第13話 首輪とリード

文字数 9,736文字

Gショックを確認した。


作戦開始予定時刻の1700時を越えた数秒後…
スマートフォンに着信が入った。
送信者には ”警察庁 中島警視” と表示されている。


メールを開いた…


〝船橋西総合病院にて妻を現認。監視継続中。〟


計画通りの進行である… 作戦開始だ。


アンブロのジャージ上下とランニング・シューズに着替えた。
ランニング・ポーチに水を入れたペットボトルとピッキングツール、それに拘束用の結束バンドとアイマスクを仕込む。


赤絨毯の階段を小走りに下り団本部から出た…


西からの日差しが眩しい。
外周道路に走り出ると軍用犬を連れた警備兵が歩いて来る… お互いに軽い挨拶を交わした。


湿度が高い気候だと聞いていたが、滞在7日で湿気の不快さを痛感している。
気温はそれほど高くないのに、基地内を半周しただけで首に掛けているランニングタオルが邪魔になるほどの蒸し暑さのだ。
アナポリスであれば、この時間帯でこれ位の気温でならば汗ばむ事はないだろう。
むしろ、夕方の浜風が心地良い時間帯である。


5日間のジョギング偵察で得た情報を頭の中で反芻しながら、ゆっくりめの速度で駐屯地の外周路を一周した。


2周目で監視カメラの死角になる通路へと入った… 官舎の間を通り抜けて反対側の外周路へと抜ける。
直ぐに石井准陸尉の部屋がある5号棟が見えて来た。


外周路を確認する… 巡回している警備兵の姿は無い… 5号棟102号室前の植え込みで立ち止まり、ストレッチをするフリをしながら5号棟全体の状況を確認した。
3階の部屋から薄明かりが漏れているが、5階までの階段に人影は無い… 隣の201号室の明かりも点いてはいない。


チャンスだった。


101号室前の階段に走り込む…


玄関ドアの新聞受けに耳を近づけた… 人の気配は感じない。
ピッキングツールをポーチから取り出し解錠に取り掛かった。
昨夜の練習の甲斐もあって、思った以上に速くシリンダーを回す事が出来た。
グローブを付けてからタオルでドアノブ周辺を念入りに拭き上げる。


ゆっくり静かにドアノブを回す…


身体を滑り込ませて静かにドアを閉めた… 中に人の気配は無い。
鍵を掛けてから部屋の間取りを確認した。


玄関ドアを背にして右手がバスルームとトイレットルーム、それににランドリールーム。
両方とも生活臭をほとんど感じさせない程の清潔感があった。
左手の部屋は心臓移植を待ちながら入院しているという娘の部屋だろう… 介護用と思われるが使われていないベッドと勉強机、真新しい背負いタイプの鞄が置いてある。


正面右がダイニングキッチン、左側がテレビのある部屋だった。


テレビ上の壁にはコルクボードが掛けられている… ベッドの上に座っている女の子が映った大きな写真を中心にして、家族3人の写真がたくさん貼られていた。

各部屋は介護に明け暮れている生活とは思えないほど整理整頓されている…。
リモコン類はモデルルームのように ”所定の位置” に置かれているし、テレビのリモコンにはラップが巻かれていた。
テーブル下の床も埃一つ落ちてはいない。

石井准陸尉は潔癖症なのか?
娘の入院先に夫婦で交互に泊まり込むという生活スタイルを行いながら、この生活環境を維持している事は賞賛に値する… ズボラな私には無理な芸当だった。

全てのカーテンがしっかりと閉められているのは1階だからだろう。
普段からこの状態なのであれば外からの視線を気にする必要は一切無い… 部屋から漏れる音に注意すれば大丈夫だ。


しかし、シンプルな部屋である…


石井准陸尉が部屋に入ってきた場合、確実に背後を取れる位置が見当たらない。
自分が石井准陸尉だったならば、先ずは何処に行くだろうか?


