第20話 忠義

文字数 11,951文字

沢の水に半日ほど浸してあった大鹿の体は充分に冷たくなっていた。
この状態であれば脂が絡まずに解体できるだろう。



大鹿の足を纏めて縛り、太い木の枝に通してから結束バンドで足をしっかりと結びつけた。
立派な雄鹿だ… 肩にずっしりと体重が掛かる。


慎重に担いで〝岩穴の倉庫〟まで戻った。


鹿の首にロープを掛けて櫓の下にある太い丸太へ吊そうとしたのだが、これが思った以上の大仕事だった。
百地三佐に手伝ってもらい、やっとの思いで ”解体の準備” を整える事が出来た。


「解体よね… 私は… 野草を取ってくるわ。沢の近くで見つけたの。」
「銃は持って行った方がいい。気を付けて。」


レディ(淑女)に動物の解体は似合わない。
それで良い…。

私は倉庫に行き、ハードケースからカーボンスチール・ナイフを取り出した。
懐剣に獣の血を吸わせるのは抵抗があったからである。
カーボンスチール・ナイフならば、骨から肉を削ぎ落す細かい作業にも使える。
懐剣よりも無駄なく肉を切り離せるだろう。


先ず、首の付け根に刃を少し差し込み、360度の切れ込みを入れる。
次に、喉から胸にかけて垂直に切れ目を入れ、毛皮を外側に剥く様にしながら肉と皮を剥がしてゆく…。


沢の水で充分に冷やされているので脂肪も固くなっていた。
これ位に冷えている状態がベストである。
体温が残っていると脂肪分がナイフにこびり付き、皮が剥ぎにくくなってしまうのだ。


次に腹の筋膜を傷付けないようにしながらナイフを差し込んでゆく…


こうして毛皮を(めく)るようにして剥いでゆく… この時、毛の部分と肉を触れさせず雑菌を付けずに剥ぐのがポイントなのだ。
皮を一枚の状態になる様に剥いだら、前足の膝関節に刃を差し込み切断する。
膝から下の部分を切り落とした。


モモ、尻、腰、背、肩、首の順に部位毎で肉を落としていった…。


この方法はアフガニスタンの羊飼いから教わったやり方だった。
首を括った姿になるので見た目は良くないのだが、この解体方法だと内臓をばら撒く事がないので解体中のスプラッター度が格段に低くなる。
彼等は最後に内臓を落として無駄なく食べるが、私は内臓の処理の仕方は分からない。


最後に、あばら骨に沿って肉を削り取った。
解体が終わりかけた時、私はとんでもない問題に気付いてしまった…。


 ”冷蔵庫が無い…”


ブルーシートには大鹿一頭分の肉が山盛りになっている。
上手く皮を剥いだが冷やすか調理しなければ数時間でダメになるだろう… 保存方法を考えなければならなかった。


そんな事を考えていると、百地三佐が戻ってきた。


首吊り状態でバラされた鹿を見て、一瞬だがたじろぐ様な素振りをした。
内臓がぶち撒けられていたならば近付いて来なかったかも知れない。
手には倉庫にあったビニール袋が握られている… 中には植物らしきものがみっちりと詰められていた。


「命をいただくって、まさにこの事よね。」
「ああ。 感謝の気持ちを持って食べよう。」
「沢の周辺は野草の宝庫よ。 行者ニンニクが群生してるの。それに紫蘇も。」


ビニール袋を開くと強烈なニンニク臭が漂ってきた。
摺りおろしニンニクが入っているかの様である。


「凄い臭いだ…」
「行者ニンニクよ。 ジビエ肉には最高のお供ね。」


百地三佐は倉庫に入るとバーベキューのコンロを運んできた。
そう言えば、倉庫にはバーベキュー用具一式と調味料があったのだ。
このニンニクとシソの葉合わせれば、それなりの味付けになるだろう。


「風間一尉、本場のバーベキューをご馳走してくださる?」
「分かった。じゃあ、炭を熾して欲しい。」
「スマホもテレビも繋がらない。何時代かも分からない。食事くらいは楽しみたいわ。」
「そうだね。」


