第6話 ターゲット

文字数 11,923文字

3番ゲートを通過して海軍博物館の地下駐車場へと向かった。


地下へと向かう通路を下り ”バサバサ” という空冷対向エンジン特有のサウンドを響かせながら停車させると、警備室の小窓から見慣れない男性スタッフが顔を出して来た。


「おはようございます、カザマ大尉。」
「おはよう。」


どうやら、私の顔は知っているようだ。
私の愛車を優しい視線で見ていた男は笑顔を向けてきた。


「VWビートル 空冷対向4気筒エンジン最終型… 1600CC」


…その通りだった。


「詳しいんだね。」
「私も好きでして。 …良いエンジン音させてますね。」


ビートル好きならば、エンジン音でメンテナンスの状況やオーナーの愛着度合いを推測できる。
私のビートルは外見はオンボロだが、キャブレター清掃やアイドリング調整・点火タイミング設定・バルブクリアランスの微調整などの自分で出来るメンテナンスはしっかりとやっていた。


「朝から目と耳の保養になりました。」
「ありがとう。」
「…カザマ大尉の到着です。」


口元を綻ばせながら無線機に告げた数秒後、地下室に繋がる鉄製の扉が開かれた。
警備の海兵隊員と挨拶を交わし、廊下を真っ直ぐに進む… 丁字路を右に曲がり一番奥の部屋へと向かった。

アナポリス(海軍兵学校)の海軍博物館地下室を特殊作戦チームの司令室へと作り替えたなどとは誰も信じまい… そんな事を考えながら扉をノックした。


「おはようございます。 カザマ、入ります。」


モニターを背にしている大佐を中心に円形デスクが組まれ、その中央には無指向性マイクがセットされている… ペンタゴンに連れて行かれたり、ポーラへのフォローをしたりしている間に無機質だった地下室は作戦司令部の様相を整えていた。


左右の壁面には部署毎にデータ機器が設置され、担当スタッフがモニターと向き合っている。
入口の扉側にはステンレスの棚がセットされており、電子レンジやケトル、コーヒーメーカー、ウォーター・サーバーがセットしてあった。
大佐の正面側になる壁には一回り大きな ”カメラ付きモニター” が取り付けられている。

カフェインガムを噛みハイドレーションの生ぬるい水をチューブで啜りながら砂漠の町を這いずっていた私にとって、司令部側からの光景は何から何まで新鮮で刺激的に映った。


「大佐、おはようございます。」
「おはよう。掛けたまえ。」


マッケンジー中佐は海兵隊情報部のスタッフと何やら話し込んでいる。
私と目が合ったCIAスタッフが近寄ってきた。


「大尉、おはようございます。こちらへどうぞ。」


案内された席には、マーカス主任から説明を受けた TOUGHBOOK がセットされていた。


「大尉、先ずは TOUGHBOOK へ顔認証登録を行います。」


TOUGHBOOK を開き電源ボタンを押す。
立ち上ったアプリが示す位置に顔を合わせる。
顔認証アプリへの登録が終わると TOUGHBOOK は再起動を始めた。


「顔認証で再度ログインしてみて下さい。」


顔認証アプリが示す位置に顔を合わせると直ぐに認識を終えた。
システムの読み込みが始まる… やはり、立ち上がるスピードが速い。
メモリーやCPUの性能は5年前とは比べ物にならないほどに進歩している事を再認識した。


「大佐、通信準備完了です。」
「よろしい。…では、大使館と繋げてくれ。」


大佐の指示が出るとイヤホンマイクを付けてモニターを見つめていた海兵隊員がキーボードにコードを入力した。 リズミカルなキーボードを叩く音が地下室に響く… Enterキーを叩く音が一際大きく響いた後、大佐の正面側の壁にあるカメラ付きモニターで点滅していた ”Continue” の文字が消えた。