・・・キッチンに行き冷蔵庫を開けてみた。・・・


ソフトドリンクやビール類は入っていないが、ドアポケットには紅茶のような液体が入ったドリンクポットがあった… 棚にはタッパーに入れられた作り置きの料理と冷凍された食材が整然と収納されている。
几帳面な性格が良く表れている冷蔵庫だった。


私は玄関ドアへと戻り、石井准陸尉の行動を推測してみた。


・・・床に埃一つ無い部屋をキープしている潔癖症を窺わせる性格である。 帰って来て最初の行動は着替えるかシャワーを浴びる? ランドリールームか…? それともバスルームか?
トイレットルームに向かったならば、確実に背後を取れる場所は何処だろうか?・・・


頭の中でシミュレートする…。
子供用らしき部屋に入ってみた。


部屋を良く見渡してみると、勉強机には教材や文具類が置いてある。
教科書類は使っている形跡があるのだが、背負い式の鞄は新品同様だった… 通学できていないという事を物語っている。
ここは、入院している娘の部屋だろう。


石井准陸尉が帰宅してバスルームやトイレットルームに行かず、ダイニングへと向かってしまったとしても ”真正面からの遭遇” を避けられる位置関係にある場所… それは、娘の部屋だけである。
バスルームに干してあったタオルを取りに行き、娘の部屋に戻った。


スマートフォンを取り出す。


〝潜入成功 待機開始〟


メッセージを送信して電源を切った。


部屋のカーテンを少しだけ開ける…
カーテンの隙間からは外周路を見通す事が出来た。
娘の部屋からは団本部中隊の指揮所が入る建物の一部も見える… ここからであれば、石井准陸尉が部屋に近付いて来るのを確認できるだろう。

ベッドに腰掛ける… のは、止めにした。

ふと、コルクボードに貼られた女の子の写真が頭に浮かんだのだ。
名前も知らない女の子のベッドであるが… 何故か座ってはいけないという気持ちにさせたのである。

カーテンの隙間を覗きながら、暫くの間〝父親とは何だろう〟という考えが頭を巡った。
父親になった事は無いが、もし自分にポーラとの娘が居たのならば娘への危害は全力を掛けて排除するだろう… いや、だろうでは無い。 全力で排除する。
しかし、汚れた金で娘への心臓を買うだろうか?
ポーラは自分の分身に ”汚れた金で買った心臓が移植される” のを望むのだろうか?

いくら考えても答えは出なかった。

マッケンジー中佐が会議で言っていた〝何事も無ければ、何事も無かった事に出来る〟との言葉が思い出される。


…その時だった。


外周路の内側に迷彩服と自衛隊員用の帽子を被り、リュックザックを左肩に背負った兵士がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
私はバラクラバマスクとスモーク・アイガードで顔を隠した。
迷彩服がどんどん近付いてくる。

単眼スコープで顔を確認する…

鋭い視線… 口元の傷… 間違いない… 石井准陸尉だ。
窓から離れ部屋の入口を背にしてしゃがみ込む。
ボディカムの録画スイッチをオンにした。


軍用ブーツ独特の音に集中する… 近付いてくる… 靴音が変わった。
1,2,3,4、5、6、7、8歩… ドア前で足音が止まった。


ジャラッ…
カチャ…
キィィィ…
ガタン…
カチャン…


動いている気配がない…
気配を殺しながら手鏡で玄関方向を確認すると、石井准陸尉はこちらを背にして座りながら軍用ブーツの紐を解いていた。


千載一遇のチャンスだった。


完全な無音で部屋を出る… 背後から石井准陸尉の首に左腕を巻き付けた。
頸動脈を締め上げる。


「はうぅっ… かはっ… かはっ…」


顔が真っ赤に染まってきた。
石井准陸尉の手が私の腕を掴んだ… 振り絞るような呻き声を出し始めた。
玄関先で、この呻き声は少々不味い。
頸動脈を締め上げながらダイニングルームへ引き摺っていく。
暫く足をバタつかせていたが、テーブル付近に来た頃には〝落ちて〟いた。


アイマスクを付けてから椅子の背もたれを抱くように座らせ、素早く結束バンドで椅子の脚に縛り付けた…


膝を曲げ両足の踵を上に向けて椅子の脚に固定する。
膝を曲げ足の裏を上の向けた状態で背もたれを抱き、両手を組んで縛られる… この状態では絶対に立ち上がれないのだ。
拷問スタイルの完成である。


