第27話 人蕩し(ひとたらし)

文字数 19,186文字

"ドタン! バタバタッ! "


廊下から転ぶ様な音がした。
此方へ向かって走る音が聞こえる…


「だっ、旦那様! 旦那様っ! たいへんだぁ… あのあの…」


千代が目を真ん丸にしながら土間を行ったり来たりしていた。


「どうしたんだ(笑) そんなに慌てて。」
「あ、あのぅ・・・庭に… 若様…おっ御殿様が・・・」



どうやら、殿が来ているらしい…



殿は縁側に座っていた… 百地三佐と談笑している。
庭では誉田と赤鬼が笑顔を携えながら控えていた。
二人は着物姿だ… 太刀は佩いているが鎧は身に付けていない。


「おお、風間殿。勝手に参ったが良いかな?」
「良いも何も… 此処は殿の屋敷だろう。」
「そうじゃったわ。」

「呼び出してくれれば良かったんだ。」
「傷を縫うてもろうてから十日が経った故、針を抜きに参った次第。」


そうか… 鷹舞砦の襲撃から10日しか経っていないという事か… この時代に飛ばされてから(信じたくはないが)数えると2週間が経過している。
時の経つのが遅く感じた。


「…ああ、道具を持ってくる。部屋で待っていてくれ。」
「うむ。」


庭先で控えている誉田が軽く頭を下げた。


「失礼仕る。」


誉田がそう言うと、殿を先頭に縁側から〝表の間〟へと入っていった。


私は藏へと向かった。
藏への途中、色々な事が思い起こされた。


目の前の事実を否定した自分…
元の世界に早く戻りたい自分…
侍の忠義を羨んだ自分…
黒装束との戦闘を楽しもうとした自分…
侍の矜持に憧れを抱いた自分…
百地三佐に強く惹かれ始めている自分…
妻のポーラと暮らした日々を懐かしく感じ始めている自分…


たった2週間だった。


たった14日間で、私の中では〝何人もの自分〟が鎌首を擡げたのだ。
それは、多重人格者の如く私の中で入れ替わった・・・昔読んだ本で出会ったビリー・ミリガンの様に。

私は〝夢の世界〟に存在するのではないだろうか?

人は死ぬ間際に〝走馬灯の如く流れる夢を見る〟と聞いた事がある。
タイム・スリップする直前に受けた腕の傷は無くなっているのに、佐久間に斬られた頬の傷はしっかりと残っている… 不条理が絡み合っている。
夢ではなく… 私は死んでいるのではなかろうか?


そんな事を考えつつ、ハードケースからメディカル・バッグを取り出した。
藏から戻り廊下を歩いていると、千代が〝あわあわ〟しながらお茶を運んでいる。


「おっと、落ち着いて。ひっくり返したら大変だ(笑)」
「御殿様が御足を運びなさる… 旦那様は凄いお人やに…」


別に凄くは無い… たまたま命を助けて信頼された。
それだけの話だった。
ギブ・アンド・テイクは既に成立している… 斬り合いも充分に楽しんだのだ。
一刻も早く元の時代に戻る切っ掛けを探さなければならない。
此処に長居しても、元の時代に戻れる切っ掛けが見付かる確証は無いのだ。


表の間に戻ると、百地三佐は何か言いたげな表情で私を見つめている…。


部屋を見渡して… 私は違和感を覚えた。
よく見ると、殿は〝掛け軸に向かって〟座っている。
評定では〝掛け軸を背にして〟座っていたのだ… 正反対の位置である。
誉田と赤鬼は廊下側に控えていた… 。


「殿、座る場所が違うだろう。殿はこっちに座ってくれ。」
「…相分かった。」


百地三佐に目を遣る・・・口角を少し上げながらウィンクを返している。


殿と赤鬼が目で会話した気がした…。
千代が運んできたお盆を受け取った誉田は、非の打ち所の無い作法で障子を閉めている。
お茶を配り終えた誉田は、殿と意味ありげなアイコンタクトを取った。
日中だというのに全ての障子を閉め始めた…。
やはり、何か不自然である。


・・・すると、殿は徐ろに両拳を畳に付けて頭を下げ始めた。
誉田と赤鬼も続いている。


「風間殿。実は話があって参上仕った…。」
「どうしたんだ? 急に畏まって… 顔を上げてくれ、居心地が悪いじゃないか。」


殿がゆっくりと頭を上げる・・・真剣で鋭い視線が私を射貫いている。


「風間殿。 貴殿を・・・伊勢家の軍師に迎えたいと存ずる。」


単刀直入、ストレートな物言いだった。
軍師とは、現代風に言えば〝Chief of the general staff(参謀総長)〟だろう… 文字通り、軍隊育成から戦争指南までを助言をしたり相談を受けたりする仕事だが、中世では内政や外交にも関わる事もあった役職である。


誉田が下げていた頭を上げた…。


「鷹舞砦で殿の御命を救うて頂いたのは勿論で御座るが… 誘き寄せの知略、佐久間との一騎打ちで魅せた姿… 拙者、心服仕りました。」


今度は赤鬼が頭を上げる…


「知略も勿論だが、我欲に走らぬ天晴れな御人柄。 何よりも… 貴殿は兵達の気持ちを一つに纏める天賦の才を持っておられる。」


再度、殿が拳を畳に付けて頭を下げた…


「鷹舞砦で出会うた時より… 儂は貴殿と楓殿に〝何か〟を感じ入っておった。 そして、この十日間の出来事を円らに拝見致した。 孫六と輝明より〝軍師への推挙〟があった時、我が思いに狂いは無かったと確信致した。… 何卒、儂に貴殿の才を伝授願いたい。」


尻がむず痒い… これは、ある意味… 褒め殺しである。


「輝明。」
「はっ。」


誉田が木の箱から手紙のような物を取り出している… 折り畳まれた紙を広げて、内容を読み上げ始めた。


風間賢人殿

一、知行 鷹舞郡六百貫文 豊畠、大内、小内、笹川、柴山、松田、砂川の七郷 也
一、租税、軍役、賦役、之免除するもの也
一、前立ち、旗指物、之認むるもの也
一、城下にて屋敷を構える事、之認むるもの也
一、支度金 壱百貫文、之与えるもの也

  天文十四年五月十日 伊勢 左京大夫 氏康


読み上げ終わると紙面を此方に向けて広げた… 紙面の左側には、サインのような独特な文字と朱色の印が押されている。


・・・七つの郷を与えて税金は免除…。領民の労働力と軍事力の提供はしなくても良い… 中世の封建時代では考えられない破格の条件だった。・・・


殿は家臣の前で〝流浪の民〟に頭を下げている。
最大限の礼を尽くしてくれていると言って良いだろう・・・しかし、である。


軍師に招きたい… という体裁になってはいるが、これは実質的に〝家臣団に加われ〟という事になるだろう。
〝岩穴の倉庫〟で世界が歪んでから数えると14日である… こんな簡単に立ち位置を決めてしまって良いのだろうか?
それに、身勝手な行動をした宿老の仁科五郎右衛門を矢で射殺すのを私達に見せ付けた… ここで渡りに船と言わんばかりに、易々と申し出を受けてしまっては足下を見られないだろうか?


