第5話 優しい嘘

文字数 3,024文字

・・・今日は妻のポーラが抱くであろう不安を払拭させる日である。・・・


不安を払拭… と言うより、嘘の設定で騙すのだ。
私は罪悪感と共に〝もし、自分が死んだならばどうなるのか?〟 と考えてしまい眠れない一夜を過ごした。


10時きっかりに玄関のベルが鳴った。


ドアを開けると海兵隊の制服を着た黒人女性がプラスチック製の書類ケースを持ち立っている。
人懐っこい笑顔と綺麗な白い歯が印象的である。


「大尉、おはようございます。MSOSGのジョナサン・コール一等軍曹です。」
「お疲れ様、一等軍曹。君の評判は聞いているよ。宜しく頼む。」
「はい。」


海兵隊には任務に就く兵士の家族を専門的にフォローする部署が存在する。
何故ならば兵士の家族も大切な仲間と捉えているからだ。

複雑な心境を隠しつつ握手を交わした後、コール一等軍曹を家に招き入れた。

コール一等軍曹とポーラはソファへ座って貰い、私はダイニングテーブルから椅子を持ってきて彼女たちの斜め前に腰掛ける。
ソファに座ったポーラは少し緊張しているみたいだ…。


「ポーラ。 コール一等軍曹は僕の留守中に色々と相談に乗ってくれるケア・マネージャーなんだ。彼女は君の良き相談相手になってくれるはずだよ。 思った事や考えている事があったら、彼女に遠慮なく相談するといい。」


コール一等軍曹は笑顔で頷いている。
私は〝紅茶でも淹れてくる〟と伝えてから席を立った。
ケア・マネージャーの腕の見せ所だぞ、という思いを噛み締めながらキッチンへと向かった。

コール一等軍曹の仕事を期待する反面、愛する妻を〝優しい嘘〟で騙そうとしている自分に対して、とてつもない嫌悪感が襲ってくる…。
喉の奥が詰まる様な感覚を覚えつつ、暫く窓から通りの風景を眺めていた。


「日本にスパイ狩りをしに行くなんて言えるはずがない…」


心の中には… 妻のポーラを愛おしく思う私と、海兵隊員としての任務を欲しているもう一人の私がいる。
愛する妻との穏やかで満ち足りた生活に満足している自分と、それとは正反対の〝砂漠のシャガール〟と呼ばれたもう一人の自分との闘いは… シャガールが勝ってしまっていた。
しかし、〝ポーラを愛おしく思う私〟を完全に押さえ込む事は出来ていない。
良くない兆候だった。


特殊任務にとって ”迷い” はミスを誘発する。
迷いは戦場へ 〝サタンの使者〟を呼び込むのだ。


薄らと窓ガラスに映る自分の顔に 「お前は間違ってはいないんだ」 と何度も語り掛けた。
妻のポーラにしてみれば〝身勝手な男〟であろう自分の顔を深い海の奥底へと沈めるイメージを描きながら、目を閉じてゆっくりと鼻から息を吸う… 下腹に力を込めて口からゆっくりと息を吐く… 空手の呼吸法である ”息吹” を数回繰り返した。


喉が詰まる感覚が落ち着いてゆく… ゆっくりと目を開いた。


窓の外では新緑の並木が目映い日差しを受けている。
今日は朝から気温が高い… 冷たい飲み物の方が良さそうだ。
私のお気に入りでもてなそう。


「…よし。」


キッチンの棚から〝抹茶パウダー〟とシェイカーを取り出し、冷蔵庫からメープルシロップを取り出した。
シェイカーに抹茶パウダーとミネラルウォーターを加えて濃いめのグリーンティを作る… スプーンで味見をして苦い位がベストである。
これにメープルシロップを大さじ一杯プラスした後、ロックアイスを落としてしっかりとシェイクする。
最期にロックアイスを半分ほど入れたグラスに注げば出来上がりだ。