落ちてから30秒は経っていないだろう… 上出来だ。
背もたれを抱えている鳩尾に掌底を当て、グッと押し上げる。


「ふぁがっっ… げぇはぁぁっ…」


肩を上下させながら呼吸を始めた。
息が整う前にタオルで猿轡をする… 声にならない呻きを発しながら、全身を使って拘束を解こうとしている。


私は背中側に回り、右のキドニ(腎臓)ーに〝打ち抜く(こぶし)〟を入れた。


「んがぁ…ほぉぁ…」


タオルの隙間から声にならない息が漏れた。
ここを殴られるとダイレクトに内臓にダメージが届くのだ… はらわたを掻き回される様な苦しみが長く続く…。

呻きの息を吐きながら必死で身を固くしている。
息を吐き切るタイミングを待った… キドニー(腎臓)に深い右フックを叩き込む。


「ぐぅかぁぁっ…あがぁ」


身をくねらせて足掻いている… 既に額には脂汗が浮き始めている。
今度は息が落ち付く前に左のキドニーを打ち抜いた。


「ヴゥゲェェェ・・・・」


痙攣しながら盛大に胃液を吐き出した… 猿轡の白いタオルが嫌な色に染まり始めている。
息が吸えない状態でキドニーを連打される… 自分がやられた事を想像するだけで気持ちが悪くなってくる。
ここに筋肉を付けるのは難しいのだ… 鍛錬をしていない人間ならば、一発で悶絶して動けなくなる。

先程まで赤く紅潮していた石井准陸尉の首筋から血の気が引いている… 額には大粒の脂汗を浮かせていた。


「かはぁっ、かはぁ…あはぁ…」


体全体で息を吸っている。
アイマスクを取り、頭を掴み顔を引き上げる。


「うがぁあ…がぁあ…」


私を睨みつけてくる… タオルに染み込んでいた胃液が吐く息と共に滴った。
どうやら、まだ観念していないらしい。


…もう一度、右のキドニーにフックを叩き込んだ。


首筋から大粒の汗が流れている。
後ろから頭を掴み引き上げる… 怒りと侮蔑が混じった視線で睨み付けてきた… どうやら、未だ心は折れていないようだ。
今度は呼吸が戻るまで待つことなく等間隔で右キドニーを深く連打してやった。

低い咆哮の様な嗚咽を漏らしながら、のたうち回り始めた。

これ以上続ければ血尿を流して入院することになるだろう… そろそろ潮時だ。
最後の一発は左キドニーに重く打ち込んでやった。

〝バスッ〟という音と共に綺麗に決まった。

石井准陸尉の動きが止まった。


「ギィィィ…」


歯を食いしばり白目を剝きながら天井を仰ぐと、ガクガクッと背もたれにしな垂れ掛かった。
気を失ったようだ。


顔を引き起こし、両頬を〝パンッ〟と張る。


頭を左右に振り意識を取り戻した。
私に向けてくる視線に力は無かった… 恐怖に怯える目だった。
私は人差し指を唇に当てる仕草を送った。
2度3度と大きな頷きを返してきた。


「…レールガン…」


耳元で囁くと石井准陸尉はビクッと反応した。
後ろに回り込み、猿轡を外してやる。


「もうちょっと・・もう・・・・もう少し待て… 必ずなんとかする!」


血の気が引いた顔色をしながら脂汗を吹き出させている。


「根津組から金を受け取っていたんだな。全て話せ。」
「・・・お前…誰だ?」


お前と言われて無性に腹が立った…
左キドニーへ深く拳を打ち込んだ。
身体を小刻みに痙攣させ、天井を見上げながら白目を剥いた… 口元からは涎を垂らしている。


部屋に嫌な臭いが立ち込めてきた。


ペンライトで股間を照らすとシミが広がっている… 椅子の足下には液体が溜まっていた。
血尿では無い。
…まだ大丈夫だ。


もう一度、両頬を挟むように張った。


失神から目が覚めると、自分が股間を濡らしている事に気が付いたようだ。
頭を持ち上げると嗚咽のような息を漏らしながら、羞恥と恐怖が混ざった私を呪うような視線を送ってくる。

無性に腹が立った…
左のキドニーを打ち抜いてやった。

ガクガクと身体を痙攣させた後、また白目を剥いた… 胃液と涎の混じった液体を吐き出した。
猿轡に使ったタオルの端で顔の吐瀉物を拭く。
右頬、左頬と平手打ちを繰り返すと意識を取り戻した。