そんな心配をしている自分の中には…〝侍の生き様に興味を持つ自分〟が現れては消えていっている。
また一つ、別の人格が生まれた気がした。


「皆、頭を上げてくれ。二、三… 聞いても良いかな。」
「何なりと。」
「俺は流浪の身だ。いきなり軍師になったら、古くからの家臣達が納得しないだろう?」


誉田が顔を上げた…。


「誘き寄せの策が成功した暁には風間殿を伊勢家に迎えたいと、御一門衆には殿が自ら書状をお出しになっておりました。 そして、首尾は上々。 御一門衆から異論は出ておりませぬ。」


誉田の言葉を聞いた赤鬼が顔を上げる… ニヤッと笑みを浮かべた。


「評定衆達は敵を欺く為に御味方を騙した事など忘れてしまっておる。 それよりも、次郎丸や一郎太達を斬った佐久間の首を跳ねる事が出来たと大喜びで御座るよ。 …それに、上杉を討つ大義名分をも得た。 皆、風間殿に感謝致しておる。うむ。」


殿が顔を上げて〝にんまり〟と笑顔を見せた。


「心配御無用で御座る。 貴殿と楓殿は儂の命を救い儂の命を狙うた忍どもを成敗した。 上杉の調略をも暴いて伊勢家に大義名分をもたらした。 これ以上の功は御座らぬ。」


500年飛ばされた先でも外堀を埋められている… 可笑しな気分になった。


「殿、だが…これでは困る。」


「・・・これでは御納得頂けぬか。」


殿が悲しげな表情をした。


「・・・私は何をすれば宜しいか。」


まずい、これでは話が違う路線に行ってしまう… 殿が疑心暗鬼になる前に、私の考えをはっきり伝えるべきだろう。


「殿。この条件だと俺は〝ただ飯〟を食う事になる。 私なりに貢献しなければ、何れ尻の座りが悪くなってしまうだろう。 自分なりの組織… 違うな…その…何というか…部隊を作って殿に貢献しても構わないか?」


「風間衆の(かしら)に成られると? 是非もない。是非とも、是非ともお願い致したい!」


殿の表情は安堵の気持ちが見て取れた。
赤鬼が笑い始めた。


「風間殿のそういう所が人を惹き付けるので御座るよ。 いやいや、実に目出度い。」


赤鬼、勝手に話を纏めるな・・・ 俺は未だ首を縦に振ってはいないぞ。


「では、風間殿。儂からも一つ… 宜しいか?」
「ああ。言ってくれ。」


殿は両拳を畳に付けて尻を浮かせ、ちょっと前に出た。


「儂は思う事あらば遠慮無く話を致す。 儂に足らぬ事、思う事あらば遠慮無く言って欲しい … じゃが、家臣の前では、儂を〝伊勢家の頭領〟として接して貰いたい。」


真っ直ぐな視線で私を見た後、再び深々と頭を下げた。


殿の気持ちは良く理解出来た… 海兵隊の場合も生意気な先任曹長がいるチームは、末端の兵が隊長を馬鹿にする様になる。
私が立場を弁えずに振る舞えば〝頭領としての統率〟に影響すると言いたいのだろう。


殿は自分がやられては嫌な事を伝えてきたのだ 。
しかも、家臣の前で頭を下げてまで…。


お互いに伝えたい事は言い合った気がした… 私の中では改めて、ギブ・アンド・テイクの関係という感情が湧いている。
蟠りの気持ちは消えていた。
それよりも、侍としての戦いを行えるという期待の方が強いと言っていいだろう。


念の為、百地三佐に視線を送り表情を窺ってみた…


眉毛が持ち上がると同時に、正座をしている太股の上に乗せられた右手の親指が上がった。
何というリアクションだろうか・・・。
こんなに重大な決定をするというのに、OKサインが眉毛と親指だった… 笑うしかない。


「…分かった。太刀は貰う事にするよ。」


三人が同時に頭を下げた… 私も同じ様にして礼を返した。
殿は安堵の表情を作った後、満面の笑みになった。
両手を腿に載せながら大きく吸った息を吐き出した。


「殿! これで鬼に金棒で御座りまするぞ!」
「鬼は長刀を持っておろうに。」
「孫六殿。…それを言うならば〝龍が翼を得たるが如し〟で御座る。」


赤鬼は全員を見渡した後、おでこを〝パチッ〟と叩いた。
皆、声を出して笑った。
殿が急に真顔になった… 百地三佐へと視線を投げ掛けている。


「さて、楓殿の功についてなのじゃが… 儂は女房殿への恩賞は与えた事が御座らん。 故に、何を用意すれば良いか思い付かぬ。 楓殿、何か所望があれば申してくだされ。」

「え? 私?」

「そうじゃ。誘き出しの策では見事な進言だったと聞いておる。 あの見事な剣の技… それに、人質になっても泣き言一つ漏らさなんだ。…誠に天晴れ。 儂が出来る事であれば叶えましょうぞ。 遠慮無く申されよ。」


誉田と赤鬼はこれでもかという程に何度も頷いている。
百地三佐は目をキョロキョロとさせていた。


「そうね… もし許してくれるなら、もっと茶の湯を楽しみたいわ。桔梗様とも話をしていたの。家臣の奥方達とも茶の湯を楽しめたらって。」


殿は少し考えていた。


「そう言えば、桔梗は楓殿との茶の湯が楽しいと申しておった…。」
「・・・殿、茶の湯は男の嗜みと申しまするが、誰が決めたのでしょうか?」
「輝明、うむ。確かにのう… 儂も知らぬ。孫六よ… あぁ、知る訳ないわのう…」


