第30話 懲りない面々

文字数 19,760文字

朝靄(あさもや)… 水車… モスグリーンの田んぼ… 煙を纏った茅葺き屋根…


写真集で観た〝SATOYAMA〟ではない…
視線の先には本物の〝里山〟があった。
何故だろう… 遠い昔、何処かで見た様な感覚になっている。
私のDNAには日本人としての記憶が刻まれているのだろうか?


〝ブォン・・・ブゥオオオーーーーン・・・ブォン・・ブォン・・・〟


不意に… 目の前の風景には不釣り合いな音が聞こえてきた。
しっとりとした朝靄の水辺で〝ドローンに似た機械音〟が鳴っている。
水を飲んでいた馬達も〝不釣り合いな音〟に反応していた。


馬達の耳が向いた先へと視線を送ると…


細い水流の上を〝小型ドローンらしき物体〟がホバーリングしていた。
刻みながら私達へと近付いて来る…。
腰のハンドガンに手が伸びた。


私達以外にもタイム・スリップしている者が存在したというのか…?
私達は監視されていたのか…?


「待って。 ・・・オニヤンマ。」

「オニヤンマ? あいつの事かい?」
「そう。」


良く見ると… 黒と黄色のストライプ柄に大きなターコイズ色の目…
プロペラではなく羽根で飛んでいる。

こいつは〝トンボ〟だ。

それにしても大きい… 私の掌ほどあるだろう… こんなにデカくてインパクトの強いトンボは生まれて初めて見た。
空中で小刻みに移動する姿は〝小型ドローン〟と見間違えてしまった程である。


「…こいつもデカいな。」


日本の昆虫はデカくて強そうな奴が多いのか?(笑)
先週、裏庭に大きなキラー・ビー(スズメバチと言うそうだ)が現れて、洗濯物を干していた〝たえ〟と〝ふみ〟が大騒ぎしていたのが思い出される。


…楓殿は拾った小枝で地面に何かを書き始めた。


〝 馬 大 頭 〟


この漢字ならば私でも読める。


「うま だい あたま・・・?」
「これで〝オニヤンマ〟 って読むの。」


当て字だと言うが… これを〝オニヤンマ〟とした根拠は何だろうか?
日本の漢字は本当に難しい(笑)
妙に感心してしていると 〝馬大頭(オニヤンマ)〟は〝クルッ〟と見事なターンを披露して、飛んで来た跡をなぞる様に戻って行った…。


「…さぁ、そろそろ練習再開だ。」
「了解。」


教えた手順通りに(あぶみ)へと足を掛けている。
一つ一つ手順を確認する感じで(くら)へと跨がった。
騎座の姿勢を整えてから、馬の首を優しく撫でている。

楓殿のバランス感覚は実に素晴らしい。
特に私を驚かせたのは〝膝と足の使い方が上手〟な事である。

大型バイクを乗り熟していたからだろう。
膝を締めて燃料タンクをホールド、腰を使ってバランスを保つ姿勢… つまり、乗馬で言うならば〝騎座〟を理解していたので上達が早かったのだ。
これにより、腹を〝蹴るタイミング〟と手綱の〝誘導〟がズレない。
指示を受けた馬も〝え? 今の何?〟と迷う事がなく方向を決められるのだ。


「よし、速歩(はやあし)だ。行くぞ。」
「OK。」


馬の腹を蹴った… 三拍子のリズムが心地良い。
私は身体に纏わり付く湿気を振り払うように馬を駆けさせた。


速歩(はやあし)常歩(なみあし)を繰り返しながら、日本の原風景であろう世界の中を進んだ。


すると… 見覚えのある風景が現れた。
此処は殿達と一緒に鷹舞砦から城へと向かった時、山から里へと抜け出た場所だ… あの間道に入って進めば鷹舞砦へと戻る事が出来る。


「あの場所を覚えているかい?」
「ええ。覚えてる。お尻が痛くて泣きそうだった場所よ(笑)」

「今日の卒業試験… 合格ならば鷹舞砦に行く準備が整う。」
「受けて立つわ。 …なんてね。」
「よし。じゃあ、総仕上げだ。付いて来い(笑)」


馬の腹を強めに蹴った。
私は駆足(かけあし)を続けた…


出遅れた楓殿が轡を並べてくる。


速歩(はやあし)に落としてから暫く常歩(なみあし)を続け、予告なしで駆足(かけあし)にしたりとフェイントを掛けながら進んでみた。


咄嗟の判断にも上手く対応している。
下半身を使って上半身をしっかりと支えられていた。
速歩や駆足で重要になる〝背筋を伸ばしながら腰を使った体重移動〟もマスターしている。
駆足(かけあし)の状態で景色を楽しむ余裕も感じられた…。


…まぁ、これならば大丈夫だろう。 合格である。


白壁の町割りを進む… L字の曲がり角も上手く操っていた。
屋敷の門が見えてくる… 門を潜って〝殺風景な庭〟へと馬を進めた。


「よーし。止まって。 ・・・その場で右回転してみようか。」
「了解。」


手綱を右に大きく振り… 絞る瞬間に右足で〝コツン〟と腹を蹴る… そう、上手だ。
腹を蹴るタイミングと手綱の誘導は完璧だ… 馬も悩まずに動いている。


「上出来だ。じゃあ、次に左回転。やってみよう。」


馬に疑問を抱かせる事なく綺麗に左へと一回転させた・・・見事である。
これならば、ある程度の山道も対応可能だろう。


「OK、此処までにしよう。」


先に下馬をして、楓殿の下馬手順をチェックする…


手綱を短く持って… 右足を(あぶみ)から抜く。
左手で握った手綱をタテガミに乗せて… (くら)の前橋に右手を添える。
腕に体重を乗せて尻を浮かせ… 右足を後方に上げて馬の尻を跨ぐ。
鞍の後橋に右手を移動し… 左鐙に掛けた足に体重移動。
鞍の上に腹を当てつつ自分の身体を支えて… 左鐙から左脚を外す。
お腹で身体を支えつつ… ゆっくりと滑り降りながら、両足で着地。
手綱は絶対に離さない…


細かい事を気にすると言われそうだが、基本の動作は丁寧に行う事が重要なのである。
何故ならば、馬は生き物なのだ。
操る側が〝いつもと違う動作〟をすると、違和感からおかしな挙動をする事がある。
馬が嫌がれば落馬させられるのだ。
下馬をする… 気が緩んだ時が一番危ないのである。


「OK。 ほぼ完璧だ。 試験は… 合格 (笑)」


そう言われて満足そうだ… 上達を実感しているのだろう。
屋敷のやり繰り、茶の湯指南、庄屋への対応など忙しい日々を過ごしていたが、雨の日以外は毎日乗れるのだ… 身体が感覚を忘れない内に反復練習できる。
馬を身体の一部にするには最高の環境なのである。
そのお陰もあり、楓殿の乗馬技術はみるみる上達していったのだ。