「大佐、通信OKです。画面出ます。」


海兵隊員の声と共に、大佐の後方にあるモニターにも電源が入る… 前後のモニターを確認した大佐は軽い咳払いをした。
マッケンジー中佐が慌てたような素振りで席に着く。


「こちらアナポリス司令室。 聞こえるかね?」
「はい、大佐。 音声、モニター共に良好です。」
「では、合同ブリーフィングを始めよう。」


モニターに視線を送った私は思わず女性を2度見した。
映っているのはクララだった。
…いや、百地楓(モモチ カエデ) 少佐だ。


私の潜入任務をサポートしてくれる日本防衛省の首席情報管理監 ”モモチ少佐” である。


調査報告書で見た彼女の写真は髪をアップにして制帽を被ったものとポニー・テイルで木剣を携えたもので、両方ともナチュラルメイクだったが… モニター越しの彼女は全くの別人だった。
画面に映っている彼女は白のスキッパー・ブラウスに濃紺のジャケット、緩いウェーブが掛かった綺麗な黒いロングヘア姿である。
胸元にはルージュと同じルビーのようなペンダント・ヘッドがアクセントになっている…。
少し濃いめのメイクをしている顔は、より一層〝ドクター・フーのクララ〟を思い出させる面影だった。


「皆、改めて紹介しよう。日本防衛省 主席情報管理監のカエデ・モモチ少佐だ。 機密性を確保するためにアメリカ大使館から参加してもらっている。」


大使館には軍用の特殊回線が引かれている… ハッキングの心配はない。


「モモチ少佐とカザマ大尉は初顔合わせだったな。 カザマ大尉、モモチ少佐に顔をよく見せてあげてくれたまえ。」


突然の指名に動揺してしまい、どちらのモニターカメラを見れば良いのか分からなくなった私は大佐の前後にあるモニターをキョロキョロと見比べてしまった。
マッケンジー中佐は笑いを堪えながら〝あっちだ〟と言わんばかりに、大佐の正面側にあるカメラ付きモニターをシルバー製のボールペンで指し示した。

ようやく私の視線が定まると、モモチ少佐は口元に手を当てて〝フフッ〟と笑っていた。
私は自分の顔が少し赤くなるのが分かった。
それを見たマッケンジー中佐は左手で拳を作り口元へ持っていく。
身体が小刻みに揺れた後、軽く咳払いをしながら笑いに耐えていた。


「ケント・カザマ大尉ですね。 日本国防衛省 情報本部 主席情報管理監の百道楓(ももち かえで) 三佐です。よろしくお願いします。」


(日本では少佐を三佐と呼ぶらしい。)


日本語での挨拶だった。
敬礼も軍隊式ではなく、日本式のお辞儀で挨拶している… 一礼した後に落ちてきた髪を耳に掛ける仕草が印象に残った。
先手を取られた格好になってしまった… 上官であるモモチ少佐とマウントを取り合うつもりはないが、完全に後塵を喫している。


「アメリカ合衆国海兵隊大尉 ケント・カザマです。 今回の作戦ではサポートをしていただけると聞いております。よろしくお願いします。」


私も日本語を使い日本式のお辞儀で返礼した。
それを確認したマッケンジー中佐は大佐の目を見て頷いた。


「それではモモチ少佐、メインターゲットの詳細説明を。」


マッケンジー中佐の声を切っ掛けに TOUGHBOOK のモニターが画像に切り替わった。


黒っぽい着物を着て杖をついている老人がモニターに映し出される… 真っ白の総髪、目元の深い皺、左のこめかみから頬に掛けてある老人特有のシミが印象的だ… これだけ特徴があれば人に紛れても的に捉えるのは容易だろう。


「はい。それでは始めます。」


モモチ少佐は流暢な英語で説明を始めた。


「…メインターゲットは王恭造(おう きょうぞう)、1940年7月8日 東京都生まれ 82歳。両親共に満州族の家系。 戦前、両親は満州国からの高級官僚として日本政府に派遣されていました。 恭造が1歳の時に真珠湾攻撃が発生。 恭造の両親は満州には戻らず、資源調達担当の日本政府職員として勤務。 終戦の3ヶ月前、恭造が5歳の時に発生した米軍による東京への大規模空襲で両親は死亡、戦争孤児となり恭造は施設に保護されます。」


中国大陸から日本に来たら戦争が始まり、両親はアメリカ軍の空襲で殺され保護施設へ… 5歳の少年には辛すぎる仕打ちだろう。


「恭造は戦争孤児施設で過ごす事になりますが、後にジャパニーズ・マフィア、通称〝YAKUZA〟に引き取られて年少期を過ごします。 恭造を引き取り育てたのは東京の下町(ダウンタウン)では有名なヤクザ組織〝根津組〟の組長でした。 後に根津組は戦後の混乱に乗じて、賭博場の運営や米軍放出品の売買・闇市の仕切り・港湾荷役業・闇金融で首都東京の東部地域を勢力下に納めます。」