赤鬼が項垂れた…


「殿、茶の湯は京の香りがしまする。女房殿達も雅な風の流れる場があれば喜ぶかと…。」

「・・・楓殿、相分かった。館の茶室、自由に使うてくれて構わない。桔梗に茶の湯を教えてやって下され。」
「分かったわ。此方こそ、御礼を言います。ありがとう。」


殿は満足そうに口髭を撫でていた。


「よし! これで決まりじゃ。風間殿、傷の針を抜いて下されい。」


殿が右肩を諸肌に脱いだ。
前後の滅菌パッドを剥がす… 矢傷なので皮膚を大きく摘まんで針を打ち込んでいた。
傷口はケロイド状に盛り上がってはいるが、完全に塞がっている。
外見では腫れも赤みも無い… 変な炎症も起こしていなかった。
傷を縫い合わせた後の3日間、しっかりと抗生剤を飲ませたのが効いている。

傷口の周辺を押してみた。


「痛いか?」
「いや。」
「よし、針を抜くからな。」


脱脂綿に消毒液を浸して傷口周辺を消毒した。
ピンセットの先も念入りに拭き上げる… 赤鬼は私の手先と傷口をまじまじと見入っていた。
傷口を留めているホッチキスの針をピンセットで摘まむ… 一気に引き抜く… 傷の左右から小さな血の滲みが浮かんでくる。
背中の傷からも針を外し、消毒液で拭き上げた。


「肘や指先に違和感は無いか? 腕を持ち上げてみてくれ。」


殿は右手や肘を細かく動かし、右腕を持ち上げると前後に肩を回している。


「刀や弓は使えそうか?」
「…うむ。大事ない。」
「運が良かったな。肩の腱や神経の損傷は無かった。」
「感謝致す。」


ホッチキスの針で留められた引き攣り感が無くなったのだろう、爽快な顔をしていた。
針が刺さっていた傷からの出血は小さい。絆創膏で大丈夫だ。
ずっと私の手元を見ていた赤鬼は〝良かった〟を繰り返しながら涙ぐんでいる。


「よし、次は誉田だ。肩を出せ。」
「はい。」


前後の滅菌パッドを剥がす… こっちは筋肉繊維に沿って刀で刺された貫通刺創だった。
此方も綺麗に塞がっている… 炎症も無い。
ちょっと驚かしてやろう。
誉田の背中側に廻った… 左肩甲骨の周辺を押すふりををした。


「誉田… 痛いか…」
「え? いや… な、何事で?」
「感じないのか… うーっむ…」
「・・・。」


背中で芝居がかった溜息を吐いてやった。
私の小芝居を見た殿と赤鬼は、悪戯に満ちた顔になった。
私と同じ様にわざとらしく、意味深な溜息を吐く。
誉田の首筋に緊張が走るのが分かった… 心配そうな横顔を向けてくる。


「・・・駄目で御座るか…?」
「これは・・・大変だ…。」
「・・・拙者は侍… はっきり申して下されい…。」

「・・・誉田・・・お前の傷は・・・治ってるぞ(笑)」


傷口の回りをぐりぐりと押してやる。


「あ痛たたたっ! 風間殿! 戯れが過ぎまする… 勘弁して下され。」
「輝明よ、泣きそうになっておったじゃろう(笑)」
「なっ、孫六殿! 何を申されるか? 拙者は泣きそうになどなってはおりませぬっ!」

「輝明… 心配致すな。儂は誰にも言うまいぞ…。」
「殿までお戯れを! 御勘弁願いまする…。」


誉田の顔が赤くなっていくのが見て取れた。
赤鬼が〝がははは!〟と大笑いを始めると、殿は悪戯っぽい笑顔を見せた。
冗談を言い合える主従関係とは、端から見ていても良いものだった。
それを見た百地三佐も和やかに見つめている。


「誉田、すまんな。冗談だ(笑) じゃあ、始めるぞ。」
「…はい。」


少しの間の後、大きな溜息と共に誉田の肩から力が抜けた。
針を抜いていく… 消毒液で浸した脱脂綿で拭き上げた。
誉田の肩や指先にも異常は無かった。
二人とも問題なく刀を振れるだろう。


「よし。二人とも運が良かった。今貼った物は明日には剥がして構わない。」
「ありがとう御座いまする。」


身なりを整えた二人は改めて頭を下げた…
本当に礼儀正しい… 全てが礼に始まり礼で終わる日本文化は素晴らしいが、慣れない間は此方が恐縮してしまう。


「では、風間殿。本日は評定がある故、後ほどに。」


殿は立ち上がると部屋を出て行った。
廊下の先にある〝上がり間〟まで見送ると、土間には作左衛門と千代が平伏していた。
その先には廊下で控えていた若侍が片膝立ちで殿を迎えている。


「そうだ… 楓殿。抹茶はどうしておるのかな?」
「あ、はい。誉田さんが届けてくれました。」
「次からは儂が用意しよう。桔梗には伝えておく故。」
「ありがとうございます。」

「うむ。では、後ほどに。」


〝皆の前では頭領として扱ってくれ〟という言葉を思い出した。


私は土間に下りて玄関先まで出た… 百地三佐も付いてきた。
太股に手を当てて一礼すると、殿は私にアイコンタクト()()()()()を送ってくる。
口角が上がった… 満足そうである。
大きく頷いて木戸へと向かってゆく。
誉田と赤鬼は木戸の前で振り返ると、会釈をして出て行った。


「御殿様が来るとは思わにゃーっけ… ばーっか驚いたわ・・・」


土間で平伏していた千代が、独特の言葉で驚きを表現している…。
人の移動が無い場合、その土地で独特の表現が生まれ言語が細分化されるという大学の講義を思い出した。
アメリカにも南部のテキサス周辺には独特の訛りがあるが、日本の場合は方言というものがあり言葉自体が変わるという。
こういった面でも日本は実に面白い。


「賢人殿、ちょっと良いかしら…」


思い詰めた表情をしている…。
忍びの者達との闘いが始まる前にも、奥歯に物の挟まった感じの言い方をしていたのが思い出される… 百地三佐は私に〝何か〟を伝えたいと思っている筈だ。
ちゃんと話を聞いてあげた方が良いだろう。


「・・・話をしよう。」


私達は〝表の間〟へと向かった。
部屋に入った百地三佐は、庭が綺麗に見える位置に正座をしている… 着物姿の横顔は本当に美しかった。


「君が思っている事を聞かせて欲しい。」


憂いを滲ませた視線を送ってくる… 庭に視線を送ると溜息を一つ溢した。


「ここは小田原城… 伊勢家の拠点。」
「ああ。伊勢氏康の城だ。」
「日本史が教えていた内容が史実ならば… ここは、後北条氏の小田原城よ。」
「ごほうじょう? 伊勢家ではないのか?」
「伊勢家は改姓して〝北条〟と名乗るの。」


百地三佐の表情が曇っている… 何か不都合な事でも知っているのだろうか?