百地三佐はコンロを組み立てると、空気が含むように炭を置いている。
その上に鉈で細く割った薪を囲むようにして組んでいた。
更に、森で無数に落ちている枯れ枝で覆っている。
炭の熾し方は心得ているようだ。


「鹿を仕留められたか。」


徐ろに背中から声を掛けられた。
振り返ると丸太の防護壁に寄り掛かりながら立っている〝殿〟がいた。
出血が少なかったのが幸いだったのだろう、貧血は起こしていないようだ。


「おい、無理をするな。」
「…命を救うてもろうた。 何か手伝わせてくれぬか。」
「動くと傷口が開く。 治療が無駄になる。」
「ただ寝ているのも辛いものじゃ。」


私達のやり取りを聞いていた百地三佐が〝岩穴の倉庫〟から、折りたたみ式のキャンピング・チェアを持って来た。


「此処に座ってて。」
「忝い。」


キャンピング・チェアには、やたらと良い姿勢の侍が腰掛けている… 如何にも〝殿〟といった座り方だ… 滑稽な光景だった。


「無理をして傷が開いたら、もう縫ってはやらんぞ。」
「…承知。」


百地三佐は火起こし作業を再開している。

岩穴の倉庫にあったであろうファイアー・スターターで火を付けると、枯れ枝には湿気が残っていたらしく、煙が盛大に立ち上った。
炎が見え始めた頃、大量の枯れ葉と小枝を追加すると再び盛大な煙が立ち上った。

湿気を考慮した上手い火起こしである。
暫くすると〝パチパチ〟と爆ぜる音がして薪にも火が付いた。
トングを使って、火の着いた薪で炭を覆うように組み直している。


殿は立ち上っていく煙を見上げていた…。


すると、肉を切り分けている私の手元をじっと見入って来る。
家臣を持ち〝殿と呼ばれる男〟に手元をじっと見られるのは、多少の違和感があった。


「殿、聞いて良いか?」
「何なりと。」
「黒装束の奴等は何者なんだ?」


殿の顔が少し曇った。


「まだ分からぬ… ただ…」
「どうした?」
「儂が家督を継いだのが気に入らぬ奴がおるのじゃ…」

 
殿は吐き捨てるように言った。


「何故、あんな早朝に襲われたんだ?」
「儂は輝明と小姓どもを連れて遠掛けに出た。 その帰り道に襲われた。 馬を射られてしもうてから山へと向かった…。」

 
一晩中、山を彷徨っていたという事になる。


「で、此処に辿り着いたと?」
「そうじゃ。・・・獣道に導かれた。」

 
百地三佐は汲んできた水で野草を洗いながら、私達の話を聞き入っている。


「殿っ! 何をしておられまする。お休みになってください!」


振り返ると、刀を杖代わりにしながら丸太の防壁に寄り掛かっている誉田がいた。
未だに顔は青白い… 多くの血を失った名残りだ。


「誉田… 何をしているかとは私のセリフだぞ。 寝ていろ。」
「いえ、殿の命をお救い頂いておきながら、独り寝ている訳には参りませぬ。」


…全く以て、面倒臭い主従関係だ。
それを見ていた百地三佐は、殿の時と同じ様に包帯に新しい血の滲みが無いか確認している。
折りたたみチェアを広げて殿の隣に置いた。


「誉田さん。言う事を守らずに傷口が開いたら、手当して貰えないわよ?」
「・・・承知仕った。」
「じゃあ、ここに座って。」
「いや… 拙者は此処で結構。」


誉田はゆっくりと一歩ずつ殿の隣に行く… 丸太の防壁を背もたれ代わりにしながら、ゆっくりと地面へと座った。

太刀を左手側に立て掛けている…。

何時でも抜刀できる置き方である… 百地三佐がチラッと刀を見ているのが分かった。
私達のやり取りを見ていた殿は何も言わない… 侍の主従関係とは、こういう場合にも厳格に存在するのだろう。


「炭に火が付いたわ。」
「了解。」


モクモクと盛大に煙を上げていたコンロは、いつの間にか落ち着いていた。
中を確認すると炭は白い灰で覆われていて、中心部分は真っ赤だった。
完璧な炭熾しである。
私はアイコンコンタクトで出来栄えを称えた。
百地三佐は得意げに頷いている。


「これ、使えるわ。」


倉庫から戻った百地三佐は丸い缶を2つ持っていた。
缶には〝岩塩〟と〝GABAN〟と書かれている。
バーベキューには欠かせない塩と胡椒だった。


理解しがたいのだが… 〝岩穴の倉庫〟の内部は古民家ペンションにいた時と同じ状態が保たれているのだ。

岩穴の倉庫内部が時空転移したのだろうか・・・?
どうすれば時空転移から解放されるのか?
元の空間に戻る方法は何なのだろうか?

