第25話 外伝 その四 『リデンの辞書』③
文字数 1,931文字
シュラ王が不在のその夜の宴で、赤い衣の踊り手達が侍り踊っていた。
そのうちそのしなやかな舞の動きと表情で、彼等が『精霊の女王』に何かを語りかけていることに気がついた。
〝・・明るい月の光の差し込む・・深い森の涼やかな夜に・・憩う精霊の女王を囲んで・・揺れる篝火が踊る・・〟
リデンが思わず微笑むと、踊り手達の顔に歓喜の笑みが弾けた。それから更にその舞は、精霊の女王の御前で踊る栄誉と喜びを語った。
しばし懐かしい森の空気の中にいるような気分に浸っていたリデンに、宴の演芸を預かる『赤い衣』の長が美酒を満たした杯を差し出した。
「手前どもの踊りを、お気に召して頂けましたでしょうか・・」
「ええ・・とても」
それからリデンはその見事な彫の施された盃を手に取り、眺めて言った。
「まあ・・なんて素晴らしい。美しい文様ですね」
「お気に召して頂けますとは・・光栄に存じます」
それは長の一族の工房で、リデンのために作られた美しい杯だった。
「都では、こう云った工芸品が盛んと聞き及びましたけれど」
「はい、特に最近、工房の数が増えておりまして」
「・・それはどの辺りにあるのですか」
「・・下町の方でございますが」
「下町・・?ぜひ一度、伺ってみたいですわ」
長の顔に、何かを受け止めたような表情が浮かんだ。
「では、手前どもがご案内致しましょうか。リデン様のお越しを願えますとは、手前どもにとっては何よりもの名誉でございます」
数日して、リデンはフィーナを連れ、長と共に人でごった返す下町界隈に出かけた。
そして数人の近習と侍女も一緒だった。ひょんな事から、リデンと長の計画を知った彼等は青ざめた。
しかし、精霊の女王様は何としても下町への散策に出られるおつもりのようだ。ならば自分達も同行するしかない。それは即ち、王の言いつけに背くと云うことだ。
それがどれ程の覚悟を伴うことか知っている長は、そんな侍従達の決断に密かに感服した。
しかし隠然たる力で、時には侍従長さえも従わせる長の案内で下町界隈に出かけるのは、実は何よりも安全な事だった。
『赤い衣』の一族の多く住むその界隈を牛耳っているのは、他ならぬその長だったからだ。
細い路地に雑多な物や人がひしめき、庶民の生活の場として活気に満ちた辺りの様子は同伴の近習や侍女達にとってさえ物珍しく、リデンにとっては尚更だった。
そんな中を警護の『赤い衣』に周りをぐるりと取り囲まれ、輿は入り組んだ路地を進んだ。が、然したる混乱もなく、人々は皆、ヴェールを被った美しい貴婦人の姿を目にした途端、吃驚して路を譲り、驚きの表情のまま静かに輿を迎えた。
リデンは長に案内されて幾つかの工房を見て回った。しかし麗しき稀なる来訪者に驚いた職工達の手は止まり、まったく作業に身が入らない。
その後、更にリデンが自らの足で路地を巡ると、住民達は皆、嬉々としてその後をついて回った。そのうち狭い門のある行き止まりの路地に入った。
思わぬ賓客の姿に、そこにいた男達が立ち止まり嬉しそうな顔で迎えた。
その脇に食料を積んだ荷車が停まっていた。
「ここは・・」
リデンが尋ねた。周りにいた群衆は皆、一瞬、沈黙してお互いに顔を見合わせた。それから長が言った。
「・・お入りになられますか」
「・・ええ、開けて下さい」
長はその門の閂を外して、ゆっくりと重い扉を開けた。
その先に驚くべき光景が広がっていた。風除けの高い土壁に囲まれた広い敷地の中に一面の粗末な小屋がびっしりと並び、ほつれた衣を纏った者達がいた。
土地を失い、流入した民が集められた難民窟だった。
見るとその場にいるのは動けない老人や小さな子供、そして怪我や病で臥せっている者ばかりで、皆、吃驚した目で突然現れたリデンの姿を見ている。
「働ける者は皆、この先の拡張工事現場に入っております・・」
かなり先にある壁の向うから、大きな物音や男達の声が聞こえる。
それから、長が静かに話し出した。
「・・このシュメリアの地は曾て天からの寵を受け、深く耕す必要もなく、すべての民はこの地から与えられる賜物を享受しておりました。しかしある・・蛮族によって、古来よりのこの地の神の拝殿が奪い取られ、民は殺され、天の寵愛も失いました。・・殺戮を免れた多くの者らもこの地を去り、流浪の身となりました。しかし、中には留まり・・不毛となった地を耕し、耕し、少しずつ再び、沃野に変えて参りました・・この民の多くは、そんな者らの末なのです。手前どもが遥かなる・・」
長の語る言葉を聞くうちに・・リデンの脳裏に、まだ少女の頃の記憶が蘇って来た・・。
