第19話 殿と呼ばれる男

文字数 10,225文字

遭難したと思い込もうとしてから3日が経過している…。


目の前の事実から推測すると我々はタイム・スリップしていると考えて良いだろう。
百地三佐も同じ事を考えている様子だが、お互いに〝タイム・スリップ〟という非現実的な言葉は口に出してはいなかった。

この3日間は食料確保を最優先にして ”沢の狩りポイント” に張り込んでみたものの、無数に残されている足跡以外を発見する事は出来なかった。
用意していた戦闘糧食+α(缶詰)は既に残り2日分になってしまっている。
飢えに襲われるのは時間の問題だった。



・・・4日目の狩りは時間を変えて ”待ち伏せ” をする事にした。 私達は今、動物の足跡が無数に残っている〝沢のポイント〟を見通せる場所に身を潜めている・・・



東の尾根が少し明るくなってきていた。

もう少しで夜が明けるだろう… 森の動物たちが活動を始める時間帯である。
無数に輝いていた星々は消え〝晴れるであろう夜空〟が広がっている。
鳥たちの鳴き声も聞こえ始めた頃、東の空に一際明るい星が輝いていた。

…あれは金星だ。

日本では夏の金星を〝明けの明星〟と呼び、冬の金星を〝宵の明星〟と呼ぶと母から教えて貰った事を思い出した。

太陽が顔を出すまでの短い時間、空は光と影、オレンジ色と紫・蒼・碧・藍のコントラストに染まる… それらは太陽が顔を出した瞬間、すーっと消えて無くなってしまう。
私はサンセット・タイムよりもデイ・ブレイクのマジック・アワーが好きだった。


マジック・アワーで気を紛らわそうと思った矢先だった…


鳥たちの鳴き声が止まった様な気がした時、河原の泥濘に一頭の大鹿が姿を現した。
待ちに待った 〝獲物〟 である… 体格もしっかりしていた。
薄明かりに照らし出された姿には、神々しさをも感じさせる立派な角を携えている。

鹿をみて 〝美味そうだ〟 と思った自分が情けなくなった。

気を取り直して大鹿の動きに集中した…。
幸運にも私達は風下にいる… 臭いで気付かれてはいない。


「この既視感… やるせないわね。」
「しーっ… 動かないで。」


太もものガンホルダーに手を伸ばす。
安全装置を外す… スライドをゆっくりと前後させ鹿の首に狙いを定めた。


ポインターを首に合わせる… 呼吸を止める…


引き金を絞った。


〝ボスッッ〟


サイレンサー特有の射撃音の直後、大鹿の頭が仰け反った。
暴れ回る事をせず、その場に倒れ込でいる… 我ながら上出来だった。
苦しみが長く続くとストレスホルモンが分泌されてしまい、肉が不味くなってしまうのだ。

大鹿に近付きLEDライトで傷口を確認すると、弾丸は鹿の首を破壊する事なく綺麗に頸椎付近を貫通していた。
太い血管が破れた証拠に大量の血が流れ出している… 解体には好都合だった。



「百地三佐、手伝ってくれ。」
「あ、えっ! 私?」
「レディに血生臭い事はさせるなって事かな? 最高の食材だよ。」
「・・・。」


百地三佐は遠巻きでこちらを見ている。
鹿の痙攣が止まると首からの出血も止まった… 私は鹿の目を閉じてやった。
心臓マッサージをする様に鹿の胸を何度も踏みつける… 傷口から残っていた血が流れ出てきた。


「荒っぽいがね。 体に血を残さない事が肉を美味くする秘訣なんだ。」
「・・・。」


血が完全に止まった後、鹿を引き摺り沢の水に全身を漬けた。
身体を冷やしてやると脂肪が固くなり皮が剥がしやすくなるのだ。
それに、毛皮から厄介なダニなども逃げ出していくし汚れも落とせる。
日陰の多い沢の水は冷い… 此処ならば半日ほど漬けておけば充分だろう。