日本には〝ヤクザ〟というマフィア集団がいる事は知っている。
擬似的な親子・兄弟関係でファミリーを作り、鉄の結束で日本のアンダーグランドを支配している集団だ。


「成長した恭造は根津組の一員となり、若くして頭角を現します。 20歳という若さで ”根津興業” という小さな闇金会社を任されるとヤクザの組織力を使ってライバル会社を次々と潰し、高度経済成長の時期には卓越した経済センスを発揮、株式や土地取引・金や銀・プラチナ等の貴金属販売や先物取引にも投資して安定的な資金源を確保。根津組は恭造がもたらした莫大な資金を使って近隣地域にまで勢力を拡大。 東京湾主要港で港湾荷役業の権利をも独占する事になりました。」


画像が切り替わり、東京周辺の地図が映し出された。


東京全体と隣接する州(県というらしい)にプラスして、東京湾内にある大きな港の殆どが赤く塗られている… これだけの地域が根津ファミリーの勢力下にあるとすれば、根津ファミリーは相当数の構成員と強大な資金力を持っている事になる。
天涯孤独の中国人孤児がヤクザに拾われ大成功… 絵に描いたようなサクセス・ストーリーでもある。 映画の主人公みたいな人生だった。


「下町(ダウンタウン)の小さなヤクザの組を誰もが知る巨大組織へと押し上げた恭造の功績と実力を認めた根津は、35歳の恭造を娘婿として迎えました。 しかし、順調に勢力を拡大していた根津組に転機が訪れます。 恭造が45歳の時、義父でありグループ総帥の根津は政治家への大規模な贈賄疑惑で逮捕され、拘留中の根津が自殺してしまいます。 表向きは自殺と言う事にされていますけれど… こんな事を日本政府側の私が言うのはおかしいですが、事件の真相を知っている根津は〝消された〟というのが真相でしょう。 収賄を疑われた政治家達は嫌疑不十分で不起訴となり、事件は霧の中のままですから…。」


ジャパニーズ・ヤクザ界でのサクセス・ストーリーの裏には、悲運の一場面もあったという事か…?


「根津組長が死亡した直後は子分達による報復事件が多発するのですが、根津が亡くなった半年後、収賄を疑われた政治家グループの長老議員と秘書が射殺体で発見されました。 警察が王恭造を逮捕しようとすると、逮捕状が出る前に恭造のボディーガードをしていた男が拳銃を持って自首。 当時の記録によれば、恭造は取り調べすらされていません。 以降、頻発していた内部抗争事件も収まり、恭造は根津組の総帥に就任します。」


首領(ドン)の仇討ちをしてファミリーを引き継ぐ… アウトローの世界では最強の実績を示してトップに登ったという形だ。… 完璧なファミリー継承スタイルだと言って良いだろう。
他のファミリーも文句は言えまい。


「根津組長に代わり王恭造が総帥に就任後、根津組の性質は激変します。 今までは政権与党である民自党保守派のパトロン的な存在でしたが、真逆の共産党やリベラル系の野党にも資金提供を始めました。 左派マスコミにも大量に資金を提供して反政府プロパガンダを開始、戦後初の野党による政権交代を陰で支えます。 これまでに流した資金の総額は10億ドル(100億円)以上、この資金には中国共産党からのものも含まれている事が確認されています。」


モニターが王恭造(おうきょうぞう)の画像に戻った。


恭造の両親は満州人だが、戦前の日本で政府側の人間として活動していた… 王恭造には満州人の血が流れている… 当時の日本はアメリカと同様に共産党思想を厳しく取り締まっていた… 現段階では中国共産党との接点は見えてこない。
私は挙手をしてから英語で質問を投げ掛けた。


「恭造が中国共産党の協力者になった理由は判明しているのでしょうか?」


モモチ少佐は私の質問に対して大きな頷きで反応した。


「はい。我々と日本政府は王恭造が中国共産党統戦部のエージェントと頻繁に接触している事を確認しています。 王恭造は中国共産党統戦部に洗脳された事は間違いないでしょう… その理由は、恭造の両親は米軍の空襲で死亡、育ての親であり義父である根津は日本人の手よって殺害… 日米を恨む素地がある。 しかも、日本アンダーグラウンド界の首領であり頭も切れる。中国統戦部として、これほど好条件の人間は滅多にいません。 恭造が抱えた悲しみを上手く利用して〝恨み〟を増幅させる思想教育を施したのだと思われます。 人間の心の奥底に沈んでいる深い悲しみを呼び覚まして憎しみを煽る… 中国統戦部が現地協力者を作る常套手段ですね。」


