第7話 迷う者

文字数 5,618文字

いつも通りに目が覚めた。
…が、隣で眠っていたポーラの姿がない。


パジャマ姿のまま階段を降りた… ダイニングにはベーコンが焼ける良い香りが漂っている 。


「おはようポーラ。 今日の朝食当番は私だよ…?」
「今日はずっと機内食でしょ。明日からは慣れない土地で基地巡り。今朝の朝食はね…私が作るって決めてたの。あと15分待ってね。」


ポーラは屈託のない笑顔で微笑むとウィンクして見せた。

15分あればシャワーを浴びる事が出来る。
バスルームに向かい、歯ブラシを咥えながらシャワーの蛇口を捻った。
熱いシャワーを頭から浴びると眠気が段々と抜けてゆく… 歯を磨きながら、今日一日の行動を整理した。

体温が上がり熱く感じ始めた頃、温水の栓を締めて水を全開にする… 冷水の刺激が心地良い。
頭の芯がすっきりしてくのが分かる。


身体の水滴を拭き上げた頃、ポーラから声が掛かった。


「ケント、スペシャル朝食の完成よ。」


愛するポーラとの最後の食事になるかも知れないと考えつつも、バスタオルを首に掛けTシャツと短パン姿で良き夫を冷静に演じながらテーブルに座った自分自身が不思議に思えた。
…すると、サラダボウル山盛りのポテトサラダが運ばれてきた。

こいつは私の大好物だ。

皮付きで茹でたジャガイモ、薄くスライスしたキュウリとタマネギ、炒めたドイツ・ウィンナーをカットしたら ”日本製のマヨネーズ” で和えてコンソメパウダーと岩塩で味を整える。
隠し味に粒マスタードを使うのがポーラ流である… これがビールに最高に合うのだ。
結構な手間なので朝食に出てくるのは珍しかった。

ポーラは口元を綻ばせながら小皿にポテトサラダと取り分けてくれた。
ブラックペッパーを一振りしている。


「作り過ぎちゃった(笑)」


私はポテトサラダをスプーンで大胆に口へ運んだ。
実に美味い… コンソメが味に深みを出している。
粗挽きのドイツウィンナーの濃厚な油の後に、キュウリとタマネギ、ジャガイモの皮のシャキシャキ感が追いかけてくる… 潰しきっていないジャガイモも絶妙な茹で加減である。
無性にビールが飲みたくなってきた。

…ここは我慢だ。楽しみは任務が終わるまで取っておこう。


「ポーラ、任務から帰ったらポテトサラダとビールで乾杯したいね。」
「任務が終わったらレストランに連れて行って。美味しいお酒と料理をゆっくり楽しみたいわ。」


…その通りだった。
ポーラに作らせてばかりでは申し訳ない。
自分の事ばかり考えている事を反省した。


「そうだね。その通りだ。先ずはレストランで乾杯しよう。」
「美味しそうなお店を見つけたの。予約しておくから楽しみにしててね。」
「良いね。ワインで乾杯だ。」


納得したという表情を作ったポーラはキッチンへと向かって行った。
次に運ばれてきた料理は… 〝エッグベネディクト〟だった。

イングリッシュ・マフィンに厚めにスライスされたアボカド、その上に焼いたトマトとベーコンそれにポーチドエッグが乗せられている。
いつもとは違った小洒落た大皿にベビーリーフのサラダに飾られていて見事な出来栄えである。


「凄い… 全部君が作ったのかい?」
「頑張って研究したのよ。」


そう言うと、スマートフォンを見せながら得意げに微笑んで見せた。
この2~3日、ポーラはスマートフォンを見ている時間が多かったのだ… 私が3ヶ月間居なくなるというのにあっさりしているなぁと少し寂しい気持ちにさせられていたが、それは大きな誤解だった。
ポーラはエッグベネディグトの研究をしていたのだ。
とても温かい気持ちになった。


「さぁ召し上がれ。」


黄色いソースにナイフを入れるとオレンジ色のポーチドエッグが流れ出してくる… そのままマフィンまで挿し入れた。
フォークをしっかりと押し込み、口へ運ぶ。
ほのかなレモンの風味とバターのコクが口の中に広がる… ベーコンとアボカドとの相性もバッチリだ。


「…どう?」
「うん…。」
「うんじゃ分からないわ。 教官殿、お味は如何でしょうか?」


美味しいという言葉を忘れていた。
人は本当に美味しいと思った時は真っ先に言葉は出ないのである。


「…美味しい。美味しすぎて言葉が出なかった。」
「良かった。」
「これはポーラの得意料理に入れるべきだよ。」
「”美味しい” って言って貰えるのって嬉しいわ。…貴方が居ない間、お料理の勉強をしておくわね。頑張ろうっと!」