そんな事を考えながら、尻肉の塊にナイフを10カ所ほど刺し、百地三佐が採ってきた行者ニンニクを差し込んだ。
それから岩塩を表面に擦り込んでから網の端に乗せる…こいつを遠火でじっくり焼けば美味いだろう。

次に腰の辺りの柔らかい部分を選び、1ポンド・ステーキのサイズで4枚切り出した。(恐らくだが1ポンド以上ある)
両面に格子状の切れ目を入れてから、たっぷりと岩塩と胡椒を擦り込んだ。
網に乗せると〝ジュッ〟と良い音がする。
直ぐに肉の焼けた香ばしい香りが立ち上がった。


百地三佐は折りたたみテーブルを広げて殿の前へセットした。


丁髷(ちょんまげ)を結った侍がキャンピング・テーブルの前に姿勢良く座っている… 思わず笑いそうになってしまった。
アンバランス感を通り越して不条理な世界になっている目の前の光景に折り合いを付けるには時間が掛かりそうである。


肉をトングで一気にひっくり返し、肉汁が炭に滴り落ちるとニンニクと肉の焼ける何とも言えない香りが漂った。
野生の鹿肉だった… いつもより長めに火を入れようと思う。


百地三佐はキャンプ・メーカーの焼き印が入ったまな板をテーブルの上に置き、洗った行者にんにくと紫蘇の葉を飾っている。
私はウェルダンに焼き上げた鹿肉ステーキを ”どうだ” と言わんばかりに、野草で飾られたまな板の上へと移動させた。


「百地三佐、焼き具合を確認して欲しい。」
「了解。」


百地三佐が腰からサバイバル・ナイフを抜くと誉田が一瞬反応した。
そんな事は意にも介さず、肉の真ん中に刃を当てて切り分けた。


「ウエルかしら。」
「よし、それでいい。」


野生肉は寄生虫がいる事がある。
しっかり目に火を通す位が丁度良いのだ。
肉片の一部をサイコロ状にカットして味見をする… ビールがない事が悔やまれた。


百地三佐は手際良く肉をカットしている… 怪我をしている2人が食べやすい様にと気を遣ったのだろう。


「さあ、冷める前に食ってくれ。」


殿は戸惑っている…。
すると、誉田が覚束ない仕草で膝立ちになる… まな板に手を向けた。


「殿、毒味を…」


殿の目が厳しい光を帯びたかと思いきや、腹帯へ差していたボロボロになった扇子を引き抜いた… 誉田が差し出した手に向かって振り下ろす。
バチっという音が響いた。


「無礼であろう!」


殿が一喝した… 誉田は左肩を抱えながら地面へと平服してしまっている。
殿が取った突然の行動に、私と百地三佐は呆気に取られてしまった。


「風間殿と楓殿の振る舞い膳、毒味など不要!」


つまり… 私と百地三佐が狩りをして振る舞った料理に対して、家臣である誉田が ”勝手に毒味を申し出た事” に殿は立腹したという事である。

殿の真っ直ぐな気持ちは嬉しいが… これでは誉田がちょっと可哀想でもある。
そんな事を考えながら、行者ニンニクを大量に突き刺した尻肉の塊をひっくり返した… 表面はいい感じの色になってきている。


…ニンニクの香りが食欲をそそる。


「…誉田、見ていろ。」


殿の前に盛り付けた1ポンドステーキの切れ端を紫蘇の葉で巻いて食べて見せた。
自分で言うのも何だが絶品の味だった。
誉田は私の手元と口元を凝視している。
殿は視線をテーブルに向けながら何やら探しているようだ。


