3-1

文字数 5,457文字

 ……目の前で人が殴られるのを、孝一郎は見たことがある。
 それは武道場で見られる修錬などではなく、日常生活に見られる子どもの軽い叩きあいでもなく、一方的で容赦のない暴力だった。
 その日、足が竦む、ということを初めて孝一郎は経験した。
 恐ろしかった。忌わしかった。暴力を心の底から憎んだ。そして正義感だけで暴力に立ち向かおうとした無謀さにも腹が立った。だが、それよりなにより赦せなかったのは、なにひとつ動くことができなかった自分だ。
 なぜ、と何度も思った。なぜ動かなかった。なぜ動けなかった。どうして、こんなことになった。もし、あのとき自分が少しでも動けていたらこんなことにならなかったのではないか。もし、自分が動けていたら。
 ──できなかったことを悔やむなら、自分がなすべきだと思ったことを、迷いなくできるようになりなさい、孝一郎。
 そう言ったのは、母方の伯父だった。
 悔やむくらいなら、次はできるようになればいい。理不尽な暴力に負けない強さを、身につければいい。必要なのは、暴力に立ち向かう無謀さではなく、いざというときにいつでも動ける冷静さを手に入れることだ。
 だから、孝一郎は平穏を愛する。
 もう二度とあんなことを繰り返さないように、規律正しく、穏やかな毎日を。
 ……だが、そんなものはここには存在しないらしい。
「ええっ、本当ですか!?」
 ウタが電話に向かって叫ぶようにそう問い返した。
 瞬間、事務所に緊張が走る。
 孝一郎は書類を整理していた手を止めて視線をあげ、市川は重いヘッドホンを外し首を捻って、後ろに入るウタを振り返っていた。
「落ち着いてください、三島さん。……ええ、はい。──御主人に連絡は?」
 冷静に電話にそう話しかけていたが、ウタの受けた衝撃は思わず立ちあがっていることからもよくわかる。
「……弊社としましては、今全力でお嬢さんを探しているところでして。はい。……それは、なんと言えばいいか。警察には連絡するかどうかのご判断については、僕の方からはなんとも。とにかくご家族でお話し合いになられたほうが良いかと思います。……ええ。こちらも現状の捜査状況を確認しますので、今からそちらにお伺いしてもいいですか?」
 推測するに、電話の相手は依頼主の三島由利子だ。
 なにかが起きていた。
 朝の九時過ぎ──対象の女子高生が行方不明になってから、約四十時間後のことだ。
 その時間に事務所にいたのはウタと市川と孝一郎だった。孝一郎は昨夜ヤクザのいる高級クラブのあとは「帰っていいよ」と言われたため、ごく普通に帰宅し、また朝九時に出社したところだったが、ウタと市川は事務所で一晩を過ごしたようだった。
 事務所にいない甲斐や相田も一晩中仕事をしていたのだろうな、と孝一郎は思う。
 その中で自分ひとりだけ休んでいるのは少しだけ気兼ねに思う。だが、ただ用もなく役にも立たずいるだけなら意味がない。ならばそういうときは、必要とされたときに万全の体勢がとれるように体調を整えておいたほうがいい。
 やがて通話を切ったウタは、大きなため息と同時にその携帯をソファに投げ出した。
「誘拐したって」
「は?」
「誘拐したって電話があったって。要求額五百万」
「嘘でしょ!?」
 普段は冷静な市川ですら驚愕してそう問い返していた。
「明らかに嘘でしょ狂言でしょ冗談でしょ!? 営利目的誘拐なんて今さらありえないと思うんですけど!」
「だよねえ。うーん。市川くん、甲斐と相田くん呼んでくれる?」
 いつもふわりとした雰囲気のウタが少し疲れたように、くしゃくしゃの髪をかき回しながら市川の後ろに立つ。すぐに市川が前に向き直して、手早くパソコンを操作し始めた。
『──はいはいー、なあに?』
『──なんだ』
 やがてパソコンのスピーカーから聞こえてきたのは二人の声だ。
 どうやら三者通話をするようだ。
「現状報告お願い。甲斐、男の行く先、掴めた?」
『おお、ちょうど朝、大学でクラスメートってやつをようやく捕まえて、なんか昨日から大学休んでるって話だから、さっき〈今日も学校こねーのか〉ってメールさせたとこ。返事は〈JK優先〉だってさ。なんか前から名門のJKと付き合ってること自慢してたらしくって、オトモダチは〈ディズニーでも泊まりで行ってんじゃないッスか〉だって』
「JKは三島有紗で確定?」