「レンジャーの隊長が小便を漏らすとはな。」


微かに嗚咽している… 心が折れたようだ。
アフガンでも、この方法で何人かの逆スパイを作った。


「金は何処にある?」
「金…金は受け取ってない。アメリカの病院に…手付け…手付け金が振り込まれるんだ。 残りの金は、ドナーが、ドナーが…見つかった時に根津組が直接支払う事になってる。俺は一円も受け取ってない…」


心臓移植代を肩代わりして貰っている事に変わりは無かった。
石井准陸尉の目が懇願する様な色に変わっている。


「た、助けてくれ! 俺は…俺は脅されているんだ。レールガンの情報を持って行かないと娘の手術が…手術は出来ないんだ… 娘の…心臓は手に入らない…」


顔をくしゃくしゃにして嗚咽している… 聞いてもいない事を喋り始めた。
やはり、娘の心臓手術を餌に脅されていた。


「いいか、良く聞け。指示に従わなければ… お前がレールガンと心臓移植費用の事を全て我々に喋ったと根津組に伝える。 言っている意味が分かるか? …答えろ。」

「あぃぃぃ…」


レンジャー資格を持つ男が泣いていた…


「お前は今、我々の管理下に入った。お前の行動次第で娘の心臓移植の行方は決まる。 理解出来るか?」

「はいぃぃぃ・・・」


後ろに回り込み、左キドニーにフックを打ち込んだ。
海老反りになって身体を痙攣させている。


「もう一度言う。 お前の行動次第で娘の心臓移植の行方は決まる。」
「やめ・・・止めて・・くれ…ぐぅえぇえっ」


吐いてはいるが、胃液は出なくなっている… その代わりに、こめかみと首筋の血管が蛇の様に蠢いていた。
呼吸が落ち着くのを待ち、頭を掴みボディカムに顔を近付けさせた。
石井准陸尉は全てを悟ったようだ… 目の色は灰色に変わっている。


「な、何でもする… 娘を…娘を助けて…お願い・・・ お願いします…」
「レールガンには近付くな。心臓移植が決まるまで引き延ばせ。出来るか?」
「出来ます!出来ますから… 根津組には黙っていてくれ! 家族ごと、こ、殺される!」


鼻水を垂らしてすすり泣いている。
もう心は完全に折れているだろう… 裏切りはしない筈だ。
スマートフォンを手に取り、電話を掛けるフリをする。


「私だ。男を我々の管理下にした。録画もした。…分かった。以上だ。」


石井准陸尉に聞こえよがしに一人芝居の会話をして見せた。
怯えと諦めが混じった表情で項垂れている… 死んだ魚の目だった。


「今日は何も無かった。 今まで通りの生活をしろ… また連絡をする。」


手の結束バンドを切ってやった。
足の結束を解いた直後、椅子から床に崩れるように転がった。
自分の漏らした小便の中で嗚咽している。
恥辱に塗れた姿をスマートホンに収める… フラッシュが光る度、薄暗い部屋に死んだ魚の目をした男の表情が浮かび上がった。


死んだ魚の目から視線を外す事なく玄関まで下がってゆく…
鍵を開けて外へ出た。


階段の陰に身を隠しながら、バラクラバマスクとアイガードを外す。
時計を確認する… 1807時だった。
この7日間に行った偵察ランニングを終える時刻を少し過ぎていたが、ほぼ一緒である。


まだ若干明るい。遠くまで見えている… 左右を確認する… 誰も居ない。


102号室の死角になる位置から、監視カメラに映らない様に反対側の外周道路に出た… 警備兵は遙か前方を歩いている。
何事も無かった様に外周路へと出てジョギングをしている隊員を装った。

ランニングからの帰りを装いながら、団司令部の歩哨と軽い敬礼で挨拶を交わし2階の執務室へ戻った。
退勤登録をしてから業務システムパソコンの電源を落とす。

部屋の照明を消して部屋を出た。

団司令部棟内に変わった雰囲気は無い。
総務科もいつもの風景だった… 受付の大きなガラス窓の向こうには数人の科員が残って業務を続けている。

軽く敬礼をして団司令部を出た。

駐屯地内の雰囲気を感じ取る事に集中した… 変わった雰囲気は無い。
いつもと同じ時間が流れていた。
綺麗に刈られた植え込みに沿って正門へと向かった。


正門で歩哨のチェックを受けて基地の外に出た…。


グリーンになった横断歩道を渡る… 誰にも呼び止められなかった。
振り返った先にある駐屯地の正門はいつもと変わらない。


自分でも驚くほどに上手く事が運んだ…


マンションに戻ると駐車場には見た事のあるバンが停まっていた。
車内に誰か乗っている気配は無い。
来客用スペースには大型バイクが停まっている… 燃料タンクの脇に付いているエアインテークが特徴的なバイクだった… YAMAHAのロゴが付いている。
このバイクにも見覚えがある… 百地三佐だ。