「それは楽しみだ。」


…何気ない会話が続いた。


愛する人との何気ない会話、 ささやかな楽しみ… なんでもない日常の繰り返し… 実はとても幸せで大切なひと時なのだという事を私は始めて実感した。
この幸せを失いたくはない… 壊してはいけない… 愛する人との幸せな日常と甘美なスリルとを両天秤に掛けた自分が恥ずかしくなった。

しかし、ポーラの前に座っている自分は〝甘美なスリルを選んだ自分〟 の方なのである。
矛盾に塗れている自分を悟られない様に、私は目の前の美味しい料理と幸せな時間に集中した。


幸せな時間は、あっという間に過ぎ去って行く…。


迎えの時間が迫っていた。
昨夜用意しておいた海兵隊の軍服に着替えた後、バックパックを背負いながら大きなボストンバッグを持ち階段を降りていく… ポーラは腕を組みながら私を不思議そうな目で見つめてきた。


「貴方の軍服姿を見るの… 初めてだわ。…セクシーなのね…。」


授業で軍服を着る機会は多い。
しかし、家に帰るときは私服に着替えていた。
言われてみれば家で軍服を着た事はなかった事に今更気付いた。
ポーラが無言で私の胸に額を押しつけてくる… 背中に回した手が私を強く抱きしめてくると同時にポーラの香りが鼻孔をくすぐる… 私も両腕でしっかりと抱きしめた。


離したくない、心からそう思った。


甘い時間を壊すドアのベルが鳴った…。
ドアモニターには海兵隊の軍服を来た男が敬礼した姿が映っている。
顔は見た事がある… 海軍博物館の地下室で警備をしていた伍長だった。
ドアを開けると姿勢を正して再度の敬礼をしてきた。


「大尉、おはようございます。お迎えに参りました。」
「おはよう、伍長。よろしく頼む。」


伍長は玄関の中にいたポーラに挨拶をすると玄関に置いてあったボストンバッグを運び出し、白のシボレーエキスプレスに積み込んだ。
小走りに戻ってくると私が抱えていたバックパックも運んでくれた。
…実に小気味良い動きである。


ポーラが私の手を握り締めた。


「ポーラ… 行ってくるよ。」
「気をつけて。」
「レストランの予約、忘れずにね。」
「もちろんよ。」


ポーラが私の頬に手を伸ばしてくる… 唇を重ねてきた。
唇が離れた後、私はポーラの目をしっかりと見つめ頷いた。

気持ちを切り替えて振り返った先には、伍長がスライドドアの前に立っていた。
私が席に乗り込むのを見届けるとポーラの方に向かい軽く敬礼をしている。
小気味良い動きで運転席に回り込み、ドアを開けて乗り込んで来た。


「大尉、よろしいでしょうか…?」
「うむ。出してくれ。」


エキスプレス・バンがもっさりと加速してゆく…
手を振っているポーラの姿が小さくなっていった。
ポーラは私達の車が交差点で曲がるまで見送ってくれていた。
私はポーラの姿を目に焼き付けた…。


…そう言えば、今日は日曜日の朝だった。


いつもは渋滞しているキング・ジョージ・ストリートにも車の量は少ない。
州会議事堂の周辺もガラガラだ。
職員用の3番ゲートで入場チェックを済ませたエキスプレスバンは、駐車場を通り抜けて海軍博物館の地下へと入ってゆく。


カザマ教官から、あっさりとカザマ大尉に戻っている自分に驚いた。
心の奥底に押し込めていた 〝もう一人の自分〟 が首を擡げているのだ。
これから始まる任務への期待感まで抱いている…。
いや・・もう一人の自分ではなく〝本当の自分〟だった。


警備員室前で停車すると、伍長は小気味良い動きでリアドアの扉を開けた。


「大きな荷物はこのままで結構です。 私が管理させていただきます。」
「そうか。宜しく頼む。」
「はい。」


鞄だけを持ち車を降りると警備員室にいる男と目が合った。


「カザマ大尉、おはようございます。」
「おはよう。」
「…ビートルではないんですね。」
「ああ。ちょっと偉くなった気分だよ。」


VWビートルを見られなかった事を残念がる様な表情をしながら無線機を手に取っている。


「こちら警備員室、カザマ大尉が到着しました。」


恒例になっていた ”無線機の儀式” を終えた直後、地下室の扉が開いた。


私が居ない3ヶ月間でバッテリーは上がってしまうな、ガソリンは満タンにしておいたからタンクは錆びないだろう、そんな事を考えつつ廊下を進み丁字路を右に曲がった。


一番奥の扉をノックする…。


作戦司令室には、既に全メンバーが揃っていた。


「カザマ大尉、いや、風間賢藏一等陸尉だったな。おはよう。」
「おはようございます…」


”風間賢藏一等陸尉” と呼ばれ強い違和感を覚えた。
スタッフ全員の視線が集まっている。


「早速だが準備に入らせて貰う。 諸君、フェーズ1のスタートだ。」


大佐の言葉で一斉に動き出した。
室内に〝ピリッ〟とした空気が流れている。


「カザマ大尉、隣の部屋にどうぞ。」


CIAスタッフに隣の部屋へと案内された。


部屋の壁には大きな鏡が取り付けられている…。
後からやって来たCIAスタッフに押されてきた台車の上には濃紺色の制服上下と制帽、その隣にはYシャツとベルトが綺麗に畳んで並べられている… 下段には黒い革靴があった。