(うまや)へ誘導した後、藁の束で馬体を拭いてやっていた… 馬達も気持ち良さそうである。
楓殿は厩の掃除や馬のメンテナンスも嫌がらずに楽しみながらやっていた。
馬達も彼女からの愛情を感じていると思う。
反抗的な態度を示す馬はいない。


手拭いを持った三郎太が小走りでやって来た… 少し慌てている感じがする。


「旦那様、奥方様… 厩の手入れは私の仕事です。」


家人衆を雇った翌週、作左衛門からは〝若いもんの仕事を取るな〟と言われた。
どういう事かと聞くと… 六百貫の知行を持つ大身の侍〝らしくない〟という。

どうやら私達は家の仕事や雑用をやり過ぎていたらしい…。

特に止めてくれと言われたのが〝(かわや)の掃除〟と〝(うまや)の掃除〟だった。
隣接している屋敷の中間衆から〝風間屋敷の家人は主人に汚れ仕事をやらせているなどど思われたら、自分達の沽券(こけん)にかかわる〟と言われてしまったのだ。
作左衛門にも〝プライド〟があるのだろう… 尊重しようと思っている。


「…そうだったな。 作左衛門には内緒だぞ (笑)」


三郎太は井戸から水を汲んでいる。
柄杓から注がれた水で手と顔を洗った。
冷たい井戸水が心地良い… 固く絞った手拭いを渡してきた。

汗を拭っていると〝ふみ〟が麦の茶を持って来てくれた。


「お帰りなさいませ。」
「ただいま。」


この娘は誰かに指示されている訳ではなく、 頼んでいない事を先回りしてやってくれる。
12歳とは思えない行動である。
楓殿も同じ指摘をしていた。


「ふみ、ありがとう。」
「へい。」


声を掛けると… 嬉しそうな笑顔を残しながら下がっていった。
楓殿は麦の茶を勢いよく飲んだ後、〝ふーっ〟と大きな息を吐いている。
私は麦の茶を飲み干した。


「明日、天気が良ければ鷹舞砦に行かない?」
「…明日? 大丈夫かい?」
「ええ。勿論よ。 今の感覚を忘れたくないの。」


上手に馬を扱えたという感覚を忘れないうちに〝山道にトライ〟したいのだろう。
気持ちは充分に理解する事が出来る。

この所… 楓殿の乗馬レベルが上達するのに比例して、私の頭の中では〝岩穴の倉庫〟と藏で見つけた鷹舞砦と書かれた木箱に入っていた〝謎の鍵〟とが浮かんでは消える頻度が増えていた。
屋敷の人員態勢も整い、領地経営の取っ掛かりも掴む事が出来た… 生活が安定した状態になったという事は、元の世界に戻る切っ掛けを探す準備が整ったという事でもあるのだ。

最重要任務を実行するタイミングになったという事か…


「…じゃあ、日の出前に出発 … 日が暮れる前に戻る。準備しよう。」
「分かったわ。」

「三郎太、 準備を頼む。」
「はい。」


私は屋敷を出て城へと向かった…


こういう時、城の目の前に屋敷があるのは本当に便利である。
道を挟んだ吊り橋を渡れば、其処は三の丸なのだ…。


先ずは、赤鬼の櫓へ行き〝鷹舞砦への同行〟をお願いした。
二つ返事でOKしてくれた。
次に、本丸に居る誉田と面会をした…〝鷹舞砦に行く〟と伝えると誉田も行きたがっていたのだが、明日は丸一日城を離れられないらしい。


殿に〝赤鬼と楓殿の三人で鷹舞砦に行く〟と伝えて貰う事を頼んでから屋敷へと戻った。


風呂に入り、夕食を済ませたが期待と不安が交互に襲ってくる…。
憂鬱な時間が積もっていった。


眠れない夜になってしまっている。
複雑な感情が揺れ動いていた… 明日、元の時代に戻る切っ掛けがいきなり見つかったなら、私達は突然消え去る事になるのだ。
その場合、屋敷の者達はどうなるのか?

私の中に強い〝情〟が湧いているのが感じられた。

少し離れた隣の布団で横になっている楓殿の寝息も、ずっと聞こえて来ないままだ。
恐らくだが… 彼女も眠れていないのだろう…。



・・・Gショックのアラームが鳴っている・・・



いつの間にか眠っていたらしい…


私達は準備を済ませ(うまや)へと向かった。
馬達を驚かせない様に声を掛けながら近付くと… 三郎太が真っ暗な厩の中で馬具の取り付けをしていた。


「おはよう御座います。少しお待ちください。」
「おはよう。早くからすまんな。」


引き出された馬達の馬具に緩みやズレは見えない… 月明かりが届かない真っ暗な場所でもしっかりと取り付けられていた。
三郎太は目が良い… いや、夜目が利くのだろうか?
私達が馬に跨がると手綱を引きながら門まで誘導してくれている。
暗がりでもペースを落とさずに歩を進めていた。


「お気を付けて行ってらっしゃいませ。」
「うむ。七つ刻には戻る・・・予定だ。」
「はい。湯屋の仕度を済ませておきます。」


平然と嘘を吐いている自分を恥じた。


私は… 屋敷へ戻らずに済む方法を探しに鷹舞砦へと向かうのである。
元の世界へ戻る切っ掛けが見つかれば… もう、二度と会う事は無い。
この世界で生きてゆく未来… 元の世界で暮らす未来…
相反する未来の両方を欲している矛盾に塗れた自分が恥ずかしく思えた。


「嘘を吐いた者の所領は没収か…。」


庄屋達に〝嘘を吐くな〟と約束させた自分が嘘を吐いていた。
申し訳ない気持ちで一杯になったまま、静かに門を抜けた。
私は矛盾と罪悪感に苛まれながら、侍屋敷の外れにある寺へと向かった。


蛙の鳴き声が喧しい… 凄い事になっている。
空が低い… 星空が神秘的だ。
人工的な光の無い月明かりの下を移動するのは久しぶりだった。
見える範囲に雲は見当たらない… 恐らくだが天気は大丈夫だろう。


寺への道すがら、闇の中から馬の足音が追い掛けてくる… 月明かりのシルエットに三頭の馬影が見えた。
馬の足音と蛙の鳴き声が重なり、不気味さが強調されている。

常歩(なみあし)に落とすと赤鬼が(くつわ)を並べてきた。

二人の鎧武者を従えている… 二人とも弓を携えていた。
鎧武者達は迷彩柄の戦闘服姿になっている私達に驚いている様子である… 頭から爪先まで、まじまじと観察していた。


「風間殿、刻限通りですな。 楓殿、久しぶりで御座る。…では参ろう。」
「ああ。宜しく頼む。」


鷹舞砦から城までは足軽隊にペースを合わせて5時間ちょっと掛かった。
平地を速歩(はやあし)駆足(かけあし)でやり過ごせば、休憩を多く入れても4時間程で到着できるだろう。


