節目の咳
文字数 3,331文字
馬車に一日揺られた辺りのころだった。
目前に海のような大きな湖が現れた。
湖はマレルとサーテルコールがここに着いた夕刻の光を反射していた。湖面が金色にも赤色にも見える。
湖の周りには宿が連立し、湖ではボートに乗った人がいたり、遊覧船が出ていたりする。
しかし今は夕方でどれももう、終わりが近い。
湖はくぼ地に出来ている為、小高い丘に囲まれており、少し丘を登ると湖が一望できると看板が出ていた。
馬車はマイダスの滝までいくらかある所で止まり、マレルとサーテルコールはそこで馬車を降りた。湖からふく風が冷たいが、それが心地いいと思えるくらいの絶景だった。
「明日あたりに滝の方まで行ってみよう。今日はちょっと良い宿に入って風呂にでも入ろう。服も洗濯してもらって」
「そうですねー」
「その前にちょっと公演もするぞ」
「どこでするんですか?」
「宿の人の許可を得て、宿の前でやろう。宿にとっても客集めにもなって良いと思う」
そこでマレルたちは連立する宿からかなり良い宿をさがし出し、そこに泊る事にした。
二階建ての木造建築で、全体的に黒い色の外壁だった。
カランと扉を開く。
中に入ってすぐにレストランも兼ねている食堂があり、そこは宿泊客だけでなく、外からも客が入れるようだった。
部屋をサーテルコールと二部屋に分けることもマレルは考えた。だが今更だと思うのでやはり金がもったいなくて一部屋で済ませた。
厨房の方で仕込みをしている大柄な人がいた。
その人がきっとこの宿の主人だろうとあたりをつける。
そして声をかけた。
「ご主人、この宿の前で歌の公演をしてもいいですか? 客集めにもなると思うのですが。この宿の宣伝もしておきます」
マレルがそう交渉すると、やはりその人が主人だったらしい。宿の主人は初めいぶかしそうにマレルを見たが、「まあ、いいだろう」と渋るようにして承諾した。
「下手だったらすぐに追い払うからな」
そう念を押されてマレルたちは主人の見えない位置で肩をすくめる。
「いままでどおりにやれば何も問題ない」
マレルはサーテルコールにそう言うと、公演の準備を始めた。
部屋に荷物を置いて整理した後、宿の門の脇で椅子に座って竪琴をかまえる。
今回は楽しい観光地という事で楽しい詩をマレルは詩った。
“船にのって湖をすべる 青い水の上は金色の水面
すべりだそう その清い流れの中に
楽しいひと時 心からの笑顔を君に“
『水辺の歌』を詩(うた)い、マレルは観客をひきつけた。
周りにいる人々が、マレルの詩 に足を止める。そして詩に聞き惚れる。
マレルは何曲か立て続けに歌った。十分客をとりこにしたと思った時、マレルはサーテルコールに舞台を渡した。
以前、草原の民たちの元でも公演には出た。
大勢の観客に囲まれて、サーテルコールは緊張が頂点に達する。
大丈夫、と彼女は自分に言い聞かせ、何回目かにあたる公演で声をだす。
草原の民たちのところで歌ったように、女性特有の清い声が辺りに響き渡る。
しかし――
ごほっ
歌っている途中で咳が出た。
それはとても歌には致命的な失敗になってしまった。
「何やってんだ!」
誰かが大声でヤジを飛ばす。
足がすくみそうになる。それでも歌いきらなければ、とサーテルコールは歌い続けた。
しかし、どんなに注意しても声を伸ばし、喉が震えると咳がでてしまう。
サーテルコールは焦った。いままでこんな事はなかったのに。
観客はざわざわと唸り、ヤジは大きくなった。サーテルコールは歌っている途中でマレルに腕を掴まれて端に連れ戻された。
それからの事を、サーテルコールはあまり覚えていない。
必死にマレルがその公演をとり繕 ってくれたことしか覚えていない。
いままで歌を歌って、こんな風に咳が出た事はなかった。
