プロローグ

エピソード文字数 694文字

 ほんのちょっとしたことがきっかけで、人生が変わることもある。
 人との出会いや、たまたま手に取った本や、気が向いて選んだ遠回りや、ふと見上げた空の色。そんな偶然の一瞬で、そうなることもある。
 だが。
 ──ここまで変わらなくてもいいだろう。
 正直にそう真山孝一郎(まやまこういちろう)は思った。
 孝一郎は、平穏と整然を愛する平凡な男だ。波瀾に満ちた人生なんて望んでいないし、むしろできれば日本の片隅で心静かに暮らしていきたいと思っている。
 ごく平均的な地方のサラリーマン家庭の次男坊として生まれ、順調に公立学校に進学し続け、大学も国立大学に進み、家計に優しく育ってきた上に、プチ氷河期も乗り越えて、名の通った事務機器メーカーにまで就職できた。別に出世して役員や部長になりたいとまでは思わないが、それなりに甲斐のある仕事をして、そこそこに稼ぎ、そのうち見合いでもして結婚し、ごく凡庸な暮らしができればいい、と思っていた──ついひと月前までは。
 そんな月並な男だというのに、なぜ、平日の夜九時に、事務所の長椅子の上で、半裸の上司に乗られなくてはいけないのか。
 驚きのあまりずれた黒縁眼鏡を押しあげて、孝一郎は自分の腹の上に乗る男を見やる。
「……こういう状況は、今まで想定したことがないのですが」
 男は──上司だが、年は三つ下で、しかも童顔の──その男は、若く見られる顔に凶悪にすがすがしい笑みを浮かべて、小首を傾げてみせた。
「不測の事態は楽しむのが一番じゃない?」
「────」
 孝一郎は憤然と口をつぐんだ。
 不測の事態なんて、ひと月前のリストラだけで、充分だった。
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