第26話 激突

文字数 20,023文字

・・・鳴子の仕掛けを設置してから、7回目の夕陽を迎えようとしている・・・


鳴子の仕掛けが完成した夜、誉田から〝(こよみ)〟を貰った。
この〝(こよみ)〟、つまりカレンダーによれば、今は五月に入ったばかりという事になる。

暦を手に入れた事によって、立春・夏至・秋分・冬至、それに梅雨や台風の時期といった気候の変化を把握する事は可能になったのだが、未だに正確な時間を把握する事は出来ていない。
時間に厳しい生活を長く続けてきた私にとって、時計が当てにならないのは待つ事へのもどかしさをより一層募らせていた。


「早く喰い付け・・・」


思わず口に出てしまった。


殿は天守へと籠り、評定衆ですら〝殿には会えない状態〟が続けられている。
〝爺〟と呼ばれていた侍の配下が上杉領内で〝殿の容体悪化説〟をばら撒いた。
城下の神社や寺では〝御傷快癒の加持祈祷〟も定刻に行われている。
館に出入りする商人達からは、城から離れた村々へも噂が広まっていると報告もあった。

上杉が〝忍びの者〟を放ちたくなる状況は完成していた。
撒いた餌に喰い付くのを待つだけである。

… しかし、何も起きない状態が続いている。

私は一抹の不安を感じていた。
敵が〝噂話〟に興味を持ち、積極的に探らなければ敵の中枢には届かないのだ。
届かなければ、この作戦は只の〝待ちぼうけ〟で終わってしまうのである。

それと… 感覚のズレも気になっていた。

テレビやラジオは無い。
勿論、メールなどいうネット環境も存在しない。
噂話を裏取りする方法は〝人の話〟だけだ。
噂話は直ぐに拡散するが、〝人の話〟には聞いた人間の感情が如実に反映されてしまう。
他人に話す噂話は時に尾ひれが付けられたり、間引かれてしまったりと〝脚色〟されてしまう場合が多い。


・・・私の中で不安が膨らむ理由は分かっている。暇なのだ。・・・


持て余した時間は人に余計な思考を巡らせる隙を与える… 厄介である(笑)
そんな事を考えていると、作左衛門が廊下を歩いてくるのが見えた。


「失礼しやす… お頭と誉田様がお越しでごぜぇます。」
「わかった。」


誉田と赤鬼は〝暇〟に耐えられるだろうか・・・?
…いや、あの二人には他にも仕事がたくさんあるのだ。
それより、天守に籠り続けている殿の方が心配である。


不安な気持ちのまま廊下を進んだ。


表の間には険しい顔をした誉田と赤鬼が控えていた。
誉田達の心にも待つ事へのイライラが蓄積されているのだろう…。


「風間殿、楓殿… 夕餉前に申し訳御座らぬ。」
「何かあったのか?」
「はい。半刻ほど前、上杉に放った間者から文が届き申した。」

「・・・聞かせてくれ。」

「今朝方… 山伏、僧侶などが扇谷の城から出たとの事で御座る。」


赤鬼が両拳で尻を浮かせて前へ出た。


「儂の所には又右衛門から使者が参った… 見た事の無い坊主や薬売り、田楽舞一座どもが城下を彷徨いておる故、充分に注意してくれと言っておる。」


上杉を見張っている間者達、それに又右衛門や村の者達も異変を感じている… 〝何か〟が城へと近付いているという事だ。


「そうか… 殿は知っているのか?」
「お伝え申した。」


ようやく喰い付いたのか・・・?

だが、黒装束を取り逃がしてから丸7日が経過しようとしていた… 敵方には7日間もの準備期間があった事にもなる。
準備は相当進んでしまったと考えた方が良いだろう。


(〝待ちぼうけ〟への不安感は消え去り、黒装束達が攻めてくる期待感が膨らんでいる。 私の中で〝戦いを渇望している自分〟が現れては消えていった・・・。)


「薬売り、旅芸人に山伏? 忍者が変装するお約束の姿よ。 嫌な臭いがプンプンするわね。」
「そうなのか?」
「ええ。教科書通りでビックリだわ。」


忍者発祥の国で生まれ育った百地三佐が〝嫌な臭いがする〟と言うのだ。
今夜から警戒レベルを上げるべきだろう。


「…よし。今夜から迎撃態勢を強める。」
「承知仕った!」
「今一度、策の確認をしましょうぞ。」


赤鬼は懐から折りたたまれた紙を取り出すと畳の上に広げた… それは〝仕掛けと兵の配置を書き込んだ本丸の絵図面〟だった。


私達は誘き寄せ作戦の最終確認を一つずつ丁寧に行った。


・本丸と館の兵配置
・館へと続く〝小径〟への追い込み方法
・私達が迎撃に失敗した時の対処方法
・挟撃時の弓による相討ちを回避
・忍びの頭領は生け捕りにする


「…では、風間殿。この絵図面は写し故、お渡し致す。」
「分かった。 使わせて貰う。」


日が暮れ始めた頃、庭から赤鬼を呼ぶ声が聞こえてきた。
赤鬼が障子を開く… 廊下越しの庭には、赤い甲冑の侍が立っている。
私達の姿を確認すると一礼をした。


「無礼であろう。控えよ。」
「申し訳御座いませぬっ。急ぎ故、失礼仕りまする!」


そう告げた侍は、その場に片膝立ちになった。


「申してみよ。」

「はっ。 庄屋の又右衛門より使者あり… 城下にて不穏な動きをしていた田楽舞一座と坊主どもが、突如消えたとの事。」


(報告を聞いた直後、私の中に〝血生臭い戦いを渇望している自分〟が現れた… 全身に泡が立つ感覚が広がってゆく…)


「・・・分かった。 ご苦労。」
「はっ。」


報告を聞いた3人の顔は何かを確信した表情に変わっている。


忍びであろう者達が取った行動を考えてみた。
不自然な格好で城下を彷徨き、不自然に姿を消してみせる… これは、陽動作戦と考えて間違いないだろう。
今、城から探索隊を出せば、我々は〝お前達に気付いているぞ〟と教える事になる。


「よし… 配下の兵達には、いつも通りに振る舞ってくれと指示を出して欲しい。 俺達が警戒していないと思い込ませる、この作戦の肝だ。」

「承知。」「相分かった!」


赤鬼は立ち上がった… 全員に視線を送り、大きく頷くと廊下をドカドカと歩いて行った。


「誉田… 敵は近いぞ。」
「はいっ。」


誉田は黒装束達に弟を殺されている… 血気盛んな赤鬼よりも誉田の暴走が心配だった。
姿勢を正して一礼をしている… 私も同じ様に返礼をした。
しっかりと私達を見つめた後、大きく頷いてから立ち上がると廊下を歩いて行った。