「箸は・・箸は無いのか?」


箸? そういう事か。
殿の戸惑いは〝箸が無い〟という事らしい(笑)
早く気付いてやるべきだった。
百地三佐は口元に手を当てて〝クスッ〟と笑っている。


「あら、そっち? 早く言ってくださいな(笑) 悪いけど箸は無いわ。」
「これで突き刺して食べてくれ。」


殿は左手でフォークを受け取った。
紫蘇の葉を巻いた肉を突き刺し豪快に口へと放り込んでいる。
暫く噛みしめた後、大きく2度、3度と唸った。


「…これは・・美味じゃ。この様な肉は初めてぞ。」
「それは良かった。 誉田さんも一緒にどうぞ。」


百地三佐は誉田に用意していたチェアをテーブルに寄せた。
それを見た殿は、私に視線を送ってくる… 私は大きく頷いた。


「御厚意、感謝致す… 輝明、此処に座れ。」
「・・・はっ。」


誉田は太刀を杖にしてゆっくりと立ち上がった… 足下が少々覚束ない。
腿に手を当てて一礼してから折りたたみチェアに腰掛けると、太刀を右の足下へと置いた。
それを見た百地三佐は笑顔になった。


「改めて紹介致す。この者は小姓頭の誉田輝明と申す。」


礼儀正しいのは嫌いじゃないが… 空気は重かった。
殿に一喝されたのが余程堪えたのだろう、誉田はしゅんとして俯いている。
それを察した百地三佐は、フォークに紫蘇を巻いた肉をガッツリと刺して誉田に手渡した。


「誉田さん、今の貴方には血が足りないの。たくさん食べて回復させないとね。」
「輝明よ、風間殿と御内儀殿の御厚意じゃ。 頂こうではないか。」


百地三佐は何故か急に顔を赤らめた。
明らかに動揺している… 何故だろうか…?


「…御意。」


誉田は手にしたフォークの肉を頬張った。
数回噛みしめる… 目を飛び出させるんでは無いかというほどの表情に変わった。
目をパチパチとさせている大人を久しぶりに見た(笑)


「これは…なんという…」
「でしょ。殿もいいって言ってるんだから、遠慮無く食べなさい。」


百地三佐は母のような口ぶりだった。
その一言で、2人は堰を切ったように食べ始めた。

ウエルに焼いた〝鹿の腰肉(サーロイン)〟は固くなかった… 筋張ってもいない。
岩塩と胡椒、野草だけとは思えない味だった。
私達は鹿のサーロイン・ステーキに夢中になった。
殿達もそれぞれに焼かれた1ポンドの肉をあっという間に平らげてしまっている。


よし… 次は尻肉の塊を食わせてやろう。


塊肉の表面を少し削いで食べてみた… 行者ニンニクの風味が絶品だった。
遠火で焼いたのだが炭火なので火は通っている… 塩気も申し分ない。
厚目で削ぎ落としても大丈夫だろう。


「これも食ってみろ。百地三佐が山で採った〝にんにく風味〟だぞ。」


板状になった尻肉をまな板の上に並べた。
殿が私と百地三佐の顔を見比べている。
私と百地三佐がフォークに刺すと、殿もフォークに肉を刺して齧りついた。
それを確認した誉田は〝それでは私も遠慮無く〟と言った感じで手を伸ばしている。


恍惚に近い表情で肉を噛みしめている侍が目の前にいた。


「うむ… 美味よのう。 滋養にも良さそうじゃ。」
「殿、にんにくと鹿肉… 堪りませぬ。」


殿と誉田はシュハスコ風にスライスした肉を凄い勢いでがっついている。
どうやら〝鹿の尻肉 行者ニンニク焼き〟をたいそう気に入ったらしい。
塊が一回り小さくなった塊肉の表面に、岩塩を振り掛けて網の端に置いた。


「百地三佐、行者ニンニク焼きは大好評だ。」
「採ってきた甲斐があるわ。」


百地三佐は〝まんざらでもない〟という表情をしている。
誉田は私と百地三佐の顔を見比べながら大きく頷いた。
殿は肉を口に運びながら、私の腰ベルトに差されている懐剣をじっと見ている… 急に、私の顔を見入ってきた。