「カザマ大尉、こちらの制服に着替えて下さい。お脱ぎになった軍服はそのままで結構です。」


海兵隊の軍服を脱ぎ下着姿になった。
真っ白なYシャツに袖を通す… 胸回りから身丈、肩幅・袖丈までベストフィットだ。
ペンタゴンでの身体測定は無駄ではなかった。

襟を立てたままボタンを留めてネクタイをシングル・ノットで締める… 襟を下ろして首の後ろをチェックする… ネクタイは襟下からはみ出していない… OKだ。

ズボンの腰回りと裾も丁度良い。
上着を羽織る… 襟元には一等陸尉の階級章、胸には略綬が取り付けられている。
最後に革靴を履き制帽を被り… 鏡で全身をチェックした。
鏡に映る姿を見て何かが違う気がした… この制服には日本陸上自衛隊のイメージは無い。


「陸上自衛隊員の制服は替わったのか?」
「お気づきですか。少し前に緑から濃紺色に替わっています。」


やはり替わっていた。
鏡を見ながらネクタイの緩みを直す… ノットの上に出来る隙間はだらしないイメージを与えるから要注意なのだ。


「上着のボタンを留める前に、こちらを身に付けて下さい。」


陸上自衛官のパスケースを手渡された。
このパスケースは常時携帯しろと言われた物である。
念のため、セットされているIDと免許証を再度確認する… 問題は無い。
ベルトループにチェーンを留めて尻のポケットに仕舞ってから上着の金ボタンを留めた。


「航空チケットです。確認を。」


チケットを渡された。
”JFK国際空港発 成田空港着 JAL 101便 BUSINESS” と記載されている。
成田国際空港への直行便だった。


「こちらのクラフトケースに日本の入国審査で必要になる書類が入っています。 全て記入済みですので審査の時に提示して下さい。 鞄に入れておきますね。」
「了解した。」


差し出された緑色のパスポートにチケットを挟み、左の胸ポケットに仕舞う。ボタンをしっかりと留めた。
手渡された黒い鞄の中には、財布やグレジット・カード、ペンケース・手帳などの小物類も入れられている…。


鏡に目をやると、その中には〝日本国陸上自衛官 風間賢藏一等陸尉〟がいた。


「大尉の私物はトラベル・キャリーに詰め替えさせていただきました。 入りきらない物は別便で送られます。 それと、キャリーには余計な物も入っていますが、擬装アイテムですので気になさらないで下さい。 これがトラベル・キャリーのキーです。」


TSAロック付きのトラベル・キャリーだった。
持ち手の部分には、両面に〝K・KAZAMA〟と書かれたネーム・プレートが取り付けられている… 黒いプロテックスのキャリーに赤いネームプレート… これだけ派手なら荷物の受け取りで見逃す事もないだろう。


「完璧ですよ。風間一等陸尉。」
「…そうか?」


CIAスタッフは自分の仕事を自負する眼差しを送って来ている。
その反面、私の中では言い様のない違和感が広がっていった。


「では、司令室に戻りましょう。」


司令室に入る…


するとスタッフ全員の視線が一斉に注がれた。


「隊長! 完璧ですっ!」


… マーカス主任が両拳でガッツポーズをしている… その後方では、マッケンジー中佐と情報部メンバーが手を叩いていた。
皆、一様に感心した表情で私を見ている。
大佐は顎髭を親指と人差し指で撫でながら2度3度と大きく頷く。


「完璧だ。何処から見ても日本の陸上自衛隊将校だ。よし、擬態を完了させてくれ。」


一頻り私を凝視していたCIAの女性スタッフが弾かれたようにモニターへ向かい直す。


「今から大尉は〝一時的に〟日本の陸上自衛官 風間賢藏一等陸尉になります。よろしいですね?」
「分かった。やってくれ。」


女性スタッフがキーボードに何やら打ち込み始めた。
最後に一際強くエンターボタンを叩く… ”カタッ〟という音が司令室に響いた。


「大佐、風間賢藏一等陸尉への擬態が完了しました。」
「よし。これよりフェーズ2の開始だ… 皆、緊張感を持って行動してくれたまえ。」


この瞬間、ものの数秒前まで存在しなかった人間が誕生したのである。
私はデータ上の ”風間賢藏一等陸尉” になった。
ケント・カザマは消えて、風間賢藏が現実世界へと歩み出したのである。


私の中で鎌首を擡げていた ”もう一人の自分” が動き出したのを実感した。


…が、その姿を訝しい目で眺めている 〝本当の自分〟 と思われる存在も感じている。
今までとは全く違う ”音合わせ” の終わり方だった…。




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