第7話    第十二章 『月の戯れ』 その1

文字数 1,874文字

 岩窟の神殿の地下深く『月の泉』まで降りたシャラは、遥か頭上に煌々と輝く満月を映す泉の淵に佇んでいた。
 その『月の鏡』に・・美しい緑色のローブを羽織り、その手に銀の剣と弓矢を持つ若い女の姿が映っていた・・。

 ぺルの持つ力を見極めるため、しばらく様子を見るつもりだったが・・神殿に主神殿の間諜以外の者がすでに入り込んでいた。消えた三人の見習い神官の似顔絵を描かせたところ、その一人は確かに見覚えがあった。
 ・・そして、サアラの語った夢・・やはり・・急がなくてはなるまい・・。


 ペリの病のための治療が始まった。
 岩壁の何層もの廻廊をつなぐ螺旋階段の巡る聖堂。その真下に湧く霊なる『忘却の泉』に毎日身を浸し、少しずつその記憶を消して行く・・。
 その後、広台に横たわり目を閉じる。その間、回廊に居並ぶ神官達の唱和の波動が眠る少女を包み込む。

 しかし現に記憶を失っているぺリの場合は、些か普通とは手順が違う。
 
 まず、忘れている〝現世〟での記憶を全て蘇らせる必要がある。その後、その蘇った記憶を一つずつ消して行く。
 そうして・・全てを消去し現世が無になった時に、その空っぽの〝現世〟の容器が割られ、その身体を流れる全ての血が『魔月の祭壇』に捧げられる・・『赤い月の酒』として。

 飲み干されたミタン王室の処女の血は、酩酊したように〝魔月〟を赤く染め、ミタンの夜を照らす。その妖しい光の影響は、少しずつ健やかなる森の木々を侵し・・気高き精神を誇る王朝とその民に及ぶ・・。

 
 ペリはその『忘却の泉』で、毎日少しずつ忘れていたことを思い出していた。
 ・・一年近くを過ごした『春の森』での出来事・・消された記憶・・更に『月の宮殿』・・ミタンの日々へと・・。
 わずか九才の少女に、どれ程の〝現世〟があろう・・数回の『魔月の儀』で十分のはずだ。
 ところが他ならぬペルのこと、わずか九才の少女には沢山の〝現世〟があった。

 確かに、ぺルにも少女らしい夢想家の資質はあった。しかしそれよりも彼女は真実の探求者であり、思索家であり、実践家だった。
 更に合理的で明快なその頭脳には、ここ数年の経緯から複雑に入り組んだ〝迷宮〟が誕生していた・・。


 一方、ミタンの王宮では皇太子夫妻を初め、『婚礼の儀』の随行員達全員が突然、悪い酒の酔いから醒めたように「ペル姫誘拐事件」の事の重大さに気がついた。
 その救出作戦のため増員した兵をハルの駐屯地に派遣し、またシュラ王に宛て親書も送った。

 本来ならシュメリア側が『月の神殿』を徹底的に捜索して、ぺルの救出とシャラの逮捕に乗り出すべきなのだ。しかしここに、二つの懸念があった。

 一つは、すでに『春の森』周辺にシャラの魔手が伸びていると云うことは、ここミタンの森林地帯も例外ではない。そのためには、その不可解な『魔月計画』とやらの要である『魔月の三角地帯』の調査が絶対的に必要で、シュメリア側との協調が欠かせない。

 そしてもう一つは、シュラ王自身の事だった。
 
 カンとハルの報告によると、曾てシュメリアで聞かれた奇妙な噂が今回の件の重要な鍵を握っているらしいと云うことだ。が、その亡者云々・・の、そもそもの発端は、亡き妻との再会を渇望するシュラ王自身だったはず。

 それらについて協議した結果、軍と情報部を含めた外交使節団をシュメリア王宮に派遣し、事の真相を見極めるべくシュラ王に謁見頂くことを求めた。

 
 しかし、やや虚弱な気のある王は少し前から病に臥せっているとのことで・・面会が叶うまで暫くの間、待たされた。

 その日の夜半過ぎ・・篝火が焚かれた王宮のテラスで、シュラ王は使節団の話に耳を傾けていた。
 病後のためか、その顔色はやや青白かった。が、王の態度は真摯で、曾て〝狂王〟などと揶揄されたようなところは微塵もない。
 頭を被衣で覆い、長いローブをゆったりと纏った姿は得も云えず優美で・・篝火を遠ざけた瞳が深い英知の色合いを現わしていた。

 その姿に特使達は皆、王に関する様々な疑念など忘れてしまう程だった。

「・・我が王宮政府も、ずっとシャラの行方を追っておりました・・。今回、貴国の方々の熱心な捜索で、その謀反人の所在を明らかにして頂いたことに心から感謝いたします。シャラの拿捕につきましては、何よりも姫君の身の安全が第一でございますから・・我が国は全て貴国の計画に従いましょう・・」

 前回、婚礼の一行として王に謁見した使節団の何人かは、その時に比べても更にしっかりとした態度の変化に明らかな違いを感じた。王の悔悛の情は、やはり本物だったようだ。
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