「殿への報告はお済みか?」
「ああ。誉田に頼んでおいた。」
「うむ。ならば一安心。」


誉田に〝鷹舞砦へ赤鬼と共に行く〟という殿への報告を頼んでおいた。
軍師と侍大将が揃って〝使われていない砦〟へと向かったとなれば、評定衆に不穏な動きをしていると思われかねないからだ。


「盾でも矛でもない隊と言っておったが、鷹舞砦が関係あるので御座るか?」
「…ああ、訓練拠点にしたいと思ってる。」


これは方便だ… 本当の目的は藏で見付けた〝謎の鍵〟を確かめに行きたいのだ…。
それに、〝岩穴の倉庫〟がどうなっているのかも知りたかった。
しかし、鷹舞砦への戻り方が分からなかったのである。
庄屋達に聞けば良いだけの事なのだが、未だ庄屋達を100%信用出来る段階ではない。


轡を並べながら、小一時間ほど田園風景の中を進んだ。


鷹舞砦へと続く山道の入口が近付いて来た… 赤鬼は馬を常歩(なみあし)へと戻した。
元の世界へと戻れるかも知れない場所へと繋がる道だ… 私の中で期待が高鳴っている。
タイム・スリップが起こった場所には、元の時代に戻るヒントがある筈なのだ。
私は無意識に腰に縛った巾着袋に入れている〝謎の鍵〟を握り締めていた。


山道を進む…


楓殿の手綱捌きに問題はない。
念の為、私の前を進ませているが、上り坂故の恐怖は余り感じていないみたいだ。
しっかり休憩を取れば問題ないだろう。


途中の沢で馬達に水を飲ませ、休憩二回で見覚えのある間道へと出た。
予定通りに4時間程で鷹舞砦の東門へと到着した。


鎧武者達が固く縛られている門を開けている…


「なぁ…赤鬼。此処に訓練場を作って兵を入れたなら、評定衆はどう思うかな。」
「・・・鷹舞郡は風間殿の所領、如何様にするのも風間殿の自由。しかし、必要の無い砦を使い出したならば… 皆、不思議がるで御座ろうのう。」


赤鬼が口元を歪めた… それ以上は語らず、門の縄を切る鎧武者を見つめていた。


やはりダメか…。
此処は殿の暮らす小田原城から馬で4時間程の砦だ。
砦だが山の頂にある… 使い方によっては小田原城を攻める前線基地として使えるのだ。
兵を入れたとなれば、評定衆から要らない事を勘ぐられると言いたいのだろう。


スキンヘッドの聡哲から怪しまれずに砦を使うには、どうすれば良いのだろうか?


「…そうか。赤鬼、お前なら此処をどう使う?」
「そうじゃのぉ。儂ならば… 放って置く。」

「使い道は無いと?」
「今川家との同盟で… 砦の役目は疾うの昔に終えておる。…じゃが、此処は我らが戦神(いくさがみ)早雲(そううん)様に御縁がある故、仁科殿も遠慮をして壊さなかったのじゃろう。」


戦神… 早雲… 赤鬼の口から興味がそそられる言葉が続いた。


「赤鬼、どういう事か詳しく聞かせてくれ。」

「此処はの… その昔、早雲様が見つけられた〝隠し湯〟じゃった。 近くに甘露な湧き水もある故、館を建てて傷を癒やしたと伝わっておる… 」


ちょっと待て…  隠し湯…?


目の前にある砦… つまり、タイム・スリップする前は中島警視と神田警部補が見つけてきたアジト… 古民家ペンションだ… そこにも自噴する温泉があったのだ。
私は浴室棟を徹底的に掃除をした後に温泉を楽しんだ記憶がある… その浴室棟があった位置には… 今は〝鍵の掛けられた小屋〟が建っている。
だとすると… アジトの温泉は五百年前から湧いていたというのか?


「…じゃがの。 暫くして西の今川と揉めた。 足柄の峠を越えてくる今川の軍を見張る為、館は砦に作り替えられたのじゃ。この鷹舞砦からは間道を抜けてくる軍勢を見下ろせるからの。」


鷹舞砦の前身は湯治場だったのか…?
赤鬼の言葉に私の脳裏には恐れていた〝不安〟が覆い始めている。


「赤鬼、来てくれ。」
「お、おう。」


私達は門が開かれると同時に馬の腹を蹴り、〝鍵の掛けられた小屋〟へと駆けさせた… 楓殿も付いて来ている。
砦の敷地内は殿と誉田を助けた時よりも雑草が伸びていた。
鹿を埋めた場所は一段と下草が生い茂っている。


手綱を丸太の防護柵へと結んでいる最中から、私の心は〝謎の鍵〟への不安で圧し潰されそうになっていた。


「小屋の中を調べる。」
「…了解。」

「承知。」


腰に縛り付けておいた巾着袋から取り出した鍵を握り、鍵が開く事を祈った…


「なんと。鍵をお持ちか?」
「ああ。屋敷の藏で見付けた。 鷹舞砦と書かれた木箱で保管されていたよ。」


鍵穴に差し込む…


「よし。開けるぞ。」
「・・・。」
「・・・。」


いとも簡単に鍵が回転した… 手入れがされていた事を物語っている。
私は(かんぬき)を持ち上げて観音扉を開いた。


すると・・・


小屋の中央には直径が1メートルほどもある円柱状の物体があった…
それ以外、何も見当たらない。


「何これ… 貞子? リング?」


楓殿は後退りしている… 小屋の内に入って来ようとしていない。
私は円柱の状態を確認してみた… 所々に補修した痕跡が見て取れる。
薄明かりだったが、古い物から新しい物までたくさんの補修跡を確認する事が出来た。

触れてみる… 暖かかった。

円柱の上部は10センチほどの厚みがある蓋で塞がれていて、蓋の隙間は漆喰(しっくい)らしき物でコーキングされている。
周囲の床は屋敷の湯屋に使われている三和土(たたき)と同じ素材で作られていた。


赤鬼と目が合う… 私達は阿吽の呼吸で蓋を持ち上げた…
隙間から薄らと湯気が立ち上がったのが見えた… 楓殿は更に後退った…。


円柱の中を覗くと…


地面から30センチほど掘り下げられた場所で湯が渾々と湧いている。
間違いない… これは温泉だ。

湯溜まりには真新しい太い竹筒が口を開けており、湧き出た湯が地中を通り何処かへと排水される仕組みになっている… 湯は地上へと溢れ出ずに湯気も立たない仕様になっていた。
小屋の内部に湿気が溜まっていない理由が良く分かる造作だった。

私は上半身を円柱に突っ込み、湯溜まりに手を入れてみた… 驚くほど熱い。
これならば冬場でも沸かす必要はないだろう。
楓殿も湯が湧き出ているだけだと理解したのだろう、中を覗き込んできた。