・・・大鹿の体全体を沢に漬けた時、急に鳥たちの鳴き声が止んだ・・・



森の雰囲気が明らかに変わった。
百地三佐も気付いた様子である… 辺りを窺っている。

すると… 沢の下流から駆け登って来る人影が見えた。
薄明かりに反射する物を手に持っている。
私は飛び出しそうになった百地三佐の肩を押さえた。


暫く岩陰から様子を窺った…


辺りを慎重に窺いながら、人影は徐々にこちらへと近付いて来た。
更に4つの人影が沢を登ってくるのが見えた… 2人の男が1人の男を抱える様にして歩いている… 良く見ると、抱えられている男の右肩には矢が突き刺さっているのが確認できた。
最後尾の男は後方に意識を向けながら歩いている。


男達の顔が薄明かりでも分かる距離に達した時… 私は自分の目を疑った。


”これは現実か?” …何度も何度も自分に問いかけた。
…何故なら、目の前にいる5人の男達は全員が〝(まげ)〟を結い、腰に日本刀を携えているのだ… 先頭と後方の男は抜刀している… 何処をどう見たとしても日本の ”サムライ” なのだ。


百地三佐から大きな溜息が聞こえてきた。


「やっぱり… そういう事…」
「ああ… これから先が思いやられる…」


肩に矢が刺さっている侍が10mほどまで近付いてきた時だった。
沢の下流から、3人の黒装束が ”飛ぶ様に” 駆け上がって来るのが見えた。


尋常ではない足の速さである…


その姿を確認した侍達は矢が刺さっている男を岩の陰に仰向けで寝かすと、それぞれが抜刀して応戦の構えを見せた。
凄まじい〝殺気〟のぶつかり合いだ。


痛いほどの殺気を全身に浴びたのも束の間、先頭で駆け上がって来た黒装束が高く飛び上がる… 着地と同時に最後尾で抜刀していた侍を一瞬で切り倒した。
その勢いのまま、もう一人の侍に刀を突き出した… 動きが止まった黒装束の刀は侍の腹を貫通している。
侍の身体が小刻みに揺れていた… 刀を引き抜くのと同時に侍は膝から崩れ落ちた。


・・・目の前で ”()()()()()()()” が行われていた。・・・


後から独りで沢を登ってきた黒装束に小柄な侍が斬り掛かってゆく…
黒装束が上半身だけで刀を去なした直後、小柄な侍は顔から倒れ込んでしまった。
小柄な侍は何をされたのか?
黒装束の男が見えないほどの速さで ”何か” をしたのだ。


ものの数十秒で、肩に矢が刺さっている男を護っている侍は独りだけになってしまっていた…。


「殿! お立ちくだされいっ! お逃げくださいませ!」


そう叫ぶのと同時に、矢の刺さっている男の前に髷を振り乱した侍が走り出た。
太刀と小太刀を抜き両手を広げて黒装束達の前に立ちはだかっている。
凄まじい気迫と覚悟が伝わってくるのがはっきりと分かった。


殿と呼んだ男をたった独りで護ろうとしている…。


二刀流の侍は2人の黒装束と互角に闘っていた。
蹴り倒されても弾き飛ばされても立ち上がる… 殿と呼んだ男に ”お逃げ下さいませ!” と訴え続けている。
顔と体は泥にまみれているが、果敢に立ち向かう姿には美しさをも感じさせた。


…だが、殿と呼ばれた男は横になったまま動く事はなかった。


沢の下流で戦況を見つめていた ”見えないほどの速さ” の技を使う黒装束が、ゆっくりと〝殿と呼ばれる男〟に近付いてゆく…。

それを見た侍は最後の気力を振り絞ったのだろう、果敢に斬り掛かって行った。
黒装束の男は後方から斬り掛かられたにもかかわらず、上半身だけで斬撃を去なした… そう思った瞬間、二刀流の男は地面へと突っ伏した。


やはり、あの黒装束は〝見えないほどの速さ〟で何かを使っている。
斬り込んできた相手に対して、斬り付けるのではなく ”突き刺す” 武器の使い方だ。
二刀流の侍は泥濘(ぬかるみ)を這いずりながら、殿と呼んだ男の方へと向かおうとしている… もう少しの所でうつ伏せのまま動かなくなった。