「これから数十年で、日本の未来が決まるターニング・ポイントが色々と起きるわ。」
「例えば?」
「鉄砲伝来、桶狭間の戦い、長篠の合戦、本能寺の変 …小田原征伐。」

「小田原…征伐?」

「ええ。小田原城は日本を侍の世に統一する豊臣秀吉に包囲戦を挑まれるの。…そして、北条家は所領を没収されるわ。」

「・・・何だって?」


私は滅亡する侍の軍師になってしまったという事か… 私はマヌケだったのか。


「滅んでしまう侍に協力しても無意味だ。軍師の申し出に賛成した俺がバカだった…」
「ちょっと待って。最後まで話を聞いて。」


百地三佐は私の方へ向き直ると、何かを宿した瞳で見つめてきた。


「歴史通りになるならば… 切腹するのは殿の子供。」
「寿王丸が切腹するのか?」
「それは分からない… 他にも子供が生まれる筈だから。」

「・・・この城が攻められるのは何時頃なんだ?」

「正確には言えないけど… 今は1540年前後。 教科書通りに歴史が動くなら… 秀吉が〝小田原征伐〟を始めるのは、今から50年後位になるわ。」


50年後… 半世紀も先の未来…


此処で安定した状態で過ごしながら、元の世界に戻る方法を探す… それに、元の世界に戻れなかったとしても、此処で過ごせれば何一つ不自由しないし楽しい人生を過ごせるかも知れない…。
私の頭に〝いやらしい考え〟が浮かび続けている。


「私の事、したたかな女だって思ったでしょ。」
「…でも、君が居てくれて助かった。君が居なければ私は判断を間違えただろうし、殿とも上手くやっていけないだろう。」

「・・・覚えておいて。伊勢家は殿と寿王丸の世代で最盛期を迎える。これから50年間は、何一つ不自由しないかも知れない。史実通りに成ればの話だけど…。」


やはり、百地三佐は損得と目の前の現実を天秤に掛けて、現状を俯瞰(ふかん)で見ながら動いていた。


「与えられた土地は〝鷹舞郡〟と言っていたわ。 恐らくだけど、鷹舞砦も含まれているって事よね。 鷹舞砦は私達がタイム・スリップした場所。 始まりの場所には、元の時代に戻るヒントがあるかも知れない…。」


・・・百地三佐は間接的だが、殿を利用しろと言っている・・・


私は自分の思慮の浅さに辟易した。
タイム・スリップしたという事を信じたくなかったが為に〝この世界の何処かに元の時代に戻れる場所がある筈だ〟とばかり考えていた… 与えられた土地の名前など気にもしていなかった。


「それともう一つ… 貴方はとんでもない大出世をしたの。 他の家臣達が〝やきもち〟を起こさない様に注意しなきゃいけない。侍の妬みと嫉みは厄介よ… 日本の戦国時代はね、妬みで仲間割れを起こして殺し合うなんて日常茶飯事。 主君を暗殺、家臣を自害に追い込むなんていう事件が数え切れないほど起きてる…。」


百地三佐は噛んで含める様に私に言い聞かせてきた。
男のやきもちは、時に女のやきもちより恐ろしい… それは理解している。


「俺は今反省している。これからは、もっと現実を見る事にするよ。」
「戦国時代は男の時代… 私を独りにしないでね…。」
「ああ。」


悲しげな表情で庭を見つめる百地三佐を愛おしく感じている私がいた。
ふと、ポーラの笑顔が頭に浮かんだ… たった2週間しか経過していないのに、ポーラとの生活が遠い昔の事に感じ始めている私もいた。


「百地さ・・・楓殿。散歩でもしようか…。」
「そうね…。」


私達は本丸を連れ立って歩いた。


鳴子を仕掛けた時とは違う景色が見えていた… 鳥たちの喧しい鳴き声や芽吹いた新緑の木々… 気持ちが違うと見る視点も変わる。
櫓の兵達が此方に視線を送って来ている。
門兵達の挨拶を通り過ぎ、吊り橋を渡った。


二の丸へと下りる石階段からはキラキラと輝く海が見えていた。
吹き上げてくる風が心地良い… 日差しは強いが、海風のお陰で汗ばむ事は無かった。
城壁近くに植えられている樹木を良く見ると、栗やアケビ、梅などの木の実が生る樹木がたくさん植えられているのに気が付いた。
これだけあれば、相当な量が収穫できるだろう。


小一時間ほどだろうか。
私達は夏色が強くなり始めた景色や音、緑の香りに包まれながら、ゆっくりとした暖かい時間を過ごした。


「そろそろ戻ろう。」
「はい…。」


ふと気が付くと百地三佐は私の左後ろを歩いている…。
そこには、今までとは違う表情の〝楓殿〟が居た。
嬉しい様な後ろめたい様な、とても不思議な気持ちになった。
変わってゆく自分自身を〝時の流れのせいにする日〟が来るのだろうか…?


・・・離れに戻ると、縁側には誉田が座っていた。・・・


「お迎えに参上仕った。話しておきたい事も多々有りまする故、ちと早いですが参りましょう。ささ。」

「あ、ああ。」


歩いて来た〝小径〟を戻っている最中、天守から腹に響く太鼓の音が聞こえてきた… 評定を知らせる合図だろうか。

館の玄関先には、初めて見る若侍が控えていた。
その奥には、午前中に殿と一緒に離れへと付き添ってきた小姓が正座をしている。
私の姿を確認した小姓の背筋が伸びた。


「風間賢人殿、お着きに成られました。」


小姓の一人が告げる… 控えていた若侍達が私を見ると礼儀正しく一礼をした。
私が草履を脱ぐと、籠から札を取り出し草履に結んで下足棚へと運んだ。
下足棚には草履が一足しか置かれていない… 草履に結ばれている札には〝佐々木孫六殿〟と書かれている。


誉田に案内されて、〝控えの間〟へと通された。


程なくして、二人の若侍がやって来た。
手には真新しい着物や扇子を乗せた四角いお盆を持っている。
誉田が新しい〝肩衣(かたぎぬ)〟へ着替えをするようにと言ってきた… この着物では駄目らしい。

有無を言わさず着替えさせられる事になった。

浴衣や袴は知っていたが、肩衣(かたぎぬ)は初めてである。
袖の下が広がっている薄手の着物の上に〝肩衣(かたぎぬ)〟を羽織るのだが、日本映画に出てくる様な肩の部分が尖った物ではない… ベストみたいな物である。
私が持っていた〝パリッとした侍〟のイメージとは程遠い物だった。