部屋のドアを開けるとライディング・ブーツと革靴が2足、シューズボックスの上には黒いフルフェイス・ヘルメットがあった。
通信ルームに入り、ラップトップ・パソコンの配線を外す。
リビングへと向かった。


「やぁ、ご苦労さま。」


何故か戯けた振る舞いをする私がいる。
3人の視線が私の頭から爪先までを舐めるように追っていた。
神田警部補が立ち上がった。


「帰ってきたという事は… 無事成功という事ですよね?」
「ああ、そうだ。」
「撤収の必要は?」
「ない。話は長くなるから、これを観ておいてくれ。俺は風呂に入りたい。」


ボディカムとラップトップパソコンをリビングのテーブルに置き、バスルームに向かった。
部屋を与えられた初日の夜に〝タイマーで湯を貯められる事〟を学習していた私は、それから毎日1800時にタイマーをセットしていた。
好きな時に好きなだけ湯に入れるのは最高の環境だった。


ジャージの上下は床に置き、脱いだ下着は洗濯機に放り込む。
頭から熱いシャワーを浴びて、しっかりと汗を流してからバスタブに入る… 熱い湯の刺激が心地良い。


目を瞑ると、死んだ目をしながら小便に塗れた石井准陸尉の顔が頭に浮かんだ。 


〝お前の行動次第で娘の心臓移植の行方は決まる…〟


冷酷な嘘であり真実だった。
根津組を裏切れば家族丸ごと消されると言っていたが、私達を裏切れば日本政府から排除されるのだ。
どちらにせよ、私が王恭造を仕留めれば心臓移植の話など雲散霧消になる。

キドニーを打ち抜いた感覚が拳に戻ってくる。
コルクボードに貼られていた娘の写真、死んだ魚の目をした石井准陸尉の顔が交互に浮かんでは消えていった。


「自業自得だ… ヤクザに軍人の魂を売ったお前が悪いのだ…」


私は自分に言い聞かせた。
波打つように浮かんでは消える2人の顔を水面に沈めていく…。


ものの数分で顎から大粒の汗が滴ってきた。


バスタブから出て、ボディソープで全身を泡だらけにする… バスルームが仄かなミントの香りに包まれる… 顔と頭も泡塗れにした。
全身に纏わり付いた嫌な記憶を掌で擦り落とし、シャワーで勢いよく洗い流す…。

新品のバスタオルは未だに水の吸いが悪かった。
新しい下着を着けバスローブを羽織り、腰の紐をしっかりと結んだ。
石井准陸尉に見られたジャージを持ってキッチンへと向かう。


リビングのドアを開けた瞬間、3人からの冷たい視線を一身に浴びた。


気にしない素振りをしながらゴミ箱にジャージを放り込み、冷蔵庫のバドワイザーを取り出して一気に煽った。
百地三佐の視線は冷たかった。…が、黒革のライディング・スーツが艶めかしい。
中島警視はポーカー・フェイスを保っていた… 神田警部補は少し怯えている。
3人は無言でソファに座り続けていた。

2本目のバドワイザーを冷蔵庫から取り出しプルトップを持ち上げる。
私もソファに座った。

4人が考えている事は同じだろう…
私の存在がバレる事、石井准陸尉との再接触をどうするのか、この2つを解決しなければ先に進まないのだ。
日本側も腹を括らなければ時機を逸する。


重苦しい沈黙が暫く続いた。


「…ちょっと、手荒過ぎやしませんかね?」


沈黙を破ったのは中島警視だった。


「拉致して連れてくれば良かったか。」
「死なせてたら、どうするつもりでした?」
「死なせないようにやった。心は折らせて貰ったが…」


神田警部補が急に立ち上がった。


「これ、バレたら一大事ですよ、これ!」
「神田…それ皆知ってるぞ…」
「先輩、自分を襲った奴は基地内の人間だって思いましたよ、これ。」
「神田、それも知ってる…」
「次のアプローチはどうするんですか?」
「神田、座れ! 皆、それを考えてるんだ!」