黒装束の一人が矢の刺さった男に走り寄った。
顔を確認している様だ。


「お(かしら)、間違い御座いませぬ。」
「…よし。やれ。」


しゃがれた低い声が音の無い森に染み渡った。


黒装束が太刀を抜きながら〝殿と呼ばれる男〟に近付いてゆく… 首を討るつもりだろうか?
死を覚悟した侍の闘いに魅せられた私の身体に、電流の様な何かが流れた事をはっきりと感じ取れた。
頭の中に〝首を討らせてはいけない〟という言葉が木霊のように繰り返されている。


何故か銃を抜くよりも先に走り出していた。


私は〝殿と呼ばれる男〟に太刀を突き刺そうとしている黒装束の背中へ向けて飛び掛かった。
少し遅れて、草叢から走り出た百地三佐は落ちている刀を拾い上げた。


私は飛ぶと同時に腰の懐剣を抜く…
その勢いのまま、太刀を逆手に握っている黒装束の右首へ突き立てた。
黒装束の男はガクガクと膝を震わせている。

百地三佐は傍らで様子を窺っていた黒装束の男に走り寄ってゆく。

腰を落とした瞬間に抜刀した様子である。
左脇腹を横に薙いでいた… 黒い装束の脇腹から腸を流れ出させながら膝から崩れ落ちる… 男は藻掻きながら自分の腸を掻き集めていた。
居合術の見事な太刀捌きだった。

黒装束が独りになった事を見て取った私は頸椎を断ち切るように懐剣を引き抜いた… 血柱が盛大に吹き上がる。


一瞬で形勢は逆転していた。


”頭”(かしら) と呼ばれていた黒装束は後退りを始めている。
薄明かりに照らされた顔には、額から左目・頬へと派手な刀傷が見て取れた。
懐剣を構え直して一歩踏み出す… 百地三佐は居合の構えで腰を落としいている…
すると、 ”お頭” と呼ばれた派手な刀傷を携えた黒装束は身を翻し、とんでもない早さで沢を下って行ってしまった…。


・・・周囲の気配に意識を集中させる・・・


少しずつ鳥の鳴き声が戻ってきた。


最初に斬り倒された侍達を確認したが、やはり生きている者はいない。
派手な刀傷を携えた男に倒された侍は心臓を刺し抜かれていた。
しかし、全員若い… 二十歳そこそこだろうか… 少年の様な面影もあった。
殿と呼ばれる男を護るために命を捧げた男達である… 尊厳を持たせて土へと還らせてやりたいと心から思った。


3つの遺体を仰向けに寝かせ、太刀を抱えさせて腹の上で両手を握らせてやった。
すると、後方から人の気配を感じた…。


肩に矢を刺したままの〝殿と呼ばれた男〟 が上半身を必死に起こそうとしている。
未だ生きていた。
あれだけ〝逃げろ〟と言われていたのに、この男は逃げる素振りさえ見せなかったのだ… 何故だろうか?

私が近づくにつれて、目には殺気を帯びた恐怖の色を強めている。

私は敵意が無い事を見せ付ける様に、懐剣に付いた血糊を沢の水で洗い流し鞘に収めた。
懐剣を収めると… 男から放たれていた殺気が消えた。


「…何者か?」


唐突に名前を聞いてきた。


「この状況の場合… 先に名乗るべきではないか?」
「…儂は… 伊勢新九郎(いせ しんくろう)・・・氏康(うじやす)と申す。」
風間賢人(かざまけんと)だ。」


〝殿と呼ばれる男〟は私の懐剣を見入っている。


(かたじけな)い・・懐剣の紋所、細川家の御仁か…? 」


神田警部補が〝懐剣の家紋は細川京兆(きょうちょう)家が使っていた家紋だ〟 と言っていたのを思い出した… どうやら、本当の話だったらしい。


「…まぁ、そんなところだ。」
輝明(てるあき)が・・小手負うておる… お頼み申す・・・」


二刀流で戦った侍を指差している。


先ず、〝殿と呼ばれる男〟に刺さっている矢の状態を確認した。
右鎖骨の下に矢が深く刺さっているが出血は少ない… 命の危険は少ないだろう。
不用意に抜かなかったのはセオリーであるが、動く度に激痛を味わった筈だ。
出血よりも激痛で体力を消耗している様子である。