「大丈夫そうだな。」
「そうね… 自分がやるべき事を理解してる目よ。」


百地三佐の顔が心配気な表情に変わってゆく…


「話は変わるけど… 現代の武器、大っぴらに使わない方がいいと思う。」
「何故だ? 斬り合いよりも死人を減らせる。」

「…この城には火縄銃が無い。 まだ鉄砲の存在を知らないわ。 ハンドガンやアサルトライフルを彼等の前で使ったら、歴史を上書きする一大事件になる。」


・・・盲点だった。
この時代には、マスケット銃はおろか火縄銃すら伝わっていなかったのだ。


私の頭の中では、館への通路に追い込み抵抗されたらアサルトライフルで動けなくすれば良いという考えだった。
銃器を使わない・・・使えない。
つまり、確実に斬り合いが発生する。
此方に損害が出る確率が跳ね上がったのだ。
百地三佐よ… 分かっていたなら早く言ってくれ。


「バレないように使えばいいのかな?」
「あれだけの足軽達… バレない様に使えて? 」


・・・洒落は通じないらしい・・・


「…で、火縄銃が伝わるのは何時頃なんだ?」
「鉄砲伝来は1543年。 種子島に火縄銃が伝来すると数年で日本全国に広まるの。 伊勢家が鉄砲を持っていないという事は… やはり…今は1540年前後よ。」


桔梗殿の話し相手役として館に出入りしながら、色々な情報を得ていたらしい。
しかし… 日本に鉄砲が伝わるまでの数年間、銃は使えないという事か・・・。


「桔梗様と話をしていて、大体の年代は分かった。 それに…」
「それに、何だい?」


「あ… いえ…何でもないわ。 日が暮れる前に準備しましょう…。」


奥歯に物が挟まった話し方をして〝奥の間〟に戻っていった。
何か伝えたい事があるのか…?
妙に気になる素振りだった… あんな余韻の残し方は初めてである。
後でゆっくりと話を聞いてあげた方が良いだろう。


私は藏へと向かった。


夜間戦闘用の黒い迷彩服へと着替えた。
ハードケースを開ける… ベストの空いているマガジンフォルダに護身用の〝レザービリー〟を差し込む。

これは格闘戦になった時に使える武器だが、秘密を聞き出す拷問にも使える。

銃の使用は控えるつもりだが、万が一の事を考えて FN fiveseven にサイレンサーを取り付けてホルダーに収めた。
アサルトパックにドローンセットとナイトビジョン・ゴーグルを入れてから、カフェインガムをポケットへ放り込んだ。
腰に懐剣を差し、紐をベルトに結び付ける… ニーパッド、エルボーパッド、タクティカル・グローブを着けた。


・・・気持ちが引き締まった。・・・


しかし… 火縄銃が伝わるまで銃を大っぴらに使えないのは痛手である。
誘き出し作戦は事と次第では多くの死人が出るかも知れない… 不安に包まれながら、〝竹筒に差し込まれた杭〟をチェックして回った。


日暮れ前のルーティンになっていた〝仕掛けの確認〟を終えて〝離れ〟へと戻ると、玄関の上がり間で作左衛門が控えていた。


「旦那様、出来上がりましたでな。」


太刀を両手に持ち立て膝を付く… 太刀を頭の上で差し出してくる。
鞘の部分には、真新しい金具と共にしっかりと編まれた紐が取り付けられていた。


「組紐に、こう・・頭と腕を通して・・肩に背負うてみてくだせえまし。」
「分かった。」


鞘へ付けられた組紐に頭を通して、太刀の(つば)が右肩へくるように斜め掛けにした。
輪っかに通されている組紐を左の脇腹で結べば、身体にフィットさせる調節が可能になっている… 肩の部分には革当てが付けられており、太刀がズレ落ちない細工も施されていた。


「作左衛門、ありがとう。完璧な仕事だよ。これならば動きを妨げない。」


私は殿から預かった太刀を腰に佩くのに違和感を感じていた。
それは、精神的なものではなく物理的なものである。

どういう事かというと…

腰に佩いた太刀はスニーキングの邪魔になるのだ。
それを作左衛門に相談すると〝太刀を背負えばいい〟とのアドバイスが返って来た。
これはナイスなアドバイスだった。
何故ならば、ライフルと同じ様に背中に背負えば、両手も空いて狭い場所へも入り込める… 一挙両得だった。
そんな経緯があり、私は作左衛門に鞘の造作を任せたのである。


「御武運を…。」


作左衛門の顔が緩んだ。
灯明に照らされた目元の皺が深い… 頭を下げた作左衛門は土間の方へと戻って行った。


迷彩服に着替えた百地三佐が廊下を歩いて来る… 手には打刀が握られていた。
腰にはサイレンサー付きのハンドガンの替わりに伸縮式の警棒が装備されている。
太刀を背負った私の姿を見て驚いている様子である。


「風間一尉… まるで忍者ね(笑)」


アナポリスの生徒達から〝ニンジャ〟と呼ばれていた事を思い出した…。


「自分では意識していなかったんだがな。…やはり、そう見えるかい?」
「黒い戦闘服に背負い刀… 黒覆面をしたら忍者になれるわ。」
「太刀の使い方は得意じゃないがね。」


ポケットに入れていたカフェインガムを取り出し、百地三佐に手渡した。


「あら、気が利くじゃない。」
「夜は交代で哨戒任務になるからな。」
「ありがとう。」

「それと… 偵察に使えるアイテムがあれば自由に使って貰って構わない。取り敢えず、ナイトビジョン・ゴーグルはアサルトパックに入れておいた。」


百地三佐は藏へと向かって行った。
私は廊下を進み、縁側に腰を下ろした。
太刀の(こじり)が床板に当たる… 背負った太刀は、座る時に外さなければならなかった。
多少、面倒臭い側面もある… 致し方ないだろう。


〝「テストよ。聞こえる?」〟


イヤホンから百地三佐の声が流れてきた。


「ああ。聞こえる。」
〝「昔ね… 自衛隊が戦国時代にタイム・スリップする映画があったの。」〟
「知らなかったよ。有名な映画なのかい?」
〝「陸上自衛隊で知らない隊員はいないわ。」〟
「そうか… 戻ったら観てみよう。」
〝「私はその主人公になった気分…」〟


アサルトパックを左肩に背負い、日本刀を手にした百地三佐が藏から戻って来た… 暗くなり始めた縁側へと座った。


すると、木戸から見覚えのある侍が入ってくるのが見えた。


殿から〝爺〟と呼ばれていた仁科五郎右衛門だった。
殿と一緒に城へ入った時に、三の丸で出迎えをした侍だ。
木戸を潜ると此方へ向かって一礼している… 縁側へと歩み寄ってきた。