『まあ確率七十五パーぐらい。写真見せたけど微妙。前に見せてもらった写メは化粧してたから雰囲気違ってよく分からないけど多分彼女──ってな反応』
「ふうん。市川くん、男はまだうちに帰ってきてないんだよね?」
「部屋の玄関先にカメラ設置した昨日の夜からこの十二時間動きはないです」
「相田くんは? 交友関係どう」
『はぁい。えー、一番親しい相手は、妹尾理子であることは間違いないみたい。でも、この理子ちゃん、確かにいいところのお嬢様ではあるんだけど、残念ながらお母さんが言ってるような感じの子じゃなくて結構遊んでるみたいなんだよね。先生や大人には従順で良い子で通っているけど、どうも同級生からは敬遠されてるみたい。対象者をよく悪い遊びに誘ってた──っつーのが周りの印象。ちなみに今日は学校が創立記念日でお休みだったので、今ひとまず理子ちゃんちに向かってまーす』
「了解。うーん、やっぱりカレシと家出中の確率の方が高いなあ。でも誘拐しました宣言出ちゃったんだよね」
『はあ!?』
『嘘!』
 電話の向こうの二人の反応も、市川と大差なかった。
「だよねえ。──とりあえず甲斐は男の行方追って。相田くんは理子ちゃんをこっそりマーク。俺は実家に行って、誘拐話の詳細を聞いてくる。なにかあったら即連絡。以上」
 三者通話はほぼ必要事項だけの応酬で短く終わった。通話を終えたウタが首を回しながら、ため息をつく。
「なぁんか嫌な感じだなー。大体最初から、早瀬が絡んでるってだけで感じが悪いのに、家出話が誘拐事件に発展するなんて最悪だ」
「問題は誰が誘拐犯かってことですよ」
 市川が先手を打つようにそう言った。うーん、とウタは思案するように宙に目をやる。
「一、本人、二、彼氏、三、友だち、四、ただの誘拐犯──さあ、犯人は誰だろう」
 そう言いながら、一体どこまで先を読んでいるのだろう。
 やりとりを離れたところから眺めながら、孝一郎はそんなふうに思う。数週間の付き合いで、しかも彼が働いているところを見たのはせいぜいここ一、二日のことだが、彼が様々な事象からありとあらゆる可能性を想定し、推理しているのはもう分かっている。
 ウタは頭が切れる。
 いい加減に見えるが仕事には真面目だし、ヤクザとも渡り合うほど度胸もある。そんな彼が少し苛立ったように髪をかき回しながら、踵を返した。
「とりあえず依頼者のところに行かなきゃ。市川くんはここで──あ、だめだ」
「なんです?」
 言いかけた言葉を途中で止め、ウタがふと眼差しをあげて真山の方を見たので、どきりとして真山は目を見張る。
 そこにあったのは、逡巡の滲んだ表情。
「……市川くんには車を出してもらわなきゃ。これ以上、真山さんを現場に連れていくわけにはいかないし」
「えっ、それ俺に外出ろってことですか!?」
 虚をつかれた真山より先に、驚いて声をあげたのは市川だ。
「いや、ほら、移動ベースのバンで」
「そんなの絶対ロスですよ! 電波も電力も移動ベースじゃ全然足りないし、いざというときにはスピードが大切だっていつも言ってるの所長じゃないですか」
「いや、だけど──」
 珍しく強い口調で所長に食い下がる市川を前にして、ウタが言葉に惑う。その姿を眺めて、真山は顔を歪めた。ウタが市川の言葉の正しさを理解しているのは、明らかに見て取れた。そのくせに戸惑った様子を見せるなんて──。
 今さら、なんの気遣いだ。
 真山は手にしていた書類の束を目の前の机にドスンと落とした。その音に気がついて、言い合っていた二人が真山の方を振り返る。
 なぜこんなふうに腹の底に沸き立つような暗い感情が渦巻いているのか分からなかった。
 だが、自らの意思に迷いはなかった。
「俺は構いませんよ、どこに行くのも」
「……真山さん」
「足になれというならなりますよ。この事務所、人手が足りてないんでしょう」
 睨みつけるようにまっすぐウタを見つめてそう言えば、なぜかウタは困惑したように顔をしかめてみせる。それはまるで泣き出す一歩手前のような顔にも見えた。

 意地になっているのかもしれないな。
 ハンドルを握りながら、ふと真山はそんなふうに思った。
 ヤクザのところまで連れていかれて無理矢理事件に関わらされて、それなのに目の前で門前払いにされることが気に入らないことは確かだ。人手が足りないのが明らかなのに、不要だと思われるのは癪だし、無能だと、役立たずだと思われるのはプライドにすたる。