「風間殿、松笠菱・・ 細川京兆家に繋がる血筋であろうか?」
「そう…らしいな。」
「…らしい、と言うと?」
「遠い先祖は、そうだったかも知れない。 これは先祖代々で受け継いでいる。」

「・・今は何をなされているのだ?」


返答に困った…。


私の生い立ちや私達の任務内容を話しても信じて貰えないだろう。
まして、タイム・スリップをしているかも知れないなどと言ったら、頭がおかしいと思われるだけである。
自分でさえ、タイム・スリップ中だなどとは思いたくはないのだから…。


「そうだな… 強いて言うならば〝流浪の民〟とでも言っておくか。」
「流浪の民か… ふむ。」


納得したという表情をした殿は塊肉にチラッと視線を送った後、私に視線を向けてきた… 誉田も ”期待している” といった表情をしている。
私は慌てて〝尻肉の行者ニンニク焼き〟をカットした。

しかし、凄まじい食欲である…
既に2ポンド(約1kg)は食べているだろう。

まぁ、致し方あるまい。
追っ手から逃げて山を一晩中彷徨っていたのだ… それに傷も受けている。
身体が生存本能と修復能力をMAXで働かせている状態なのだ。
それに… 何よりも若い… ちょっと、羨ましかった。


突然、馬の嘶きが木霊した… 一頭や二頭の数では無い。


誉田が太刀を左手に取り立ち上がる… 丸太の防壁に手を付きながら歩いて行った。
2度目の襲撃だろう。
バーベキューコンロから盛大に立ち上る煙を見上げていた殿の顔が思い出される。
SR25を準備する時間は無い… 悔やまれた。

私達は丸太の防壁裏へと走った。

小窓から様子を窺う…
赤い鎧兜を着た騎馬武者が突進してくる… 手には牛刀よりも大きな刃を付けた槍を携えていた。
後方に弓を持った四騎の騎馬武者を従えている。


「長刀(なぎなた)よ。」
「まいったな… やる気満々だぞ。」


その後ろからは、かなり遅れてはいるが背中に旗を差して槍や刀を持った歩兵が走ってくるのが分かった。

先頭には鎧武者だ。
刀を抜いているのが見える… こっちもやる気満々である。
私達はホルスターから銃を抜いた。


殿に目をやると泰然自若の様相でキャンピング・チェアに腰掛けたままだ。
不意に小窓を覗いていた誉田が丸太の防壁から外に出て行った… 右手を大きく挙げている。


「赤鬼殿っ! 輝明でござる!」
「輝明! 殿はご無事かっ! 事と次第によっては、お主を斬ってくれるわ!」
「殿は御無事でござる。」
「相分かった!」


敵の襲撃では無かった。
百地三佐は大きな溜息と共に銃を仕舞っている。


それにしても ”赤鬼” のネーミングは俊逸だ。
立派な口髭と顎髭、貫く様な眼光… とんでもないオーラ… というか、私の人生でこれ程の強烈な威圧感を放っている男と出会った事は無い。
何よりも、眼光の鋭さと兜のおでこ部分に付いている金色の派手な飾りが印象的だった。


赤鬼と呼ばれた男は軽やかに下馬すると、こちらへと走り寄ってきた。
騎馬武者達も一斉に馬を下りている。


馬を繋いでいる間に走っていた兵達が追い付いてきた。
大きな弓を携えた赤い鎧武者が5人、短めの槍を持った歩兵は30人ほどだろうか… 鎧が擦れ合う音で砦は一気に騒がしくなった。