「風間殿… 失礼致す。」


五郎右衛門は柱一つ隔てた縁側へと腰を下ろした。
庭を見つめている… 悲しげな横顔だった。


「この度の策、城を預かる宿老として殿より仔細聞いておりまする… 仁科五郎右衛門、これより独り言を申す故… お聞き下され。」


そう言うと懐から紙に巻かれた毛髪を取り出した…


「伊勢より駿河へと参る遙か昔より、我が一族は長らく伊勢家にお仕えして参り申した。 拙者は十五にて初陣… 以来、五十有余年… 戦場で過ごした人生で御座る。 嫡男は河越、次男は鷹舞砦の戦で討ち死に致した…。 」


息子二人を戦で亡くしたというのか…。
鷹舞砦の柱に〝伊勢家恩古臣 仁科長盛〟と手彫りしてあった事が思い出された。
長盛とは〝爺〟の次男だった。


「そして… 鷹舞砦で孫の一郎太は忍びの者達に… 仁科家の嫡男は、この老いぼれだけになってしもうた…。 風間殿は顔に派手な刀傷のある男が逃げたと申したな… もし、その者が現れたなら… 現れたならば、拙者に教えて頂けぬか。」


五郎右衛門は庭を見つめていた…。
我が子二人と孫までも戦で亡くす… 他人には想像もつかない悲しみだろう。
大切な者達を失った喪失感がひしひしと伝わってきた。

私は逃げた黒装束の特徴を話した事を後悔した…。
老人に復讐のチャンスがあると思わせる事になってしまっていたのだ。


「・・・一郎太は… 最期まで侍で御座ったか?」


矢を受けた殿に肩を貸して沢を登って来たシルエット… 殿を岩の陰に優しく寝かせた後、抜刀して斬り掛かっていった若侍達の後ろ姿が頭に流れた。


「立派な侍だった… 目の前で仲間が斬り倒されても最期まで敵に背は向けなかった。」


遺髪を握っている手に力が込められた…
私の父親ほどの男が、目の前で深々と頭を下げている。
どうして良いのか分からなくなった私は、百地三佐に視線を送った… 悲しげな表情をしているが、返答が出せないという表情をしている。


下手に希望を持たせると暴走しかねない… この老人への最適解は何なのだろう…?
願いを叶える事だろうか?
それとも、優しい嘘で包んでやる事だろうか?


「風間殿・・・斬り合いでは後れを取るやも知れぬが、弓であらば引けは取らぬ。 この五郎右衛門に一矢報いる機会を与えてくだされい。」


気持ちは良く理解出来た。
しかし、色々と理由を付けてはいるが、この状況で〝一矢報いる機会〟を個人的に求めるという事は、自分を満足させる為の行動なのではないだろうか…。

弟を目の前で殺された誉田の顔が浮かんだ。

誉田は遣り切れない悲しみを心の奥底に押し込んで、自分の役目を全うしようとしている。
しかし、この老人は自分の悲しみを晴らす為に、自分の立場を利用して復讐しようとする意図が感じられた。


「現れたなら教えましょう… それまでは、殿を護る事だけを考えて頂きたい。」
「・・・忝く存ずる。では、これにて失礼仕る…。」


膝に両手を当てながら〝爺〟は、ゆっくりと立ち上がった。
此方を振り向きもせずに木戸を出て行った… 私と一度も視線を合わせてはいない。
本当に独り言だった。


(庭を歩いている〝爺〟の背中に向かって、私の中の〝血生臭い戦いを渇望している自分〟が「俺の邪魔をするな」と言っている…)


・・・自分の中で鎌首を擡げようとしている〝もう一人の自分〟を〝本当の自分〟が押さえ込もうとしているのか? それとも、押さえ込まれているのが〝本当の自分〟なのか? 段々と分からなくなってきている私がいた。・・・


爺の後ろ姿を目で追っていた百地三佐が溜息を吐いている。


「・・・一歩間違えば老害ね。」
「ロウガイとは?」
「周囲に害を与える老人…。」


皮肉たっぷりの表現だった。
私達は任務を優先させる軍人である… 百地三佐にも五郎右衛門が取った行動は軽率だと映ったのだろう。
そう思っても致し方ない… 目の前で弟を殺された誉田は必死で我慢しているのだ。

爺の行動について、それ以上の話にはならなかった。
子供と孫まで戦で失った男の気持ちを全て理解する者など、誰一人としていない。


辺りはかなり暗くなっていた… 私達は囲炉裏のある部屋へと戻った。


作左衛門が灯明(とうみょう)に油を足している。
灯明の明かりに慣れるのには数日掛かったが、今では気に入っていた。
光の明暗が強調されて世界が立体的になるのだ。
キャンドル生活にハマる人の気持ちが理解出来た。


「旦那様。奥方様。」


千代が土間を歩いて来た… 私達の姿を見て、一瞬だけ足が止まった。
お盆には紙包みと竹筒が2つずつ乗っている。


「焼き飯でごぜぇます。今夜はこれで我慢してくだせぇまし。」


手渡されて分かったのだが、紙ではなく木の皮らしき物で包まれていた。
百地三佐は嬉しそうに木の包みを見ている。


「千代さん、ありがとう!」
「急に戦支度ってぇ言うもんで、こんなもんしか作れんかったに。」
「ありがとう。助かるよ。」

「はいぃ。腹が減っては戦は勝てん言いますに。 旦那様、奥方様… 御武運を。」


愛嬌のある笑顔の瞳に強い意志が流れた気がした。
千代は〝ペコッ〟と頭を下げて裏口から出て行った。

百地三佐は〝焼き飯〟の包みを嬉しそうにアサルトパックへと仕舞っている。
廊下の戸板を閉める音が聞こえ始めた… 作左衛門は戸締まりをしているらしい。
赤鬼から渡された〝本丸絵図面の写し〟を床に広げると灯明の明かりが緊張感をより一層際立たせた。


私達は〝迎撃が失敗した場合の対応方法〟について細かく話し合った。


「21時だ。時間を合わせよう。」
「…了解。」


この時代の時間表示は未だに良く理解出来ていない…
私はGショックを21時に合わせて秒の選択した。


「カウントしてくれ。」
「いくわよ… 3.2.1、セット。」


これで、二つの時計は同じ時刻を刻む。


「1回目の鳴子が鳴った後、通路に仕掛けた鳴子が鳴るまでの時間は約2分30秒だ。」
「了解。2分以内で迎撃準備を整えて… 可能かどうかを判断する。」
「そうだ。」


それから暫く、私達は1時間交代で通路の哨戒に立った。


百地三佐が2回目の哨戒から戻って来た直後、微かに土間の裏口が引かれる音がした…
床板が軋む音がする。
私の手は反射的にホルスターへと伸びていた。
打刀を左手に握った百地三佐は立て膝になり身構えている… 百地三佐がアイコンタクトを送ってくる。


私は太刀を手に取った。


土間に誰か居る… 此方へと歩いてくる… 何かが床板に当たった様な音がした… 音が止まった… … 消えた…?


