第16話    終章 『下弦の月』 その3

文字数 2,062文字

「リデン、シュメリアの月は美しいでしょう・・」
 
 月の輝く夜、満々と水を湛えた流れの水面にその光が映っている。砂漠を見晴らす夜の幕屋で。

「森の月にはかないませんわ・・」
 
 そう言ってため息を漏らす『精霊の森』の女王。

「最近のあなたはため息ばかりですね。見事な機知はどこにいったのです」
「あなた相手に、機知を発揮してどうなるというのでしょう」
「ふっ・・」
 
 シュラの口元から苦笑とも思える小さな笑いが漏れた。

 〈・・確かに、機知に欠けるわ・・)

 リデンも思った。〝つかれる〟などと云う下世話な感覚をリデンはこれまで知らなかった。日々、生まれたばかりの新鮮な空気に満ちた『精霊の森』に棲んでいたのだ。
 ・・しかし、これが〝疲れ〟というものなのだろうか。
 
 〈・・確かに・・これじゃ、植物も育たないわ・・)


 『魔月』軍の赴くところ、全ての森や緑野は破壊の憂き目にあい、その魔手は美しい『春の森』にも伸びた。その後、リデンの許にはシュラ王からの招待が届いた。

 《・・もしいらして下さったら、以後、森での〝狩り〟は行いません・・》

 リデンは拒んだ。平和な『精霊の森』は、その全ての森を挙げて卑劣なる敵に対しての聖戦を誓い、士気も高かった。
 そして、全世界の森を統べる女王は密かに決意を固めた。もし仮に、その〝時〟が訪れた時には、唯一リデンにのみ可能な最強且つ最期の手段に出ることを。

 ところが更に、次の招待が届いた。
 奥深い『幽玄の森』の主、太古よりの全ての記憶をその年輪に納める『聖なる樹』の伐採を示唆して、質に取ったのだ。
 『幽玄の森』への道筋はリデン以外、誰も知らない。しかし、盗まれたリデンの夢がその秘密を明かし、更に何者かの手引きによってその森の一角への扉が開かれたのだ・・。


「ご招待とやらに、こんな長居とは・・」
「こんな・・まだ、いらしたばかりではありませんか。『精霊の森』の女王陛下は、不老不死なのでしょう。その永遠の生命のたった数年が何なのです」
「それも、この不毛なシュメリアでは・・」
「泉の水も・・枯れてしまうと」
「・・そうね・・砂漠のように・・」
「砂漠は・・美しいじゃありませんか、限りなく。ご覧なさい・・」
 
 シュラは一面に広がる砂漠の景観に目をやると、夢見るように言った。

 一時期、『魔月の三角地帯』の一角、王都メリスを激しい砂嵐が襲い、何か月もの間、陽射しは遮られ、昼間でも暗い日々が続いた。
 そんな或る日、恐れ戦く都の民にシュラは宣言した。

〝我が民よ・・数日のうちに、余が太陽を呼び戻そう・・!〟

 その約束の朝、眩しい日差しに目覚めた人々の目に映ったのは、王都の周りを埋め尽くした大量の砂が美しい風紋の波を描く広大な砂漠の風景だった。

 
 以来、このような美しい月の夕べには、シュラは決まって、張られた幕屋から夜の神の光に照らし出される月の砂漠の稜線を眺める。大きく静かな、波のうねりのような・・砂の大地・・。

「・・確かに・・」
  
 リデンも、釣られるように目をやった

「美しい月に照らされて・・あの大きな砂の波の中に、もし木立ちが一本でもあったら・・きっと、難破しそうになっている小舟の帆のようでしょう・・」
「ふっ・・良いんですか、そんなこと仰って」
「よくないわ・・」 
 
 精霊の女王は、再びため息をつく。

 リデンは思う・・永遠の時を生きる『森の精霊』が、僅かな間の無為の生活に音を上げてしまうなんて・・。
 しかし、曾てリデンの忠実なる侍従ハマが心の内に危惧したように、リデン自身まだその年月を高々と言えるほど、悠久の時を生きているわけではないのだ。
 
 君臨する世界の全ての森と緑野に対する不可侵と絶対の保全を条件に、『精霊の森』の女王として唯一人、聖なる戦いに赴くためやって来たけれど・・このような人質生活が続くとは・・。

 夜毎の夜会、下にも置かない扱いで、贅沢三昧の日々。リデンのための豪奢な館。美味美食に高価な贈り物の数々。シュラを初めとして、人々から称賛の眼差しだけを注がれて・・曾てカンが語った『月の宮殿』の生活さえ遠く及ばぬほどの日々が続いていた。

 リデンはつくづく自覚していた。自分は非常に働き者の極めて勤勉なリデンなのだと。ひたすら仕事がしたかった。
 
 ・・木の実を落とし、小さな芽から若木を育て、森を育む。雨水を受け止め、地下水を育み、泉を生む。地や川に養分を与え、魚を育て、小動物を養い、獣達を育み、人々を養う。あらゆる森林問題に首を突っ込み、考え、試し、解決策をこうじる。
 
 ・・朝靄のかかる早朝・・木漏れ日の夏の陽射し・・心地よい雨の日・・目を閉じ、思い出す。それだけで心が落ち着き、乾いた肌がシットリと潤って来る・・。

 リデンはそれまで自らを含めた代々の『森の精霊』達が木々を育て、森を造り、広大な森林地帯を守って来たのだと自負していた。
 
 ・・しかしこの肌を潤す感覚、この心身の飢餓を満たす感覚・・森を思い出すたびに・・。
 森が、私を・・リデンを守り、精霊達を守っていたのだ・・。
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