「湯気が立たなければ見付かる事も無いわね。それに、建物も傷まない…。 」
「…仁科殿。 人知れず早雲様の湯を御護りしておったんじゃの… 感心致した。」


タイム・スリップの原因に〝鍵の掛けられた小屋〟は関係がないと証明されてしまった。
呆気ないほどの結末である… 私は眩暈に似たものに襲われていた。
あの時、岩穴の倉庫で起きた〝眩暈〟ではない… 希望が消え去った事への幻滅だ。


無関係だと分かった瞬間、この小屋への興味は急速に薄れて行った…。
私の心は〝岩穴の倉庫〟に憑りつかれた様な感覚になっている。


「赤鬼… ちょっと待っていてくれ。」
「承知。」


ここでお別れかも知れない… 唐突に私達が消え去ったなら、どういう事になるのだろう?
…希望と後悔が入り交じった複雑な心境を抱えつつ〝岩穴の倉庫〟へと向かった。


岩穴の倉庫も〝あの日のままの光景〟で残っていた。
少しの間、倉庫の入口付近に立ってみたのだが、あの時に感じた〝眩暈(めまい)〟は起きない。
(かんぬき)を外して中へと入った… しかし、中へ入っても〝眩暈〟は起きなかった。


私達は〝白い石像〟と〝注連縄(しめなわ)〟があった岩穴の最奥部へと向かった。


LEDライトの明かりに〝白い石像〟が現れた…
私が触れた瞬間、蒼白い閃光と共に視界を歪ませた〝白い石像〟… 私達の全てを狂わせた根源は何事も無かったかの様に存在していた。


「楓ど・・・いや、百地三佐…。」


楓殿の表情は〝百地三佐〟へと戻っていた…。


謎の鍵に意味は無かった…。
残された希望はタイム・スリップした時と同じ状況を再現する事だけである。
私は胸が高鳴った… 期待と不安、それに殿や誉田達の顔が浮かんでは消えてゆく。
作左衛門、千代、松… 三郎太… 七之助、八之助… たえ、ふみ…
中途半端に終わらせる事を心の中で詫びた。


「いくぞ…」


私は〝白い石像〟へと手を伸ばした。
心臓が口から飛び出るのではないかという程に高鳴っている…。
意を決して〝白い石像〟の頬に触れてみた…


・・・何も起こらなかった・・・


念の為、隣りにある灰色っぽい石碑にも触れてみた… やはり、何も起きない… 。
百地三佐は何かを決めたという表情を浮かべながら外へと出て行った。


何故か… とても可笑しな気持ちになった。
場違いな笑いが出ている… 肩の力が抜けた様な感覚が揺れている。
私の中で〝何か〟が消えたのがはっきりと分かった。


岩穴の倉庫から外へ出る… 百地三佐は〝楓殿〟の表情に戻っていた。
その先に… 赤鬼が神妙な表情で歩いて来るのが見えた…。


「風間殿、如何なされた?」
「…ああ、忘れ物をしてた気がしてな。」

「何を忘れられたか?」
「・・・(とき)だ。」
(とき)とな? …これまた面白き事を。」


「…すまん。冗談だ。」


冗談ではなかった。
元の世界に戻れない… つまり、私達は〝現代で生きていた時間〟を失う事になるのだ。
楓殿も同じ事を感じているのだろう。
真っ青な夏空を見上げている…。


岩穴の倉庫…
全ては此処から始まったのだ… だが、あの時のまま時間は止まっていた。
此処には〝時間を飛ばす不思議な力〟がある筈だと自分を信じ込ませて誤魔化してきた… やっと戻って来たのに何も起きず何も見付けられなかった…。
諦めの悪い男になって、〝岩穴の倉庫〟と〝謎の鍵〟に僅かな願いを込めたが… それは(はかな)く消え去ってしまった…。


心に〝ぽっかり〟と穴が開いた気がした。


私の中で〝諦めの悪い男〟と〝潔い男〟が闘っている。
まだ諦めるな・・・素直に生きろ・・・逃げろ・・・逃げるな・・・
相反した言葉が交互に頭を通り抜けてゆく… 男達の闘いは拮抗していた。


相反した感情とは裏腹に… 頭の中で様々な〝ピース〟が断片的に浮かんでいる。
一つ一つ整理してみた。


一つ…

誉田は〝田植えと稲刈りの時は皆が領地へ戻って専念する〟と言っていた。
…という事は、殿から拝領した侍屋敷の他に別の屋敷を持っているという事だ。
稲刈りや領地支配という名目であれば、此処に屋敷を作っても問題ない筈である。

二つ…

鷹舞砦は〝隣国の今川家と揉めた時〟に重要な場所にあると言う。
つまり、今川家との同盟が無くなってしまえば〝国境の要衝〟となるのだ。
軍師として〝隣国との万が一に備えて砦を整備する〟という進言も可能だろう。

三つ…

楓殿の話によると… 伊勢家は北条と改姓した後、天下統一を成し遂げる豊臣秀吉によって滅亡させられるという。
歴史の教科書通りに進めばになるが、伊勢一族は約50年後に消えてしまうのだ。

四つ…

伊勢家の時間軸には、新たな外的要因として私達が関わっている。
歴史が早く進むかも知れないし、遅くなるかも知れない… それに〝予想も付かない何か〟が起こる事も充分にあり得るのだ。

五つ…

岩穴の倉庫がタイム・スリップを誘発する場所ならば、再びタイム・スリップが発生する確率はゼロではない。
寧ろ… 他の場所よりも、タイム・スリップが発生する確率は高いと言えるだろう。


断片的だった〝ピース〟が一本の筋書きに纏まった気がした。
…やはり、鷹舞砦は何としてでも〝身近な存在〟にしておかなければならない。


「赤鬼、此処に俺の屋敷を作ったなら… どうなると思う?」

「…屋敷で御座るか? おお。そう言えば風間殿は下屋敷を持っておらんかったの。 此処であれば鷹舞郡のほぼ真ん中、他の郷に行くにも便利じゃ… 筋は通っておる故、誰も咎めはせぬであろうな。…うむ。」


・・・よし。決まりだ。・・・


「俺は此処に屋敷を建てるぞ…。」
「その方が良かろう… 下手に軍勢を入れれば騒ぎになろうからの。」


赤鬼は〝ニヤリ〟とほくそ笑むと腕組みになった。


「湯殿を作ったならば… 招待して頂こうかのぉ。」
「ああ。自由に使ってくれて構わない。」
「湯の後には女子衆を呼んで宴じゃ。これは楽しみじゃわい(笑)」


赤鬼の大きな笑い声が響いた。
楓殿から冷たい視線が放たれている… 大きな咳払いが聞こえた。
それに気が付いた赤鬼は〝シュン〟として俯いている… 意外とシャイな面があるらしい。


「赤鬼、手伝ってくれ。」
「…お、おう。」


私達は〝鍵の掛けられていた小屋〟に戻った。


円柱状の物体の底からは、相変わらず渾々と湯が湧き出ている… その反面、私の希望は… 湧かなくなっていた。
溢れ出る湯を見ていて空しくなっている自分が存在している… 何故か顔がニヤけていた。