私は障子へと近付き手を掛けた。
百地三佐へアイコンタクトを送る。
居間に繋がる襖を左へとゆっくりと引いた… 足音に気を付けながら、廊下へと出て〝上がり間〟へと回り込む… 。


すると・・・


小上がりの真ん中で土間に向かって〝ちょこんと座っている後ろ姿〟があった…。
戸板には弓と短めの槍が立て掛けられており、床には打刀が置かれている。
矢筒を背負い赤い簡素な鎧を身に着けているが、知っている後ろ姿だった。


「作左衛門…さん?」


百地三佐は拍子抜けした表情をしている。
立ち上がった作左衛門は、此方に振り向くと土間に下りた。
片膝立ちになり右腿に手を乗せて、深々とお辞儀をしている。


「お晩でごぜぇやす。」
「こんな夜中に…何をしているんだ?」
「へい… 〝離れ〟を護っておりやす…」
「戦うつもりか?」

「・・・旦那様のお役に立つ事があっしの仕事。 先鋒は無理でやすが、後詰(こづ)めを。」


また分からない言葉が出て来た… 〝ゴヅメ〟とは何を意味するのだろうか?
百地三佐は優しげな目で作左衛門を見ていた。


「作左衛門さん。私達が帰る場所… よろしく頼むわね。」
「へい。 この〝離れ〟はあっしが・・しっかとお護り致しやす。」


後詰めとは、そういう意味か… また勉強になった。

作左衛門は何故だか嬉しそうだった。
土間の中央で玄関の先に向かって胡座になっている。
存在感を消す事はしていない… 背中からは〝凜としたオーラ〟を放っていた。

ふと、作左衛門は元弓組小頭だと赤鬼が言っていたのを思い出した… 幾度となく戦場を経験しているのである。
この男は〝今の自分は何をする事が最適なのか〟という事を理解しているのは間違いない。


妙に親近感が湧いた。


「作左衛門、ありがとう。…宜しく頼むぞ。」
「へい…。 此処は旦那様の本陣… 賊は一匹たりとも入れさせねぇ…」


作左衛門が座っていた板の間には竹の包み紙が見えた… 千代から作って貰ったのだろうか?
そんな事を考えている内に腹が減っている事に気付いた… 考えるほどに包みの中身が気になって止まらない。


Gショックを確認すると深夜0:00を過ぎていた。


「腹拵えをしておこう。」
「食べておいた方が良いわね。」


私達は囲炉裏の部屋に戻り、千代の持ってきた〝焼き飯〟の竹皮を捲った。
中にはソフトボールはあろうかという巨大な握り飯が二つ入っている。

百地三佐は一瞬固まってから、口元に手を当てて笑っている。

巨大な握り飯は味噌と醤油が塗られて焼いてあるらしい… 何とも言えない香ばしい匂いが鼻孔を擽っている。
ずっしりと重いソフトボールを掴み半分に割ると、中心から潰した梅干しらしき物が出てきた… 真っ茶色だったが、居酒屋で飲んだ梅サワーと同じ種である。


一口、囓ってみた。


焼いた味噌と醤油の香ばしさが鼻に抜ける… 塩っ気たっぷりだ。
百地三佐も〝しょっぱい〟といった表情で唇を舐めている。


「…和の戦闘糧食だね。」
「理に叶った製法よ。 表面を塩分の高い味噌と醤油でコーティング、雑菌は繁殖しづらくなる。 熱が通り難い中心部分には梅干しの抗菌作用… 戦場を駆け回った後、カロリーと塩分補給が可能だわ。」

「…そうか。汗で失った塩分と一緒に、この握り飯で色々と補給できる訳か。先人達の知恵を感じるよ。」


みっちりと握られて焼かれた黒米なので、よく噛まないと飲み込めないのだ… 食べきるのにも時間が掛かる。
一個で充分な満腹感も得る事が出来た。
それにしても、喉が渇くほどの塩気だった… 私は土間に下りて、二つのお椀に水を汲んだ。


「ありがとう。」
「どういたしまして…。」


水分補給を行い厠で用を済ました後、私は哨戒に出た。
家に入る時は靴を脱ぐ、という日本独特の文化は衛生面での貢献度は高い。
だが、こういったシチュエーションでは非常に面倒臭いという事を再認識させられている。


庭は〝ジィジィジィ〟〝リーリーリー〟といった虫の鳴き声で溢れていた。
喧しい虫の鳴き声しか聞こえない闇だった。


…ふと、虫の鳴き声は〝日本人しか聞き取る事が出来ない〟という話が頭に浮かんだ。
日本人は虫の出す音を生き物の〝声〟として認識しているそうだ。
他の民族は雑踏で聞いている〝騒音〟として捉えているので、慣れてしまうと意識に反映しなくなるという。
私には煩わしく感じるほどによく聞こえている(笑)
アメリカで生まれ育ったが、日本人のDNAは失われていない。
これも母のお陰だろう。


小径の植え込みにある岩に腰掛けると直ぐに眠気が襲ってきた。
満腹の後には、お約束の眠気である… カフェインガムを口に放り込んだ。
身体を動かして深呼吸をする… 新鮮な酸素を頭に送ってやる。
深呼吸しながら見上げた夜空は満点の星空だった。
月は出ていない… 新月だろうか。

一瞬、胸騒ぎを感じた。

海兵隊は〝新月の夜〟に攻撃を開始する。
ナイトビジョンや暗視スコープなどの夜間戦闘装備がある事を前提にしているが… この時代にそんなハイテク装備は存在しない。
真っ暗闇での斬り合いは、敵味方の双方にリスクが大きいのだ… 考え過ぎだろう。


真っ暗の庭を抜けて土間に戻ると、灯明の明かりがやけに眩しく感じる。


「作左衛門。月が出ていない。目を慣らしておいた方がいい。」
「へい。」

「楓殿。新月だ。ナイトビジョンは君が使ってくれて構わない。」
「了解。」


哨戒に戻ろうとブーツを履こうとした時だった。
遠くから〝カランカランカラン〟〝カランカランカラン〟と鳴子の音が聞こえてきた。


「・・・敵襲ーっ! 敵襲じゃーっ!・・・」


山側を護る櫓の方から見張りの大声が響いてくる。
Gショックのストップウォッチをスタートさせた。


私はブーツを履くのに手間取ってしまった…。
土間でスタンバイしていた百地三佐は、ナイトビジョンを付けながら走り出て行った。
後を追う形になった・・・木戸を潜って通路へと出る・・・灯明の明かりを見た私の目は未だ暗闇に順応していなかった・・・百地三佐を見失ってしまった・・・