若侍が腹に帯を巻いてくれた… 臍の辺りで独特の結び方で締め付けた… 帯へ懐剣を差して、差し出された扇子を収める… 不思議と気が引き締まった。


「風間様、烏帽子(えぼし)を… お座り下さいませ。」


小姓が黒い独特な形をした帽子を手にしている。
私も〝烏帽子(えぼし)〟なる物を被らなければならないらしい。
顎の下で紐が結ばれた。
肩衣を纏い烏帽子を被った私は、自分が日本人である事を再認識した様な気持ちになった。
無性に鏡が見たい…。


「風間殿、本日の評定はとても重要なものになりまする。これから話す事を心に留め置いていただきたい。」
「…分かった。聞かせてくれ。」


誉田は〝評定の仕組み〟について詳しく話をしてくれた。


・評定は月に2回。メンバーは全員で11名(私を含めれば12名)
・評定衆は対等な関係
・〝御一門衆〟〝御由緒衆〟に〝殿が認めた家臣〟や〝有力な地侍〟から選抜
・特に発言力が大きいのが伊勢家の血縁である〝御一門衆〟
・評定に参加できない御一門衆は他に4名、全員が重要な城を任されていている


「風間殿は評定衆の御挨拶を受けた後に、晴れて〝軍師〟と成られまする…。」


そう言うと、次は評定の内容を説明してくれた。
今日の議題は、〝軍師就任の承認〟と〝論功行賞(ろんこうこうしょう)〟だという。
つまり、今日の評定を恙なく終わらせたいという事だろう。


「誉田。揉め事は起こすなと言いたい訳だな?」
「…その通りで御座る。 御一門衆は歯に衣を着せず、御意見を発せられます故…」
「分かった。注意しよう。」


「では、広間でお待ちくだされませ。」


若侍の一人に先導されて広間へと向かった。


殿が座る分厚い畳にはキャンピング・チェアがセットされている… 傷が治った後も使うという事は、余程気に入ったのだろう。
広間の板張りには丸く編まれた草の敷物が、左右に分かれて均等に敷かれてあった。
若侍は名前が書き込まれた紙を見せて、私の座る場所を指定した。
そこは、殿が座るキャンピング・チェアから見て右側の一番手前だった…。


10分程だろうか、誰も居ない広間で待たされた。


玄関から続く廊下の先から赤鬼が歩いて来るのが見える… 私と色違いの肩衣姿である。
下足棚に草履があったが、何処に居たのだろうか?
軽く頭を下げながらドスドスと広間を横断すると、私の隣の敷物へ〝ドカッ〟と座った。
それを皮切りに評定衆が続々と広間へと集まって来た。
皆、真新しい肩衣を纏い黒の烏帽子姿だった。


控えの間に繋がる廊下から〝スキンヘッドの老人〟が小姓の先導でやって来た…


私の真正面にある敷物へと腰を下ろしている。
目元の深い皺に痩けた頬、鷲鼻が印象的だ。
着物も肩衣ではい… 僧侶なのだろうか?
老人からは〝何かを窺っている〟視線が送られて来ている… 私は軽く会釈をした… 老人も会釈で返してくる。


暫くすると、館の奥へ繋がる方向から床板が軋む音が聞こえてきた。


誉田の後ろに殿の姿が見える… 紫色の肩衣を纏っている。
殿は私達とは違った形(高さのある)の烏帽子を被っていた。

殿が広間へと入ってくると同時に全員が両拳を床について頭を下げた。
・・・私も倣った。
広間に緊張感が流れた後、キャンピング・チェアへと着席する音が聞こえた。


「皆、楽に致せ。」


声が掛かった… 私は頭を上げた。


「…さて、皆も知っておる通り、十日前… 儂は風間賢人殿と楓殿に命を救われた。その後、風間殿の策により儂を襲った忍び共を討ち果たした。 次郎丸、一郎太、三郎達の仇討ちも相成った。 そして… 儂の命を狙うたのは扇谷の上杉とも判明した。これは、風間殿と楓殿の知略と武功の賜である。」


評定衆の視線が私に注がれた。


「儂は風間殿の策が成功した暁には、当家に迎えたいと思うておったが… 目出度くも、風間殿は儂の申し出を受けてくれる事に相成った… 今より、風間殿を伊勢家軍師として迎える。」


「輝明。」
「はっ。」


誉田は片膝立ちになり、一歩前へと進み出る。


「風間殿。 伊勢家評定衆を御紹介致しまする。」


そう言うと… 右拳を口元の持っていき〝コホン〟と咳払いをした。


「初めに・・・御一門衆筆頭、箱根権現社別当 伊勢聡哲殿。」


・・・スキンヘッドの老人は御一門衆の〝筆頭〟だという… つまり、伊勢家の最長老だろう。挑むような視線が気になった。この老人は、私の事を良く思っていないかも知れない。・・・


「御由緒衆筆頭 宿老、松田頼秀殿。」


宿老? 仁科五郎右衛門の後任だろうか?
それとも、複数の宿老が存在したのだろうか?
その説明は無かった。

続け様に広間に座る評定衆の紹介を受けた。

…が、既に顔と名前が一致していない。
独特で古風な名前のオンパレードなのだ。
後で役職とフルネームを書いた物を貰わなければ、名前と顔を一致させるのは相当な時間が掛かるだろう。


評定衆の紹介が終わり、〝論功行賞〟が始まった。


宿老の松田頼秀から、鷹舞砦での出来事と誘き出し作戦の闘いについての説明が行われた。
頼秀は… 私と百地三佐が殿と誉田の命を救った話、傷の治療から鹿肉の話、中庭で私が何人の忍びを討ち取ったかという事、佐久間との一騎打ちの後に自白させた事までの経緯を事細かに全てを見たかの如く詳細を把握していた。


誉田が木箱から書状を取り出している… 殿へと恭しく手渡した。
書状を開いた殿は、咳払いを一つしてから内容を読み上げ始めた。


風間賢人殿

一、知行 鷹舞郡六百貫文 豊畠、大内、小内、笹川、柴山、松田、砂川の七郷 也
一、租税、賦役、之免除するもの也
一、前立ち、旗指物、之認むるもの也
一、城下にて屋敷を構える事、之認むるもの也
一、支度金 壱百貫文、之与えるもの也

