第38話    外伝 その九 『ケイガンの印』③

文字数 2,265文字

 しかし、それとは全く反対の感触を感じる時がある。

 その身体の中に激しく燃える炎・・それも何かドロドロと混濁し、鬱血した血のようなマグマの中へ・・その精気をすべて取り込もうとするような危ういものを感じて、次からは何とかして女の誘惑を振り切ろうとさえ思った。
 
 そんなふうに女がまるで地中の炎のような様相を呈する時は、悪い空気の中でただひたすら交合し、疲れ果てて泥のような眠りについた。

 時々、女が何か分からない言葉を呟くのが聞こえた。

「・・身体を奪ったら・・燃える炎に焼かれるように渇く・・」

 まるで深い地中から聞こえてくるような・・。

 一つの女の身体に、同時に何者かが棲みついている。
 そして、それが片方を食い潰そうとしている・・しかしその片方は必死に抵抗して・・。

 (いや、それももう出来ないのか。奴隷のようなとは、そのことなのか・・一体、どれ程の年月を蝕まれて来たのだ・・)

 助け出したい。ケイガンは探す・・手を差し伸べて、今にも呑み込まれようしている自らの心が愛する者の在り処を・・鎖で繋がれているその魂を・・。

 ケイガン自身、もう何年も奴隷として鎖に繋がれて過ごして来た。
 誇り高きミタンの剣士として生まれたはずが・・。しかしその魂は決して鎖に繋がれはしない。その事だけが、屈辱的な奴隷の日々を耐えて来られたよすがなのだ。


 ・・日に日に女の中で炎は拡大し、森の木々は悲鳴をあげて燃え尽きていく。その身体が熱を増し、その自らの熱で全ての内臓を溶かして行くようだ・・。
 しかしその悲鳴が大きくなる分、呑み込まれよう・・そして、呑み込まれまいとする女の心が強く伝わってくる。

〝・・私の森が燃えてしまう、燃えてしまう・・河から水を、河から水を汲み上げて・・燃え広がる・・恐ろしい火の勢いを止めて・・〟

 ケイガンは河から水を汲み上げる。更に強くその足を踏みしめて。まるでそうする事で、女の〝叫び〟に少しでも応えるようとでもするかのように。
 
 しかし日に日に、女の顔には・・深く長い苦しみの影が濃くなってゆく。


 そんな或る日の夕刻、心配して急いで石壁の建物の中に入り廊下を巡って奥の閨に入ったその目に、グッタリして横たわる女の姿が入った。
 ・・長い髪が散らばっていた。

 抱き上げると、それまでその顔に見えた激しい抗いの暗い影が消え・・その腕の中で・・しだいに生気が蘇るようにその頬に紅が指した。

「・・ケイガン・・」

 そう言って、見つめる女の瞳は澄み・・その肌は驚くほどの透明感に満ちている。
 
 女の中から・・何かが去っていた。

「・・何が起こったか・・分かる・・」
 
 ケイガンには分からない。ただ、抱きしめた腕の中にいるのは、愛して止まないただ一人の女だと云うこと以外は・・。

「・・わたし・・引き千切ったわ・・」
 
 そう言って、少しだけ片腕を持ち上げると、その見えない鎖の跡を示した。

「うん・・よくやった・・」
 
 女の面差しには、少女のような初々しさが表れていた。

「・・あなたが・・水を汲んで・・森が・・燃えるのを・・」
 
 そう囁くように言って、言葉を切ると・・その瞳に夢見るような色が表れた。

「・・ケイガン・・わたし・・」
 
 ・・その身体は軽やかで・・。

「・・思い出したわ・・」

 ・・ケイガンの顔に思わず微笑みが浮かぶ・・。

「・・うん・・」
 
 ・・心地よかった。

「・・わたし・・」
 
 ・・まるで・・女の中で共に、浄化して行くような・・。

「・・精霊の・・森で・・」
「・・・・」
「・・生まれたの・・」


 それから暫くして、女の住処に続く門の扉は再び閉じられ、窓辺にもその姿はなかった。
 
 そしてケイガンの足には再び、重い鎖が付けられた。


 月が何度も満ち欠けを繰り返したある夕刻、その扉が開いている事に気がついたケイガンは、鎖を引きずりながらも階段を上がり部屋に入った。
 
 そこで目にしたのは、広い寝台の上でスヤスヤと眠る赤ん坊の姿だった。

 最初の日に会った召使が、女は赤ん坊を出産して間もなく、どこにも出られないはずのここから姿を消したと言った。

「ほんとに、見たこともないほどのお喜びようでしたのに」

 
 赤ん坊は番人の母親が喜んで世話をし、夜の間は父親と共にその小さな小屋で眠った。
 その成長はケイガンにとって生きる糧そのものとなった。
 その後もケイガンは板を踏み、大量の水を送り続けた。
 
 
 そんな或る日、脱走の絶好のチャンスが訪れる。
 踏み板が擦れ、そのままにしていたら壊れてそのまま流れに乗って脱出出来るかも知れない・・そう思ったケイガンは、ジッと壊れて行く板を見ていた。

 (・・今だ!)

 その時、その目の端が、堤の上に遊びに出て来たらしい幼い娘の姿を捉えた。
 
 ・・板は壊れ、流れに乗って狭い水門に引っ掛り、水に押されて消えた。


「あんたにゃもう、鎖なんか要らねえよな・・」

 そう言って番人は、その足の鎖を外した。


 シュメリアの地を流れる大河・・その東西南北の堰に、ケイガンと同じように囚われの身でその筋力を堰の板を踏むためだけに捧げた者達がいた。
 そこから運ばれる水は、同じく囚われ人達の血と汗と共に築かれた水路を巡り、やがて地下に沈み・・水脈となって生き残った。


 ・・そして後にシュメリアがすっかり『魔月』の手に陥ち、月の光さえ届かぬ長い暗黒の時代に突入した間も密かに脈々と生き続け・・『魔月』の三角地帯をその見えざる勇士達の剣がシッカリと噛み合って包囲し、その外に続く世界を〝不毛の地〟へと変えることを・・決して許さなかった。
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