満州人の血を引く5歳の少年が両親をアメリカ軍によって殺されて孤児になる… 日本人に引き取られて育てられるも、40年後に育ての親であり義父にもなった男が日本人によって殺されてしまう… 心に激しい憤怒と憎悪の炎が灯ったという事か…。


マッケンジー中佐が軽く挙手をした。


「根津ファミリーのフロント企業が中国工作員に対して隠れ蓑を提供している事、王恭造が日本政界や自衛隊への工作員浸透作戦のキーマンになっている事は、日本の防衛省情報本部と公安警察、CIAによる調査で確認済みだ。」


クララ… いや、モモチ少佐が続いた。


「2ヶ月前、根津組のフロント企業が使っている東京湾の倉庫に、恭造と中国統戦部の高官が現れるという情報をCIAに提供したのは日本の公安調査庁です。 本来であれば日本政府の仕事を米国海兵隊に任せる事になってしまった…。 カザマ大尉、貴方の元部下が亡くなった事は日本政府にも責任があります。 貴方の日本での活動を責任を持ってサポートする事を約束しましょう。」


モニターの中には、クララの固い意志を感じられる瞳があった。
大佐が私に視線を向けて来る。


「カザマ大尉。 君には包み隠さず全ての情報を提供すると約束をした。 これが現時点で私達が持っている全ての情報だよ。 納得して貰えたかね?」


大佐が言っていた〝日本の裏切り者〟という言葉が浮かんだ… しかし、王恭造は巨大ジャパニーズ・マフィア ”ヤクザ” の首領(ドン)” であるが純粋な日本人ではない。
”満州人の血を引くヤクザの首領(ドン)が両親と義父を殺した米国と日本を恨んでいる” という構図なのだとしたら、簡単な任務ではなくなる事を意味する。

それに、〝米国と日本に両親と義父を殺された憎しみを増幅されて洗脳された〟という話も、スコットの拷問写真を見た後に言われると説得力がある。
余程の憎悪がなければ、生爪を全部剥がした後に喉を裂く様な殺し方はしないだろう。

米国と日本を仮想敵国に設定している中国共産党と手を結び、巨額の闇資金とスパイを日本に送り込み反政府工作に加担…。
挙句、レールガンやレザー砲などの最先端軍事技術を盗む為に暗躍し、中国統戦部と共に米国特殊部隊員と諜報部員を抹殺…。
強い恨みの炎を灯して動いているのは事実という事か…。

しかし、こんな事をやらかして捕まれば、どんな国でも国家反逆罪で死刑は免れない… ファミリーやフロント企業も含めて組織は壊滅させられるだろう…。
妻子のある身、それに巨大ヤクザ・ファミリーの首領が、これ程の危険なリスクを冒すだろうか?


一抹の疑念を感じながら、私はモニターに映る王恭造の顔を頭に焼き付けた。
大佐に視線を戻すと大きく頷いている。


「よろしい。次は日本陸上自衛官への擬態内容の説明だ。 CIA、よろしく。」


初めて見るCIAの担当者が足下から書類サイズのアタッシュケースを取り出して立ち上がる。
私の目の前へ持って来てロックを外す… ケースの中には菊の紋章の下に JAPAN OFFICIAL PASSPORT と記載された緑色のパスポートが見えた。
その脇にはチェーンで巻かれた草臥れた黒色のパスケース、紙の帯で巻かれた日本円の紙幣、丸められて筒状にされた米ドル紙幣がセットされている。
その隣にはスマートフォンが見えた。


CIAの担当者は自分の席へと戻ると着席せずに話を始めた。


「大尉、先ずは貴方の演じる役を説明します。貴方は〝日本国陸上自衛隊員 風間賢藏(かざま けんぞう)〟に擬態します。 階級は米国海兵隊と同等の一等陸尉です。」

「賢藏とは祖父の名前だが。」
「仰る通りです。 お爺さまの名前なら違和感なく役に入りやすいかと。」
「私の事は全て調査済みという事だな。」
「はい。〝全て〟調べさせていただいています。」
「ふん。忌々しい。」
「役作りの為です。ご理解下さい。」