次に、〝輝明(てるあき)〟と呼ばれた男の状態を確認した。

背中には大きな血の染みが広がっている… 貫通刺創だ。
仰向けの状態にすると、心臓よりも遙かに高い位置を刺し抜かれているのが確認できた… ゆっくりだが胸を上下させている… 意識は辛うじてある。
沢の水で顔の泥を落としてやると大きく目を見開いた。
若い… 25歳は越えていないだろう。


「風間・・殿と聞こえ申した・・・ 拙者は誉田・・輝 明(ほんだ てるあき)・・・」
「黙っていろ血が減る。」


止血しようとした私の腕を〝ホンダと名乗った男〟は強く握った。


「殿を… お頼み…申す。」
「お前は命が危ない。」


私は正直に状況を伝えた。


「殿を・・・殿を・・先にお頼み申す・・殿を・・・」
「死にたいのか?」


腕が更に強く握られた。


「殿を・・先に・・お頼み申す・・・」


「殿を・・お助け・・頼み申す・・・」


今度は腕を押し返してきた。


「…分かった。 先にあいつを運ぶ。 無駄に動くなよ。」
「・・・承…知。」


ホンダと名乗った男の傷は結束バンドで止血可能な位置ではない。
圧迫止血しようにも貫通刺創だ… 独りでは両側から止血する事も出来ない。
この場合、明らかに〝ホンダと名乗った男〟の方を先に処置すべき状況なのだが、 ホンダの一途な想いは私の考えをブレさせた。


百地三佐を探した…


百地三佐は河原に両膝を付いてしゃがみ込んでいた。


「大丈夫。」


刀から指を外してやった。
大きく息をしながら身体を小刻みに震わせている… 肩を抱くと嗚咽を始めた。


「大丈夫… 何も問題ない。」
「あたし… 人を・・・」
「百地三佐、俺の目を見て。 …何も問題ない。 君は人の命を救ったんだ。」


肩を強く抱くと徐々に震えが収まってくるのを感じた。


「このままじゃ救った命も守れない。 手を貸してくれ。」
「・・・。」
「ベース・キャンプまで運ぼう。」



私達は 〝殿と呼ばれる男〟 から順に担いで砦の1階へと運んだ。



いつの間にか太陽は完全に顔を出している。
砦の1階部分にも日の光が差し込んでいた… 傷の手当てには好都合だった。

先ずは出血が激しい誉田の処置からである。
しかし、既に意識を失っていた。

ハードケースからメディック・バックを取り出し、ゴム手袋を付けた。
マットの上に横向きに寝かせ、上半身の着物をハサミで切った。
前後の傷からじわじわと出血している。
貫通刺創… 出血箇所が前後2カ所、厄介だった。


傷口を広げて前後から止血パッドで押さえ付ける。


「うぅ・・・」


目を覚ましたホンダは小太刀に手を掛けた。


「落ち着け。 俺の顔が分かるか?」
「・・・風間・・殿・・・」
「そうだ。 やはり、お前から処置する。 大人しくしていろ。」


不安げな表情をしていたが手当をされていると理解したのだろう。
それ以上、何も言わなくなった。


ホンダは血を多く失っている。
先ずは生理食塩水の点滴が有効であろう… 250ml のパック2つを取り出した。
針を刺そうと思ったが、腕の血管は見付けられなかった。
太い血管を探す… 手の甲に青い静脈が微かに浮いていた。