天文十四年五月十日 伊勢 左京大夫 氏康


書状を読み上げた殿は、木箱に収めると私の前へと歩み寄ってきた… 恭しく両手で手渡してくる… 私は両手で木箱を受け取り、両拳を床に付けて深く頭を下げた。


「風間殿。 之よりは軍師として当家を支えて貰いたい。」


そう言うと、殿は私に向かって大きく頷いた。
それを見た頼秀は… 腰を浮かせて少し前へと出る。


「・・・風間殿。宜しくお願い致しまする。」


床に両拳を付き頭を下げた… これを合図に評定衆達が私の方へと向き直った。


「宜しくお願い致しまする。」


一斉に挨拶の言葉を述べて深々と頭を下げてきた。
私も両拳を床に付け頭を下げて〝宜しくお願い致しまする〟と返礼を行った。
目の前に座る聡哲が頭を上げるのを上目遣いに確認した後、私もゆっくりと頭を上げた。


・・・これで、私は伊勢家の軍師となったのだ。・・・


他の評定衆から軍師就任への異論が出ないという事は〝事前の摺り合わせ〟が行われていた事を示している…。
それと同時に、私は〝殿に臣従〟した事を示した事にもなる。
だが、〝スキンヘッドの老人〟からは鋭い視線が送られてきているのが見て取れた… 何か言いたそうな慇懃な視線だった。


「功二等、佐々木孫六、誉田輝明、風間楓…」


一番槍と忍び六人を始末した赤鬼は新知行五拾貫、鷹舞砦から忍びとの闘いまでを準備した誉田も五拾貫の新知行が恩賞として与えられた。


その他には…


・忍びの者達を斬った〝剛の者達〟には、感状と足軽小頭へ昇進 他。
・一晩で伍百個の鳴子を作る手筈を整えた〝庄屋の又右衛門〟には、感状と銭壱拾貫文。
・田楽舞一座を監視して異常を知らせた村人達には、感状と銭壱貫文。
・鳴子の仕掛けを提案した作左衛門には、感状と黒米一俵。
・大井戸への毒を防ぐ提案をした伊之助には、感情と黒米一俵。
・鳴子を作った村人達へは、鳴子一つに付き黒米一斗。


・・・論功行賞とは、随分と細かくやる物だと感心した。 というか、誰がこんなに細かくチェックしているのか不思議に思った。 軍功の評価が何よりも重要になる時代なのだと痛感させられている。・・・


殿は小姓から一際大きな書状らしき物を受け取っていた… 特大級の恩賞を貰う侍がいるのだろう… そんな事を考えていると、キャンピング・チェアから立ち上がり私の前へとやって来て床に書状を広げた。


・・・書状ではなく地図だった。・・・


殿が床へと腰を下ろす。


「西の今川、北の武田とは同盟を結んでおる。 東にある扇谷(おうぎがやつ)の上杉、その上にある古河公方(こがくぼう)、此奴等とは何年も揉めておる…。下総の千葉、上総真里谷(まりやつ)の武田、安房の里見は風見鶏… 全く信用できぬ。 上杉や古河公方を攻めた時、背後を突かれるやも知れぬのじゃ。」


殿は〝松山城〟と書かれた城を扇子で〝トントン〟と叩いている。
此処が忍びの者を差し向けてきた上杉の拠点なのか、それとも敵対する陣営の本拠地という事だろうか…?

その南南西には〝河越城〟あり、伊勢氏尭(うじたか)と記されていた… 此処は松山城と対峙する位置になる。


【河越衆】 城主 伊勢氏尭(うじたか) 諸兵 参千伍百伍拾也

宿老 大道寺孫九郎 侍大将 成田長秦

・使番 伍拾騎
・騎馬 陸百騎
・弓  捌百
・槍  壱千
・徒  壱千
・小荷駄 壱百


赤鬼が黒装束の死体をみて〝河越の戦で見た顔だった〟という言葉と、殿が河越城を気にしていたのが思い出された。


・・・そう言えば、城へ入った日の評定で殿は〝河越の氏尭(うじたか)へは儂から書状を出す〟と言っていた。・・・


河越城は国境の最前線にある城である。
今日の評定で〝河越城主〟という肩書きの者は参加していない… 誉田は評定に参加できない〝御一門衆〟が居ると言っていた。
河越城主の〝氏尭(うじたか)〟とは殿の弟だろう。


太い線の内側には城や砦、大きな川や山などのポイントや要衝が記入されていた… 城毎に武将名と兵力の詳細が書き込まれている。
太線の内側が〝伊勢家の版図〟という事だろう。

書き込みのある城の数は15カ所… 朱色で〝小田原城〟と書かれている場所には、見た事のある名前が記されていた。


【小田原衆】

先手組 侍大将 佐々木孫六  諸兵 弐千壱百参拾也

・使番 参拾騎
・騎馬 伍百騎
・弓  伍百
・槍  伍百
・徒  壱千
・小荷駄 壱百

御馬廻組 差配 小姓頭 誉田輝明 諸兵 壱千伍百参拾也

・使番 参拾騎
・騎馬 壱百五拾騎
・弓  伍百
・槍  参百
・徒  伍百
・小荷駄 伍拾

御留守居組 差配 宿老 松田頼秀 諸兵 伍百参拾也

・騎馬 参拾騎
・弓 弐百
・槍 弐百
・徒 壱百
・使番 参拾騎


驚愕の内容だった…。

私達がいる小田原城は 4,000以上の兵力が記載されている。
城や砦によって兵力は大小様々だが、ざっと合計しても15,000 もの兵力を持っている事が窺えた… 地図に記載されている内容が事実だとしたら… 殿は師団レベルの〝強大な兵力〟を持って周辺諸国と張り合っている大領主なのだ。


しかし、私を最も驚かせたのは、出会いからたった2週間で万単位の軍団を率いる領主の〝軍師〟に成っている自分が存在している事だった。
私は呆然と地図を眺めてしまっていた。


殿が扇子で地図の右半分をくるりと円を描いた。


「儂は… 板東を獲ってやる。」


刺激的な言葉だった…。
全身に泡が立つ感覚が走っている。
殿は不敵な笑みを浮かべつつ、キャンピング・チェアへと戻って行った。


すると、殿は〝コホン〟と咳をしてから顔を上げた…。


「…ついては風間殿の住まいについてじゃ。仁科の館など… どうだろうか?」


評定衆達から響めきが起こった。


仁科の館とは、殿が手討ちにした五郎右衛門の住まいという事か?
自分が手討ちにした家臣一族が暮らしていた屋敷に、私と百地三佐を住まわせるのか?
殿の意図は何なのか…?