「何やってんだ俺は!」


哨戒に立っていた岩に身を隠した。


「百地三佐? 聞こえるか? すまない、見失った。」
〝「貴方の30m前方よ」〟
「了解。」


Gショックを確認する。


30秒…   60秒・・・  120秒過ぎで〝離れ〟にセットされた仕掛けが鳴り響いた。


速い… 尋常ではない足の速さだ。
違う・・・追い込まれたのではない・・・館へと真っ直ぐ向かって来ている。


「何人だ? 見えるか?」

〝「・・・10人… 違う… 15人以上よ!」〟


ナイトビジョンを使って戦ったとしても、人数の差があり過ぎている。
それに、この配置では百地三佐が一人で迎撃する事になる…


「迎撃中止!迎撃中止っ!百地三佐! 隠れろっ!」


・・・無線が届いた事を祈った。・・・


砂を駆く音が近付いてくる… 植え込みの中で蹲った… 足音の塊が通路を走り抜けていく… 速い… 暗闇の中を全速力で走っている… こいつらは夜目が利くのか?
少し遅れて一つの足音が通り過ぎた。
私は植え込みを飛び出すと後を追った。


あっという間に中庭へと辿り着かれてしまった… 館の陰や植え込みから飛び出してきた〝剛の者達〟と斬り合いが始まっている。


〝「館の戸板に取り付いているわ!」〟


百地三佐が叫んでいる… 無事だった。
篝の薄明かりに照らされた館には、他の者には目もくれずに侵入しようとしている塊がいた… 狙うのは殿の命という事だ。
見事に罠へと引っ掛かってくれていた。


・・・絶好のタイミングで長廊下の戸板が弾け飛んだ。・・・


戸板を外そうとしていた黒装束が跳ね飛ばされている。
直後、長廊下から長刀を頭上に振り上げた男が宙に舞った… 篝火(かがりび)に照らされた顔は阿修羅の形相をした赤鬼だった。


「ぬおぉぉぉぉぁぁあーーーっ!」


赤鬼の咆哮が中庭に響き渡る。
宙に舞った赤鬼が長刀を振り下ろす… 黒装束が〝真っ二つ〟に割れた。


それを見て怯んだ黒装束の集団に、追い付いた私と百地三佐が斬り込んだ。


斬り掛かってきた黒装束の動き・・・何故かスローモーションで見えた。
私の頭に振り下ろされてくる太刀を左に躱しながら、黒装束の腕に向けて太刀を振り下ろす… 両腕ごと斬り伏せた。
百地三佐は低い姿勢で斬撃を躱すと滑り込むようにして抜刀している… 黒装束が左足を残しながら地面へと崩れ落ちる… 。


「赤鬼っ・・・済まん! 」
「少々、数が多かったみたいじゃのぉ!」


赤鬼は〝ニカッ〟と笑いを見せた。
勢い余った私達は、黒装束達のど真ん中へと突っ込んでしまっていた。
360度、黒装束だらけになっている… 切っ先に囲まれていた。


「御両人、まずい事になった。 ちと伏せられよ…」


赤鬼は不敵な笑みを浮かべると両足を広げて〝ずんっ〟と腰を落とした。
私と百地三佐は反射的に匍匐の姿勢になった。


長刀の鐺を握った赤鬼が、上半身を使い両腕を大きくグルッと振り回す…


二人の黒装束が膝から崩れ落ちた… 時間差で首や腕が転がっている。
私は起き上がり様に一番近い黒装束の腹を横に薙いだ。
百地三佐が片膝立ちになり〝すすすっ〟と数歩前に出たと思った瞬間、黒装束の喉に切っ先が突き刺さっている… 刀を抜くと〝ゴボゴボ〟と血を吐き出した… 相変わらず抜刀は見えない。


私達と〝剛の者達〟は、ものの数十秒で10名程の黒装束を斬り倒していたが、まだ斬り倒した数と同じ位の黒装束が残っている。
私達を取り囲んだ黒装束の輪がジリジリと狭められてくる。


「囲めっ! 囲むのじゃーっ!」


誉田が絶妙なタイミングで叫んだ。
その声を合図に見廻組が中庭に展開を始めた・・・追い込む係だった槍兵達も追い付いてきた・・・中間衆達が打刀を手に館から飛び出してくる・・・

形勢逆転である。

私達を取り囲んでいた黒装束達を無数の穂先と切っ先が取り囲んだ。
黒装束達には明らかに動揺の色が見え始めていた。
私達はアイコンタクトを取った。


・・・同時に斬り込んだ・・・


赤鬼の突き出した長刀が黒装束の胸を貫いた。
上向きに刺さった刃をジリジリと持ち上げながら押してゆく… 痙攣しながら大量の血を吐き出している黒装束の足が、徐々に爪先立ちになってゆく… 完全に浮き上がった。
そのまま真上に振り上げると、嫌な形で上半身が裂けた。

動きが止っていた黒装束二人が同時に飛び出してくる… 太刀筋は不思議とゆっくり流れて見えている… 私は身体を傾けて初太刀を躱し、右から左へと太刀を薙いだ。


黒装束の首がゆっくりと跳ね上がってゆく…


一人が百地三佐へと斬り掛かって行くのが見えた。
百地三佐は左腰に差した打刀に手を掛ける… すーっと、直立姿勢を取った。
ギリギリまで間合いを詰めさせている。

一瞬、跪く程の低い姿勢になった。

・・・光る様な強烈な殺気を放つ・・・走り抜けながら抜刀した様子である・・・ 鞘に刀を収める音と共に黒装束が崩れ落ちる・・・刀を握ったままの両腕が落ちてきた。


「御両人! お見事じゃ!」


取り巻いている兵や〝剛の者達〟からは低い感嘆の声が上がっている。
これで、私と赤鬼が正面、百地三佐が後方に回り込んで黒装束達を挟む形になった。


その時だった…


「前へっ! 討ち取れ!討ち取るのじゃっ!」


五郎右衛門の声だった。
私達の後方から、弓を携えた五名ほどの侍を従えて走ってきた。
篝火に照らされた五郎右衛門の表情は憤怒に満ちあふれている… 孫の一郎太を殺された復讐心が暴走していた。


「構えぃ!」


その声に反応した黒装束達は覆面の男を護る様に小さく固まった… その真後ろでは、百地三佐が居合の構えを取っている。


「待てっ! 近すぎる!」
「五郎右衛門殿っ! 御味方に当たる!」


「放ていっ!」


私と赤鬼の制止を無視した五郎右衛門は侍達に命じた。
弓が放たれると同時に黒装束達の塊は散った… 覆面の男は後方へと飛び上がる… 空中で一回転して避けてしまっている。


矢が百地三佐に向けて真っ直ぐに飛んでゆくのが見えた。


「危ないっ!」


百地三佐は地面へ伏せながら矢を避けた… が、後方で囲んでいた赤い鎧を着けた足軽達を射貫いてしまっていた。


「五郎右衛門殿! 宿老がなんたる事っ!」


誉田は今にも斬り掛かりそうな形相になっている。
誉田の事など見ようともせず、五郎右衛門は矢を番えていた。


「何をしておるか! 構わぬわっ! 放つのじゃ!」


二の矢を構えた侍達は味方を射貫いてしまった事を見て動揺している… 再び味方を射ってしまう事を恐れて的を絞り切れていない。

黒装束達は此方の隙を見逃してくれなかった。

私と赤鬼の横を回り込み、弓を持った侍達に向かって斬り掛かってゆく。
私と赤鬼の意識が後方に向かったのと同時に、覆面の男が百地三佐に斬り掛かった。
私は百地三佐へと走り寄ったが間に合わなかった… 百地三佐の斬撃は躱されてしまい、羽交い締めにされてしまっている。


