変わる世界

文字数 1,489文字

 酒場の(にご)った空気が喉に痛い。
 マレルは水差しから器に水を注ぎいれると、それを少しずつ口に含んで口と喉を湿らせる。銀色の竪琴を構えなおし、次のリクエストを待った。

「さあ、お次ぎはどんな曲がいかがかな」

 マレルの言葉に海辺の猟師たちは海の神を称える歌を彼に頼む。

 ここは海辺の酒場。わりと大きめの酒場には、仕事が終わった漁師たちが仕事着のままで、マレルに歌を所望する。マレルは流れの歌うたいだった。
 銀色の竪琴で曲を(かな)で、その喉を震わせて詩を紡ぐ。

 “ ああ、偉大なる海の王、
  その御手を優しく
  私たちの舟へさしのべてくれ
  豊漁を約束し給え
  嵐を遠ざけ給え、
  その御手で私たちを
  幸せへと導いてくれ給え“

 その声は澄んだテノールで、まるで祈りにも似た詩をとうとうと歌いあげる。
 マレルはその先の詩を紡いでゆっくりと竪琴に指を滑らせた。
 母なる海を想わせる旋律が、マレルの指からほとばしる。
 幾重にも重なる竪琴の弦の音が、流れる水のごとく響き渡る。

「きれい……」

 そのマレルの姿を見ていた少女がいた。
 彼女は涙をながして、マレルの詩を聞き、竪琴を聞いた。
 マレルの持つ技巧にその少女は自然と心を打たれた。
 
 なんて素敵な音色。
 なんて素敵な声音(こわね)

 彼女は街の娼婦だった。
 年の頃は十代後半、今が一番綺麗な年頃であった。
 しかし、彼女のこころは、もう生気をなくしていた。
 こころに輝きがなくなっていたのだ。

 いま、マレルの詩をきいた彼女は、確かになにか『こころ』に響いた。
 久しく何も感じなかった彼女の心に、海の青がさっとはいた。
 だから涙を流してぽつりと「きれい」と呟いた。

 海の詩を歌い終わったマレルはその少女の方へ向いた。
 涙を流す少女を見て、ぽろん、と合図をするように竪琴を鳴らす。
 それにハッとした少女はマレルと正面から眼を合わせた。

「何かリクエストは御有りですか、お嬢さん」

 マレルの言葉に少女はなけなしの代金を払って恋の詩を頼んだ。
 マレルはまた、酒場の空気を洗い流すかのように水を飲み、喉を湿らせると詩を紡ぐ。

“愛しい乙女 
貴女はどうして囚われているの? 
自由になって恋をして 
自由になって愛を知れ
私の腕の中へと舞飛んでくれ“

 マレルは彼女の眼を見てそう歌いあげる。
 彼女のこころが浄化されるように澄んでゆく。
 生きている事が素敵な事だと、思い出させてくれるような、そんな旋律と詩――
 
「ねえ、歌うたいさん」
「なんでしょうか」

 少女は涙を拭きながら、マレルを見た。

「私を弟子にしてください。お願いです」

 その言葉にマレルの手が止まる。

「弟子……?」
「はい。どんな事でもします。私に詩を教えてください」

 マレルはすこし考えて、頷いた。
 彼女がどんな女かマレルには分からなかったが、自分の詩を聞いて涙を流して弟子にと懇願してくるこの少女が悪い者には見えなかった。

「いいだろう。俺と共に来なさい」
 
 少女は目を見開く。
 少女の中で世界が変わった。
 今までの暗い世界から、光あふれる詩の世界へ。
 
「俺はマレル。君の名は」
「サーテルコール」
「長いな。サーテって呼ぶぞ」
「はい、マレル様」
「様はいらない。マレルでいい」

 サーテルコールは生まれて初めて自分の望んだ道を選らび、歩く事を始めた。

 彼女を変えたのは、マレルの声音と旋律。

 (うた)は世界を変える。
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