体調

文字数 2,456文字

 その日の夜のことだった。マレルは隣から聞こえてくる低い咳に気が付いて眼を覚ました。ごほっとくぐもった咳が頻繁に聞こえてくる。

「サーテ?」
「すみません、師匠。起しちゃいましたか?」

 遠慮してそう言うサーテルコールだったが、マレルは何か嫌な予感がした。

「寝てからすぐか?」
「何がですか?」
「咳だ」
「はい……それにとてもだるいです」

 風邪か……とマレルは思った。しかし、嫌な予感は消えない。
 それはマレルの師匠、デルカを思い出してしまったからだ。
 デルカも亡くなる一昨日前まで、歌をうたうほど元気が良かった。
 しかし、今のサーテルコールのように夜中に咳こみだした。
 朝に医者に見せたが薬が出来ていなくて、その次の日には帰らぬ人になっていた。

 何か、突き動かされる衝動でマレルは上着をはおった。
 外は秋も深まり、冬の気配を見せている頃だ。寒さが忍び寄ってくる時季だった。

「どこに行くんですか、師匠」

 咳こみながらそう聞くサーテルコールにマレルは出来るだけ安心させるように言った。

「医者を呼んでくる」
「医者? だって今は夜中ですよ」
 
 そういう間にもサーテルコールは咳こむ。
 
「いいから寝てろ。水さしをもってきておくから喉が乾いたらのんでおけ」

 そう言ってマレルは部屋から出た。



 宿の主人が朝食の仕込みの為に起きていた。厨房の中で料理をしている。
 マレルは主人に医者の事を聞くために声をかけた。

「すみません」

 宿の主人はマレルを見ると、機嫌良く返事をする。

「ああ、どうした? こんな時間に」

 昼間、サーテルコールの穴を埋めるために難しい曲を立て続けに弾いたり歌ったりしたため、マレルは少し有名になっていた。そのマレルがここの宿の宣伝もした為、今この宿は満員だった。そのおかげで宿の主人はマレルに対して愛想が良くなった。

「医者を呼びたいんです。連れが体調を崩してしまって」
「おお、そうか。でも今じゃ医者だってやってないぞ」
「分かっています。でも頼みにいきたいんです」
「そんなに悪いのか?」
「……俺ではわかりません」

 宿の主人はしばらく黙ってマレルを見たが、仕込みの手を止めて診療所までの地図を書いてくれた。

「そんな遠くじゃない。これを見ていけば四半時(しはんとき)くらいでつくだろ」

 そう言ってマレルに地図を書いた紙を渡した。
 そしてまた仕込みに戻る。

「明日、物は食べられそうか?」
「分かりません……でもオートミールみたいなものを用意しておいてもらっていいでしょうか?」
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます。それと、これはこれから御世話になる分の代金です」
 
 マレルはエメラルドを一つキッチンのカウンターに置いた。

 宿の主人はそれを見ると、手を拭いてエメラルドを指で挟み、光にあてて見てみた。

「宝石かい? ずいぶんいいものをもってるじゃないか」
「それしかありませんが、これから連れが迷惑をかけるかもしれません。前金として収めておいてください」
「よろこんで」

 宝石の数を隠し、宿の主人にマレルは頼む。
 宿の主人はさらに少し機嫌が良くなった。しかし、それが不謹慎だと思ったのか、すぐに真面目な顔になってマレルに請け合った。

「食事の事はまかせておけ」
 


 マレルは地図の通りに道を進んでいく。湖の周りは、夜中は真っ暗だ。その暗闇の中でマレルの吐く息が白く見える。
 湖の脇に生えている木々が風にうねっていて、不気味な音を立てている。
 それ以外は湖の水音がするだけで、いろいろな場所を見てきたマレルでも少し背筋が寒くなった。

 しかしそれよりも今は医者を呼びに行かなくては。
 朝まで待っていたら……どうなるか不安だった。
 いまは流行病など流行ってはいないのだが。

 でもサーテルコールがその始まりだとしたら?
 暗い道をマレルは小走りに診療所へと向かう。
 そして質素な木造建築の小さな建物を見つけた。
 看板には『ヴェルタ診療所』と出ている。

「すみません」

 どんどんと診療所の扉をたたく。
 一回ではやはり誰もでてきてはくれない。
 それはそうだろう。もう医者だって寝ているだろう。

「すみません!」

 またどんどんと扉をたたく。
 それで診療所の明かりが灯った。
 医者が来てくれた、と思ったマレルは安心してどっと疲れが出た。
 診療所の扉が開かれる。

 しかし出てきたのは、一人の小柄なおばあさんだった。

「今、息子は王都の方へ薬を買いつけに行っていて明後日まで戻らないんですよー」

 何か間のびした呑気な口調にマレルはじれったくなる。
 
「先生が……いないという事ですか? 明後日まで?」
「そう言ってますよー」
「ちょっと待ってください! 本当ですか? 寝てるんじゃないんですか?」

 信じられない事実にマレルは食い下がった。

「本当ですよ。夜中にくる患者さんは慣れています。何も夜中に来たからと言ってむやみに追い返しはしませんよ。人の命を預かる身ですからねー」
 
 おばあさんは気遣うように優しく言った。
だが、マレルは一気に脱力してその場にしゃがみこんだ。おおきく息を吐く。それが白い蒸気になって立ちのぼる。

「ここら辺じゃ見ない顔だねえ。どこか教えてくれれば息子が帰ってきた時に伺わせますよー。ここら辺じゃ診療所はうちしかないし……困りましたねー」
「ありがとうございます……。『清流の湖亭』という宿です。マレルだと言えば宿の主人が分かります」

 明後日の約束を取り付けて、マレルは急いでサーテルコールの元へと帰って行った。

 宿へ帰るみちすがら、マレルは思った。
 あの咳は、歌い方が変わったわけじゃなかった。どうりで早いと思った。歌い始めて一年もたっていなかったのだから。

 あの咳は――病気だったんだ。
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