五郎右衛門の配下達がバタバタと斬り倒されてゆく…


「五郎右衛門殿! 控えておれぃっ!」


赤鬼の咆哮が響いた… 視線を送ると、五郎右衛門の配下に斬り掛かった黒装束に突っ込んでいった… 〝剛の者達〟も一斉に斬り掛かっている。



…斬り結ぶ音が消えた…



血飛沫を浴びた赤鬼は、まさに〝赤鬼の孫六〟そのままの形相だった。
剛の者達が地面でのたうっている黒装束達にとどめを刺して回っている。
黒装束達は全て討ち取られ、覆面の男だけになっていた。


百地三佐を羽交い締めにした覆面の男は小太刀を突き付けている。


人質にして逃げるつもりだろう… だが、自暴自棄にさせると百地三佐を刺すかも知れない。
赤鬼達が怒濤の勢いで走り寄ってきた。
誉田は太刀を払い斬り掛かろうとしている。


「手出しするなっ!」


私が叫ぶと赤鬼と誉田の足が止まった… 囲んでいる兵達も固唾を飲んで見守っている。


黒装束が一斉に弓から護ろうとした男だ。…こいつが忍びの頭領だろう。
私は太刀を鞘に収め、覆面の男との間合いをゆっくりと詰めた… 覆面の男はジリジリと本丸御門に向かって後退りしている。


形勢は逆転してしまっていた。
生け捕りは可能だろう… だが、実行すれば百地三佐は死ぬだろう。


・・・このシチュエーションの最適解を探した・・・


どう考えても、ハンドガンで眉間を撃ち抜くのが最適だった。
城兵達の前で銃を使えば大騒ぎになるのは避けられない… しかし、背に腹は代えられない… 私はゆっくりと右手をガンホルスターへと伸ばした。

それを確認した百地三佐は… 首を横へと振った。


「お前は勝った訳だ… 見事に勝った。」


咄嗟に言葉が出ていた…
覆面の男はピクリと反応した。


「伊勢家の城に忍び込み、殿を追い込んだ。 味方を失ったが… 本丸で大暴れして伊勢家に大恥を掻かせた訳だ。」


「・・・ああ、そうだ。 氏康の顔に泥を塗ってやったわ。」


しわがれた低い声が地面を這う様に伝わった…
聞き覚えのある声だった。


「そうだな… この囲みを解き、まんまと逃げ果せる男の名と顔を知りたい。 今後の戒めとして伊勢家で言い伝えてやろう。」


男は覆面をゆっくりと外した… 額から左目・頬に掛けて派手な刀傷があった。
それを見た誉田の表情が引き攣っている。
間違いない… 鷹舞砦で次郎丸や一郎太達を小太刀で刺し殺した男だった。


「儂の名は… 佐久間貞光じゃ。氏康の面目を潰した男を末代まで語り継げ!」
「佐久間貞光。 よく覚えておこう… 恥曝しの屑野郎だとな。」

「・・・何っ!」

「もう一度言おうか? お前は卑怯な男として名を残す…」
「だ、黙れっ!」


目に怒りの炎が灯った… 煽りに乗って来ている… キレるまでもう少しだ。


「未だ気付かないのか? 恥曝しの屑野郎よ。」
「黙れっ!」


「・・・もう一度言おうか? 未だ気付かないのか?」


明らかに動揺している… もう一押しだろう。


「ならば教えてやる。お前は女を人質に取ってまで逃げようとした屑野郎だよ。」


左手で百地三佐の胸を弄って確認している… 股間に手が伸びた… 百地三佐の顔が歪んだ…
佐久間の目が見開かれた。
誉田が太刀を上段へ構えた… 赤鬼が上手く静止した。


「お前は男のくせに女を人質にしてまで逃げようとしている卑怯者だ。 お前は名乗り顔も晒した。 逃げても生涯恥を晒す事になる。 ここにいる全員が生き証人だぞ。」


「…黙れ! 門を開けろっ。」


佐久間は全てを悟った様子だ… 今にも百地三佐を刺すという表情になっている。
この男は〝見えない速さの小太刀〟を使うのだ。
これ以上、煽るのは危険だろう…


「おい、卑怯者よ。 お前に汚名を雪ぐ機会を与えようじゃないか。」

「・・・何じゃと?」

「俺と一対一で勝負しろ。 勝てば此処であった事は忘れて逃がしてやる。 死んだら、伊勢家に一泡吹かせた男として丁重に葬ってやる。…どうだ?」


佐久間は開き直った表情へと変わっていった。
私は赤鬼に視線を送った。
僅かな沈黙の後、赤鬼は一歩前へと進み出た…


「佐久間貞光よ! 侍大将、佐々木孫六じゃ。 今の話、儂が保証しようぞ! 正々堂々戦って汚名を雪げ!」


佐久間は少しずつ本丸御門の方へと後退ってゆく…
赤鬼が長刀の鐺を地面へと突き立てた。


「皆の者、よぉーく聞けぃ! 此より二人の一騎打ちじゃ。 佐久間貞光が勝てば、儂らに一泡吹かせた(おとこ)として放免致す! 討ち取ってはならん。 良いか!」


赤鬼の言葉の後、遠目に取り囲んでいた兵達が地べたへと腰を下ろし始めた。


・・・周囲をゆっくりと確認した佐久間は百地三佐を突き飛ばした・・・


取り囲んでいる兵達は響めいている。
百地三佐が此方へと走り寄って来た。
目に弱さは感じない… まだ気力は充分に残っている。


百地三佐の肩に手が触れると私の肩の力が抜けるのを感じた。
大きく深呼吸する…


私の大芝居は上手くハマってくれた。
心理戦には勝ったのだ… 後はどうやって、この屑野郎を仕留めるかだ。
相手は小太刀だ… 太刀ではフェアじゃない… これだけの城兵達が見守っている… 武器のレベルを合わせなければ、私も卑怯者呼ばわりされるだろう…。
私は太刀を百地三佐に手渡した… 腰の懐剣を鞘から払った。


見守る城兵達がざわついている。
懐剣を逆手に握り返した…。


佐久間は右手に小太刀を持ち正眼に構えている… 私はジークンドーの構えを取った。


暫くの間、お互いの間合いを計っていた。
佐久間の右足が出たのを合図にジリジリと間合いを詰め合う…
佐久間の身体が小さくなったのと同時に〝突き〟が来た。…それなりに速い。
だが、スウェイバックで躱せる速さだ。