「早雲様とか言っていたな? これは伊勢家にとって大切なものなんだろ?」
「そうじゃ。 相模国(さがみのくに)を一代で切り取った我らが戦神… 早雲様が使うた霊泉(れいせん)よ。」
「霊泉か… 分かった。 俺が責任を持って守ろう。」

「…お頼み致す。」


蓋をきっちりと閉めて隙間に土を塗り込んだ…
蒸気の漏れがない事を確認した後… 小屋の扉に閂をして鍵を掛けた。


私は〝元の時代に戻らなければならない〟という気持ちにも鍵を掛ける事にした。
何故なら、元の時代に戻る方法を考えてばかりでは、今を生きる時間を無駄に浪費する事になるからだ。
事実が真実の敵なのであれば、真実もまた事実の敵なのである… 目の前の事実を受け入れて、思うがままに生きてやろうじゃないか…。


振り返ると… 楓殿が私を見つめていた…


「俺は… 現実を否定して死んでゆくドン・キホーテにはならないぞ… それでもいいか?」
「ええ。いいわ…。」


唐突に〝むさ苦しい髭面〟が横から割り込んできた…


「…何の話で御座るかのぉ?」


赤鬼は〝どうしたの?〟という素っ頓狂な表情で私の顔を覗き込んでくる。
楓殿からは冷たい視線が放たれているが、赤鬼は全く気付いていない。
顔の中心に掌底を打ち込みそうになる私が… 現れては消えていった。


「あー ・・・赤鬼… 付き合ってくれてありがとう。」

「何の此れしき。」
「俺も踏ん切りが付いた… 腹が減っては何とやらだ。 飯を食ってから帰ろう!」

「…お、おう。」


砦の一階に移動した。


此処は日陰になり風通しも良い。
私達は車座になった。

此処は殿と誉田の傷を縫い合わせた場所だ… 何故か昔の話に思えた。
護衛をしてくれている鎧武者達は適度な距離を取りつつ、それぞれが防護柵の出入り口に身体を向けて座っている… 警護の意識は解いてはいない。

楓殿は水筒の水で手を洗っている。
その後、斜めがけに背負っていた布袋から竹皮の包みを取り出した。
包みを開いた楓殿は苦笑いをしている。


楓殿の横顔を見ていて、ふと… ポーラとの約束が思い出された。


そう言えば… 任務を終えて戻ったらレストランで食事をする約束をしたのだ。
ポテトサラダとハイネケン… エッグベネディクト… 味も思い出せなくなっている。
アメリカでの生活… 海兵隊員としての私… 遠い昔の話に感じ始めていた…。


楓殿の夫としての人生… ポーラの夫としての人生…


天秤に掛けてはいけない物を比べている卑怯な自分が存在している。
二人の女性をどうやって幸せにするか… ナルシスト極まりない考えを巡らせた自分に辟易とした気持ちになった。

その反面…

赤鬼の無骨な髭面を眺めていて〝侍としての未来〟が浮かんだ。
戦国の世で侍として生きる人生… つまり、死と隣り合わせの道だ。
戦って華々しく散れるという〝甘美な魅力〟に憧れを抱いている自分が存在している。
侍としての〝死〟という結果に恐怖は抱いていない。
寧ろ、侍としてのスリリングな人生に期待していると言って良いだろう。



だが、一つだけ分かっている事がある。
それは… 寄り添ってくれる〝笑顔〟を消し去ってはいけないのだ。



私も水筒の水で手を洗い、出掛けに千代が持たせてくれた竹包みを開いた。
包みからは、三人とも同じ人が作ったかの様に巨大な〝握り焼き飯〟が二つ現れた。
どうやら、暑くなる時期の弁当は火を通す〝握り焼き飯〟がスタンダードらしい。

赤鬼は梅干しを〝ちびちび〟と囓りながら握り焼き飯を頬張っている。

鎧武者達が兜を脱いだ… 思っていたよりも若い。
腰にぶら下げた布袋から乾燥させた米らしき物を掬いつつ、口に放り込んでいる。
噛み潰す音が聞こえてくる… かなり固い代物らしい。

それにしても、あれだけで足りるのだろうか?
見た目の年頃であれば、ピッツァのMサイズ位ならペロリと平らげるだろう。
楓殿は彼等を眺めながら、二つに割った握り焼き飯を囓っていた。


徐ろに胸のサバイバルナイフを抜いた… 赤鬼が反応している。
手を付けていない握り焼き飯を二つに切り割り、分厚い〝たくあん〟を乗せた…。


「赤鬼さん。これ、二人に差し上げて。」
「…なんと。」
「こんな大きな焼き飯よ。 二つも食べられないから。」


百地三佐・・・いや、楓殿・・・目の前に存在するこの笑顔は絶対に消してはいけない… 私は心に誓った。
赤鬼の表情も緩んでいる… ちょっと感動しているみたいだ。
腰を浮かせて楓殿の方へ向き直すと、太股に手を乗せて頭を下げている。


「忝い… 有り難く頂戴致す。」


両手で恭しく受け取り、顔の前で捧げる様に一礼した。


「おい、お前達。 楓殿からの思し召しじゃ。…有り難く頂戴致せ。」
「ははっ。」


若侍達は立ち上がり、赤鬼の横に膝立ちになった… 握り焼き飯を両手で受け取っている… 楓殿の方へと向き直り、頭の上に捧げながら深く一礼をした。
本当に礼儀正しい…


「ありがとう御座りまする。頂戴致します。」


二人は声を揃えた。
貰った物を頭上に捧げながら数歩下がるという、トリッキーな動きを見せる… この時代の日本人は、この不思議な動きを多用するのだ… 実に面白い。
この所作が礼儀作法の一環なのだろうが、感謝の気持ちは充分過ぎる程に伝わって来る。


若侍達は先程とは違い、此方に身体を向けて座った… 若干だが、距離も近くなっている。
左手に持った握り焼き飯に一礼すると、笑顔で囓り付いた。


「…ところで風間殿。 輝明とも話をしておったんじゃが…〝矛でもなく盾でもない部隊〟とは、如何なるもので御座るかの?」


私の説明が足りなかった… 攻めもせず守りもしない部隊を作る、と捉えられてしまっても致し方ない表現だった。
きちんと説明して、納得して貰っておいた方が良いだろう。


「すまない。説明が足りなかったな… 戦場での矛は赤鬼、盾は誉田だ。 俺はお前や誉田みたいに大勢の兵を従える立場じゃない、ただの軍師だ…。」


表現が難しい… 私は海兵隊特殊作戦(MSOT)コマンドや海軍特殊作戦チー(NavySEALs)ムみたいな特殊部隊を作りたいのだ。
しかし、赤鬼や誉田は忍者による暗殺を〝卑怯なやり方〟だと罵っていた。
下手に説明をすると、私も卑怯者と思われてしまうかも知れない… 侍が腹落ちする表現は何なのだろうか?