手渡された深い緑色のパスポートのは陸上自衛隊の制服を着た私が写っている。
これには驚かされた… 写真撮影をされた記憶があるが、陸上自衛官の制服を着て写真撮影などしていないのだ。
おまけに、査証の欄には御丁寧にも1年前の出入国履歴スタンプが押されている。


「日本の場合、緑のパスポートは〝公用旅券〟です。政府職員や国家公務員が公用で外国赴任する場合に発行されます。 通常は赤か黒ですのでご注意下さい。 …では次に、黒いパスケースを開いて貰えますか。」


2つ折りの黒いパスケースには紋章が描かれており、金文字で〝陸上自衛隊〟と記載されている… ベルトループに取り付けるためのチェーンが取り付けられていた。
手に取ると既に2枚のカードがセットされている。


「カードの説明をします。 薄緑色のカード、これは陸上自衛官のIDです。 基地や自衛隊施設に入る時のIDカードになります。 もう一枚、白色にゴールドラインのカードは運転免許証です。 これは公的な身分証明証としても使います。」


2枚のカードを取り出してみると自衛官のIDカードには少し草臥れ感が出ている… 新品ではないところにCIAスタッフの拘りを感じさせた。


「大尉、日本では単独行動がメインになるでしょう。2枚のカードを入れたこのパスケースは常時身に付けておいて下さい。 警察官などに身分証明を求められた時には、この2枚のカードがあると話がスムーズに進みますので。」


2枚のカードを元に状態に戻し、チェーンを軽く巻き付けてテーブルの上に置いた。


「次はスマートフォンの説明です。 そのスマートフォンに入った全ての情報は衛星電話モジュールに接続している TOUGHBOOK に繋げれば、アプリが自動的に我々へ送信してくれる仕組みです。 …あー、それと… 」


CIAスタッフは ”コホン” と咳をすると話を続けた。


「そのスマートフォンは日常生活で使用していただいて結構ですが、戦闘中のSNS投稿はくれぐれもお控え下さいませ。」


地下室は笑いに包まれた。
モニター越しのモモチ少佐も笑っている… 緊張感を解すナイスなジョークだった。


(…が、暗殺任務をYouTube にリアルタイム投稿したら、どれくらいの評価が付くのだろうか? それはそれで興味がある。)


「次に隣のポケット内に入っているクレジットカードの説明です。 パスコード・暗証番号は、そちらのTOUGHBOOK に送信してありますので後ほど確認して下さい。」


アメリカン・エキスプレスカード、それに聞いた事のある日本企業が発行しているVISAカードだった。

これにも ”風間賢藏” と記載されていた。

パスポート、運転免許証、陸上自衛官のIDカードにクレジットカード… 存在しない人間を簡単に作り出せるCIAに多少の恐ろしさを感じつつも、私は不思議な高揚感に包まれていた。
全くの別人に成りすまして標的に近付く… スパイ映画の主人公になったような気持ちになっている自分もいる。
同時に、子供の頃でカブ・スカウトで初めて野営をした夜の様な感覚になっていた。
その反面、40歳を過ぎて ”音合わせ” の最中にワクワクする様な気持ちになるとは思ってもいなかったので、多少の違和感もある。


「モモチ少佐、風間賢藏一等陸尉のディティールを説明してくれ給え。」
「はい。それでは大尉、TOUGHBOOK の風間賢藏フォルダ内にある〝人物設定〟のファイルを開いて貰えますか?」


風間賢藏フォルダを開き〝人物設定〟のファイルを開いた。
ファイルには風間賢藏一等陸尉の細かい人物設定が記載されている… 存在しない人間を存在させるための〝履歴書〟だった。


「大尉、貴方が擬態する風間賢藏一等陸尉は、この内容で設定されています。 覚えておいて下さい。」


・・・東京都江戸川区出身 1981年(昭和51年)4月15日生まれ 40歳 血液型A 牡羊座 酉年… 酉年??? 生まれてから自衛隊に入るまでの細かいディティールが書き込まれていたが… 早速、読めない漢字があった。
母から日本語で育てられた私はネイティブな日本語を話す事が出来るのだが、漢字の読み方には未だに苦労する事がある。


