マレルの師匠 前編
文字数 1,885文字
「デルカさん」
「なんだい、マレル」
デルカはある街の広場で公演をしおわったばかりだった。
簡易椅子に座っている彼は、ほうっと息をついて、竪琴を横におく。
布で汗を拭いて片手でぱたぱたと顔を仰いだ。
そして彼の弟子であるマレルの方へ顔を向けた。
「レモン水です」
マレルは師匠であるデルカに仕事の後に飲む、レモン水を差し出した。
「ああ、有難う、マレル」
彼はニコッと笑うと、マレルの手からレモン水を受け取る。
「本当は酒が飲みたいんだけどなあ」
「酒?! またですか! それはデルカさんが一番最初に喉に悪いから飲むなっていってたじゃないですか」
「そうは言ってもなあ」
デルカは本当に残念そうにレモン水をごくごくと飲みほした。
「酒場の連中のあの陽気なかんじ、俺も味わってみたいんだよね」
「でもデルカさん、酒って飲んだことないんでしょう?」
「ないね。だから飲んでみたいんじゃないか」
デルカ。それはマレルの師匠だ。こういう風に思った事を率直に、弟子にでも話してしまう、少し師匠らしくない師匠だった。実際、二人でいると兄弟に間違われる事が多々ある。
デルカはマレルに自分の事を『師匠』とは呼ばせなかった。
気恥かしいから止めてくれ、と本当に嫌そうだったので、マレルはこの師匠のことを『デルカさん』と呼ぶ。
「ああ、またそんな仏頂面をして。歌うたいは笑顔が基本! マレル、お前はもっと笑う事を考えろよ」
「デルカさんが酒なんて飲みたいっていうからですよ」
「お前は飲みたいと思わないのか」
「まあ、多少……」
「多少?」
「実はわりと」
「そうだろう!」
デルカは、ははは、と大声で笑う。
マレルもそれに釣られてくすりと笑った。
「ほら、もっと表情豊かになんないと公演には出せないぞ」
「はい」
「ああ、堅い、堅い、肩の力をもっと抜け、お前は真面目すぎるなあ」
そう言ってデルカは少し困った表情を浮かべ、簡易椅子から立ち上がる。
マレルはそれを片づけて荷物の中にしまった。
「今日の宿はとれたか?」
「はい。言われた通り、酒場のある宿を探しました。値段もそこそこです」
「そうか! 今日はゆっくりベッドで寝られるな」
「昨日は馬車の中で寝ましたからね」
昨日はこの街へと来た馬車の中で夜を過ごしたことを思い出す。
それに比べれば、宿屋のベッドで寝られるなんて、上等だ。
デルカの公演は、笑顔であふれている。
デルカの本来の気質なのだろう、明るい彼は客を喜ばすことを心得ていた。
そんなデルカの公演をマレルは羨望のまなざしでいつも見ている。
今、デルカはマレルの取った宿屋の酒場で歌を歌っていた。
彼の歌はいうまでもなく、うまいし、何より明るい。
マレルは思う。
自分は、あんな風に客を喜ばせる事ができるだろうか。
そう自分の師匠の公演をつぶさに観察しつつ、不安になる。
歌の練習も体力作りも毎日マレルはこなした。
声を出す練習もデルカにつけてもらったし、歌も覚えた。
でも、デルカは言う。
『歌がうまいだけじゃ、歌うたいはダメだ。自分も楽しんで歌い、客も楽しませて歌うのが歌うたいだと俺は思っている。今日死んでも悔いのない公演を、いつもするんだ』
その酒場でマレルもすこし、歌を歌った。
でも、なんだかやっぱりデルカのように客を惹きつける事が出来てないように思う。
『笑顔で、笑顔で』
デルカのいつもの教えを思い出す。
そのうち考える事をやめ、歌に入り込み、歌っているうちに気持ちが良くなり、自然に笑顔が出た。
(ああ、この感覚か……)
マレルはその時、何か発見した気がした。
歌い終わると、盛大な拍手がした。
マレルは礼をして、舞台をデルカに渡す。
公演が終わった夜、マレルはデルカに褒められた。
「今日の公演は良かったじゃないか。そうだ、あんな感じだ。お前は声もいいし、歌もうまい。笑顔、それだけが心配だったが、それも今日みたいにやれば出来る。もう少しで独り立ちもできそうだな」
「はい!」
返事は強く返したマレルだった。
だがデルカに褒められた嬉しさと、デルカから離れることへの不安と、寂しさがないまぜになった、複雑な気分だった。
その夜、部屋で寝ていたマレルは隣のベッドから低い咳が聞こえてくるのに気が付いた。
(デルカさん、風邪でもひいたのかな)
