですだ… 戦にも従うだぁに。じゃが、あっしの身内で構わんだらば、直ぐに集まりますき…。」
「一人のお給料はどれ位?」
「年で弐貫文ほどで。」

「えっ? 年で弐貫文・・・?」


楓殿は一瞬だが絶句した。
直ぐさま、アイコンタクトを取ってきた。


「賢人殿、如何しますか?」


一貫文の価値が分からない・・・ これは任せた方が良さそうだ。


「うん。人選は二人に任せよう。楓殿、面接はしっかりやって欲しい。」
「…はい。畏まりました。」


楓殿は私に軽く一礼した。
ちょっと不思議なやり取りだ… 話を進めたが最終決定を私に振ってきた。
この屋敷の主は私だと気を遣ってくれている… 私の目を見ると大きく頷いた。


「作左衛門さん、千代さん。必要な人数を直ぐに集めてくれるかしら。」
「へいっ。喜んでぇ。」「はいぃ。」


ペコリと頭を下げた二人は、礼儀正しく部屋を出てゆく。
襖が閉められ、足音が遠離っていった。


「ありがとう。助かったよ。」
「どういたしまして。」

「ちょっと、俺からも聞いて良いかな?」
「何かしら?」
「一貫文って幾らなんだ? 知行六百貫文と言われても未だにピンと来ないんだ。」

「・・・そうよね。アメリカで生まれ育った人が貫高制を理解してる訳が無いか…。」


楓殿は〝しょうがないわね〟と言いたげな顔をしている。


「本で読んだ話だけど… 戦国時代の一貫文は約15万円程だって言われているわ。 つまり、600貫文 × 15万円 = 9000万円ね。 貴方は毎年、9000万円の収入が入る領地を与えられた訳。しかも、伊勢家から課せられる税は免除… 何かに新しく税を掛けたなら、それも全て貴方の収入になるわ。」


ドルに換算してみた…


〝9000万円 ÷ 110円 = 約81万8000ドル〟


・・・海兵隊大尉時代の給料は〝O-2ランク〟だったので、月額は約6200ドル。年間だと7万4000ドルだ… 年収は一気に10倍以上に跳ね上がった・・・。


もう一つ驚いたのは、使用人の給料が安過ぎる事である。
作左衛門は、新しく雇う中間達の給料を〝年額で弐貫文〟だと言っていた…。
戦にも従うのであれば何時死んでもおかしくないのに、現在の円に換算したならば年俸で30万円程度でしかない… 月額ではないのだ…。
驚くほど人の命が安いという事を意味している。


私がフリーズしてしていると…


「それだけじゃ無いわ。貴方は領地の大統領であり、司法、行政、立法の最高権限者になったの… 気に入らない者は切腹を命じる事だって出来るし、どんな取り決めも貴方の考え次第よ…。」


真っ直ぐで鋭い視線を放ってきた…
その瞳は楓殿ではなく〝百道三佐〟のものだった。


「ただし… この時代は領民から一揆を起こされたら重い責任を取らされるわ… 領地は伊勢家から与えられたものだから。 領民が反乱を起こしたならば全て領主の責任よ… 打ち首にされて河原に晒された領主もいっぱい居る…。 お願いだから勘違いだけはしないでね。」


評定でスキンヘッドの聡哲が領民支配の事を言って来たのが記憶に蘇った。
急に大金を持ったり、強大な権限を持つと人が変わってしまう場合がある… 世界中の独裁者が悲惨な最期を迎えているのは歴史が物語っているのだ。
小さな領主でも、調子に乗れば同じ事が起きると言いたいのだろう… 有り難い忠告だった。


「ありがとう。肝に銘じるよ… これからも、思った事があれば遠慮無く言って欲しい。分からない事、悩んだ事があれば君に必ず相談する。」


そう伝えると、楓殿の表情に戻ってゆくのがわかった。




いつもの優しい瞳に戻っている…
この瞳を保つのも、今の私には大切な事だった。



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