「輝明、殿は何処(いずこ)御座(おわ)す?」
「柵の後ろに。」


上半身裸で包帯を巻きつつ独りぼっちで座っている殿の姿を目にした ”赤鬼” は、一瞬で鬼の様な形相になった。


「お主は何をやっておったか! 其処へ直れっ!」


誉田は太刀を支えにして立ったまま項垂れている。
”赤鬼” は腰から鉄のような色をした扇子を抜いた… 今にも誉田を殴りつけそうな勢いである。


「待てぇいっ!」


殿の一喝が砦に響き渡った。
一瞬、砦の中から鎧の擦れ合う音が消えた。

その声に弾かれる様に右手を下ろした ”赤鬼” は、誉田に視線を残しつつ殿が座っている元へと走り寄ってゆく。
長刀を地面へと突き立て、片膝を地面に付いた。


「殿、手負われましたか…」
「大事ない。」


赤鬼と呼ばれる男は振り返り、大きな弓を持った武者の方を見た。


「者共! 守りを固めよ!」
「おう!」


弓を持った鎧武者達が砦の2階部分へと上がってゆく。
櫓で見張りに付く者、槍兵に指図して建物を取り囲ませる者… 実に素晴らしい統制の取れた動きで、砦を戦闘態勢へと変えた。


「孫六、どうして此処が分かったのだ。」
「馬の足跡を追っておりました折り、鷹舞砦の方角に狼煙(のろし)が見え申した。」
「やはりな。 良く見つけた… でかしたぞ。」
「ははっ。」


赤鬼と呼ばれた男は〝マゴロク〟と言うらしい… 名字は分からない。
誉田よりは年上に見えるが… 殿と同年代位だろうか?
濃い髭が年齢を分からなくさせていた。

冷静になってきた赤鬼は、周囲の状況を確認している。

櫓の下に吊された鹿、焼かれた肉、バーベキューセット、初めて見たであろうキャンピング・チェアとテーブル… それらを見渡した赤鬼は片膝を付いたまま、段々と拍子抜けしたような顔になった。


「殿… これは…どういう状況で御座るかの?」
「説明が必要じゃな。」
「御意…」

「御両人、すまぬが…こちらへ来て頂けぬか?」


私達が丸太の防壁から出て来たのを見た赤鬼は、珍しい者を見るような視線で頭の先から爪先までを舐め回すように繰り返して見ている。


「孫六、こちらの御仁は風間賢人殿と御内儀の楓殿。 儂と輝明の命を救うてくれた恩人じゃ。 傷の手当てもしてもろうた。 この馳走も用意してくれた。 無礼の無いように致せ。」
「・・・? はっ。」


百地三佐が咽せている。
赤鬼は私達に身体の向け直して一礼した。


「拙者、伊勢家侍大将 佐々木孫六と申しまする… ひょっとして、沢に転がっておる賊どもを成敗なさったのは、風間殿か?」
「ああ、そうだ。」

「…胴を払った太刀筋、お見事でござる。」
「あー、それは俺じゃない…」


赤鬼は不思議そうな顔をしている。
誉田が左肩を押さえながら、殿の隣に座った。


「赤鬼殿、胴を抜いて成敗したのは楓殿です。」


そう言うと、待ち伏せによる矢の襲撃、逃避行から黒装束の夜襲、鹿肉の話までの経緯を話し始めた。


「…なんと。相当な手練れと思っておりましたが… 御内儀殿だったか。」
「はい。 太刀を拾い上げて構えに入った途端、一刀のもとに切り伏せました。」
「黒装束の片割れが短刀らしき傷跡で首を刺されておりました故、勘違いし申した。 お許しくだされい。」


赤鬼は軽く頭を下げた。
マゴロク… いや、赤鬼は傷跡から斬り合いの状況を把握していた。


「孫六、次郎丸たちの亡骸は如何した…」
「不思議と仰向けにされ、太刀を抱き腹の上に手が組まれ… 並べられており申した。 髷は切っておきました由。」

「殿、風間殿と楓殿が弔うてくれたので御座いまする。」
「…そうか。風間殿、楓殿、改めて礼を申す。」


3人の目には悲しみの色が広がっている… 私達の方へと顔を向けると深々と頭を下げてきた。
誉田は地面に視線を落としている。


「殿、斬られていた黒装束の賊どもですが… 見た顔が御座りました。」
「・・・何処ぞの者じゃ。」
「扇谷の上杉… 亡骸の黒装束、河越の戦で槍を合わせた事が御座ります。」
「上杉め、しぶといのう… 此処まで来おったわ。」