私は上手い表現を探した。


「俺は… 一撃必殺で敵を討ち取り風の如く去ってゆく… そんな部隊を作りたいんだ。」


そう伝えると… 赤鬼は少し考える表情をしている。


「…まるで、鷹匠じゃの。おお、鷹舞衆の(かしら)に相応しい… 風間殿、実に勇ましいではないか!」


誇らしいという表情をした後、握り焼き飯に齧り付いている。
ちょっと、違う… 私のイメージでは夜の森を支配する〝梟〟(ふくろう)なのだ。
まぁ、ニュアンスは伝わっていた… これで良しとしておこう。


「陰陽師の如く式神(しきがみ)を用いるのだろうかと輝明は言っておったが、違うておったわな。 彼奴には儂から話をしておきましょうぞ。」


しきがみ? 後で楓殿に確かめなければ…。


「…うん。手間を掛けるが宜しく頼む。」


私が作りたい部隊の内容に納得したのか、赤鬼はそれ以上何も聞いてこなかった。
梅干し入りの握り焼き飯を平らげ、湧き水から水筒へ補充した後に帰路へと着いた。


「赤鬼、楓殿は下り道に慣れていない。慎重に頼む。」
「承知した。」


帰り道の楓殿から余裕は消えていた…


(あぶみ)を外に広げ気味にして、何時でも足を踏ん張れるように。 腰のバランスを使って体重移動だ。」


「分かった…」


下り道は足腰に尋常ではない負担が掛かる。
常に鐙を踏ん張ってバランスを保っていなければ、落馬の危険性が上がるのだ。
視覚的にも高さを実感するので恐怖感も倍増する。
それに、踏ん張っている足を馬の腹に間違えて当ててしまうと、馬が驚いておかしな挙動になる事もある。


赤鬼も理解してくれている様子だ。
後方を振り返りながら歩を進める事を続けてくれていた。


行きよりも一回多く休憩を入れて、無事に深い森を抜けた。


森の香りが消えた頃、空気の温度と匂いがガラッと変わった… 光が目の奥を刺して来る。
湿った空気が肌に纏わり付くのを実感した。
平地へと出た楓殿は大きな溜息を漏らしている。
この気持ちは私も理解出来た。
鞍が地面と平行になったのだ… 目線も平行になり、高さからの恐怖が解消される。


「無事にクリア出来たね。もう独りで乗っても大丈夫だ。」
「山の往復は暫く遠慮したいわ… 膝が笑ってるもの。」


私達の会話を聞いていた赤鬼は、常歩を続けてくれている。
此処から屋敷までは一時間ほどで到着できる距離だ… 七つ刻(16時)には帰れるだろう。
良かった… 屋敷の者達を裏切らないで済んだのだ…。


夏の強烈な日差しの中、私達は轡を並べて進んだ。


夏の里山には色々な〝匂い〟が溢れている。
緑の匂い、水の匂い、土から立ち上がる匂い、堆肥の匂い…(笑)
焼きたてパンや排気ガスの臭いが懐かしい。

私達は〝田んぼの匂い〟に塗れながら歩を進めた。

橋を渡り白壁の町並みに入る…。
赤鬼の屋敷の前に到着した。


「今日はありがとう。助かったよ。」
「何の此れしき。 風の如く戦う鷹舞衆… 御両人… 期待しておりますぞ。」
「ああ、その時は手伝ってくれ。」

「ふむ、それにじゃ…」


赤鬼が(くつわ)を寄せて来た… 顔を近付けてくる。


「湯殿の完成、楽しみにしておる故…。」
「分かった。…宴会だろ?」
「では、これにて。」


小声で囁くと〝がははははっ!〟と大笑いしている。
赤鬼は屋敷の門を潜って行った。
続いた鎧武者達は、楓殿にもしっかりと一礼をしてから門の中へと消えて行った。
門を閉めようとしている男が此方に向かって一礼している。
顔に見覚えがある… 本丸の見廻り組に加わった小頭だ。


白い町割りを抜けて堀に沿って進んだ。


・・・すると、屋敷の前に荷車が停まっているのが見えた。
何かを買い入れた記憶はない。
三の丸御門の吊り橋には数人の男が立っている。
誉田配下の小姓達だった。


荷車には大きな長持が三つ、それに鞘が取り付けられた槍、弓、矢筒が三つずつ括り付けられているのが遠目からでも見て取れた… 三振りの太刀も縛り付けられている。
(みの)や笠などの雨具も、それぞれ三人分が積まれていた。


その先には… 屋敷の門前で胡座になっている三人の侍が地面に拳を付いている。


門は開かれているが、中へ入ろうとしていなかった。
それにしても邪魔な位置に陣取っている。


「何事?」
「さあな…。」


吊り橋の上にいた小姓の一人が荷車を躱しながら駆け寄ってきた。


「風間様、お帰りなさいませ。大変で御座います!」
「何が起きている?」
「はっ! …四つ刻から、ずっとあの様に…。」

「迷惑を掛けたな。すまない… 後は此方で何とかする。」


四つ刻から… かれこれ五時間も居坐っているというのか…?
真ん中で座っていた男が此方へと向き直した。
顔に見覚えがある… 柴山(しばやま)兼綱(かねつな)だ。


「お頼み申します!」
「・・・。」


私は無視して馬を進めた…
三人は慌てた様子で馬を除けている。


石畳の真ん中では三郎太と作左衛門が胡座を組んでいた。
三郎太は打刀、作左衛門は槍を左側に置いている… 兼綱達と対峙していたのだろう。
門から先は一歩も進ませないという陣取り方である。


作左衛門が立ち上がった。


「旦那様、奥方様… お帰りなせぇませ。」
「ただいま。迷惑掛けたな。」
「いえ・・如何致しやしょう。」

「放っておいていい。 …門から一歩でも入ったなら私が斬り捨てる。」
「へいっ。」


私は三人に聞こえる様に指示をして(うまや)へと向かった。


「…ったく。諦めの悪い男だ。」
「あの荷物、家出して来たとしか思えないわよね…。」


・・・さて、どうやって追い返すか、それが問題である。・・・


馬に水を飲ませて身体を拭いてやっている間、追い返す方法を考えてみた…。


面倒臭くなった(笑)
放っておけば諦めて帰るだろう。

…と言うか、庄屋が郷をほったらかしにして家出する事自体がナンセンスなのである。

会社で 〝職場放棄〟したならば即クビだ。
裁判をやったとしても勝てない。
そんな奴を相手にする価値はこれっぽちも無いのである。


七之助が小走りでやって来た… ちょっと遅れて、水桶を持った八之助が続く。


「お帰りなさいませ。厩の手入れは私達の仕事で御座います!」
「宜しく頼む。」
「はい。」

「お帰りなさいませ。御手をお流しください。」


柄杓の水で手を洗うと固く絞った手拭いを渡してくる。
今度は〝たえ〟がやって来た。


「お帰りなさいませ。湯屋の仕度は出来ております。」
「たえ、ありがとう。 いつもの〝三つ〟を用意してくれるかしら。」

「へいっ。」


楓殿から声を掛けられた〝たえ〟は嬉しそうだった。
ペコッと頭を下げる・・可愛らしい笑顔を残して下がっていった… この娘達の笑顔には本当に癒やされる。
若者達の動きが段々と良くなっているのを実感出来た。
作左衛門や千代達の努力が窺える。