懐剣を持ち直して、目を突く様にジャブを出した… 振り払おうとしてくる。
振り払ってきた小太刀は余裕で避けられるスピードだった… 刃が合う事も無い。
私は一気に間合いを詰めて右肩を狙って懐剣を突き出した… 切っ先が軽く刺さった。


・・・ジークンドーのステップを使い間合いを詰める・・・


もう一度、ジャブを突き出してみた… また、切っ先が軽く刺さった。
わざと刺させているのか・・・間合いの詰められ方に違和感があった。


おかしいと感じた次の瞬間、左手から小刀が伸びてきた。
とてつもない速さである。
私は避けるのが精一杯だった… 今までとは比べられないほどの速さで連続した鋭い〝突き〟が襲ってきた。

後退りしながら避けるのが精一杯だった。

避けきったと思った直後、小刀を逆手に握った〝バックハンドブロー〟を出してきた… 思った以上に腕が伸びて来る。
躱せなかった。


・・・左の二の腕を斬られてしまっている。・・・


間合いを取り直した佐久間は右手に小太刀、左手に両刃の小刀を握っていた。
いつの間にか二刀流になっている… しかも、こいつは左利きだ。
やる事なす事、卑怯な奴だった。


「賢人殿! 太刀をっ!」
「・・・いや、これで充分だ。」


百地三佐はフェアではないと感じたのだろう。
太刀を持つ事を勧めてきたが、私の闘争本能には火が付いていた。
こいつの卑怯さを際立たせてやれ… 私のブラック面がそう言っている。
どうせならば、大芝居で勝ってやろうじゃないか。


左手に握られた両刃の小刀は、今までとは比べられない程の突きと斬撃を飛ばしてきた。
小型のナイフであれば避けきれない程の速さになるだろう…。


・・・懐剣を逆手に持ち直す。・・・


鐺でジャブを出しながら間合いを詰める… 3発目のジャブを打った瞬間、遠心力を使って手首を返しながら懐剣を持ち直した… そのまま右上方へ腕を伸ばした…
佐久間の唇から左頬が〝パックリ〟と割れた。
血が滴っている… 割れた唇から息が漏れる度に血が飛び散っている。

佐久間の目に怒りが走った…

一瞬、佐久間が視界から消えた。
しゃがみ込みながら突進してきた佐久間は凄まじい〝突き〟を繰り出してくる… 返しの斬撃を避けるのが精一杯だと思った矢先、右の頬を切っ先が掠めた。


右頬が熱い… 浅く斬られている。
顎から血が滴った。


私達はほぼ同時のタイミングで後方へと下がり、お互いの間合いを計った。
肩を突いたなら肩、頬を斬ったならば頬… やられた場所をやり返してくる。
佐久間という男の執念深さが滲み出た闘い方である。


佐久間が小太刀を振り上げようとした瞬間… 私は賭に出た。
左手に握られた両刃の小刀に意識を集中させつつ、思い切り間合いを詰める…。


左拳でボディを打つ素振りをする… 佐久間の意識が腹への防御に向かうのが感じられた。
右手の小太刀で上段の防御をしつつ、私の左拳を目で追っている。
スウェイバックで躱そうとしたのを半歩前に出て更に間合いを詰めてやった。

左拳に意識が向いた佐久間の下半身は無防備だった・・・私はブーツの踵で佐久間の足を思い切り踏み付けた。
裂けた頬から流れ出た血が、吐く息と共に私の顔に飛び散った。
苦痛に顔を歪めた佐久間は上段に構えていた小太刀を振り下ろしてくる。
間合いを詰め過ぎてしまっている… 避けきれない距離だった。



突然、頭の中で〝パーン〟と破裂する音が聞こえた。
キーンという耳鳴りと同時に、目の前の世界がスローモーションに変わっている。



何なんだ・・・この感覚は・・・



太刀筋がはっきりと見えている・・・
小太刀の流れに背いて身体を傾けた・・・
利き手の左手首を掴む・・・
小太刀が顔に向かって突き出されてくる・・・
小太刀を握った右手首に向けて懐剣を振り抜いた・・・


しっかりと手応えを感じた。
佐久間の右手は不自然な形でぶら下がっている。


・・・視界が徐々に元に戻ってゆく。・・・


私は間髪を入れずに握っていた左手首を捻り上げた… 両刃の小刀が落ちる…
危なかった… ブーツを履いていなければ、足の甲に突き刺さっていただろう。


捻った左腕に両足で組み付いた… 回転しながら、倒れざまに全体重を掛けた…〝ボコッ〟という音と共に、私の腹に肘が折れる振動が伝わってきた。
佐久間は両腕をダラリと放り出したまま、顔面蒼白になっていた。


城兵達から歓声が湧き起こっている。


「旦那様ーっ! お見事でございやす!」


作左衛門が弓を振り上げていた。
鳴子の仕掛けを手伝ってくれた中間衆達が右手を突き上げている。
黒と赤の具足を身に着けた兵達も槍や刀を天に向けて勝利を祝福してくれていた。


歓声に包まれた私は不思議な高揚感で満たされていた… 全身の毛穴がざわめいている。
ショーの主役になっている様な錯覚を覚えた。


佐久間を篝火の近くまで引き摺って行った。
私は地面に落ちていた覆面用の黒布で佐久間に猿轡をした。
此処で死なれては意味がないのである。
不自然にぶら下がっている右手首を斬り落とし、火の付いた薪を傷へと押し当てた。
嫌な叫び声が猿轡から漏れている… 。
これで、この屑は舌を噛む事も失血死する事もない。


未だやる事は残っていた…
誰に命じられて殿の命を狙ったのかを嘔かせなければならないのだ。


植え込みに仕掛けてあった鳴子のロープを切り、佐久間の腰を松の木に縛り付けた。
誉田が静かな憤怒を携えながら近付いて来た。
赤鬼が集めた〝剛の者達〟や鳴子を一緒に仕掛けた〝見廻組の足軽達〟と〝中間衆達〟も続々と集まってくる。


皆、一様に〝やってやった〟という自負に溢れた表情をしていた。


憤怒と殺意に取り囲まれた佐久間の目には、諦めと恐怖の感情を漂わせている。
私は佐久間が被っている頭巾をずらして目隠しをした。
すると、五郎右衛門が走り寄って来た… 左腰の太刀に手が掛けられる。


「五郎右衛門殿、まだ分からぬか!」
「殿は生け捕りにせよ申された! 貴殿は宿老であろう!」


赤鬼と誉田の制止を払い除け、太刀を鞘から払って上段へ構えた瞬間・・・五郎右衛門は棒のように地面へと倒れ込んだ。

・・・首と脇腹を矢で射貫かれている。

矢が飛んできた方向へと振り返ると、天守へと繋がる石階段の上には見た事も無い形相で仁王立ちしている殿がいた… その両隣には鎧武者が強弓を構えている。
殿は素足のまま庭に下りてきた。


