第37話    外伝 その九 『ケイガンの印』②

文字数 2,172文字

 ある日、仕事を終えて寝小屋に戻ろうとしていたケイガンがふと見上げると、その女が自分を見つめていることに気がついた。

 薄闇の中のその美しい面差しにケイガンはハッとした。そこには何か、自分のことを知っているような、或いは思い出そうとしているような・・妙な懐かしさを抱かせるようなものが漂っていた。
 二人はお互いに相手を凝視するような格好になった。が、ケイガンはさりげなく目礼して通り過ぎた。

 その夜の間・・女の見せた表情が、ケイガンの心を占めていた。

 
 翌日も女の姿はあった。しかしケイガンが見上げても気がつかない様子で、ただぼんやりと河を見つめている。彼も黙って通り過ぎた。
 

 その翌夕、女の姿はなかった。ちょっとガッカリした次の夕刻、女は窓からケイガンを見つめていた。
 ケイガンも視線を女に向けると、その女の上には微かな・・誘うような表情が現れた・・。


 その翌日、仕事が終わると、驚いたことに足の鎖が外された。

「・・上の屋敷からの〝ご招待〟だ。上手くやりな」

 番人は意味深長な口調でそう言うと、片目を瞑って見せた。

 
 いつもは閉じている石積みの建物に上る扉が開いていて、その奥に階段が見える。ケイガンは門を潜り、上ってみた。
 いつも女の姿が見える窓の近くに入口があり、その扉も開放されている。
 そこを入ると、上部に明り取りの小窓のある狭い廊下が続き、その突き当りに広い部屋が現れた。

 そこも窓といえば明り取りの小窓だけで、外の景色は臨めない。中央に大きな座卓、そして壁際に大きな長椅子が置いてあるだけだ。
 そこにフッと音もさせずに中年の召使らしい女が現れた。

「毎日のお勤め大変でございましょう・・こちらに・・」

 そう穏やかな口調で言って、ケイガンを部屋の奥に案内した。
 そこには広い浴槽があり、その脇にローブまで用意されている。

「まずはこちらでゆっくりと沐浴なさって、お寛ぎください」

 そう言って召使が部屋を出て行くと、ケイガンは直ぐに部屋の至るところを覗いてどこかに外部への出口はないかと探した。しかし二つあった扉は全て錠がシッカリと下りている。
 入って来たところ以外、どこにも出られないようだ・・。

「・・〝ご招待〟ね・・」

 諦めたようにそう呟いて、浴槽に手を入れてみると驚いたことに暖かい。
 お湯の入ったタブなど、あの頃以来だ・・。

 
 ケイガンがまだシュメリアに連れて来られて間もない頃、その若い美しさに、売られた先で雇主の奔放な妻に伽の相手をさせられた。が、そのことを知った雇い主は自分も若者の身を弄ぼうとした。
 強く抵抗したケイガンは、怒った相手に何度も鞭を喰らった。

「愚かなヤツだ・・!働きづめに働いてくたばるがいい!そうすればワシがどんなに情けを掛けてやったかわかるだろう・・!」

 そう罵られて、重労働に就かせるべく売り払われた。

 
 そんなことが一瞬、ケイガンの頭を過った。が、さほど気にもしなかった。
 この館の主がどんな奴かも知らない。いつもは川の水で済ますのに、その心地よいお湯の感覚と立ち上る微かな香草の香りに捉えられて、不安を覚えるのもめんどうな気がした。

 真新しいローブを纏って広い部屋に戻ったケイガンは驚いた。座卓の上に、沐浴の間に用意したらしいご馳走が並んでいる。
 喉の渇きを癒すため、大皿に乗った果実を一つ手に取って齧った。瑞々しい果汁が口の中いっぱいに広がった。

 フッとした気配に、先ほどの召使かと思って振り向くと、そこに一人の女の姿があった。
 ・・あの窓辺の女だ。遠くからの姿も目を引いたが・・まさか・・こんなに美しい女だったとは・・。


 以来、ケイガンはその美女に夢中になった。仕事の終わりが待ち遠しかった。
 何か夢の中にいるような気分だった。重労働に明け暮れる単調な、それもろくに話し相手もいない日々に、突然・・。

 夜毎、秘密の閨でその美女は違う表情を見せた・・まるで月の満ち欠けのように。ある時は淑女のようにしとやかで美しく、ある時は神殿の女のように奔放だった。
 その目まぐるしく変わる心の表情に捉えられ、まるでいっぺんに二人の恋人が出来たような気がしていた。
 その一方の恋人とある時は、しっとりと心地好い感触が彼を包んだ。それはまるでミタンの深い森にある時のような・・。

「・・私の中で・・何かが・・再び生き始めているような気がするの・・」
 
 そんな空気を漂わせて・・ある夜、女は言った。そんな時の女は美しく、得も云われず愛らしい。

「何かがって・・」
「何か・・忘れてしまったこと・・。森の・・空気・・」
「ああ・・深い森の・・」

 ケイガンの身体の中にも何かが・・甦る・・。

「ミタンの・・森のことを聞かせて・・」
 
 ケイガンは語る。
 が、女と言葉を交わすのは、女がそんな森のような空気の中にある時だけだった。

「あなたもって、あなたも奴隷の身なのか・・」
「そうね・・奴隷のようなもの・・」
「こんなでかい屋敷に住んでいて・・」

 最初の日以外は召使いの姿もなく、女の他に屋敷に人の気配はない。
 
 女は何故ここにいるのか、その前は何をしていたのか何も語らなかった。その名前さえも忘れているようだ。
 ただ、ケイガンの語る『ミタンの森』の話を静かに、しかしまるで渇いた身体が汲んだばかりの水を飲み干すように・・聴いていた。
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