神田警部補は目を泳がせている。
動揺を隠そうともしていない。


「神田警部補…バレない。多分な。」
「何故… 風間一尉、何故そう言えるんですか!」
「完璧に心を折っておいた。あいつは既に負け犬だ。」


バドワイザーを煽る… 中島警視の視線は冷たかった。
人間の心を折る拷問を加えた後に風呂に入り平然とビールを煽る… やはり、他人から見れば私も何処か壊れた人間に映っているのだろう。
神田警部補はテーブルに目を落としながらソファに座ると、何も言わなくなった。


ずっと黙っていた百地三佐が口を開いた。


「風間一尉が首輪とリードを付けてくれました… 早めにリードが外れないようにしなければいけません。」


黒革のライディング・スーツを着た女性が話す〝首輪とリード〟という言葉に、丁寧な言葉遣いがプラスされて艶めかしさが強調されていた。


「…我々の出番って事ですね。」
「そう。身バレせずに容疑者に接触するのは、2人の得意技ですもの。」


中島警視は身を乗り出して百地三佐の顔を凝視した。
中島警視と神田警部補… 2人は警察庁の国際テロ対策課に所属している。
身元を隠した捜査や接触はライフワークと言っていいだろう。


「病院ならば、週3回もチャンスがありますね!」


どうやら、神田警部補は空気が読めないタイプの男らしい。
会話を持って行かれた中島警視は、ちょっと呆れたような視線を送っている。
そんな事はお構いなし、という感じで神田警部補は話を続けた。


「石井准陸尉を見張っている根津組の連中、病院内には入って行かなかったんですよ。 病棟内であればアプローチ可能だと思うんです。 先輩、どうでしょうか?」

「お、おう。そう…だな。」


百地三佐は意を決した目で中島警視を見ている…。


「中島警視、よろしくお願いします。首輪とリードを確実なものにして王恭造の居場所を探らせましょう。」
「百地三佐、風間一尉。石井准陸尉を完全なコントロール下にするには早めにアプローチした方がいいと私も思います… この映像、コピーさせてもらいますよ。」


百地三佐は私達3人にそれぞれ目配せをすると、大きく頷いた… 中島警視がSDカードの映像ファイルをUSBにコピーするのを確認すると、黒のライダーズスーツには似合わない上品な所作で立ち上がりリビングから出て行った。

石井准陸尉を上手く使い熟せれば、我々に有利な状況で事は進むだろう。
中島警視達の腕の見せ所だった。


…通信ルームに向かった。


TOUGHBOOK に顔認証させて通信アプリを立ち上げ〝司令部〟を選択する。
〝connecting〟の点滅と共にグリーンのバーがレベルを上げていった。
〝Setting completed〟の文字に変わり、画面が立ち上がった。
イヤホンマイクを装着したジャクソン一等軍曹の姿が映った。


「こちら、司令部です。」
「通信状況はどうだ?」
「映像音声共に良好です。」
「了解した。状況報告だ。」
「はい。録画を開始します・・・どうぞ。」


「本日、基地内で最重要監視対象の石井准陸尉と接触。百地三佐の見立て通り石井准陸尉は王恭造から娘の心臓移植手術資金の提供を受けていた。 その代償としてレールガンの情報を探る様に脅されていた。 現在、石井准陸尉をこちらの管理下に置き、逆スパイとして運用する為の準備に取り掛かっている。 録画映像を送るので確認をして欲しい。…以上。」


「…OK、録画完了です。」
「了解、画像と映像ファイルを送る。受信完了のメールを送信しておいてくれ。」
「了解しました。」
「通信終了。」


スマートホンを TOUGHBOOK に接続すると〝Sending〟の点滅と共にグリーンのバーがゆっくりとレベルを上げてゆく… 自動的に画像ファイルが転送された。
ボディカムで撮影したSDカードをセットすると、これも自動的に送信された。




これで状況は大きく動き出すだろう…
残ったバドワイザーを喉に流し込んだ。


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