「…な、何を…為さる・・か?」
「減った血を一次的に補う。」
「なん…と…」
「俺を信じろ。」


私はホンダの手を掴み点滴の針を刺した。
ホンダの目は怯えを通り越して、驚きの表情を浮かべている。


「百地三佐、輸液が無くなるまで約1分だ。 2パックを。」


無言で頷いた百地三佐は、受け取った輸液パックを高い位置でキープしている。
次にアドレナリンを注射した。


…これで心拍数が上がるはずである。


輸液が減ってゆくのに反して、ホンダと名乗った男の呼吸が落ち着いてくる。
意識も徐々にはっきりしてきた。
これ以上の輸液は逆に意識を混濁させてしまう… 2パックで充分だ。

止血パッドを剥がし出血の状況を確認した。

左肩の傷は筋繊維に対して平行に刺されている… 幸いにも抉られてはいない。
抗生剤を塗り込んだ。
意識が安定してきたホンダはステープラー(医療用ホッチキス)を見た瞬間に身を固くしている。


「いいかホンダ、また刀を振れる様になりたかったら耐えろ。」
「分かり・・申した・・・」
「少し痛いぞ。」


ピンセットで傷口の皮膚を大きめに摘まむ… ステープラーの音が響いた。
ホンダの顔が苦悶に歪んだ。
傷口に抗生物質の軟膏を塗った滅菌パッド当てる… 防水保護シートを貼った。


前後で8針、ホンダは一言も根を上げずに耐えた。


「…よし。良く耐えた。 侍とは強いんだな。 腕を上げてみろ。」


誉田は苦痛に顔を歪めながらも、ゆっくりと左肩を持ち上げた。
腱はやられていないだろう。


「百地三佐、こいつに包帯を巻いてくれないか。」
「了解。」


百地三佐の声を聞いたホンダが目を丸くしている。


「あ、貴方は…女子(おなご)か…?」
「ええ。そうよ。」
「風間殿の…女房殿か?」
「あー、まぁ… そんなところね…」


点滴の針を抜いて絆創膏を貼った百地三佐に向かって、ホンダは苦悶の表情を浮かべつつもゆっくりと頭を起こした。


「拙者、伊勢家が家臣 誉田輝明(ほんだてるあき)。 命をお助けくださった事… 心より…御礼申し上げまする。」


言葉も上手く発していた… 輸液とアドレナリンが効いている証拠だった。


「気にしなくて良いわ。 今は傷を治す事を考えて。」
「名前を・・お聞かせ願いたい。」
「百地よ。 百地楓(ももちかえで)。」
「風間殿…楓殿… この御恩・・生涯忘れませぬ。」


隣のマットに仰向けに寝ている〝殿と呼ばれる男〟は、何かを言いたそうな瞳で私達の方を見つめていた。


「よし… 殿だったかな? 次はお前だ。」


〝殿と呼ばれる男〟 も思っていた以上に若かった。
鼻筋の通った瓜実顔で、眉毛は細めだが眉尻まできっちりと生え揃っている。
神田警部補と同い歳くらいだろうか…? いや、中島警視位だろうか?


誉田から外された輸液パックと床に置かれたステープラーを〝殿と呼ばれる男〟 は不思議そうに見比べている。


「…その道具は・・異国の物で御座ろうか?」
「ああ。」


本当はメイド・イン・ジャパンである。


「術も異国で学ばれたか?」


術と聞かれて答えに困った。
術と言うよりも、特殊部隊経験者は全員がメディカル・ファーストエイドを学んでいるのである… これ位の処置ならば誰でも出来た。
説明をすると長くなるだろう。


「まぁ、そんなところだ。 …始めるぞ。」


ハサミで着物を切った。
着物は血に塗れていたが、傷回りの血はほぼ固まっている。
矢を抜かずに運んだのは大正解だ。

矢は右鎖骨の下から僧帽筋へ向かい、やや上方向から刺さっていた。

肩の後ろに(やじり)の先端が少しだけが見えている。
喀血していないという事は、肺に損傷を与えていない… 運が良い。
内側に数センチずれていれば首、下方向であれば肺に繋がる太い血管を損傷していた可能性が高かった。