体調も万全だったのに。
泣きたくなるのをサーテルコールは必死で抑え込む。
サーテルコールのあけた公演の穴は、マレルがうまく埋めてくれた。
マレルは観客に、特別に高度な曲を竪琴で弾いたり、歌ったりした。
それで満足した観客はマレルの前に置いた帽子にお金を入れ、立ち去って行った。
それを茫然とサーテルコールは見ていた。
公演が終わってもマレルは何も言わず、部屋へと帰る。
サーテルコールもその後に続いた。マレルの体がサーテルコールの方へと向く。
怒られる、とサーテルコールは思った。
体調管理も絶対にしておかなくてはいけないのに、ましてや本番で咳こんでしまった。
部屋に帰ってから落ち込んだサーテルコールにマレルは疲れた様子で声をかける。
「まだ早いとは思うんだがなあ……。なんかおかしいが……。まあ、座れ」
そう言って何か納得の行かない表情でマレルは部屋に備え付けられている一組のソファに座る。サーテルコールはマレルの向かいに座った。
「まあ、本番中に咳こむっていうのは致命的だったが」
「すみません、師匠……!」
サーテルコールは必至で頭を下げる。
「ああ、まあ」
そう言ってマレルはまた首をかしげた。
「今まで咳が出たことはなかったと思うが。歌うと咳こむのか?」
「はい、さっきはなにか喉がむずむずして。特に声を伸ばすとつらいです」
「今は、咳は出てないよな」
「そういえばそうですね」
そうしてマレルはあごに手をあててまた考え込んだ。
「やっぱり早いよな……」
そうして独り言を言う。
サーテルコールはおそるおそる聞いてみた。
「何が早いんですか?」
「あ、ああ。まあ。もう少し様子をみてから言う。それとちょっと言っておきたい事がある」
「はい」
「サーテ、お前は『歌うたい』として独り立ちしたら、俺のように国中を旅してまわるのは無理だ」
「……え?」
突然のマレルの言葉にサーテルコールは固まった。
詩や竪琴の練習は大変だが、マレルと旅をするのは純粋に楽しかった。
しかし、いつかはサーテルコールも『独り立ち』しなければならない。
「でも、師匠……! 私はまだ竪琴も歌もまだまだです」
「そうだな……。もう少し教えるが……。独り立ちするようになったら、王都あたりの劇場や歌を歌う喫茶などで専属に雇ってもらうのがいいと俺は思う。サーテ、お前はやっぱり『女』だからな……俺のように一人で国を回って行く事は出来ないだろう」
それはサーテルコールの胸にぐさりと何かつきささるようなものがあった。
「大丈夫、俺も師匠から離れる時は不安だった。お前の気持ちは分かる。でもそのうちやっていけるようになるさ」
「師匠……」
「なんだ?」
いつにない、優しい声音にサーテルコールは泣きたくなった。しかし、顔をあげてマレルを見る。
「私はまだ何もお返しできていません……!」
「ああ、いや、それはな……。べつにいい」
マレルは常々思っていた。弟子をとる。弟子を育てる。そういう経験を得た事が自分の財産だったのではないかと。そして実際、サーテルコールとの日々は楽しかった。
さらに自分もデルカに、お返しとしてした事など何もない。
サーテルコールはスカートを握りしめる。
「それに公演で失敗もしました」
「それは必要なら後で咳が出た理由を説明してやる」
そこで彼女ははっとした。師匠がそう言うのなら、咳が出た理由が何かあるのだ、と。
――歌うと咳が出る
この現象は、歌い方が変わってきた、という証拠のようなものだった。
喉の筋肉の関係で歌い方が変わると喉が刺激されて咳がでる。
より、『歌うたい』の声になってきた、という事だ。この現象はたぶん、サーテルコールの場合、ごく短期間でおさまるだろう。マレルはそう思っていた。
しかし、サーテルコールが歌の修行を始めてから一年もたっていない。
「早すぎる……」