「皆の者、良く聞けぃ! 仁科五郎右衛門は儂が手討ちに致した!」


殿の姿を見て取った兵達が〝ガシャガシャ〟という音と共に、立て膝になって頭を下げ始める… 赤鬼と誉田も片膝立ちになっていた。
殿は私の隣に来ると大きく頷いた。


私はマガジンポケットに差していた〝レザー・ビリー〟を取り出し、先端の重さを確かめた…


百地三佐は ”うんざりだ” とでも言いたげな表情を浮かべている。
殿はレザービリーを手にした私の手元をまじまじと見ていた。


「風間殿、何を致すのじゃ?」
「…誰が殿の命を狙ったのかを謳わせる。」
「此処でか?」

「そうだ。」


衆人環視の状態で殴る蹴るの尋問は、行う人間の人格を疑われてしまう。
生け捕りにした後の事を考えて、私は〝拷問〟のツールを持って来ていた。
これは、編んだ革の中に鉛の塊が仕込んである近接戦闘用の武器だ。
身体の表面に傷は与えないが内側と精神にダメージを与える〝いやらしい武器〟である。


私は佐久間の正面に立った。


佐久間は怯えた視線を泳がせている… 私は佐久間から視線を外した。
視線を外したまま、手首のスナップを効かせて左側頭部にレザー・ビリーを叩き付けてやった… 鈍い籠った音がした。


不意の攻撃を食らった佐久間は身を捩らせている。


「お前は誰に雇われた? 言え。」


手首のスナップを使い、左のこめかみ辺りを叩いた。


「お前は誰に雇われたんだ? 言え。」


レザー・ビリーは革を編んで作られているので触った感覚は〝ソフト〟なのだが、鉛の重量があるので重たい衝撃が脳を揺さぶるのだ。
頭を引っ叩く事を繰り返しながら同じ質問を続ける… そうすると、大抵の人間は聞かれてもいない事を喋り出す様になる。
この拷問は見た目はソフトだが、耐えられたとしても脳が損傷して廃人になる極めて残虐な拷問法なのだ。


「誰に命令された? 言え。」


あくまで手首のスナップを使い、力を込めずに頭を引っ叩く。
5秒間隔で引っ叩き、時々聞きたい質問をする… これを延々と続けるのだ。
暫くすると鎧の擦れる音が止まった。
静寂の中、私の一挙手一投足に視線が集中されていた。


「お前は誰に殿を殺せと命令されたんだ? 言え。」


手首のスナップを使いながら、左右の側頭部を引っ叩きつつ質問を繰り返した。


2分が経過した頃、佐久間の身体が捩れ始めた…
5分が経過すると、猿轡から〝あうあう〟という呻きが聞こえてきた…


殿、それに誉田と赤鬼は私が行っている事を一言も発さずに静かに見ている… 百地三佐に至っては、危ない者でも見る視線を送って来ていた。
取り囲んでいる者達は射るような視線で佐久間を見ている。


「誰に指示されたんだ? 言えよ。」


右のこめかみ、左のこめかみ、頭頂部… 5秒間隔で叩きながら同じ質問を繰り返した。


身体を激しく痙攣させ始めた佐久間は叩く度に〝キィ〟という呻きを発し始めている。
私は佐久間の頭巾と猿轡を外した… 皆に聞こえる様に大きな声で質問をした。


「お前は誰に命じられた? 言ってしまえっ!」


佐久間の視線は既に飛んでいる… ピンク色の泡になった涎を垂らしていた。
私は右手のレザー・ビリーを握り直した。


「誰に命じられて伊勢家の頭領を殺そうとしたんだ?」


左の側頭部を強めに叩く… 佐久間の顔が大きく揺れると口を半開きにしながら天を仰いだ。
下半身を突っ張らせながらガクガクと痙攣を始めている。
何かを喋っている… 尿臭が漂い始めた…。


「うじ・やぁ・・す・・こぉろぉせぇ・・・いせぇ・・・ね・・だぁやぁし・・」


佐久間はこの期に及んでも殿を殺す気でいる… 私は無性に腹が立った。
レザービリーを左の側頭部に叩き付けた。
佐久間は〝ぎぃぃぃーーーっ〟と奇声を発しながら、血の混じった涎を垂れ流している。


私は皆に聞こえる様に声を張って質問をした。


「もう一度聞くぞ。お前は、誰に、殿を殺せと言われたんだ?」


「・・・うえぇ・・・うえぇ・・すぎぃ・・・ともぉさぁだ・・・さぁまぁ・・・」


誉田と赤鬼が目を合わせて頷いている。
私にも〝上杉〟とは理解出来た。下の名前は〝ともさだ〟 …だろうか?
殿が佐久間に近づき、此方へ振り返った。


「儂はこの目で見、この耳で聞いた。 此方からは上杉の名前など一言も出しておらなんだに、此奴は自ら〝上杉朝定〟と言うた。 儂の命を狙うて、次郎丸達をも死なせたのは扇谷の上杉じゃとな!」


篝火に照らされた殿の表情は、深い怒りと悲しみに満ちている様に感じた。
取り囲んでいる者達は瞬きもせずに、殿の一挙手一投足に集中している…


「佐久間と言うたな。最期に何か言いたい事はあるか?」

「・・・ころぉせぇ・・・うじや・・・す・・・いせぇえ・・・ころぉせえぇ・・・」


佐久間は怨念じみた言葉をブツブツと吐いている。
それを聞いていた一番近くに座っている〝剛の者〟が脇差しに手を掛けそうになっていた… 取り囲んでいる者達の目は侮蔑に満ちた物に変わっている。


「風間殿。ようやってくれた・・・礼を申す。 」


殿は太股に両手を添えると・・・私に向かって一礼した。
すると… 取り囲んでいた兵達が一斉に片膝立ちになり、殿に倣った。
踵を返した殿は、誉田を見つめている…。


「輝明。 首を刎ねいっ! 扇谷の城へ投げ込んで参れ!」
「御意っ!」


威厳を持った声で命じると、館の中へと戻って行った。
誉田は佐久間の左横に立った… 払った太刀の切っ先を顎の下に当てて顔を持ち上げさせた… 佐久間の目は死んだ魚の目になっている。


「・・あぅ・・ぐへぇへぁ・・・」


佐久間は壊れていた。


誉田の握った太刀が項垂れている佐久間の首へと振り下ろされた。
佐久間の頭が転がってゆく・・・斬り口からは水鉄砲の如く血が噴き上がってきた。


「輝明っ! お見事!」


取り囲んだ城兵の視線を気にする事無く、太刀を握り締めたまま誉田は咽び泣いている。
弟を目の前で殺されてからずっと耐えていたのだ… 感情が爆発したのだろう。
思い切り泣いていい・・・恥ずかしい事じゃない。


「次郎丸! 一郎太! 三郎っ! お前達の仇は討ったぞ!」


誉田は星空へと太刀を翳した。
取り囲んでいた兵達の歓声が本丸に響き渡った。



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