だが、こちらの方が厄介だった。

(やじり)は完全に突き抜けていないのだ… 切開して引き抜くか、鏃部分を身体から押し出し矢を切断して引き抜くか、どちらにするか悩ませる状況である。
モルヒネを飲ませるべきか… しかし、追撃があった場合にモルヒネでキマッた男を連れて逃げるのは無理があった。
しかし、モルヒネを飲ませなければ想像を絶する激痛を伴うだろう。


「矢を抜かずに運んでくれた部下に感謝しろ。 ところで… 矢傷の場合、お前達はどうやって手当てしているんだ?」
「鏃の頭が出ていれば矢を斬って引き抜く… 見えなければ押し出す…」


「…そうか。」


鏃を押し出す事を選んだのは〝殿と呼ばれる男〟である。
私は迷わず傷口と矢に消毒液を振り掛けた。


「拙者は侍でござる。矢など屁でも無いわ。さっさと抜いてくだされい…。」


殿はそう言うと、腰に付けていた布を噛み締めた。


「いいか、鏃は完全には貫通していない。 押し出してから矢を切って引き抜く。 相当痛いぞ。 侍と豪語するならば泣き言は吐くなよ。」


殿と呼ばれる男は大きく頷いた。
数回、大きく息を吸った後に正面の一点を見つめている。


「…よし、始めるぞ。」


肩を押さえて、矢に掛けた右手に力を入れる… 殿の見事な腹筋と上腕三頭筋に力が込められた。
ゆっくりと真っ直ぐに押す… 太い血管を傷付けてしまったら、メディックパックだけでの止血は無理である。
〝殿と呼ばれる男〟 の持っている運に掛けるしかない。


「行くぞ…。」


矢に力を込める… 首筋と額に一瞬で脂汗が噴き出してきた。
低い唸り声を上げ、目を閉じて歯を食いしばっている… それを見ている誉田は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。


「殿、耐えろよ。」


握った矢に強く力を込める… メリメリと筋肉を裂く感触が伝わってくる… 殿の身体が海老反りになった。
徐々に抵抗が無くなっていった…。


背中を確認する… やはり、鏃には鋭い ”返し” が付けられた物だった。
鏃の横幅は3cm以上ある。
引き抜いたなら、身体の内側を大きく損傷させてしまっていただろう。
更に鏃を手で握れる長さまで押し出した。
殿の頭が低い呻きと共にガクガクと揺れた。


私は左手で矢の先端部分、右手で羽根の付け根を握り胸で殿の身体を支えた。


「百地三佐、懐剣で矢を斬ってくれ。 スパッとやってくれよ。」


矢を一刀両断しなければ、殿にはとんでもない激痛を与える事になる。
百地三佐は一瞬戸惑ったが状況を理解したようだ。
私の腰から懐剣を抜き取ると、私の正面へと移動した。


右膝を床に付いた… 鞘を払い右手に懐剣を握る… 左手を添えながら上段の構えをする… 息を吸い込んで止めた。


「やぁっ!」


気合いと共に懐剣を振り下ろす… 固い矢が殿の胸元で一刀両断された。
私の手には何の衝撃も無い。
見事な太刀筋である。


「よし。引き抜くぞ。」


殿は細かく頷いている。
数回大きく息を吸い呼吸を整えていた。

息を思い切り吸い上げて止めたタイミングに合わせて、私は手に握った鏃を一気に引き抜いた… 鮮血が流れ出る…。
同時に殿の身体が再び海老反りになった。

突き刺さっていた矢を刺してから引き抜いたのだ… 激痛だったろう。
布を噛みしめて大粒の汗を噴き出させている… 殿の目は真っ赤に充血していた。


傷口を広げて消毒液を流し込む… 止血パッドを当てた。


「良く耐えた。 殿と呼ばれるだけの事はある。」
「…何の…これしき…」


誉田の前で情けない振る舞いはしたくないのだろうが、それにしても良く耐えた。
顔面蒼白で脂汗に塗れているが、女々しい声は一回も上げていない。
大きな鏃を刺し抜いたのだ、痛みで気絶していてもおかしくはないのに…。