「賢人殿、お先にいただきますね。」
「ああ。」


炎天下、丸半日の乗馬で汗塗れになっていた… 一刻も早く流したいのだろう。
楓殿は湯屋へと直行していった。


余談だが、この時代にもシャンプーと洗顔石けん、それにボディクリームが存在する。


【 淳灰(じゅんかい)】
これは木の灰汁だ。灰は弱アルカリ性なので、髪を洗うと頭の脂もすっきり落とせる。身体のベタつきも落ちるのだが、大量に使うと肌がガサガサになる… 注意が必要だった。


【 澡豆(そうとう)】
煎った小豆を石臼で細かく粉にした物だ。これで顔を洗うと〝つるっつる〟になる。


【 蘇膏(そこう)】
樹脂や動物の脂肪で作られているらしい… 何の動物かは誰も知らなかった。保湿クリームだと思って貰って構わない。淳灰で顔をゴシゴシしてしまった私だったが、これで救われた(笑)


この他に、枝の先っぽを細かく解してブラシ状にした〝楊枝〟と呼ばれる歯ブラシもある。
アフガニスタンで使われていた〝ミスワック〟という歯ブラシの木と同等の物だった。
フロスもあれば言う事なしだが、残念ながら歯間ブラシ系は存在しなかった。



話を戻す…



私は縁側に向かった。
汗だくのまま、部屋に入るのは気が引けたからだ。
それに、此処は西日が当たらないので意外と涼しい。


縁側に腰掛けて風を楽しんでいた私に… 千代が麦の茶を持ってきてくれた。


「お帰りなせぇませ。」
「ただいま。握り焼き飯、美味しかったよ。」
「はいぃ。喜んで頂けただらば嬉しいだに。」


麦の茶、この飲み物はアメリカには存在しなかった。
この時代に飛ばされて初めて飲んだのだが、今ではハマっている。
グリーンティにはある苦みがないので、喉が渇いた時にがぶ飲みするには丁度良いのだ。


・・・心地良い疲れが覆っている身体に香ばしい麦の茶が沁みた・・・


「良いお湯でしたよ。」
「ん…? ああ、そうか…。」


どうやら、うとうとしたらしい。
奥歯が浮いている… 拳に力が入らない。


「賢人殿もどうぞ。」


縁側で浴衣を着て正座している楓殿の髪に〝たえ〟が櫛を通している… 乗馬の練習で日焼けした肌と漆黒の髪がエキゾチックな雰囲気を強調していた。


「旦那様、湯屋が整いました。」


七之助が声を掛けてきた。
楓殿の風呂当番は〝たえ〟と〝ふみ〟が担当で、私の当番は〝七之助〟と〝八之助〟兄弟である… ローテーションが組まれているのだ。


湯屋へと向かった。


素っ裸になった私は竹で作られた敷物の上に胡座になった。
シャワーが存在しないので、湯や水を汲むのを手伝って貰っているのだ。


「参ります。」
「うん。」


頭から湯が掛けられた。
新湯(さらゆ)で汗や汚れを流す…

先ず… 淳灰(じゅんかい)で髪を洗う。
次に… 小量の淳灰を付けた手拭いで全身を拭く様にして隈なく洗う。
次に… たっぷりの湯で身体の淳灰を洗い流す。

これで、清潔な身体を保つ事が可能なのだ… 全身から脂っぽさが抜けるのも実感できる。

身体を清めてから、熱く感じない程度の湯船にじっくり浸かる。
夏でも湯船に浸かるのかと言われそうだが、浸かると浸からないとでは〝疲れの抜け方〟が全然違うのだ。


湯船から出た私は浴衣を羽織ってから、竹の敷物に胡座になった。


七之助が柄杓で炉に水を掛ける…
瞬く間に苦しくなる程の熱気と〝石が焼けた様な香り〟で満たされた。
水桶と柄杓を私の傍へと置いた七之助は、低い姿勢になりながら外へと出て行った。


浴衣が絞れるほどの汗で濡れた頃、七之助に声を掛けた。


「開けてくれ。」
「はい。」


戸板と木窓が開けられた… 風が流れ込んで来る。


「やってくれ。」
「失礼致します。」


頭に冷たい井戸水が掛けられた… 二度、三度と繰り返される… 身体中が冷水で引き締まった後、徐々に全身へと血が巡るのが分かる… 至福の時間である。

そよ風を感じながら、身体を拭き上げて新しい浴衣を羽織った。
身体を清めてから湯船に浸かり、蒸気で汗を出しながら瞑想。 最後に冷水を頭から浴びる… これが、私のルーティンになっている。


縁側へと腰を下ろす… 火照った身体に山から吹いてくる風が気持ち良い。


「湯に浸かれて、シャンプーと石けんもある。 おまけに蒸し風呂まで… これでビールがあったら完璧なんだけどな。」
「あ、思い出させないでよ。 私もビールが恋しくなっちゃった。」


七之助から差し出された麦の茶を一気飲みした…
緑が溢れ出ている庭木の枝葉が揺れている… 生ビールが恋しい… カシラとつくねのヤキトリが頭に浮かんだ。

蒸し風呂の余韻と〝居酒屋の思い出〟に浸っていると… 三郎太が廊下を歩いてきた。


「誉田様がお見えになっております。」
「誉田? 分かった。通してくれ。」
「はい。」


暫くすると… 庭に繋がった潜り戸が開き、三郎太に連れられて誉田が入ってきた。


「失礼仕る。」
「お疲れさま。」

「御二人ともさっぱりした顔をしておりまするな。 浴で御座るか。」
「ああ。鷹舞砦の往復だったからな。」
「そうで御座った…。」


誉田は縁側へと腰掛けた。


「ところで… 門で座り込んでおる男共で御座るが…」
「未だ居るのか? 懲りない奴等だ。」


誉田は赤松の巨木を眺めている。


柴山(しばやま)兼綱(かねつな)で御座った故… 何をしておるのかと問うてみ申した… 」
「うん。…それで?」

「…どうやら、弟の兼良(かねよし)に家督を譲って家を出て来た由。」
「家督を譲った? あいつは何を考えてるんだ…?」
「風間殿の家臣にして貰うまで此処を動かぬと、頑なで御座った…。」


家督を譲って家出する… そして他人の屋敷の前に居坐る… 迷惑も甚だしい。
楓殿は呆れたと言いたげな表情をしている。


「実は… 拙者の母は柴山の出で御座って、兼綱と弟の兼良とは従兄弟になりまする。」
「親戚か。」
「これまでの経緯… 先程、初めて聞き申した。 御無礼の程、お許し下さりませ…。」
「お前が謝る事じゃない。気にするな。」