私には何も情報が無かった… 仁科の館が何処にあるのかも知らないのである。
一つだけ感じ取った情報は、聡哲が意味深な視線だという事だった。
何か危険な香りがする。


頭の中で百地三佐が与えてくれた〝エマージェンシー・センサー〟が鳴り響いていた…。


伊勢一族からして見れば何処の誰かも良く分からない男が、いきなり軍師として入ってきたのだ… 〝あまり調子に乗るな〟と感じても致し方あるまい。
一番厄介なのは、聡哲が親族代表として〝新参者〟にマウントを取ってきた場合であろう。
拗らせて面倒臭い敵になる前に、私と殿の付き合い方は〝ギブ・アンド・テイク〟なのだと示しておく必要がある。


「・・・破格の条件で軍師に招いて貰った。城下に家まで貰っては心苦しい。 殿、私は与えて貰った土地の何処か静かな場所で暮らしたいと思っている。」


私の言葉を聞いた赤鬼は拳を床に付くと、尻を浮かせて評定衆の方に向き直った。


「御一同、申し上げる… 軍師とは、殿が必要とした時に一早く相談に乗るが務め。 近くにおらなんだら意味が無いと思うがの。 如何思われるか?」


評定衆達からは賛同の意見が多く出ている。
それを聞いた聡哲は再び慇懃な視線を送ってきた…


「軍師殿… ならば、今のまま本丸の〝離れ〟でお暮らしになれば宜しかろう。さすれば殿の御側を離れんで済む由…。」


私を〝したたかな男〟にしたいという魂胆が見え隠れする。…ような気がしてならない。
考え過ぎだろうか… いや、ここはしっかりと〝遠慮の姿勢〟を示しておいた方が良いだろう。


「それは出来ない。〝離れ〟は先代の大殿様が暮らしていたと聞いた。 それに、御一門衆でさえ本丸では暮らしてはいないのに、私如きが本丸で暮らす訳にはいかないと思っている。」


そう告げると、聡哲は何かを探る様な視線に変わった。
何やら話し込んでいる評定衆もいる。
これでいい… 殿からの〝城下に住め〟という話、聡哲からの〝離れで暮らせばよい〟という話を両方とも辞退したのだ。
このまま話が進めば、他の評定衆にも〝身の程を弁えた振る舞い〟と映るだろう。


やり取りを黙って聞いていた殿が口を開いた。


「風間殿、仁科の館を居に定めて欲しい。 其処なれば本丸から目と鼻の先… お互いに何時でも忌憚なく話が出来る故。それに… 鷹舞の奥に行ってしもうては、桔梗の茶の湯もままならぬ。 この話は之までじゃ。」


・・・殿がそう告げると、評定衆一同が軽く頭を下げた。・・・


私の住む場所はあっけなく決まった。
聡哲は少し悔しそうな表情をした後、取って付けた笑顔を作った。


「いやいや、軍師殿は我欲に走らぬ清廉な人柄と聞いておったが、噂に違わぬ御仁で御座るな。一門衆には〝殿は良き軍師をお招きになった〟と伝えておきましょうぞ。」


・・・何を言ってやがる(笑)


殿が〆の挨拶をして散会になった。
聡哲は何事も無かったかの如く振る舞っている。
誉田は私の目の前に広げられた絵図面を畳み、恭しい仕草で手渡してくる… 大きく頷いた誉田は、殿の後を小走りで追って行った。
どうやら、この絵図面は私の為に作られた物らしい。

私達のやり取りを見つめていた聡哲が軽い身のこなしで立ち上がった。

年齢を感じさせる外見とは裏腹に足腰はしっかりしている。
私の方へと歩み寄って来る… 目が合った。
太股に手を当てて会釈をした私の真正面で立ち止まった…。


「貴殿は此より伊勢家の軍師… 常に伊勢家の将来を考え助言為されよ。 我ら一門衆は城を預こうておる。 殿の傍には居れぬ故にな。 それに… 民から慕われる領主になられよ。 貴殿が民の信を失う、其れ・・・則ち、伊勢家が信を失うと同じ事…。」


そう言うと、踵を返して〝控えの間〟の方へと向かって行った。


一応、私を軍師だとは認めた様子である… しかし、言葉の内容からすると〝自分が近くに居ればお前は必要ない〟とも受け取れる。
今日の評定は収穫があった… 今後、聡哲というスキンヘッドには要注意である。


「風間殿、お気に為さるな。 聡哲殿は伊勢家三代に仕える長老、故に嫌みなところも御座るが二心無き真っ直ぐな御方。」


隣に座っていた赤鬼が、再びフォローしてくれた。


「助け船ありがとう。」
「なぁに、此れしき。仲間として当然の事で御座るよ。」


連れ立って玄関まで歩いて行った。


「一つ聞いても良いか?」
「何で御座ろうかの?」
「仁科の館とは何処にあるんだ?」

「はぁ? …知らなんだか?」
「ああ。」


赤鬼が目を丸くしている。

玄関へと着いた私達の姿を見た小姓達が、跳ねる様に反応した。
それぞれの草履を素早く土間に並べる… 私が礼を言うと口元を綻ばせながら一礼してくる。
赤鬼は草履を履きながら、呆れたという表情になった。


「三の丸御門の真正面じゃ。知らぬのに… あの様なやり取りをしておったのか?」
「そうなるな。」
「はぁ…まっこと… 風間殿は役者で御座るのぉ。」


お前もな(笑)…という言葉を私は飲み込んだ。
城に一番近い場所の屋敷… 吊り橋と城の構造にばかり気が取られていて、三の丸御門の真正面にある屋敷に誰が住んでいるなど微塵も意識していなかった。
伊勢家親族代表の聡哲にしてみれば、流浪の民だった私がいきなり軍師になり城に一番近いところに居を構える… (いぶか)しいのだろう。


「… それと、もう一つ聞いても良いか?」
「何で御座ろうか?」
「五郎右衛門の家族と家臣達・・・どうなったんだ?」


赤鬼は人目を憚る様な仕草をすると、扇子を口元に当てながら顔を近付けてきた。


「・・・一族郎党、連坐として大島へ流され申した。」
「家族も島流しか? 」
「殿の命に背き手討ちにされた者の家で御座る。首を刎ねられなかっただけ儲けもの…」


扇子で首を叩くと肩を竦めている。
功を上げれば恩賞、命令に背けば命を取られて家族も処分… 封建時代の厳しさを実感させられる話だった。


「ただ・・・」
「ん?」

「 殿は城に一番近い場所で暮らせと下知され申した。 風間殿が与えられた屋敷… 其処は代々の〝御由緒衆筆頭〟が与えられた場所。それだけ風間殿を信頼しておられるという事になる。 聡哲殿はそれが気に入らなかったのかも知れぬな…。」