何にしてもこの事実はマレルにもサーテルコールにも衝撃を与えていた。
目前に海のような大きな湖が現れた。
湖はマレルとサーテルコールがここに着いた夕刻の光を反射していた。湖面が金色にも赤色にも見える。
湖の周りには宿が連立し、湖ではボートに乗った人がいたり、遊覧船が出ていたりする。
しかし今は夕方でどれももう、終わりが近い。
湖はくぼ地に出来ている為、小高い丘に囲まれており、少し丘を登ると湖が一望できると看板が出ていた。
馬車はマイダスの滝までいくらかある所で止まり、マレルとサーテルコールはそこで馬車を降りた。湖からふく風が冷たいが、それが心地いいと思えるくらいの絶景だった。
「明日あたりに滝の方まで行ってみよう。今日はちょっと良い宿に入って風呂にでも入ろう。服も洗濯してもらって」
「そうですねー」
「その前にちょっと公演もするぞ」
「どこでするんですか?」
「宿の人の許可を得て、宿の前でやろう。宿にとっても客集めにもなって良いと思う」
そこでマレルたちは連立する宿からかなり良い宿をさがし出し、そこに泊る事にした。
二階建ての木造建築で、全体的に黒い色の外壁だった。
カランと扉を開く。
中に入ってすぐにレストランも兼ねている食堂があり、そこは宿泊客だけでなく、外からも客が入れるようだった。
部屋をサーテルコールと二部屋に分けることもマレルは考えた。だが今更だと思うのでやはり金がもったいなくて一部屋で済ませた。
厨房の方で仕込みをしている大柄な人がいた。
その人がきっとこの宿の主人だろうとあたりをつける。
そして声をかけた。
「ご主人、この宿の前で歌の公演をしてもいいですか? 客集めにもなると思うのですが。この宿の宣伝もしておきます」
マレルがそう交渉すると、やはりその人が主人だったらしい。宿の主人は初めいぶかしそうにマレルを見たが、「まあ、いいだろう」と渋るようにして承諾した。
「下手だったらすぐに追い払うからな」
そう念を押されてマレルたちは主人の見えない位置で肩をすくめる。
「いままでどおりにやれば何も問題ない」
マレルはサーテルコールにそう言うと、公演の準備を始めた。
部屋に荷物を置いて整理した後、宿の門の脇で椅子に座って竪琴をかまえる。
今回は楽しい観光地という事で楽しい詩をマレルは詩った。
“船にのって湖をすべる 青い水の上は金色の水面
すべりだそう その清い流れの中に
楽しいひと時 心からの笑顔を君に“
『水辺の歌』を詩(うた)い、マレルは観客をひきつけた。
周りにいる人々が、マレルの
マレルは何曲か立て続けに歌った。十分客をとりこにしたと思った時、マレルはサーテルコールに舞台を渡した。
以前、草原の民たちの元でも公演には出た。
大勢の観客に囲まれて、サーテルコールは緊張が頂点に達する。
大丈夫、と彼女は自分に言い聞かせ、何回目かにあたる公演で声をだす。
草原の民たちのところで歌ったように、女性特有の清い声が辺りに響き渡る。
しかし――
ごほっ
歌っている途中で咳が出た。
それはとても歌には致命的な失敗になってしまった。
「何やってんだ!」
誰かが大声でヤジを飛ばす。
足がすくみそうになる。それでも歌いきらなければ、とサーテルコールは歌い続けた。
しかし、どんなに注意しても声を伸ばし、喉が震えると咳がでてしまう。
サーテルコールは焦った。いままでこんな事はなかったのに。
観客はざわざわと唸り、ヤジは大きくなった。サーテルコールは歌っている途中でマレルに腕を掴まれて端に連れ戻された。
それからの事を、サーテルコールはあまり覚えていない。
必死にマレルがその公演をとり
いままで歌を歌って、こんな風に咳が出た事はなかった。
体調も万全だったのに。
泣きたくなるのをサーテルコールは必死で抑え込む。