トレーにグラスを載せてストローを挿していると、リビング・ルームの方から二人の笑い声が聞こえてきた… どうやら二人は意気投合できたようだ。
流石、特殊作戦支援チームで評判のケア・マネージャーだけのことはある。


キッチンからリビングへと戻ると、談笑しているポーラの表情から緊張感は感じ取れなかった。
ひと安心である…。


「今日は暑いから、冷たい飲み物にしたよ。」


トレーに乗せられた緑色のドリンクを見て、コール一等軍曹はフリーズしている。
グリーンティを初めて見る人は大抵同じリアクションをするのだ。
これは何度見ても面白い。
ほとんどの場合、野菜ジュースを持ってきたと思うらしい。

コースターをセットしてグラスを置くと、コール一等軍曹は大きな目をパチパチさせながらグラスとポーラを見ていた。


「綺麗な緑色… ポーラ、これは何という飲み物ですの?」
「ジョナサン、これは〝グリーンティ〟って言うのよ。 ケントのルーツ、日本では1,000年前から飲まれているんですって。召し上がってみて。」


二人は既にファーストネームで呼び合っている。
ポーラがストローを口に運ぶと、コール一等軍曹も続いた。


「美味しい… ほろ苦くて甘いんですね。大人の飲み物って感じだわ。」
「メープルシロップを入れるのがポイントなんですって。」


グリーンティーのお陰もあり楽しげな談笑が続いた。


暫くの談笑が続いた後、コール一等軍曹は小冊子を使って今後のフォローアップ方法や連絡方法などを説明した。

コール一等軍曹が私との連絡方法は手紙だけになってしまう事告げると、さすがのポーラも表情が悲しげになっていった。
ポーラの悲しげな表情を見て少し安心したような気持ちになっている自分がいる。
…ちょっと照れ臭い。
椅子に座りながらポーラの横顔を見ていた私は、今の気持ちを残したくなった。
こんな気持ちは生まれて初めてである。


中座して2階の書斎へと向かった…。


私は23歳で海兵隊に志願してから15年間、ずっと戦場にいた。
まともに給料を使う場所は無かった。
アナポリスの教官になってからの大きな買い物と言えば、ダッジ・バン・ロードトレックのキャンピングカー、それに通勤用のフォルクスワーゲン・ビートルだけだった。
どちらも中古のオンボロ車だ。


貯金だけは人並み以上にある…。


クローゼットの奥にある金庫に保管してあったバンキング・カードを取り出した。
名刺の裏に暗証番号を書き入れる… デスクの引き出しにあったクリスマス・カードサイズの封筒の中に入れて、しっかりと糊で封を閉じてから軍の封印テープを貼り付けた。

現金を残すという事はいやらしい事かとも考えたが、死んだらあの世に金を持って行けるわけではない。
生きている人間が有意義に使えば良いのだ。
それに、新築でプール付きの家と新車を同時に買える位のキャッシュを貰って、嫌な気持ちになる人間はいないはずだとも思った。



今の思いを書こうと思いボールペンを握る…

   〝親愛なるポーラへ ケントより〟

これだけしか書けなかった。…というか、他に言葉が浮かばない。



本当に不思議な感覚だ。
死ぬつもりなど更々ないのに、自分が死んだ後の事ばかりが頭に浮かぶのだ。
愛する者を残して戦場に赴く兵士の気持ちを私は少し理解できた様な気がした。


小さな封筒を胸ポケットに忍ばせて階段を降りていった。


ポーラへのフォローアップがちょうど終わったところだった。
コール一等軍曹を車まで見送りに出た。
ポーラからは見えないように、そっと〝小さな封筒〟を手渡した。


「コール一等軍曹。私に何かあった場合、この封筒をポーラに渡して欲しい。」
「分かりました…〝遺言書あり〟として登録しておきます。」


戸惑った表情をしながらも、小さいがしっかりとした敬礼をくれた。


「大尉、また… グリーンティをご馳走して下さい。…無事のご帰還を。」




そう言って、コール一等軍曹の車は走り去ってゆく…
私は答礼で彼女の車を見送った。


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