「実は… 風間殿と楓殿の武勇伝、忍び共を誘い出した知略、これを… 兼綱に話して聞かせたのは… 拙者で御座る… 」


バツが悪そうに襟足を〝ポリポリ〟と掻いている。
誉田は話が上手い… 盛って聞かせたのだろう。


「話を聞いた兼綱で御座るが…〝その様な素晴らしき軍師様であるかどうか確かめてみたい〟と申しておりました。 まさか、手合わせを願い出るとは… 愚の骨頂… 申し訳御座りませぬ。」


確かめ方を間違っていた… あいつは俺に殺気を放ってきたのだ。


「そうだったのか… あいつは木剣を握ると殺気を放って突進してきた。 だから、俺もつい本気になっちまった。やり過ぎたな… すまん。」

「何を仰いまするか。・・・兼綱の所業、首を刎ねられても文句は言えませぬ。」


誉田は縁側から下りると膝立ちになった… 頭を下げている。


兼綱(かねつな)が弟、兼良(かねよし)も来ておりまする故… 口上だけでも聞いてやって下さいませぬか。」


家督を譲った兄と譲られた弟が揃っている… それぞれの言い分を同時に聞けるという事か。
一回で済ませられるのであれば話を聞いてやっても良いだろう。
楓殿に視線を送った・・・頷いている。


「…分かった。三郎太、兼綱達を連れて来てくれ。」
「はい。」

「忝い…」


三郎太が小走りで潜り戸を出て行く…
誉田は立ち上がり、腕を組みながら〝赤松の巨木〟を眺めていた。

程なくして、兼綱一行と弟の兼良がやって来た。

弟の兼良… 兄の兼綱とは真逆で線の細い若者だった。
私の目の前で跪く… その後ろに兼綱達が平伏した。


「柴山の兼綱(かねつな)が弟にて兼良(かねよし)と申しまする。 兄の御無礼、心よりお詫び申し上げまする… 。」

「風間賢人だ。話を聞こう。」
「はい。」


兼良が顔を上げた。
線は細いが利発そうな目をしている。


「風間様の御屋敷から戻った兄は顔が腫れ上がっておりました。 如何したのかと尋ねると〝お前に家督を譲る〟と言った後、部屋から出て来なくなり申した…。 余りの突然故、気が触れたかと思ったほどで御座います…。 しかし、話を良く聞けば… 兄は風間様の御人柄、剣の技、体術に心酔している由… 」


… 一ヶ月も経ったというのに、まだ目が覚めていないと言うのか?


「それで?」

「はい。 家督を譲るなど簡単に口にしてはならぬと伝えました。 そして… 善く善く考えよとも。 …そして、風間様の家臣になると言うならば、たとえ死すとも御奉公致す覚悟があるのかとも尋ねました…。」


兼良は私の目をしっかりと見据えてきた。


「その問いに兄は…〝儂は一度死んだ身… 死ねと言われれば死ぬ〟と答えたので御座います。 一月ほど部屋に籠った今朝方… 荷を纏めて出奔致した次第…。」


単純に家を捨てて飛び出した訳ではなさそうである。


「兼良。お前は兄の申し出に納得しているのか?」
「…兄が身命を賭して風間様の家臣と成るのであらば… 私が家督を継いでも良いと思っておりまする。」


ふと、疑問が湧いた… 兼綱の後ろで土下座しているのは何者なのだろうか?


「ところでだ… 兼良。 兼綱の後ろにいる二人は何者なんだ?」


兼良は驚いたと言いたげな表情になった。
誉田の方に目をやる… 〝何やってんだ〟という険しい顔で俯いてしまっている。


「はっ、亡き父兼盛(かねもり)が弟兼光(かねみつ)が息子の兼高(かねたか)兼時(かねとき)で御座いまする。」

「お、おう。…そうか。」


カネだらけだった。
もう誰が誰だか分からない… いい加減にしろという気持ちになった。


「後ろの二人、お前達は誰の家臣になるんだ?」

「風間様の家臣になります!」
「風間様の家臣ですっ!」

「…お前達の父や母は何と言っている?」


二人も真っ直ぐな視線を送って来た。


「父は戦で死に申した。・・・母も幼き頃に病にて死に申した。」
「他に兄弟姉妹は?」

「…おりませぬ。」


孤独な兄弟だった…。


「おい、兼綱。 お前は従者達と対等になるんだぞ。…耐えられるのか?」
「恐れながら… この者達は儂の従者では御座りませぬ。幼き頃よりの仲間。」


仲間か… 青臭い言葉だが、かけがえのないものだ。
羨ましい様な照れ臭い様な… 不思議な感覚が蘇ってきた。
三人の澄んだ瞳からは、真っ直ぐな視線が送られ続けている…。


楓殿に視線を送った・・・ 一度だけ、大きく頷いた。


「…お前たち。 風呂に入って来い。汗臭いからな。」


そう言うと、三人は顔を上げた。
一様に〝ポカン〟とした表情になっている…
兼綱は口を半開きにしたままフリーズしていた(笑)


変な〝()〟が続いた…


「あ、ありがとう御座りまする! 我ら… 一所懸命忠義を尽くす所存っ!」


ようやく状況を飲み込んだらしい。
三人は地面に額を擦り付けている。


「兼良。こうなった。 お前は柴山の家を継ぐのか?」
「はいっ。柴山の家督を継ぎ… 風間様をお支え申し上げまする。」


弟の兼良(かねよし)兼綱(かねつな)の元へと歩み寄ってゆく…。


「兄上… 兼高、兼時。 今より兄上達は風間様の臣。 柴山の者とは扱わぬ… 戻る場所は無いと心得なされませ。」


そう言い残した兼良は深々と一礼すると… 潜り戸から帰って行った。


「…おい。 何時まで頭を下げてるんだ?」


三人が顔を上げた。
おでこと鼻の頭には砂がこびり付いている… 間抜け面を晒していた(笑)
楓殿は口元に手を当てて〝クスッ〟っと笑っている。


「紹介しよう。妻の楓だ。」
「皆さん、しっかりと賢人殿を支えて下さいね。」


「ははーぁっ!」


地面に額を擦り付けてしまっている… 全く以て面倒臭い(笑)
誉田の方へと目をやると、両手を太股に当てて一礼している。
その奥には… いつの間にか作左衛門が控えていた。
気配を消して近付いて来ていたのだろう… 悪い癖だった。


「作左衛門。 湯屋と部屋の手配を。」
「…へい。」


「ちょっと待って。」


楓殿からストップが掛かった… 何事だろうか?
作左衛門も何事かという表情で動きを止めている…


「三人とも垢だらけ。 綺麗に落としてから屋敷に上がって下さいね。」


楓殿の潔癖症が炸裂した。
…という事ではなく、柴山の垢を落とせという意味なのだ。




兼綱達には伝わっただろうか?


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