マレルはその時、それ以上の事は考えていなかった。
「なんだい、マレル」
デルカはある街の広場で公演をしおわったばかりだった。
簡易椅子に座っている彼は、ほうっと息をついて、竪琴を横におく。
布で汗を拭いて片手でぱたぱたと顔を仰いだ。
そして彼の弟子であるマレルの方へ顔を向けた。
「レモン水です」
マレルは師匠であるデルカに仕事の後に飲む、レモン水を差し出した。
「ああ、有難う、マレル」
彼はニコッと笑うと、マレルの手からレモン水を受け取る。
「本当は酒が飲みたいんだけどなあ」
「酒?! またですか! それはデルカさんが一番最初に喉に悪いから飲むなっていってたじゃないですか」
「そうは言ってもなあ」
デルカは本当に残念そうにレモン水をごくごくと飲みほした。
「酒場の連中のあの陽気なかんじ、俺も味わってみたいんだよね」
「でもデルカさん、酒って飲んだことないんでしょう?」
「ないね。だから飲んでみたいんじゃないか」
デルカ。それはマレルの師匠だ。こういう風に思った事を率直に、弟子にでも話してしまう、少し師匠らしくない師匠だった。実際、二人でいると兄弟に間違われる事が多々ある。
デルカはマレルに自分の事を『師匠』とは呼ばせなかった。
気恥かしいから止めてくれ、と本当に嫌そうだったので、マレルはこの師匠のことを『デルカさん』と呼ぶ。
「ああ、またそんな仏頂面をして。歌うたいは笑顔が基本! マレル、お前はもっと笑う事を考えろよ」
「デルカさんが酒なんて飲みたいっていうからですよ」
「お前は飲みたいと思わないのか」
「まあ、多少……」
「多少?」
「実はわりと」
「そうだろう!」
デルカは、ははは、と大声で笑う。
マレルもそれに釣られてくすりと笑った。
「ほら、もっと表情豊かになんないと公演には出せないぞ」
「はい」
「ああ、堅い、堅い、肩の力をもっと抜け、お前は真面目すぎるなあ」
そう言ってデルカは少し困った表情を浮かべ、簡易椅子から立ち上がる。
マレルはそれを片づけて荷物の中にしまった。
「今日の宿はとれたか?」
「はい。言われた通り、酒場のある宿を探しました。値段もそこそこです」
「そうか! 今日はゆっくりベッドで寝られるな」
「昨日は馬車の中で寝ましたからね」
昨日はこの街へと来た馬車の中で夜を過ごしたことを思い出す。
それに比べれば、宿屋のベッドで寝られるなんて、上等だ。
デルカの公演は、笑顔であふれている。
デルカの本来の気質なのだろう、明るい彼は客を喜ばすことを心得ていた。
そんなデルカの公演をマレルは羨望のまなざしでいつも見ている。
今、デルカはマレルの取った宿屋の酒場で歌を歌っていた。
彼の歌はいうまでもなく、うまいし、何より明るい。
マレルは思う。
自分は、あんな風に客を喜ばせる事ができるだろうか。
そう自分の師匠の公演をつぶさに観察しつつ、不安になる。
歌の練習も体力作りも毎日マレルはこなした。
声を出す練習もデルカにつけてもらったし、歌も覚えた。
でも、デルカは言う。
『歌がうまいだけじゃ、歌うたいはダメだ。自分も楽しんで歌い、客も楽しませて歌うのが歌うたいだと俺は思っている。今日死んでも悔いのない公演を、いつもするんだ』
その酒場でマレルもすこし、歌を歌った。
でも、なんだかやっぱりデルカのように客を惹きつける事が出来てないように思う。
『笑顔で、笑顔で』
デルカのいつもの教えを思い出す。
そのうち考える事をやめ、歌に入り込み、歌っているうちに気持ちが良くなり、自然に笑顔が出た。
(ああ、この感覚か……)
マレルはその時、何か発見した気がした。
歌い終わると、盛大な拍手がした。
マレルは礼をして、舞台をデルカに渡す。
公演が終わった夜、マレルはデルカに褒められた。
「今日の公演は良かったじゃないか。そうだ、あんな感じだ。お前は声もいいし、歌もうまい。笑顔、それだけが心配だったが、それも今日みたいにやれば出来る。もう少しで独り立ちもできそうだな」
「はい!」
返事は強く返したマレルだった。
だがデルカに褒められた嬉しさと、デルカから離れることへの不安と、寂しさがないまぜになった、複雑な気分だった。
その夜、部屋で寝ていたマレルは隣のベッドから低い咳が聞こえてくるのに気が付いた。
(デルカさん、風邪でもひいたのかな)
マレルはその時、それ以上の事は考えていなかった。