暫しの沈黙が流れた。
赤鬼は辺りを見回して兵の配置を確認するような仕草を見せた。
殿の包帯や誉田の顔色をまじまじと見ている。


…すると、赤鬼は場に似合わない大声で笑い始めた。


「いやいや、御無事で何よりじゃ。 しかし… 美味そうな臭いですなぁ。」


赤鬼は重たい雰囲気を払拭する様に、網の脇にある〝鹿の尻肉 行者にんにく焼き〟から上がる臭いを手で鼻に持ってくる仕草をしている。
チラッと私の方を見てきた… 食わせろという事らしい。


「殿、皆で食べないか? 殿を探しに此処まで来てくれたんだ。 鹿肉はまだあんなにある。」


殿は少し考えていたが、私の方を見て頷いた。


「風間殿、忝い。振る舞ってもろうても良いか?」
「ああ、もちろんだ。」


私は炭を足して網一杯で肉を焼けるようにした。
1ポンドサイズよりも大きくカットした肉の両面に格子状の切れ目を入れる。
岩塩を振り掛けて、切れ目の間にも擦り込む… 網に乗せるといい音が出た。
赤鬼は珍妙な面持ちで私の手元を見ている。
両面をしっかりと焼き、GABANで仕上げをした。

まな板の上に乗せて食べやすくカットする・・刻んだ行者にんにくと紫蘇の葉を乗せる・・それを殿の前に置いた。
殿はフォークで肉を刺すと口に放り込んだ。


「孫六、逸品ぞ。」


殿がまな板に乗せられた1ポンド・ステーキを差し出す…。
赤鬼は恭しく両手で受け取っている。


「では、頂戴致す。」


私と百地三佐に視線を送り軽く一礼すると、まな板を手に持ったまま ”ドカッ” と地面に座った…
指で摘まんだ鹿肉の香りを確かめた後、上に向けた口に放り込んでいる。

如何にも侍大将という豪快な ”喰いっぷり” だった。
目を瞑りながら肉を噛みしめている。
口の中の肉が無くならない内に、もう一切れを頬張った… 声にならない様子だ。


「・・・・んん・・ んんん・・・」


食べながら悶絶する男を久しぶりに見た気がした。
百地三佐と殿に誉田、互いに目が合う。
お互い笑顔になった。


「どうじゃ、孫六。美味であろう。 遠慮無く食せ。」
「ははっ。では、遠慮無く頂戴仕る!」


地声がでかい男だった。


「殿、力が漲りまするな! これは精がつく! がははははは!」


赤鬼の大きな声と笑い声が砦に響き渡った。
1ポンド以上あったであろう鹿肉を一瞬で食べきってしまった。
怪獣のような食いっぷりだ。
それを見た殿の目には光が戻っている。

百地三佐が私にアイコンタクトしてきた… 私は2回頷いた。


「殿、兵達にも食わせてやったらどうだ? 俺達だけでは食い切れない。」
「そうね。無駄にするのは鹿に対して失礼だわ。」
「忝い。…孫六、風間殿の御厚意じゃ。兵どもに振る舞ってやれ。」

「ははっ。有り難き幸せ。」


厳しい男なのかと思っていたが、部下思いの一面もある男だった。
赤鬼は殿に一礼すると、私に真っ直ぐな視線を送った後に深々と頭を下げた。


「こちらは拝借致す。」


そう言った赤鬼はバーベキューコンロの脚をむんずと掴んで持ち上げると、中腰で頭を下げながら持って行ってしまった。
呆気に取られた私達を尻目に、満面の笑みを浮かべた赤鬼が〝ガシャガシャ〟と戻ってくる。


「では、こちらも遠慮無く頂戴致す。」


赤鬼はニヤリと笑いながら、ブルーシートに置かれていた鹿肉の塊を全部持って行ってしまった… 誉田が動揺したような表情で、私と殿の顔を見比べている。
殿は爽やかな笑顔を作った後、私に力強い視線を送って来た。


「風間殿、楓殿、誠に忝い。 彼奴らも儂を探して山を一晩中駆けておった。 腹が減っては(いくさ)はできぬ… 孫六の無作法、儂の顔に免じて許してやって欲しい。」


殿はまた私達に頭を下げた。
それを見た誉田も深々と頭を下げている。
頭を下げ過ぎだ… 礼を尽くしてくれているのだろうが此方が恐縮してしまう。

百地三佐はテーブルに目を落としていた。
少し悲しげな表情になっている… 〝腹が減っては(いくさ)はできぬ〟の言葉に神田警部補の事を思い出したのだろう。
私も同じ気持ちだった。