「もう少し耐えろよ。 傷を塞ぐからな。」
「・・うむ。」


ステープラーで傷口を留め合わせた。
止血パッドを押し当てている内に血の滲みは止まった。
化膿止めの抗生物質を塗った滅菌パッドを貼り終えると、すすり泣きの声が聞こえてきた。


「我が主の恩人じゃ。 この御恩… 終生忘れは致しませぬ。」


黒装束の男達へ果敢に斬り込んでいった男とは思えない程、誉田は顔をクシャクシャにしてすすり泣いていた。
誉田は心から ”殿” を慕っている様子である。
慕っていると同時に、侍の感覚で言い現わすのであれば ”忠節を誓っている” という表現が近いのかも知れない。


「これも何かの縁。気にするな。」
「・・・私からも・・礼を・・申す・・・」


大きな血管は損傷していなかった… 運の良い男達である。
包帯を巻き、最後に感染症を防ぐ為の抗生物質を飲ませた。
これで大事には至らないだろう。

私は2人の顔と目を確認してみた。

誉田は顔面蒼白だったが、泣きじゃくれる余力が戻っている。
殿の方は疲れ切ったという表情をしていたが、目には凜とした力を感じた。
体力が回復すれば大丈夫だろう。


「ゆっくり休め。 水はここに置いておく。」
「忝い…」


テントの中へ寝かせた後、ゴム手袋を外して砦の外へ出た。
森から吹き抜けてくる風が心地良かった。


石垣に腰を下ろし、ポケットからCAMELを取り出す…
ジッポライターで火を付けた。
メンソールの刺激が格別だった。
消毒液の臭いが鼻から消えてゆく。


「お隣、よろしい?」


百地三佐が隣に座ってきた。
2人分の距離が空いている… これが私達の距離感を表しているのだろう。
固く絞ったタオルを手渡された。


「あら、そのジッポライター…」
「…神田警部補の物だ。」
「2人を残して偵察に行けば… こんな結果にはならなかったのかしら。」
「いや、まさか石井准陸尉が追って来るとはね。 私のミスだ。」


百地三佐は空を見上げている…


「でも、私達の生死に関係なく作戦成功よ。 王恭造と周葎明は死んだ…」
「間違いなく仕留めた。…間違いなく。」
「作戦成功の報告がちゃんと出来ないのは悔やまれるわね…」


百地三佐の言葉が気になった。
まるでタイム・スリップをした事を受け入れているかの様に聞こえたのである。


「百地三佐、ひょっとして…」
「中島警視、神田警部補… 私達は仲間だった… 忘れちゃいけないわ。」


百地三佐は私の言葉を遮るように話を続けた。


「…ああ。 時々、こうやって思い出してやればいい…。」


忘れずに思い出してやる… そして懐かしむ。
死んでいった仲間へのレクイエムはそれだけでいいのだ。


ふと、この3日間で起きた事が走馬灯の様に頭の中を駆け抜けていった。


目の前で起きている事象が現実であるとしたならば、私は現実をどうやって受け入れれば良いのだろうか?


・王恭造と周葎明の2人を狙撃して最重要ターゲットは全て始末した
・古民家まで中島警視を追って来た石井凌准陸尉を ”排除” した
・中島警視と神田警部補の仇は討った
・決定的瞬間を収めたカメラを神田警部補の遺体に託した


…つまり、タイム・・スリップをしたという事に関わらず、我々の ”スパイ狩り任務” は達成している事になる。

だが、祖国には愛する妻 ポーラが私の帰りを待っているのだ。
やはり問題は ”日本の中世にタイムスリップしたかも知れない” という事象をどうやって現実世界に戻すかという事が最大の課題なのである。


「どうやって元の世界に戻るか… 探さなくちゃいけないわよね。」
「ああ… 私達が生きていたのは此処じゃない。」




”グ、グゥゥゥ~”




唐突に私の腹が鳴った。
お互いに顔を見合わせて笑ってしまった。


「腹が減っては戦は出来ぬ、あれは名言だった。」


百地三佐は晴れ渡った青空を見上げている…
私は沢で仕留めた大鹿を残していた事を思い出していた。


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