やはり、そういう事か… 色々と見えてきた。
好待遇で軍師として招かれ、城から一番近い場所という〝ステイタス〟まで与えられた… 好待遇に甘んじていれば必ず妬まれるという事だ。
百地三佐の助言は間違っていなかった。


「赤鬼、相談に乗ってくれるか?」
「何なりと… ふんっ。」


赤鬼の鼻が広がった。


「俺は殿に聞いた… 俺の部隊を作っても良いかとな。 殿は〝是非とも〟言ってくれた。覚えているか?」
「つい先程の話じゃ。 よもや忘れる訳なかろうよ。」

「殿の矛は赤鬼の先手組、盾は馬廻衆… 俺は、その何方でもない部隊を作ろうと思ってる。力を貸してくれるか?」

「矛でもなければ盾でもないとな?」
「ああ。」
「…良く分からぬがのぉ。 儂に出来る事があらば喜んで合力しましょうぞ。」
「宜しく頼む…。」


赤鬼は私の目をしっかりと見つめてから、大きく頷いてくれた…。


「では、これにて失礼仕る。」


何から始めれば良いのか全く分かっていないが、新しい屋敷へと移れば領地の経営から部隊作りまで、何から何まで自分でやる事になるだろう… それだけは想像が付く。
赤鬼と誉田の協力は必要不可欠だった。


やるべき事の優先順位付け、それにややこしい人間関係を上手く処理する方法を考えつつ〝離れ〟へと戻ったのだが、スケールの大きさと時代錯誤的な視点が重なり考えを上手く纏められていない。
先ずは、百地三佐に引っ越しの報告をすべきだろう。


囲炉裏の部屋に百地三佐は座っていた。


引っ越しを伝えると寂しそうな表情になったが、三の丸御門にある吊り橋の真正面だと話すと大喜びの表情へと変わった。
その反面、土間で家事をしていた作左衛門と千代は残念そうな表情を崩さなかった… 作左衛門は土間の小上がりに腰掛けて〝考える人〟のポーズを取ったままになってしまっている。


「御免仕る。」


どうして良いか分からなくなっていると、玄関の方から声が掛かった。
誉田の声だった。

千代が作左衛門へと近付き、何やら耳打ちをしている… 徐ろに作左衛門が立ち上がった。
私達の方へ一礼してから玄関へと向かっている… 思い詰めた表情の千代が後を追う… 百地三佐が心配そうな視線を送ってくる…。

私達も玄関へと向かった。

すると、玄関の土間に平伏している二人の姿があった… 誉田もどうして良いか分からないという表情をしている。


「何をしてるんだ? 誉田が困っているじゃないか…。」

「・・・。」
「・・・。」


誉田が呆れたと言いたげな表情をしている。


「・・・分かった。儂が何とかしておく故。軍師殿をしかとお支え致せ。」
「ありがとうごぜえやす!」


二人は改めて頭を下げた後、土間の方へと入って行った。
長持を二人掛かりで担いでいる小姓達は誉田と私の顔を見比べた後、作左衛門達の背中に視線を伸ばしている。

誉田が私の顔をまじまじと見つめてきた。


「…風間殿と楓殿は〝人蕩(ひとたら)し〟で御座いまするなぁ。」
「何の話だ?」
「御自身で分かっておらぬ所がまた憎い(笑) …失礼仕る。」


誉田達が屋敷へと上がってきた… 上がり間から廊下を抜けて、表の間へと入っていく。
重そうな長持を担いだ小姓達が後へと続いた。
私達が表の間に入ると、誉田は上座へと回った。


「殿からの感状と恩賞で御座る。楓殿、お座り召されませ。」


百地三佐が下座へと移った。


小姓達が重たそうな長持ちを開けて、何やらセッティングを開始した… 白木の〝お盆のような物〟に紫色の布を敷いている…。
その上に紐で貫かれた大量の〝何かの束〟を乗せてゆく。
良く見ると〝コイン〟だった。
コインの束が山盛りにされたお盆が2つ作られた…。


誉田が仰々しく書状を広げる。


「風間楓殿… 首級三つの働き 策の助言進言 功二等也。奥への茶の湯指南並びに話し相手努めたる事誠に嬉しく思ふ。俸禄 五拾貫文、奥茶の湯指南役を以て其の功にこたへるもの也・・・ 左京大夫 氏康」


誉田が感状を恭しく畳んだ…。


次に恩賞が明記された朱印の押された書状を示すと、小姓が五拾貫文が乗せられた白木の台を上座へと運んだ。
誉田は百地楓ではなく〝風間楓〟と呼んだが、百地三佐は普通に感状を受け取っている…。
百地三佐は、首級三つを挙げた事、桔梗様の話し相手になった事などが評価された… 俸禄五拾貫文と〝茶の湯指南役〟に任じられた。


「風間殿、此方の〝三方(さんぽう)〟は貴殿への支度金で御座る。お納め下されませ。」


白木で作られた〝お盆の様な台座〟は三方(さんぽう)と言うらしい… また勉強になった。
私達は改めて両腿に手を乗せて頭を下げる… 誉田と小姓達も完璧な作法で答礼をしている。
誉田が小気味よい動きで上座から〝ササッ〟と移動する… 小姓達は銭の載せられた三方を上座へと丁寧に移動させた。


「誉田さん… ちょっと、聞いても良いかしら?」
「何で御座ろうか。」
「奥茶の湯指南役… って言ったわよね?」
「左様で。」

「…桔梗様に茶の湯を教える役職って事で良いのかしら?」
「桔梗様からは〝楽しみにしている〟との御言葉をお預かりしておりまする。」


百地三佐はとても嬉しそうだった。
こんなに朗らかで穏やかな笑顔は初めて見た気がする。
スパイ狩りの任務に就いてからは血生臭い事だらけだった… しかも、この時代では女性の友達は皆無だったのだ。
女性として心が休まる時間は必要である… 百地三佐にとって、桔梗様との時間は有意義な物になるだろう。


「ところで風間殿。侍屋敷への引っ越しで御座るが… 次の〝泰安(たいあん)〟は明後日。それまでに御準備を願いまする。 私もお手伝い致しまする故。」
「ああ。それだけあれば充分だ。運ぶ物は少ない。」


泰安(たいあん)と呼ばれる〝縁起の良い日〟を選んで引っ越しが行われる事になった。
引っ越しと言っても、私達は家具や私財を持っていない。
運ぶ物は銃器弾薬と装備一式が入っているハードケース類、それに目の前の大量のコインが乗った2つの三方(さんぽう)だけだった。



荷物を運ぶ事よりも… 先ずは、生活の基盤を整えなければならない。


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