しかし… 殿の言葉に現実を思い知らされた。
砦にいる者達にとっては〝戦時状態〟なのだ。
再び黒装束の軍団がやって来るかも知れないのである。
兵達の腹を満たして万全の状態を作るのも大将の仕事なのだ。


「気にしないでくれ。 兵達の腹を満たすのも大将の大切な務めだ。」
「そうよ。追っ手が来たら守ってくれるのは彼等だわ。」


殿は力強い真っ直ぐな視線を送ってくる… 何か言いたそうだった。
丸太の防護柵を越えて、赤鬼の良く通る声が聞こえてきた。


「皆の者、良く聞けぇい! 殿からの思し召しじゃ。 これは、殿の命を救うてくれた風間殿が仕留めた鹿肉ぞ! 有り難く頂戴致そうではないか! 皆、此処へ集まれぃ!」


砦のあちこちから、低い響めきが起きた。
砦の上にいた侍が〝カシャカシャ〟と具足を鳴らしながら下へ降りて来る。
それを聞いた百地三佐は、大量に残っていた行者にんにくと紫蘇の葉を手際良く刻み始めた。
まな板に山盛りになった刻み野草を持って、赤鬼達の方へと歩いて行った。


すると、また赤鬼の野太い声が聞こえてきた。


「こちらの女房殿は、我らが殿のお命を救うてくれた風間殿の御内儀である。 皆の者! 無礼の無いように致せ!」


「おぉぉ・・・」


先程とは違って、音程の高い響めきが起きた。
櫓にいる見張り番であろう兵は、身を乗り出して百地三佐のいる方を窺っている。


「風間殿、お伺いしたい事が御座る。」
「なんだ?」
「御両人は奇天烈な出で立ちをしておられるが… 風間家では… それが普通なのでしょうか?」


誉田は私の戦闘服や腰の背中側に差してある懐剣をまじまじと見ている。


「これか? …これは、戦闘服だ。」
()()()()()()? それも異国の物で御座いましょうか?」
「ああ、遠い海の向こうにある国では戦いの時に使う服だ。」


やり取りを聞いていた殿は、納得したように大きく頷いている。


「儂も聞きたい。楓殿は風間殿の御内儀であろう。何故に〝百地三佐〟と呼ぶのか?」


〝ゴナイギ〟とはどういう意味だろうか…?
百地三佐に意味を聞きたかったが… いない。


「何故 …と言われてもな。役職が私より上だったんだ。」
「そうか… ならば、城中では〝楓殿〟と呼んでいただきたい。 あれだけの器量好し… 家中の者が誤解しても困る故。良いかな。」
「・・・ああ、分かった。」


城内…? 此処は砦だろう…?


百地三佐が戻ってきた。
少し困った様な顔をしている… 行者にんにくは不評だったのだろうか? それにしては兵達の笑い声や感嘆の声が聞こえてきている。


「楓殿、城内では風間殿の事は名前で呼んでいただきたい。 風間殿も〝楓殿〟と名前で呼ぶ事になった故。よろしく頼む。」


百地三佐は〝何事?〟という顔をしている。


「風間殿、楓殿、馳走になった。 少し疲れた故、休ませてもろうても構わぬかな。」
「ああ、ゆっくり休んでくれ。」


殿は良い姿勢のまま、ゆっくりと立ち上がった。
屈む姿勢になると傷が痛むのだろう。
上半身の動きが不自然だった。
誉田が心配そうに付き従っている… こちらに一礼すると殿の後に付いて行った。


百地三佐と2人になった。
良いチャンスだった。


「百地三佐、聞きたい事がある。」
「何かしら…」
「〝ゴナイギ〟とはどういう意味かな?」


百地三佐は軽く咽せている。


「・・・妻という意味よ。」


ポケットからCAMELを一本取り出し、ジッポライターで火を付ける…
煙はゆらゆらと立ち上っていった。



無風だったが、私達の間には見えない気まずい空気が流れていた。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み