その師である、『幽玄の森』の大木に耳を寄せて聴いた物語が・・。
そのうちそのしなやかな舞の動きと表情で、彼等が『精霊の女王』に何かを語りかけていることに気がついた。
〝・・明るい月の光の差し込む・・深い森の涼やかな夜に・・憩う精霊の女王を囲んで・・揺れる篝火が踊る・・〟
リデンが思わず微笑むと、踊り手達の顔に歓喜の笑みが弾けた。それから更にその舞は、精霊の女王の御前で踊る栄誉と喜びを語った。
しばし懐かしい森の空気の中にいるような気分に浸っていたリデンに、宴の演芸を預かる『赤い衣』の長が美酒を満たした杯を差し出した。
「手前どもの踊りを、お気に召して頂けましたでしょうか・・」
「ええ・・とても」
それからリデンはその見事な彫の施された盃を手に取り、眺めて言った。
「まあ・・なんて素晴らしい。美しい文様ですね」
「お気に召して頂けますとは・・光栄に存じます」
それは長の一族の工房で、リデンのために作られた美しい杯だった。
「都では、こう云った工芸品が盛んと聞き及びましたけれど」
「はい、特に最近、工房の数が増えておりまして」
「・・それはどの辺りにあるのですか」
「・・下町の方でございますが」
「下町・・?ぜひ一度、伺ってみたいですわ」
長の顔に、何かを受け止めたような表情が浮かんだ。
「では、手前どもがご案内致しましょうか。リデン様のお越しを願えますとは、手前どもにとっては何よりもの名誉でございます」
数日して、リデンはフィーナを連れ、長と共に人でごった返す下町界隈に出かけた。
そして数人の近習と侍女も一緒だった。ひょんな事から、リデンと長の計画を知った彼等は青ざめた。
しかし、精霊の女王様は何としても下町への散策に出られるおつもりのようだ。ならば自分達も同行するしかない。それは即ち、王の言いつけに背くと云うことだ。
それがどれ程の覚悟を伴うことか知っている長は、そんな侍従達の決断に密かに感服した。
しかし隠然たる力で、時には侍従長さえも従わせる長の案内で下町界隈に出かけるのは、実は何よりも安全な事だった。
『赤い衣』の一族の多く住むその界隈を牛耳っているのは、他ならぬその長だったからだ。
細い路地に雑多な物や人がひしめき、庶民の生活の場として活気に満ちた辺りの様子は同伴の近習や侍女達にとってさえ物珍しく、リデンにとっては尚更だった。
そんな中を警護の『赤い衣』に周りをぐるりと取り囲まれ、輿は入り組んだ路地を進んだ。が、然したる混乱もなく、人々は皆、ヴェールを被った美しい貴婦人の姿を目にした途端、吃驚して路を譲り、驚きの表情のまま静かに輿を迎えた。
リデンは長に案内されて幾つかの工房を見て回った。しかし麗しき稀なる来訪者に驚いた職工達の手は止まり、まったく作業に身が入らない。
その後、更にリデンが自らの足で路地を巡ると、住民達は皆、嬉々としてその後をついて回った。そのうち狭い門のある行き止まりの路地に入った。
思わぬ賓客の姿に、そこにいた男達が立ち止まり嬉しそうな顔で迎えた。
その脇に食料を積んだ荷車が停まっていた。
「ここは・・」
リデンが尋ねた。周りにいた群衆は皆、一瞬、沈黙してお互いに顔を見合わせた。それから長が言った。
「・・お入りになられますか」
「・・ええ、開けて下さい」
長はその門の閂を外して、ゆっくりと重い扉を開けた。
その先に驚くべき光景が広がっていた。風除けの高い土壁に囲まれた広い敷地の中に一面の粗末な小屋がびっしりと並び、ほつれた衣を纏った者達がいた。
土地を失い、流入した民が集められた難民窟だった。
見るとその場にいるのは動けない老人や小さな子供、そして怪我や病で臥せっている者ばかりで、皆、吃驚した目で突然現れたリデンの姿を見ている。
「働ける者は皆、この先の拡張工事現場に入っております・・」
かなり先にある壁の向うから、大きな物音や男達の声が聞こえる。
それから、長が静かに話し出した。
「・・このシュメリアの地は曾て天からの寵を受け、深く耕す必要もなく、すべての民はこの地から与えられる賜物を享受しておりました。しかしある・・蛮族によって、古来よりのこの地の神の拝殿が奪い取られ、民は殺され、天の寵愛も失いました。・・殺戮を免れた多くの者らもこの地を去り、流浪の身となりました。しかし、中には留まり・・不毛となった地を耕し、耕し、少しずつ再び、沃野に変えて参りました・・この民の多くは、そんな者らの末なのです。手前どもが遥かなる・・」
長の語る言葉を聞くうちに・・リデンの脳裏に、まだ少女の頃の記憶が蘇って来た・・。
その師である、『幽玄の森』の大木に耳を寄せて聴いた物語が・・。