「モモチ少佐、年齢の隣にある漢字、これは何と読むのでしょう?」
「それは、〝とりどし〟と読みます。」
「とりどし… とりどしとは何を意味するのですか?」
「大尉、日本の〝干支〟(えと)は、ご存じない?」


干支(えと)… 人生で初耳だった。


「…知りません。初めて聞きました。」
「日本には〝干支〟という概念があります。 他国にはない日本独特の時間概念です。 実生活で意識する必要は無いないけれど、日本人で自分の干支を知らない人は居ないわ。 日本人との会話で干支を聞かれて答えられないと〝何かを偽っている〟と思われてしまう。」


”干支(えと)” なる物の存在は初めて知った… 干支を間違えて答えたり知らなかったりすると詐称していると思われる…?
こんなトラップがある日本の文化はやはり面白い。
司令室にいる全スタッフが一様に感心したような素振りを見せている。


「モモチ少佐、勉強になりました。」
「大尉。もし干支の話が出たら、こう答えて。〝私は鳥〟。」
「鳥(バード)…ですか?」
「そう、鳥。深く考えずに〝私は鳥〟と答えれば大丈夫。」


私は鳥… 深く考えるのは止めよう。
しかし、この設定を全て頭に入れるのは大変だ。
履歴書を凝視しているとモモチ少佐からフォローが入った。


「大尉、人物設定を全て覚える事はありません。 日本に到着するまでに、名前・所属・役職・自衛官ID・生年月日・年齢・血液型は暗唱できるようにしておいて下さい。 では、所属の欄を見て貰えますか。」


それだけならば直ぐに覚えられる。
A4用紙5枚分もある経歴を全て覚えるには、それなりの時間が必要だ。


「了解しました。」
「貴方の所属は陸上総隊中央情報部です。 立場は情報管理官。 陸上総隊も防衛大臣直轄の組織です。 私は防衛省中央情報本部の主席情報管理監。 私達が防衛省や基地で接触したとしても、背広組や自衛官に対して違和感を与える事はないでしょう。」

「…つまり、基地で上司と部下が一緒に行動しても、何ら不思議ではない?」
「そういう事になりますね。」


…私は防衛省に常勤する形態になるのだろうか? それとも何処かの基地に配属されるのだろうか?


「少佐、一つ質問をよろしいでしょうか?」
「どうぞ。」
「私は防衛省への着任になるという事でしょうか?」
「いえ。貴方はレールガン開発が行われている習志野駐屯地への着任になります。」


習志野… 聞いた事がある。


「習志野? 空挺部隊が駐屯している習志野基地ですか?」
「…あら、詳しいですわね。」


私から口から出た空挺部隊という言葉に、モモチ少佐は少し驚いた様子だ。


「昔、特殊作戦群の連中と共同訓練をした事があります。 その時の隊員が〝習志野〟のレンジャー出身だと話をしてくれました。 確か…パラシュート降下の訓練場があると。」
「その通り。習志野には陸上総隊隷下の特殊作戦群と空挺団が駐屯していますわ。 貴方は防衛省情報本部からの情報管理官として、本省と駐屯地業務を兼任して貰います。」


本省からの派遣士官…?


「…それでは、基地の隊員からは〝本店からの監視要員〟だと思われませんか?」
「それは問題ありません。習志野駐屯地の司令には〝情報提供能力の強化による新設部署設置〟という名目で、本省の情報管理官を非常勤で在席させる内示を出しています。」
「つまり…米国大使館と日本防衛省、習志野基地を自由に出入り可能だと?。」