 ──いや、それとも、腹いせだろうか。
 頼ってきたかと思えば突然変な気遣いを見せるウタへの。
 離れた駐車場から車を事務所の入った雑居ビルの目の前まで運び、その間に機材の準備をすると言っていた所長を迎えに階段を上りきったところで、ふと真山は足を止めた。
 開かれっぱなしになっているドアの向こうから声が聞こえたからだ。当然事務所にいる市川とウタの声である。
「……らしくないんじゃないですか」
「えー、なにがー?」
「だって使えるものは猫の手でも使うのが所長の主義じゃないですか。なのに、あのバイトは特別扱いですか。結構使えますよ、あの人、猫の手以上に」
 真山の事務仕事にまったく関心を見せていなかった市川の口からそんな言葉が出てくるのは意外だった。しかし上から目線の物言いはどうにもならないらしい、とドアの影で真山は額を押さえる。
 それに対するウタの声はさばさばとしていた。
「そうだよ、使えるよ、有能だよー。でも、さすがに普通の一般人を巻き込むわけにいかないじゃない? だってさ、あの人、びっくりするほど有能で真面目で真っ当なんだもん。そのくせゲイの男に寝込みを襲われても平然としてるし、ヤクザの前に連れてっても逆に俺のことかばって相手に凄まれちゃうし。この短期間でいろんな目にあってるのに超打たれ強いし、しぶといし、全然引かないし」
「……まさか、わざとですか全部」
 呆れたような市川の声に返ってきたのは、吐息にまじるどこかひそやかな笑いだけ。
「ああいう人がこの世界に足を踏み入れるのはよくないよ。関わりになんかならない方がいい。しかも今回は早瀬の仕事だしね。……本当は深入りさせたくないんだけどなあ」
「俺や相田はいいんですか」
「きみたちは望んでこの事務所にいるんでしょ。彼は一時つなぎのバイトなの」
 ──確かに自分は所詮、一時つなぎのバイトだが。
 二人の会話を盗み聞きして、むっと孝一郎は顔をしかめた。
「じゃあ事務所の片づけが終わったら、それで終わり?」
「うん。そういう約束だし」
「俺は正式に雇うのもありだと思いますけど。甲斐さんの所長離れのためにも」
「うわっ、痛いところつくなあ」
 驚いたふうに声を上げながら、ウタは笑う。
「でも、だめだよ。……あの人は、だめ」
「────」
 沈黙が落ちた。カチャカチャと機材を探すような音を聞きながら、孝一郎はしばらく中に入ることを躊躇った。
 なんだかひどく胸の中がもやもやしていた。
 辞めさせたいと思っているのか、と思う。あれらの行為がすべてわざとで、バイトの孝一郎がこの事務所に深入りしないよう意図的に行われたことだとしたらそれは、孝一郎に早く自主的に辞めさせたいと思っているということだ。バイトに誘ったのはウタの方のくせに、あれほど孝一郎の仕事ぶりを褒めていくせに。
 しかもその理由は、孝一郎が〝普通の一般人〟だからだと言う。
 それは気遣いなのかもしれない。
 だが、そうやって一方的に決めつけられるのは気に入らなかった。腹立たしくて、どこか奇妙に息が詰まるような、急き立てられるような不快な感覚が背中を這い上がる。
 そのわけの分からない感覚ににわかに苛立って、その感覚を払いのけるように、孝一郎は事務所の中に足を踏み出した。
「──所長。車を前に移動しました」
「あー、ごめん。ありがとう。じゃ、すぐ出よっか」
 孝一郎の呼びかけに、なにやらよく分からない機材を鞄に詰め込んでいたウタが顔を上げる。準備は済んだようだった。鞄を肩にかけ、いつも手放さないモバイルPCを小脇に抱えてウタが出口の方に向かってくる。
 肩にかけた鞄は大きくはないが重そうで、ほとんど無意識に孝一郎は近づいてくるウタに向かって手を差し出していた。二度瞬きをしてからウタはなにも言わずに鞄を孝一郎に預けた。と、事務所を出る直前に、首を回して中を振り返る。
「じゃあ市川くん、甲斐と相田くんだけじゃなく俺の方もバックアップよろしくね。有効な情報はすぐに共有化して連絡。あと一次調査の結果も速やかによろしく」
「……ほら、絶対俺、中にいた方がいいじゃん」
「なんか言ったぁ?」
「いいえ別に! 所長、機材の充電には気をつけてください」
 市川の声がそう言い終えたころには、ウタはもう事務所に背中を向けて歩き出していた。
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