サーテルコールのあけた公演の穴は、マレルがうまく埋めてくれた。
マレルは観客に、特別に高度な曲を竪琴で弾いたり、歌ったりした。
それで満足した観客はマレルの前に置いた帽子にお金を入れ、立ち去って行った。
それを茫然とサーテルコールは見ていた。
公演が終わってもマレルは何も言わず、部屋へと帰る。
サーテルコールもその後に続いた。マレルの体がサーテルコールの方へと向く。
怒られる、とサーテルコールは思った。
体調管理も絶対にしておかなくてはいけないのに、ましてや本番で咳こんでしまった。
部屋に帰ってから落ち込んだサーテルコールにマレルは疲れた様子で声をかける。
「まだ早いとは思うんだがなあ……。なんかおかしいが……。まあ、座れ」
そう言って何か納得の行かない表情でマレルは部屋に備え付けられている一組のソファに座る。サーテルコールはマレルの向かいに座った。
「まあ、本番中に咳こむっていうのは致命的だったが」
「すみません、師匠……!」
サーテルコールは必至で頭を下げる。
「ああ、まあ」
そう言ってマレルはまた首をかしげた。
「今まで咳が出たことはなかったと思うが。歌うと咳こむのか?」
「はい、さっきはなにか喉がむずむずして。特に声を伸ばすとつらいです」
「今は、咳は出てないよな」
「そういえばそうですね」
そうしてマレルはあごに手をあててまた考え込んだ。
「やっぱり早いよな……」
そうして独り言を言う。
サーテルコールはおそるおそる聞いてみた。
「何が早いんですか?」
「あ、ああ。まあ。もう少し様子をみてから言う。それとちょっと言っておきたい事がある」
「はい」
「サーテ、お前は『歌うたい』として独り立ちしたら、俺のように国中を旅してまわるのは無理だ」
「……え?」
突然のマレルの言葉にサーテルコールは固まった。
詩や竪琴の練習は大変だが、マレルと旅をするのは純粋に楽しかった。
しかし、いつかはサーテルコールも『独り立ち』しなければならない。
「でも、師匠……! 私はまだ竪琴も歌もまだまだです」
「そうだな……。もう少し教えるが……。独り立ちするようになったら、王都あたりの劇場や歌を歌う喫茶などで専属に雇ってもらうのがいいと俺は思う。サーテ、お前はやっぱり『女』だからな……俺のように一人で国を回って行く事は出来ないだろう」
それはサーテルコールの胸にぐさりと何かつきささるようなものがあった。
「大丈夫、俺も師匠から離れる時は不安だった。お前の気持ちは分かる。でもそのうちやっていけるようになるさ」
「師匠……」
「なんだ?」
いつにない、優しい声音にサーテルコールは泣きたくなった。しかし、顔をあげてマレルを見る。
「私はまだ何もお返しできていません……!」
「ああ、いや、それはな……。べつにいい」
マレルは常々思っていた。弟子をとる。弟子を育てる。そういう経験を得た事が自分の財産だったのではないかと。そして実際、サーテルコールとの日々は楽しかった。
さらに自分もデルカに、お返しとしてした事など何もない。
サーテルコールはスカートを握りしめる。
「それに公演で失敗もしました」
「それは必要なら後で咳が出た理由を説明してやる」
そこで彼女ははっとした。師匠がそう言うのなら、咳が出た理由が何かあるのだ、と。
――歌うと咳が出る
この現象は、歌い方が変わってきた、という証拠のようなものだった。
喉の筋肉の関係で歌い方が変わると喉が刺激されて咳がでる。
より、『歌うたい』の声になってきた、という事だ。この現象はたぶん、サーテルコールの場合、ごく短期間でおさまるだろう。マレルはそう思っていた。
しかし、サーテルコールが歌の修行を始めてから一年もたっていない。
「早すぎる……」
何にしてもこの事実はマレルにもサーテルコールにも衝撃を与えていた。