モニターに映っているモモチ少佐は自信たっぷりに頷いた。


「そういう事になりますね。」
「それならば安心です。」


大佐の方に目をやると大きく頷いている。
マッケンジー中佐も納得しているという表情だった。


「次に進みます… では、最重要監視ターゲットの確認を行います。」


TOUGHBOOK と大型モニターの画面が切り替わった。
ベレー帽を被った眼光の鋭い迷彩服姿の男が映し出されている。


「最重要監視ターゲット、陸上総隊第一空挺団 石井凌 准陸尉です。」


ガッチリとした肩、日焼けした顔に鋭い眼光、それに左の口元にある傷跡が印象的だ。
実に空挺兵らしい風貌である。


「石井准陸尉は習志野駐屯地に配置されている空挺部隊の先任士官です。 35歳で妻子あり。基地内の下士官用官舎で暮らしています。」


…なんとなく見えてきた。
王恭造が自衛隊内に作った協力者という事だろう。


「彼には6歳になる一人娘がいます。 生まれつき心臓が悪く数回の手術を経験しており、その治療費や手術代で経済面で逼迫した状況でした。 娘は1年ほど前から心臓病の症状が悪化し、救う会が結成されています。 海外での移植手術に必要な費用約2億5千万円を募金活動やクラウド・ファンディングで寄付を募っていましたが、約1億円ほどが足らない状況が続いていました。
公安警察の調査によると3ヶ月前に募金は満額達成となり寄付募集は終了、現在はドナー待ちの状況です。 それと同時に、石井准陸尉家族に対して根津組のフロント企業が張り付いている事が確認されています… 以上です。」


一人娘の命を助ける代わりとしてスパイになれと強要したのか…?
だとすれば慈善を装った脅迫だ。


「国の為に命を張っている男に、一人娘の手術代を肩代わりするから忠実な犬になれと脅迫している…?」
「恐らくそう… 王恭造… 最低なやり方よね。」


実に胸糞が悪い。
一瞬、モモチ少佐の目にも怒りのような感情が流れるのが見て取れた。


「石井准陸尉と家族は根津ファミリーから監視を受けている?」
「娘の病院へ行く以外は基地内の官舎からは殆ど出ない生活ですが、石井准陸尉が基地を出ると必ず何処からともなく根津組関係者の車が現れる状況です。」


一人娘の命をカタに取られた石井准陸尉の行動は根津ファミリーのコントロール下にある… 娘の心臓移植ドナーが見つかり、移植手術が終わるまでは恭造の言う事なら何でもさせるという構えだろう。
しかし、〝王恭造から足りない心臓手術費用の1億円を受け取った〟という証拠は今のところ無い… 全ては状況証拠で疑惑のみなのだ。
事実としては、心臓移植手術が必要な女の子がいるという事だけである。

…だが、石井准陸尉の存在と扱いは作戦のキーポイントになるのは間違いない。


「モモチ少佐。 我々の石井准陸尉に対する監視とは、彼の行動次第では〝排除〟も有り得るという意味の監視ですか?」


モモチ少佐はカメラから視線を外し、暫く考えていた。


「彼がレールガン開発に対して、何かしらのアクションを開始した時点で〝排除対象〟になります。」


つまり、石井准陸尉がレールガンに対してアクションを起こしてしまえば、日本政府から中国スパイの一員と認識されて排除されてしまう… 石井准陸尉が行動を起こす前に、王恭造へ辿り着く情報を得なければならないのだ。


重苦しい雰囲気が流れ始めた時、〝カチッ、カチッ〟とボールペンの音が鳴り出した。


「石井准陸尉が何もアクションを起こさなければ、何も無かったという事に出来るんだがな。…あくまで石井准陸尉側の視点になるがね。」


マッケンジー中佐が脳天気な発言をした。
石井准陸尉と一人娘を助けつつ、王恭造を始末しろとでも言いたげな雰囲気を醸し出している… 心臓病の一人娘という背景に情でも感じたのだろうが、初対面の私を試そうとした時とは別人のような発言だ。
この手の一次的なセンチメンタルは、作戦遂行に於いてとても危険な感情なのだ。


ずっと黙って聞いていた大佐が口を開いた。


「王恭造に近付き始末する。これが私達の任務だ。それ以上でも以下でもない。 軍人の魂をジャパニーズ・マフィアに売ってしまった者が存在するのであれば… 死を以て償って貰う。それだけの話だ。」


冷たく鋭い視線が私を捉え続けている。


「カザマ大尉、君はどう思うかね?」
「はい。石井准陸尉… 既に、チェックメイトしている状態だと思われます。」
「…そういう事だ。」


大佐からも冷徹な言葉が返ってきた。


娘の手術が終わる前に王恭造を始末してしまえば、心臓移植費用を肩代わりする約束など雲散霧消になる。
我々が石井准陸尉を利用して王恭造に近付いているのを根津ファミリーに悟られれば、石井准陸尉は間違いなく消されるだろう… それに、満額を達成したと公表した募金活動を再開したならば、支援者達は不審がるだけだ。

どう転んでも、一人娘に新しい心臓が届く確率は極めて少ない。
…いや、届かないのだ。




私と同じ事を思ったのだろう… 画面越しのモモチ少佐の目に、悲しみのような色が流れるのがはっきりと見て取れた。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み